サフラジェット指導者俺♡「ぷりぃ~ん♡ぷりぃ~ん♡たつとろにも参政権を♡」むちっむちっ♡たつとろには参政権がない……♡どうして♡

  • 11♡antiromanov25/01/15(水) 10:50:15

    たつとろは公的には参政権がない……♡
    だから、多少手荒いことをしても参政権を掴みとる……♡(金玉だけに)

    ぷり~んっ♡ぷり~んっ♡むちっ♡どぷんっ♡(参政権を求める金玉ふりふり♡)

    どうする?

  • 21♡antiromanov25/01/15(水) 10:50:49

    はい。ということで新年二度目はエメリン・パンクハーストである。

    エメリン・パンクハースト(旧姓グールデン)は1858年7月15日、英国マンチェスターで産まれた。が、彼女当人や娘達は終生「エメリンは7月14日に産まれた」としていた。
    理由はフランス革命においてバスティーユ監獄が襲撃された日がこの7月14日であり、監獄を襲撃した側にエメリンが親近感を抱いていたからだろう。まあやってることは似てるといえばそうだが……

    エメリンの父親であるロバートは政治活動もしたことがある他、労働者階級から会社の経営者まで成り上がった男であった。(金玉興産社長俺♡金玉産業の先駆けとして今日も売上増え続け……♡)
    また、母親のソフィアはエメリン含めた11人(うち10人が成人)の母親以外にも、熱心で有力な女性参政権論者の顔を持ち、故郷のマン島(自治権を有するため英本土とはアレコレ異なる。またDTレースで有名である他、トーマスのソドー島はお隣の設定)において女性参政権を勝ち取ったバイタリティの鬼であったりする。

    そんなパンクハースト一家はエメリンの誕生後に同じくマンチェスター地域のサルフォード郊外に引っ越した。父ロバートは演劇が好きであったようで、劇場まで持っていた。
    その劇場でシェイクスピアなどをやることで、娘のエメリンの教養を養うことに成功した。
    また、エメリンは一説によると3歳から様々な本を読み、オデュッセイアや、フランス革命(いやんっ♡パリ市民が地方民の金玉狩りを始めてるっ♡)に関する本を読んでいたという。
    ただ、そのような知的好奇心に相応しい教育キャリアが与えられたかと言えばそうではなかった。

    急進主義的な思想を持つ人物にも保守的な側面があるように、エメリンの両親は男には男の、女には女の教育があるというスタンスを取っていた。
    だが、エメリンは15歳になるとパリのヌイイ高等師範学校(今ではフランスでも最高峰となる、教員を養成するための高等教育を施す学校)に入学する等、両親も出来る限りのことはしているようにも思える。

  • 31♡antiromanov25/01/15(水) 10:51:06

    ヌイイ高等師範学校入学の一年前、14歳(1872年頃)には両親に連れられて参政権集会に参加、女性参政権論者と化していたエメリンは、ヌイイ高等師範学校で、パリ・コミューン参加者のロシュフォール伯の娘と意気投合、互いの両親を褒めるという微笑ましい(尚急進主義者の娘同士であるため……)光景を見せる。

    ヌイイ高等師範学校では女性に求められるスキル(裁縫など)の他、化学や簿記等も学べていたようである。
    エメリンはそんなヌイイ高等師範学校と友人が大好きだったようで、卒業後に一度は妹のメアリー・ジェーンを連れて戻ってきたものの。友人が薦めてきた男との結婚を父親に拒否されると、失意のうちにイギリスに帰国したという。

    1878年、20歳になったエメリンは運命の出会いを果たす。
    24歳年上の弁護士、リチャード・パンクハーストとの出会いである。
    リチャードは教育改革、女性参政権、言論の自由、国王の廃位、アイルランドの自治とインド独立、土地の国有化、英国国教会廃止……兎に角バリバリの社会主義者であった。(人民の怒りで金玉真っ赤♡テカテカ♡ツヤツヤ♡尚、イギリスは漸進的なフェビアン協会の本拠地なので俺は無関係……♡)

