- 1◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:49:40
- 2◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:50:12
「今から、最近のトレーナーさんの真似をします。」
いつの間にかそこにいた彼女は開口一番そう言って、男を驚かせた。
グラスワンダーがこのような揶揄い方をすることはない。
だから男は、少し身構えている。
デスクに向かっていた体はいつの間にか少女の方を向いていて、タイピングに夢中だった手はすっかり鳴りを潜めている。
「……はぁ…………」
グラスワンダーは、深々と溜息をついた。
彼女は随分と溜息が上手らしい。
か細いそれは耳を澄まさなければ聞こえないほどだったが、疲労とか諦観とか、そういった感情がみっちりと込められていて、ずっしりと重苦しかった。
すぅー……ふぅー。
息を吸い、一度止めている。
紡がれるはずだった言葉を押し殺したような音が、じんわりと溶けていく。
かり、かりかりかり。
グラスワンダーは徐に作業を始めた。
ノートに何か書いている。何を書いているか分からず気になるが、「何をしているの?」と聞くことすら憚られる。
重苦しい雰囲気をコートのように纏って、彼女はノートにかりかりしている。
「あ……」
そんな様子を見て、男はよく分からない、呻き声みたいなものをあげることしかできなかった。
構わず――というよりむしろ、男の存在に気づかぬふりをしているという表現が適切かもしれない――少女は続けた。
眉間に寄った皺は悩ましげで、目頭を押す親指にはぐりぐりという擬音が似合っていて、端的に表現するならば辛そうだった。 - 3◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:51:21
「あっ……」
もう一度、男は同じような声を漏らした。
こんな彼女の姿を、これ以上見たくなかった。
けれど、愛バが初めて見せる姿に対してなんと声をかければよいか、皆目見当もつかなかった。
だから男は、躊躇いがちに彼女の名前を呼んでみたのである。
「あの、ぐ、グラス……?」
「!はい、何ですか~?トレーナーさん♪」
グラスワンダーは無邪気だった。溌溂とした、花が綻ぶような笑顔だった。
男は面食らってしまった。
「……」
「……」
しばしの沈黙が、トレーナー室を包む。
こんな反応を返されてしまえば、もとよりどう声をかけてよいか分からなかった男はもう、硬直してしまうほかなかった。
「……なんて。」
少女が口を開く。
この重苦しい雰囲気に耐え切れなくなったわけではないのだろう。
別に、男が口を開くまで待つこともできたはずだ。
そうしなかったのは、彼女の優しさか、或いは、憐みかもしれない。
呆気に取られていた男が彼女を再発見すると、そこにはいつものグラスワンダーがいた。 - 4◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:52:07
「これで、トレーナーさんの真似は、おしまいです。」
「え……?」
先ほどからまともな言葉を話せていない男はやはり、意味のない音を零すだけ。
情けなく、おろおろと、愛バの豹変を見守ることしかできない。
「……少し、意地悪をしてしまいましたね~」
「あ、いや……」
苦笑するグラスワンダーは、情け深かった。
男の反応を見て少し残念そうにした彼女は鞄をごそごそして、何か探している。
「お詫びと言っては何ですが……これ、トレーナーさんに。」
ラッピングが施された、浅葱色の小さな箱が、男の手のひらに乗せられた。軽く、優しい手触りの箱だった。
「これは……?」
男はそれを持ち上げ、不思議そうに、しげしげと眺めている。
なぜ自分がこれを贈られたか分からないのだろう。
中に入っているものなど、見当もつかないのだろう。
「……最近、トレーナーさんはいけずです。」
「え?」
男が何を考えているかなど、手に取るように分かるのだろう。
グラスワンダーは今にも泣きだしそうな笑顔で男を責めた。 - 5◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:52:43
「最近、トレーナーさんは辛そうです。私じゃなくても分かってしまうくらい、辛そうです。」
「……そんな、こと。」
男が否定すると、少女は唇をぎゅっと噛み締めた。
「でも、私には何も言ってくれません。いつも通りを装って、私に、気を遣って。」
「……!」
さっき彼女が見せた豹変は。
あの豹変はつまり、彼女から見た男の姿そのものだったのだろう。
男は漸くそれに気づいたが、あまりにも遅すぎる。
「私はそんなに、頼りないですか?」
違うよ。
「私が、そんなに弱い女に見えますか?」
違うよ。
「私は……貴方に、何も出来ない……」
「違うよ。」
彼女を否定する言葉を、男はついに口にした。
ずきり、と胸が痛む。
他者を否定することも、他者から否定されることも、それはとても、とても辛いこと。 - 6◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:53:17
