【SS】星南さんと学Pが現場トラブルに巻き込まれた話

  • 1◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:39:19

    以前砂糖を吐き出した内容をSSにしてみました。
    連投していきます。

  • 2◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:39:58
  • 3◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:41:03

    ーーー

    空調と時計の音だけが響く部屋で、革張りの小さなソファにひとり座り込む。
    部屋は一人で居るには少々広すぎるくらいで、壁際には藤田さんのグッズが敷き詰められた祭壇や、星南さんが推しているアイドルのポスターが飾られている。
    使用人が毎日掃除をしているからか、部屋は細部まで整然としている。
    グッズを除いた調度品はどれも高級そうだが、レトロというよりは最新の設備による高級感という印象が強い。
    とはいえ、俺のような一般人には どちらにせよ落ち着かない。
    居心地の悪さを感じつつ、それだけではない もやもやとした心を抱えてソファに沈み込みながら窓の外を見た。
    もう陽は沈み、薄暗くなっている。
    俺は自分の不甲斐なさを噛み締め、シャワーを浴びに行った星南さんが戻ってくるのを待ちながら、今日の出来事を静かに振り返っていた。

  • 4◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:41:28

    少し時間を遡って今日の午後。星南さんにオファーがあったテレビ番組の収録のため、100プロの社用車を借りてスタジオに向かっていた。
    普段よく仕事をしている制作会社とは異なるスタッフのテレビ番組で、あまり付き合いのない制作会社だった。極力信頼が置ける取引先以外でオファーは慎重になりたかったが、出演予定の共演者の中に過去お世話になったタレントも居たため、今回はオファーを受けることにした。

    事前に制作会社については調査しており、スタッフや出演者とのトラブルの噂が少々ある番組プロデューサーがいる、という情報は入手していた。
    厄介なのは、今回その番組プロデューサーの持っている番組らしく、一抹の不安を抱えて車を走らせていた。
    「星南さん、今日のテレビ撮影ですが…」
    と、後部座席にいる星南さんに声をかけようとすると、遮るように話し始めた。
    「分かっているわ、いつもの制作会社ではないのよね? 」
    透き通るような清廉な声。
    "一番星"としての気品を感じさせる優雅な発声だが、年頃の少女のような無邪気さと可憐さを隠しきれていない、美しい...いや、可愛らしい声だ。
    彼女と話せば、十人が十人とも聞き惚れてしまうことは想像に難くない。
    当然、俺自身もご多分に漏れずといった所だけれど、彼女に対してはおくびにも出さない。きっと呆れられてしまうだろうから。

  • 5◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:41:45

    「今日は、他の事務所のアイドルたちとの共演になるわね」
    顎に指を添え、星南さんが言う。
    「確か、まだデビューして間もない子たちよ。あまり出しゃばるのはよくないけれど、しっかりフォローしてあげないといけないわ」
    そう言った星南さんは脚を組み直して横髪をかき上げた。
    「どちらかと言えば、お笑い芸人の方やグラビアアイドルを起用したバラエティ番組を多く制作している会社です。アイドルを活かした番組を作る経験は浅いでしょうから、多少の拙さは承知しておいて頂けると助かります」
    星南さんに、遠回しに忠告する。杞憂であれば良いのだけれど。
    「承知したわ。ふふっ…心配性ね、プロデューサー」
    と言って、彼女は微笑んだ。

  • 6◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:42:12

    ーーー


    撮影が始まって小一時間、想定よりはマシな程度だが、すでに微妙な空気が流れ始めている。
    やはり普段の番組とは勝手が違う構成に対応できず動きが悪いスタッフに対して、件の番組プロデューサーは乱暴な言葉で指示を飛ばし始めた。
    若手のアイドルに対してどうにも高圧的な様子が伺えるが、ベテランの出演者と星南さんがうまくフォローに回っており何とか撮影は進んでいる状態だ。