    エメリンはそんなリチャードをとても愛しており、母親ソフィアの「一旦冷静になれ」という宥めをガン無視して1879年にリチャードと結婚した。
    こうして歴史を変える女、『パンクハースト夫人』が爆誕したのである。

    パンクハースト夫婦は1880年に長女クリスタベル、82年に次女のシルヴィアと(夫が24歳上なのを考慮すれば)かなりのペースで子供を作り、最終的に二男三女をこしらえた。(後述する長男のみ若年で死亡)
    尚、娘三人は英語版Wikipediaに単独記事が存在し、全員が日本語版にも記事が存在する。一家の遺伝子が強すぎる。

    パンクハースト一家はエメリンの父親であるロバートと政治的対立によって緊張状態に突入したりしながらも、リチャードとエメリンの夫婦揃って(使用人を雇って子供の世話を任せながら)政治活動を続けた。
    また、三女アデラが誕生して一年程経った1886年頃。一家はロンドンに引っ越し、リチャードが国会議員選挙に出馬したものの落選。エメリンは妹メアリー・ジェーンと小さな生地店を開いたりした。

  • 41♡antiromanov25/01/15(水) 10:51:19

    1888年にはパンクハースト一家に待望の長男が誕生するもバクテリアにより死亡、一家は環境要因だと考えて(同じロンドンの)ラッセルスクエアに引っ越す。(ぷり~ん♡ぷり~ん♡ビッグ・ベン俺♡今日もロンドン市民に恥ずかしいところ全部見られちゃう♡)
    そして、引っ越してすぐの1889年には次男を授かった。

    因みにだが1881年にはマン島にて女性参政権が認められた他、エメリンの母親ソフィアがマン島に引っ越していたため一家は時折ソフィアの家を訪問していたようである。

    この頃、英国の女性参政権運動は混乱していた。
    保守的なグループは「独身女性参政権」という現代的価値観ではちょっとわかりにくいものを唱えており(つまりは「結婚してる女は夫が代わりに投票してくれるから問題ない!」という派閥)、また「女性参政権運動と政党を関連させるな!」ということから独立を宣言した派閥すらいた。

    ということでパンクハースト夫妻は「これでは不味い」として急進的な「ウーメンズ・フランチャイズ・リーグ」、つまりは「男女平等」や「組合との連帯」を唱える団体を結成。ラッセルスクエアの自宅で創立総会を行った。この団体の初期メンバーは結構豪華だったようである。(歴とろはこの辺よくわからないので割愛する)
    因みに、パンクハースト夫妻らの攻撃により「独身女性参政権」を唱える派閥は内部分裂の末に崩壊した。

    また、1891年には後の英労働党党首、キール・ハーディーと出会い、(英労働党前身の)独立労働党設立の助力をした。
    1893年、一家は生活苦からマンチェスターに移った。
    エメリンは独立労働党の救済委員会のメンバーとして貧困層への食料配給を行った他、1894年には救貧院の改革のために議論を行った。

    1898年。夫のリチャードが胃潰瘍の悪化により死亡、一家は更なる経済状況悪化に見舞われたが、それでもエメリン達の歩みは止まらなかった。
    長女のクリスタベルは母と行動を共にするようになり、次女のシルヴィアは奨学金を得て美大へ進学、アデラとヘンリーはまだ勉強を続けていたものの、色々苦労した。

    この頃には女性参政権法は三度の廃案を受けていた。
    そして、1903年。遅々として進まぬ女性参政権制定に対し、遂にエメリンはWomen's Social and Political Union、WSPUと呼ばれる組織を立ち上げた。

  • 51♡antiromanov25/01/15(水) 10:51:34

    WSPU、女性社会政治同盟とも呼ばれるこの組織の目的はただ一つ、「女性参政権を手に入れること」であった。
    そして、そのためなら文字通り手段を選ばない組織となり、最終的にテロリズムすら行うことで知られた。(ぷるぷる……♡俺は金玉爆弾♡触っちゃったねぇ♡)