「できることを、してあげたかった。」
だからそれは、彼に対する罰だった
罪とはつまり、何かをすることによってのみ生じるわけではない。
何もしなかったという罪もまた存在し、人はいつか、それを清算する必要がある。
男にとってはそれがたまたま、今日であっただけ。
「辛いのならば、その辛さを少し、分けてほしかった。」
けれどそれは、彼女に対する罰でもあった。
つまるところ、彼も彼女も、似たもの同士だったのだ。
「私は何も、しなかった。」
「……違う。」
「違うのでしたら!」
彼女の語気は少し、強かった。
誰かが辛いとき、そいつの背中をさすってやれる人間がいたら、それは素敵だ。
しかし、擦り傷でぼろぼろになった人の背中をさすってやることは果たして、正しいことなのだろうか。
グラスワンダーはつまり、彼の気遣い本音が痛かった。
「……でしたら。」
やはりグラスワンダーは、たいそう情け深い。
優しく、男の手を取るように、エスコートするように。
その一言はもはや、慈しみと言うほかなかった。
「でしたら、私を頼ってくれたって――少しは頼ってくれたって、いいじゃないですか。」 - 7◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:53:46
彼女らしくもない。
少し、口を尖らせている。
グラスワンダーは今、拗ねているのだった。
「……トレーナーさんを疲れさせている張本人である私が言っても、説得力はないですけれど。」
「それは、違うよ。」
今日何度目かわからない、愛バを否定する言葉。
けれど、否定してやることしかできない。
そんな状況を生み出したのは男自身なのだから、この程度の罰で音を上げることなど許されない。
「……そういえば、質問にまだお答えしていませんでした。」
「え?」
ぴっ、と少女は指を指す。
浅葱色の箱はびっくりしたように、からりと乾いた音を奏でた。
「今日は、何月何日でしょうか?」
「今日、は……そうか、2月14日、だったね。」
「大正解、です。」
グラスワンダーはふふ・・、と乾いた笑いをこぼした。ともすると、呆れたような笑い方だった。
「今日の日付すら忘れてしまうくらい疲れているトレーナーさんに、私は何もしてあげられなかったのです。」
じくじくと痛む胸を、どうしたらよいのだろうか。 - 8◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:54:23
「……今日君が、この部屋に入ってきた瞬間のことを、思い出せない。」
徐に、男が語りだす。
「……昨日君になんて言って別れたか、それすら思い出せない。」
それは言い訳ではなく、ただの懺悔だった。
懺悔を聞くのはいつだって神父である。
けれどこの男が赦しを求めているか、それは定かではない。
「今は一番、それが、辛い。」
だから少女は、ただその告解を聞いていた。
否定も肯定もせず、ただ、聞いているだけだった。
「君と、話したいな。」
あんまりにも虫がいい話だけど、と男は付け加える。
すると少女はようやっといつもの笑みを取り戻し、男に尋ねた。
「いいんですか?それ、本日締め切りなのでしょう?」
「いいんだ。」
男はデスクトップを閉じた。
ぱたんという、空気を含んだ音がこだまする。
もう少し優しく扱ってやらなければ、学園支給のそれは壊れてしまうかもしれない。 - 9◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:54:52
「いいんだ。今は、君と話したいんだ。」
「……そう、ですか。」
「君がよければ、放課のチャイムが鳴るまで、話していたいんだ。」
「私でよろしければ、いつまでも、お付き合いしますとも。」
「そうしたら、お茶が飲みたいな。君が淹れてくれたお茶がぬるくなるまで、話していたい。」
「……熱いうちに飲んでくださった方が、嬉しいですね。」
グラスワンダーはやっと、嬉しそうに笑った。
だから男も、それに倣ったのだった。 - 10◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:55:29
そんなやり取りから数日。
二月の朝は、今日もよく冷えている。
「おはよう、グラス。」
「あら、おはようございます、トレーナーさん。」
始業前の廊下で少女を発見した男は、足早にやってきた。
「いきなりで悪いんだけれど……今日という日は、一番に君に会いたくてさ。」
「……?」
彼女はこてんと首を傾げ、続きの言葉を待っていた。
「はい、これ、グラスに。」
男が少女に手渡したのは、きれいにラッピングされた箱だった。
青く少し艶のある包装紙は、彼女の体温で溶けてしまうくらいに儚い。
「これ、は……?」
ただ、少女の反応はいま一つだった。
もう一度、彼女は首を傾げる。
自分がこれを贈られたか理由も、中に入っているものも、ちんぷんかんぷんな様子である。 - 11◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:55:57