    やや不穏ではあるが、このまま見守っていれば何とか撮影完了まで辿り着けるか…と考えながら撮影スタジオを見回す。
    他事務所のアイドル達は、まだまだ未熟だが真剣に取り組んでいる様子が伺える。
    しかし、彼女たちのプロデューサーらしき人物は見当たらない。
    抱えている担当アイドルが多くて手が回っていないのなら仕方ないが、こういった修行に近い現場ではできるだけついていてやる方が良い…などど考えていると、社用スマホが振動した。発信元は以前仕事をした取引先だ。
    現場は今のところ出演者同士のフォローで回っている。
    少しの間なら問題ないだろうと判断し、スタジオの扉をくぐり廊下に出たところで電話を折り返した。

  • 7◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:42:41

    用件次第では早めに切り上げるつもりの電話だったが、徐々に打ち合わせの様相を呈し、想像以上に時間を取っていたらしい。
    腕時計を見る。
    電話に出て数十分経っていることに気づいた俺は、背筋が冷える感覚とともに嫌な予感がした。
    何か起きるには十分な時間だ、と連想したのかも知れない。
    流石に一度戻らなければと、先方に収録中であることを告げて、やや強引に電話を切り上げた。
    その瞬間、スタジオの扉が勢いよく開いた。他事務所の若手アイドルの一人が血相を変えて飛び出してきたのだ。
    「あっ…100プロのプロデューサーさんですよね!すぐに...」と言い終わる前に、俺はスタジオに駆け込んだ。

    「星南さん!一体何ごと...!」
    駆けつけた時には、すでに現場は騒然としていた。
    番組プロデューサーの威圧するような大声が響く。収録など明らかに進んでいない。
    騒動の外れにいた出演者の一人の俳優が、駆けつけた俺に気づき声をかけてきた。
    「100のプロデューサーさん、...ちょっとまずいな」
    焦りを隠せない顔だ。まさか…と思い、星南さんの名を呼びながら騒動の中に入ると、彼女は番組プロデューサーに腕を掴まれていた。
    どちらも険しい顔をしているが、番組プロデューサーの方は明らかに頭に血が登っていて正気ではない。

  • 8◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:42:57

    俺は動揺していたものの、駆けつけた勢いのまま割って入り、星南さんを掴んだ手を引き剥がした。
    そのまま彼女を抱き寄せると、先ほどの俳優が番組プロデューサーを抱えるように引き離してくれた。
    「怪我はされてませんね?」と星南さんに問うが、彼女は何も答えず番組プロデューサーをひと睨みし、怒りを堪えるように目を瞑った。
    俺は自分の着ているジャケット脱ぎ、星南さんの肩に掛けてスタジオの外へと体を引いた。

    「行きましょう。もうあなたの居るべき場所じゃない」
    そう伝えると彼女も振り返ったが、状況に苛立ったのか番組プロデューサーが口を開こうとした。
    何を言うつもりだろうか…いや、これ以上何も言わせてはいけない。
    星南さんに、この男の声を聞かせてはいけない。
    そう思った瞬間、思わず声を張り上げた。
    「何も言わなくて結構!」

    言葉を遮られた番組プロデューサーが一瞬黙り込む。
    「弊社のアイドルに対してこの仕打ち、100プロとして適切に対処致します」
    これ以上喋ると、おそらく冷静ではいられなくなってしまう。
    それに、星南さんをここに居させてはいけない。
    そう感じた俺は、先ほどの俳優に目配せをする。黙って頷いた彼が、他の出演者を巻き込んでこの場を解散させるように話し始めたのを背で聞きながら、俺たちは足早にスタジオを後にした。