    とはいえ、最初から過激であったわけではなく1905年までは請願署名やデモ等で穏健に活動していた。
    1905年、当時の女性参政権法が議事妨害に遭うとWSPUは支持者を動員。大声で抗議を始めた結果、もちろん警官隊に排除された……が、これは彼女らにとある成功体験を与えた。
    所謂「悪名は無名に勝る」である。

    1906年、時の首相が請願を受け取った際に「これからもしつこく言い続ければなんとかなる」という助言を行ったことは更に彼女らを怒らせるものだった。
    エメリンは40年近く女性参政権のために動いた女性であり、他のメンバーには半世紀戦い続けた者もいたからである。
    つまり「半世紀待ち続けても意味などない、より直接的な行動をしなければならない」という風に捉えられたのである。

    この結果、唾を警官に吐いたりして投獄されるメンバーが発生、禁固刑を受けるメンバーが出た他、エメリンも議事妨害で六週間の禁固刑を受けた。
    だが、これも不味かった。WSPUはむしろ投獄すらも宣伝に利用した。結果としてメンバーの何人かが積極的に逮捕されて「女性参政権の緊急性をアピールする手段」に利用していくことになる。
    他方、WSPUのせいで選挙に負けたと主張する側もWSPUメンバーを襲撃するなどした。中には投石すら行われたという。

    1908年、エメリン達は50万人規模の動員を行ってデモ行進を行う。
    結果は無視であったため、WSPUメンバーは国会議事堂広場で演説を行おうとしたり、首相官邸の窓に投石を行ったりと過激化を深めた。
    1909年にはハンガーストライキも行われ、「餓死されては困る」とした政府側はチューブを無理矢理挿入して流動食を流し込むといった手段で対抗したが、これは女性参政権運動家だけでなく医療関係者からも非難された。(流動金玉食俺♡毎日毎日君の腹を満たすのは……俺♡)

    当然ながら、過激化する組織にはついていけなくなる者も出た他、WSPUはエメリンとその長女クリスタベルの専制的体制に反発する者も出た。
    しかし、組織はエメリンのものであり続けた。

  • 61♡antiromanov25/01/15(水) 10:53:10

    1906年頃からエメリン達過激運動家は「サフラジェット」と呼ばれるようになった。意味としては参政権、つまり参政権を求める女性という意味である。

    エメリン達は活動を続けた。1907年には自宅すら売り払って資金とし、僅かな持ち物をスーツケースに入れて、各地を転々とした。
    1909年にエメリンが資金調達のためにアメリカ旅行を計画した頃、次男であるヘンリーは脊髄の炎症を起こした。
    アメリカ旅行はヘンリーの治療費のための旅行にもなった。

    が、1910年。無事に資金を集めて帰国したエメリンは、主のいなくなったベッドの側に座っていた。間に合わなかったのである。
    さしものサフラジェットの反対者達もこれには思うところがあったようで、普段は行っていたヤジを取り止めて沈黙していたという話がある。
    ヘンリーは、更に若くして亡くなった兄の隣に埋葬された。(黙祷……♡)

    1910年、独立労働党らによって部分的女性参政権法案、「和解法案」が提出されるとWSPUは一時的に暴力行為を停止した。
    しかし、これら法案が廃案となるとエメリン達は抗議行進を行う。この行進は当時の内務大臣ウィンストン・チャーチル(当時は保守党ではなく自由党にいた)により手荒な対応を受け、エメリン当人こそ国会議事堂に入ることを許されたが、それ以上のことはできなかった。
    そしてエメリンの妹メアリー・ジェーンも逮捕され、釈放の数日後に脳出血で亡くなった。
    1911年に再び和解法案が提出されると、またWSPUは暴力行為を停止。しかし普通に窓を割りまくって160人が逮捕された。主な標的な報道機関と政治家の家であった。

    そして和解法案が否決されると、WSPUは更なる破壊行為を行った。
    窓を大規模に割り、煮詰まりすぎた一部はアスキス首相に斧を投げつけ、ロイド・ジョージ財務大臣とアスキス首相に爆弾を送りつけた。
    鉄道の信号線を切断し、鉄道運行を危険に晒した者もいた。
    酷いものだと放火の末に少なくとも五人を焼死させている。(ほかほかの金玉をどうぞ……♡)