すると、困ったのは男の方である。
予想だにしない反応をみて、おろおろとしている。
「え……?おかしいな、だって、今日は――
「な~んて。冗談、です♪」
けれど、それは少女の人差し指一本で収められた。
男の口からこれ以上情けない言葉が出てこないように、グラスワンダーは自らの指一本で彼の口を封じてしまったのである。
「……ありがとうございます。とっても、嬉しいです。」
「……」
彼は否定も肯定もできず、彼女のされるがままだ。
「これはこの間のお返し、ですよ?」
「……!」
やっとこさ、男は彼女の意図に気づいたようである。
彼女がこんなふうに男を揶揄うことは少なくなかった。 - 12◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:56:11
「ですから、これに懲りたら、これからはきちんと私に構ってくださいね、トレーナーさん?」
「……」
こくこくと、男は首を振る。
けれど彼は今、少女の人差し指とキスしているものだから、どうにも格好がつかない。
「でないと……今度こそ私、拗ねてしまいますからね?」
「……ぷはっ。」
漸く口封じから解放されたかと思えば、彼女はあっという間に駆けていってしまった。
ぴゅんと吹く木枯らしのような彼女はいつの間にか角を曲がって、姿を消した。
「……」
だから、この場に取り残されたのはろくに喋らせてもらえなかった間抜けな男と、彼の喉に押し込められたお祝いの言葉だけ。
「……誕生日おめでとう、グラス。」
だから、こんな独り言は、だーれも聞いていないのだから。
男はまた放課後に、彼女とおしゃべりをすることが許されたのである。 - 13◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 22:56:40
以上です。
思ったより長く、分かりづらくなってしまいました…… - 14二次元好きの匿名さん25/02/17(月) 23:03:05
素敵なSSをありがとう……
- 15◆5vud0Mk5ki5B25/02/17(月) 23:10:32
- 16二次元好きの匿名さん25/02/17(月) 23:28:05
貴方のssすごい好き
- 17二次元好きの匿名さん25/02/17(月) 23:31:16
待っていたよグラスの人、バクアガれるトレウマをありがとう!
一番近くにいるからこそ
届けにくい、届かないもの…
こんなに近くにいて、せっかく届け易い季節なんだから余すことなく送っちゃおうねぇ - 18二次元好きの匿名さん25/02/17(月) 23:32:43
乙です
私があなたを待ちわびていた事は次作で不問にいたしましょう。 - 19二次元好きの匿名さん25/02/17(月) 23:57:38
今回もありがとう
- 20◆5vud0Mk5ki5B25/02/18(火) 00:02:23
- 21◆5vud0Mk5ki5B25/02/18(火) 00:03:29
- 22◆5vud0Mk5ki5B25/02/18(火) 00:04:02
- 23◆5vud0Mk5ki5B25/02/18(火) 00:04:35
- 24二次元好きの匿名さん25/02/18(火) 00:56:06
- 25二次元好きの匿名さん25/02/18(火) 07:01:49
- 26二次元好きの匿名さん25/02/18(火) 12:34:41
グラスちゃん、お誕生日おめでとうございます
- 27二次元好きの匿名さん25/02/18(火) 20:04:43
あなたの作品を心待ちにしておりました。
ご馳走様です。 - 28二次元好きの匿名さん25/02/18(火) 20:26:16
めでたいですね!!
- 29二次元好きの匿名さん25/02/18(火) 20:26:44
- 30二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 02:27:45
よき…
グラスってこどもっぽいとこあるよね - 31二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 07:03:30
- 32二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 17:03:52
普段の少し大人びたグラスちゃんも可愛いですが、年相応なグラスちゃんも可愛いですね
頭を撫でてあげたくなります - 33二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 21:54:01
- 34二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 02:27:20
めっっっっっちゃ良かった!!!!!!!
らしくない揶揄い方から初まってらしい揶揄い方で終わる……そんな変化はベタだけど、やっぱり日常が戻ってきたんだという安心感がある - 35二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 07:07:03