  • 9◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:43:17

    ーーー


    星南さんの肩を支え、テレビ局の廊下を足早に歩く。
    星南さんはあれから一言も話さないが、今は何かを聞き出すよりも、まずはここから引き揚げることを優先した。
    「衣装のままで構いませんから、荷物だけまとめて早急に出発しましょう」
    楽屋の扉を開けながら彼女にそう伝えた。
    しかし彼女は頷くだけで、楽屋に入ろうとしない。俺は一言断りを入れて、彼女の荷物をまとめた。
    「一秒でも早く、こんな場所からは離れたほうがいい。十王の家にはこれから戻ると連絡しますので、早急に帰宅しましょう」

    駐車場に停めてあった社用車に辿り着くまでも星南さんは無言だったが、先ほどよりはしっかりした足取りで後部座席に乗り込んだ。俺はトランクに荷物を詰め込み、十王邸に向けて出発した。
    運転中も星南さんは一言も話さなかった。当然だ、星南さんがあんな形で他人と衝突したということは、相当な怒りを覚えたに違いない。星南さんが冷静になり、自ら話してくれるまでは待とう…と考え、運転に集中した。

  • 10◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:43:42

    十王邸には三十分ほどで到着し、すでに日は暮れ始めていた。
    星南さんを車から降ろし、迎えの使用人に後を任せて十王社長に事の次第を報告しようと考えたが、何かに引っ張られる感覚で動きを遮られる。
    星南さんが、俺のシャツの袖を掴んでいた。
    星南さんは俯いたまま何も言わない。
    社長への報告…いや、今やるべきことは担当アイドルを支えることだ。
    俺は星南さんに振り返り、なるべく安心させるような声色で伝えた。
    「どこにも行きません。...さぁ、中へ入りましょうか」

    使用人に案内され、十王邸の中へ…ひいては星南さんの私室へ通された。
    星南さんをソファに座らせ、俺は傍らに膝をつく。
    「申し訳ありません。俺が席を外しさえしなければ、こんなことになる前に...」
    懺悔するような気持ちで俺が吐き出すと、星南さんは俯いたまま大きく息を吸って吐き、か細い声でことの経緯を話し始めた。
    「きっと…あなたが見ていても、私は我慢できなかったと思うわ」
    星南さんの声を聞いたのが、ずいぶん久しぶりに感じた。
    俺は声が聞けた安心感と、何が起きていたのかという緊張感に挟まれながらも、星南さんの言葉に耳を傾けた。

  • 11◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:44:00

    星南さんは時折言葉を選びながら、何が起きていたのかを順に話してくれた。
    慣れない番組構成にスタッフの動きが悪く、徐々に番組プロデューサーが苛立ちを隠さなくなっていったこと。
    他事務所の若手アイドルたちに対して、経験不足による拙さを執拗に責めるような発言をし始めたこと。
    あまつさえ、枕営業を仄めかしたり、いやらしい下卑た言葉を投げつけたこと。
    たまらず星南さんが彼女らを庇い、アイドルそのものを侮辱されたも同然だと、星南さんが番組プロデューサーを叱責したこと。
    結果的にさらなる逆上を呼び、手が付けられない状況に陥ったこと。

    なるほど、と短く返した。事態の大筋としては納得がいくし、星南さんがくだらない自己弁護をするとは全く思わない。きっと事実だろう。
    しかし、俺はもっと大事なことを確認しなければいけない。
    「...状況は分かりました。星南さん自身には、何がありましたか」
    なるべく感情を出せずに聞く。星南さんは少し固い、困ったような表情でこう言った。
    「大したことでは無いわ。矛先を私に向けたあと、私に口汚い言葉を浴びせながら体を...肩や腰を少し触られただけ」
    星南さんの言葉を聞きながら、感情が沸き立つのが分かる。怒りにのまれてはいけない、しかし絶対に許してはいけない。そう強く確信した。