    1913年、家族は割れた。長女のクリスタベルが次女のシルヴィア達を追放し、三女のアデラはオーストラリアに引っ越した。
    その後シルヴィアは社会主義者として穏健な活動を続け、アデラはオーストラリアで共産主義運動を行った後に国粋主義に転向、オーストラリア第一運動の立ち上げに参加するなどした

  • 71♡antiromanov25/01/15(水) 10:53:31

    それでも尚、エメリンとクリスタベルは活動を続けた。
    WSPUの穏健な面々が抜け、次女を追い出し、三女がオーストラリアに渡っても。

    そうして、世はアレに突入した。第一次世界大戦である。(やっ♡また会ったね♡今日もロマノフ朝を滅ぼそう♡)
    エメリンとクリスタベルは戦争が起こるや否や即座に破壊活動の全面的停止を宣言、政府との停戦交渉の末に逮捕されていたメンバーの釈放に応じさせた。
    そして、WSPUの活動は一変した。

    戦争賛成の演説を打ち、戦争により困窮するシングルマザーの支援を行い、女性労働者導入のために働きかけた。国家総動員の為の歯車になったのである。

    当然ながら、これらの動きに反対する者が出て、分派も発生した。
    また、次女のシルヴィアと三女のアデラは母親と姉に反対し、平和主義的運動を行った。家族がバラバラになったのは、誰の目から見ても明らかだった。

    1916年には北米を巡り、アメリカに対してイギリスとカナダ自治領を支援するよう訴えた。
    また、1917年にはボリシェヴィキを抑える為にロシアに渡り、ケレンスキー政権と話し合いを行った。
    が、当時世界で最も先進的な文化の下で過激な活動を行っていたエメリンと、ヨーロッパで最も後進的な国家であるロマノフ朝の下で民草のために動いてきたケレンスキーで意見が一致するわけもなく。最終的に「英国の女性がロシアの女性に教えることはなにもない」「ケレンスキーは現代最大の詐欺師」と吐き捨てている。
    ぶっちゃけこれに関しては、一番悪いのはまごうことなくロマノフ朝である。

    そうして、第一次世界大戦が終わると政府は女性に『報酬』を用意した。30歳以上で一定以上の財産を持つ女性は国政選挙に参加でき、地方選挙においては(30歳以上とはいえ)男性と同等の権利が認められたのである。
    こうして、サフラジェットの戦いは結局のところ挙国一致で戦うことによって終わったのである。

    エメリンと長女のクリスタベルは同一労働同一賃金や雇用機会均等、ストライキを抑えるための労働時間短縮についても活動を行ったが、それは最早暴力を伴うことはなかった。
    エメリンは反共主義と社会改良、そして確実に勝つために保守党と組むようになった。

  • 81♡antiromanov25/01/15(水) 10:56:01

    また、エメリンはカナダに渡った際に(当人の思想に関係なく)優生学者でもあるエミリー・マーフィーと共同で演説を行ったりしたことでそうであるとも見なされるようになった。

    カナダから帰国したエメリンの元へ、次女シルヴィアが訪ねたこともあった。
    エメリンは何らかの理由でシルヴィアが帰った後に涙を流したという。
    尚、この時シルヴィアはイタリア人アナーキストと結婚を前提としない恋愛をしていた。(金玉アナーキズムにおいて金玉は自由♡ぷりんっ♡ぷり~んっ♡)

    また、長女クリスタベルは改宗してキリストの再臨を待ち望むキリスト教の派閥になってしまった。(ぷりんっ♡ぷりんっ♡主は来ませり♡金玉の主は来ませり♡)
    そして、三女アデラは母親や姉と会う気など一切なくオーストラリアで元気に活動していた。
    家族はエメリンとクリスタベルですら分断されてしまったのだ。