  • 12◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:44:14

    「手を払ったら、腕を掴まれて...あなたが戻ってきた、というのが事の顛末よ」
    そう言うと、星南さんはようやく俺の顔を見た。
    「大したことではないなんて、そんなわけがない」
    声が震えるのを必死に抑える。
    「大切な担当アイドルを、侮辱されたんです。絶対に許せません」
    なるべく感情を抑えて言ったつもりだったが、自分でも驚くほど歯を食いしばっていたことに気づいた。何も隠せていない。星南さんに気づかれていないだろうか。
    しかし、そう言ったあとに星南さんを見たとき、両手をぐっと握り込んで震えていることに気づいた。
    自分の短慮を恥じる。俺は何をしているんだ。ここで虚空に怒りを投げつけて何になる。
    少し深呼吸し、頭を冷やす。怒気を隠して星南さんの目を見て、自分の中でいちばん優しい声で伝えた。
    「まずは、シャワーを浴びて下さい。...気持ちを落ち着かせましょう」
    少し間を開けて頷いた星南さんに手を貸し、立ち上がらせた。
    星南さんはまだ、衣装のままだ。
    ふらふらとした足取りが、あまりにも痛々しい。
    俺は部屋の外まで手を引き、控えていた使用人に後を任せた。

    一気に押し寄せる倦怠感に、たまらずソファへ座り込んだ俺は、自分の不甲斐なさを噛み締めた。
    そして今、星南さんの帰りを待つに至る。

  • 13◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:44:30

    ーーー


    悔しい。
    悔しい…腹立たしい!
    …気持ち…悪い。
    頭から熱いシャワーを浴びているのに、水飛沫がひたすら床を叩き続けているのに、何も聞こえないくらい心がざわざわと騒がしい。
    こんなことで心が乱されて…腹立たしい!悔しい!

    自分がずっと、多くの人々に守られてアイドルとして生きてきたことは理解している。
    華やかな表舞台と泥臭い舞台裏の努力に加え、様々な人の欲望が渦巻いた業界。それは事実だから、今さら"そんなはずは無かった"と言うつもりはない。
    厄介な仕事に巻き込まれる覚悟なんて、中等部に上がる頃にはとっくに出来ていた。ちっちゃな"星南ちゃん"を卒業して、なんとなく社会を知り始めたあの頃から。
    だから自分が、いわれのない罵倒をされたことについては、大した事だと思わない。強がりではなく、アイドルである以上はファンの数だけアンチもいると理解しているから、そんなことで傷ついてなんてあげない、なんて思っている。
    でも、今日あの男は私ではなく、遥かに弱い立場のアイドルたちに矛先を向けた。
    下卑た言葉を浴びせ、あの子たちの夢を穢し、アイドル活動そのものを侮辱した。
    自分が何を言われたって消化してみせる。
    でも、夢を叶えようとアイドルの世界に飛び込んできたあの子たちが、いわれのない罵倒を受けるのなら。
    一人前のアイドルになろうと足掻いている子たちの夢を、自分勝手な暴力で歪ませんとするのなら。
    私は絶対に許してはいけない。
    トップアイドルである私が怒らないと、怒ってあげないと。
    アイドルを背負っている者が怒って、"アイドルを侮辱するな"と立ち向かってあげないと。
    私が何もせず、"自分たちというアイドルだけ"が否定されたあの子たちはきっと、今よりもっと深い傷を負ったはずだから。

  • 14◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:44:43

    現場はめちゃくちゃになってしまった。彼がその場にいれば、もっときれいな着地は出来たのかもしれないけれど、後悔はない。
    やるべきことをやったと開き直ってみせる。
    こうして気持ちを整理して納得がいけば、単純な怒りは収まりつつある。きっと、今日のうちに消化できる。

    でも、まだ内臓全部に怖気が走るような不快感が拭えない。これはきっと、さっきのようなアイドルとしての矜持の話じゃないから。
    "気持ちが悪い"。…こんなこと、アイドルが言っていい言葉ではないけれど。
    黒く自分勝手な欲望を向けられる感覚。"私を不快にさせるために触れようとする"あの感覚。
    私はずっと家とプロデューサーに守られていたから、ほとんど味わわずにいたけれど、とても気持ちが悪いこの感覚は昔から知ってはいる。
    アイドルとして活動している以上、そういう目があるのは否定しない。客観的に見て容姿に優れたもの、人を惹きつけるものが集まる世界だから。
    けれど不躾に体に触れられるあの不快感が、掴まれた腕の感触が、私の心にこびりついて蝕んでいる。
    ずっと忘れていたけれど...彼にプロデュースしてもらうようになってまた少し形を成すようになった、"アイドルではない私"の感情が今日の出来事を否定し続けている。そのせいで、いつまでも頭から離れず、心のざわつきが止まらない。
    なぜ、あんな人に触れられなければいけないのか。
    プロデューサーになら…彼から触れられたことなんて無いけれど、きっと嫌ではないのに。
    そんなことばかり考えて、忘れることができない。

  • 15◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:45:01

    それでも、私の心を少しだけ前向きにしてくれることがあるとすれば一つ。私がシャワーを出て部屋に戻ればプロデューサーが居る。
    彼自身はきっと、私を守れなかったなんて思っているかも知れないけれど、私はそうは思わない。
    私をすぐに連れ出してくれて、私が話すまで何も聞かず、決して取り乱さずにそばに居てくれた。
    それはきっと私の心を守ってくれたから。
    そのことを思い出すだけで、私の心は少しだけ軽くなった。
    …よし、そろそろ出よう。
    髪も体も洗い流した。心もきっと時間が洗ってくれる。
    まだ少し、手が震えてしまうけれど。
    いつまでも立ち止まっていられない。私はトップアイドルなのだから。

  • 16◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:45:18

    ーーー


    外はもうすっかり夜になった頃、シャワーを浴びてルームウェアに着替えた星南さんが部屋に戻ってきた。ルームウェアはふわふわと柔らかそうで可愛らしいデザインだが、華美でなく上品で、こんな時で無ければ一言くらい気の利いた言葉をかけることが出来たかもしれない。
    彼女の顔を見ると、ひと心地ついたのか先ほどより少しだけ表情は柔らかい。
    「少し落ち着きましたか?」
    その様子を見て少しだけ安心した俺が聞くと、彼女は微笑んだ。
    「そうね。…ありがとうプロデューサー」
    彼女は俺にそう言うと、俺とは向かい側のソファに腰掛けた。足取りもしっかりしている。
    良かった、本当に少し落ち着いたのかも知れない。
    そう判断した俺は、今日の出来事を考えると男の自分は長居すべきではないと考え、立ち上がりながら帰宅を切り出した。
    「今日は色々あってお疲れでしょう。俺はそろそろお暇しようかと思いますが、明日は…」
    そう言いかけたとき、がくんと引っ張られて立ち上がり損ねた。なにかと思い下を見ると、彼女が俺の着ているシャツの袖をぎゅっと掴んでいる。
    星南さんは消え入りそうな声で言った。
    「その……今日は、私が眠るまで、遠くへ行かないで…」

    心がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
    俺は今日、何度自分を恥じれば良いのだろうか。
    こんな短時間で心が落ち着くわけがない。たとえトップアイドル"十王星南"であっても一人の人間なのだから、今回のようなトラブルに対する心の傷は、察するに余りある。
    何が"状況は落ち着いた"、だ。俺が安心したかっただけじゃないか。彼女は、まだ傷ついている。
    少なくとも今日、俺は彼女から離れてはいけない。
    彼女が、せめて今日の終わりくらいは安らかに迎えられるように。