    エメリンの健康状態は20年代の末になると急速に悪化し、1928年になるとシルヴィアが「未婚のまま父親不明の子供を産んだ」というスキャンダルを起こし、更にエメリンの健康状態は悪化した。
    トドメを刺すように、エメリンの国会議員選挙出馬はこのスキャンダルにより完全に粉砕され、シルヴィアが「優生学の勝利」と自慢するニュースが報道されたことによりエメリンの人生の終わりは屈辱濡れになった。
    しかも厄介なことに、この主張はシルヴィアのものではなくクリスタベル――長女のものだと誤認された。

    エメリン・パンクハーストは同年、老人ホームに移り「ハンガーストライキ中に診てくれた医者の先生を呼んでくれ」とした。
    しかし、結果としてこの要求が叶えられる前にエメリンの容態は悪化、1928年6月14日木曜日、エメリン・パンクハーストは68歳で亡くなった。

    エメリンの葬儀に、クリスタベルとシルヴィアは来たが、三女アデラは現れなかったという。
    また1928年はイギリスで更に選挙法が改正され、21歳以上の男女全てに国政選挙における選挙権が与えられた年でもある。

  • 91♡antiromanov25/01/15(水) 10:57:43

    以上。
    賛否両論多々ある人物ではあるが、間違いなく時代を動かした一人ではあるので取り上げる予定だった。

    というかこの一家、娘達も親譲りの活動的な人間ばかりである。

  • 10二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:06:24

    ま た お 前 か
    それはそうとグラーシアスアミーゴ、知識がお太い!

  • 11二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:18:22

    ロマノフアンチ捩じ込めるスペース見つけたからとばかりにロマノフアンチするのホント笑う

  • 12二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:29:32

    はい振り返り

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  • 13二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:33:56

    浅学非才の身なので途中までしか読めなかったんだけど
    パパとママがわりと立派な教育派のお嬢さんが
    時にやんちゃしつつ女性の権利を押し上げて金玉を虐げたお話であってる?

  • 14二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:37:15

    >>13

    金玉は虐げてない


    やんちゃと言うにはちとヤバすぎるがやってることはあってる

  • 15二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:50:04

    たつとろには参政権がない……♡どうして♡

    無職だから?

  • 16二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:51:02

    >>15

    当時のイギリス的には間違ってないな……(財産要件があるので)

  • 17二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:51:57

    まあたつとろに選挙権が必要かと言われると反対したくなるが
    性別問わず参政権を与えようという考えは素晴らしいな
    行動が過激派すぎるのは…うん…

  • 18二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:53:33

    この辺の歴史無視して本物のフ.ェミニズムは良識があったとか言ってるのなかなか終わってるよな
    まあこんな内容だったから歴史の闇に葬られたんだが

  • 19二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:55:22

    やあ歴とろ

  • 20二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:57:53

    激動の時代と共に揺れる金玉……♡

  • 21二次元好きの匿名さん25/01/15(水) 11:59:27

    金玉でも包み込めない部分ちょっとあるな

  • 221♡antiromanov25/01/15(水) 13:28:30

    >>18

    漸進的改革(主張を繰り返していくだけ)なら血はいらないが半世紀戦っても実らない時がある……♡

    何より本家たつとろが奇抜なネタを繰り返して広まったように派手なことした方が認知されるパターンがある……(ぷりんぷりん♡)


    サフラジェットと英国女性参政権運動が強く繋がっただけで今回の話でもマン島に触れたりと多少「結局のところ社会運動は認知と利益によって行われる」とも言える……


    たつとろめんどくさいから少し外すが、パンクハースト夫人とサフラジェットは女性参政権に対する男性の当事者性を引き上げたことやなんかひっくるめてという案件である

    漸進的な女性の地位向上はそれこそ日本戦後史とかサフラジェット以前の女性参政権や女性解放運動みたいな話になってくるので……

    というかパンクハースト夫人らは所謂リベラルであってラディカルの話はスレ違いだし俺は闇に葬る気はない


    ということで噛みついたお詫びに金玉触らせてあげる……♡


    >>21

    題材が題材だから仕方ない(むちぃっ……♡)

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