  • 17◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:45:37

    ーーー


    一緒に居て、とプロデューサーに言ったあと、彼は少しだけ逡巡して「はい」と答えてくれた。
    本当に嬉しくって、私はまた一つ安心した。
    「ですが、今日は早めに休みましょう」
    彼はいつもより優しい表情で私に言う。普段の仏頂面から考えると信じられないくらい優しい顔。
    時折見せてくれるその顔は、確実に私の心を落ち着かせてくれている。
    彼も責任感がとても強いから、今日のことを冷静に振り返るなんて出来ていなくて、きっと無理をして笑顔を作っている。
    それでも私のためにやせ我慢をして、その言葉も行動も私を気遣ってくれているのだと伝わるだけで、私の心にこびりついた何かを剥ぎ取っていくのが分かる。
    ありがとう、と返して私は立ち上がり、ベッドに向かう。
    彼は座っていたソファのクッションをベッドの脇へ運ぶと、いつもの調子のような声色で言った。
    「星南さんがお休みになるまで、話し相手になりましょうか。折角なので後輩向けに、プロデューサー科の講義をすれば有意義でしょう?」
    そう言った時の顔は少しだけ意地悪で、いつもの調子だった。
    私の胸がほんの少しだけ高鳴る。
    時折彼から感じる、この感覚はなんだろう。
    分からないけれど、きっと素敵なものだ。
    だって彼と共に歩みだしてからの私は、それまでの自分よりもずっと素敵になれたのだから。

  • 18◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:45:51

    ーーー


    「星南さんに通常のプロデュース論を説いても、すぐに理解してしまうでしょうから...俺もまだ実践できていないニッチな知識を教えましょうか」
    ベッドに入り横たわった星南さんと、目線を合わせるようにベッド脇へ腰を下ろした。
    セットされていない、ストレートに近い状態の艷やかな金髪が、枕とシーツに美しく広がり神秘的だ。
    この空間においては彼女こそが黄金比なのだろう。
    俺の心がまた、ぎゅっと締め付けられる。この感覚はなんだろうか。
    分からないけれど、きっと彼女を守る覚悟が強まっているのだろうと解釈した。
    気がつくと顔をじっと見てしまっていたようで、彼女と目が合う。
    私の顔に何かついているかしら?と目線でかえされ、少しだけ気まずさを覚えて、ごまかそうと目を逸らした。

    俺は星南さんの興味を引きそうな話題を選び、できるだけ会話が途切れないように話を続けた。
    会話を続ける中でようやくいつもの笑顔を見せるようになった彼女を見ていると、髪をかき上げる手がまだ震えていることに気がついた。
    まだ、傷口は開いたままだ。
    俺が星南さんの手を見ていることに気がついた彼女は、俺のそばに手を置いて言った。
    「ねえプロデューサー、私が眠るまでは、手を握っていてくれるかしら」
    はい、とだけ言い、俺は彼女の手を優しく握った。
    普段ならば、担当アイドルにみだりに触れるなんて言語道断。しかし今この場においては、そんな迷いも無かった。
    柔らかで、強く握れば壊れてしまうのではないかと思うくらいに繊細な手だ。
    俺に比べると小さい手だから、片手で握っても少し包み込むようになってしまう。
    どうか、少しでも安心を与えられますようにと祈っていると、彼女は微笑んだ。
    「ふふっ、ありがとう。あなたの手、とっても安心するわ」

  • 19◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:46:03

    ーーー


    プロデューサーに握られた手から伝わる彼の体温に、得も言えぬ安心感を覚えた。
    とは言ったものの、何もかも甘えてはいられない。
    私が眠ったら彼は帰るだろうから、朝目覚めたら一人で立ち上がる。
    十王星南として復活するんだと、そう意気込んだ。

    彼の手にすっぽり入ってしまった自分の手を見る。
    それなりに身長が高い私は手も大きいほうだけれど、彼に比べれば小さいものだ。
    彼は細身だけれど、私が少し見上げる程度には背が高い。
    色白い肌の手は意外にごつごつとしていて、線の細い彼も男性なのだとよくわかる。

    彼の手が少しだけ握る力を強め、私も少しだけ強く握り返す。
    ほら、何も嫌ではない。
    誰かに触れられるというのは、こんなにも心地よいものなのだから。
    彼の手の温度、握られている感触、私に聞かせるように話す彼の落ち着いた声。
    どれも私の心を穏やかにし、少しずつ私は意識を手放していった。
    眠ってしまう前に、おやすみなさい…って、言いたいのだけれど…。

  • 20◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:46:40

    ーーー


    手を握ってしばらく話をしているうちに、星南さんは少しずつ返事が少なくなり、そろそろ眠りにつく様子が伺えた。
    夢うつつな様子で俺を見ながら、星南さんは口を開く。
    「まだ...手を...」
    握っていて欲しいのだろう。少しだけ彼女の手に力が入る。
    離す理由はない。彼女のためならば、いつまででも握っているつもりだ。
    「おやすみなさい。ずっと握っていますよ」
    そう声をかけると、安心したように目を閉じて寝息を立て始めた。
    ようやく彼女の今日が終わる。長く感じる一日だった。
    会話をしていて少しだけはだけていた布団をかけ直し、彼女の寝顔を眺めていた。
    悪夢など見ないだろうか、フラッシュバックを起こして飛び起きないだろうかと不安になる。

    そうしていると、少し経って部屋の扉を小さくノックされた。
    星南さんが寝ているから返事ができないでいたが、少し待っていると静かに扉が開いた。
    静かに使用人が入ってくると、俺に目を握られて眠っている星南さんを見つけた。眠っている星南さんを見て安心したような、痛ましいものを見るような、複雑な表情をしている。
    そうしていると、星南さんが俺に手を握られていることに気がついたようだった。
    俺は握った手を指さしたあと、人差し指を口元で立てて少しだけ会釈し、起こさぬように言葉は無いが、今日はこのまま朝まで手を握っていてあげたいんです、と伝えた。
    使用人は、よろしくお願いいたします、と言葉にせず、深々と頭を下げて静かに退室した。
    再び、部屋に二人だけの時間と静寂が訪れる。
    時計の音と、星南さんの寝息の音だけが部屋に広がり、世界が今日という日の終わりを告げていた。

  • 21◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:46:51

    星南さんの顔をまじまじと見る。
    きっと星南さんは、俺がこんなことをしなくても自分自身で立ち上がることができる人だ。
    今までのプロデュースで彼女の強さを知っている俺は、それを事実だと信じられる。
    だが、今日の俺はそんな星南さんの強さに甘えて、絶対に油断してはいけないときに目を離した。
    星南さんに任せても大丈夫…いや、彼女は上手にかわせると。
    しかし事態の中身を聞いて、俺は自分の迂闊さに腹が立った。
    彼女は直接言わなかったが、叱責して口論になったということは、おそらくアイドルの後輩たちを庇って怒ったのだろう。
    彼女は夢見るアイドルたちの道しるべなのだから、それはきっと誰が相手でも立ち向かってしまう。
    そんな星南さんを、俺はとても誇らしいと思う。けれど、同時にこういった危うさを秘めた人なのだと再認識した。
    今日の出来事は間違いなく俺の失敗だ。
    俺は、もう二度と星南さんから目を離さない。
    そう固く誓い、彼女の手を両手でしっかりと包みこんだ。
    そして俺は、座ったまま眠りについた。

  • 22◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:47:11

    ーーー


    翌朝。
    カーテン越しの朝日に照らされて目が覚める。
    まだぼーっとしているけれど、体はしっかりいつもの時間に起きようとしていた。
    夢も見ないで熟睡していたらしく、体の疲労はすっかり回復しているように思う。
    …昨日の記憶は、まだある。心にへばりついた何かを落とすのは、もう少し時間がかかるかもしれない。
    けれど、嫌なことがあったにしては、十分にすっきりと目覚められたと思った。

    私はおぼろげに昨晩のことを思い出す。
    先輩に、子どもみたいな要求をして甘えてしまったと今になって恥ずかしくなってしまう。
    そうだ、先輩は?
    彼を探そうと意識を少しはっきりさせた私は、自分が何かを握っていることに気づいた。
    彼の手だ。
    しっかりと両手で握られている。眠る前は確か片手だった。
    彼の手に包まれた自分の手を見ると、心に温かなものが染み渡っていく感覚に包まれた。
    そうか、今も彼に手を握られているのなら…
    そう思って顔を上げると、ベッドに寄りかかるように床に座ったまま眠っている彼の寝顔が目に飛び込んできた。

    ただ私が、芸能界でありふれた揉め事に巻き込まれただけなのに。
    眠るまで握っているだけで良いと言ったのに。
    目が覚めたらきっと彼は帰っていて、それでも私は一人で立ち上がろうと覚悟していたのに。
    「…甘やかしすぎよ、本当に…」
    こんな、誰かから見ればきっと些細な出来事なのに、私はこみ上げるものを抑えられず、少しだけ涙が溢れてしまった。
    溢れた涙は我慢せずに頬をつたわせた。
    そうだ、せっかく流す涙なら、こんなふうに嬉しい気持ちのときがいい。
    きらきらして、幸せなときがいい。
    きっとこれは私の幸せな気持ちが溢れているんだ。

  • 23◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:47:23

    彼の両手に握られた手に、私ももう片方の手を添えて撫でる。
    この手が私を癒してくれる。支え導いてくれる。
    永遠に私のものなんて、手放さないなんてずっと言っていたけれど。
    私はこの幸せな時間の中で、ようやく心から確信した。
    どんな辛いことがあっても、こうして手を握ってくれるこの人となら、一生を共に歩んでいける。

    私は、流した涙が彼の手にかかっていることに気づいた。
    私が流した幸せな気持ちが、伝わったりしないかな。なんて、ちょっと子どもっぽすぎるかもしれない。
    きっと目を覚ますと、涙を流した私と自分の手を見て彼は驚くだろう。少しだけわくわくした。
    早く起きないかな。先輩と早く話したいな。

    気がつけば心のざわつきも、汚れた記憶も、きれいさっぱり消え去っている。
    あとに残ったのは、彼の手の温もりと尊い思い出だけだった。

  • 24◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:48:17

    とりいそぎ第一話 -完- です!
    お目汚し失礼しました!

  • 25◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 10:52:32

    星南さんと同居する話まで一旦書けてるので、また後で投下していこうと思います

  • 26二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 11:01:13

    待ってた
    求めてた

  • 27二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 11:01:48

    前スレの時から見てました
    とりあえず

  • 28二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 11:02:23

    100点♧

  • 29◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:22:42

    時期的には、ことねが3年生の春くらいのイメージ

  • 30◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:42:26

    ↓続き連投していきます。↓

  • 31◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:42:43

    朝日の眩しさと、冷たい感触で目を覚ます。
    夢も見ないまま寝ていたように思う。想像以上に疲労が溜まっていたのかもしれない。
    クッションを敷いていたとはいえ、床で寝ていたので体はすっかり固くなっていた。寝ぼけ眼をこすろうと思ったとき、自分の手がどちらも拘束されていることに気づき、状況を思い出した。俺は星南さんの手を握ったまま眠っていたのだ。

    ...そうだ、星南さんは大丈夫だろうか。あれだけ憔悴していたし、まだ眠っているのだろうか。
    少しずつハッキリしてくる視界で自分の手を見ると、わずかに濡れていることに気がついた。
    さっきの冷たい感触はこれか。汗?いや、体が濡れている感覚はない。
    まだぼんやりとした視線を上げると、星南さんがこちらを見ていた。頬にわずかながら涙がつたっている。
    星南さんが...泣いている!?
    起き抜けの回らない頭でひどく動揺していると、俺の顔をじっと見ていた星南さんがぷっ と吹き出した。
    「せ、星南さん...?」

    ようやく頭がしっかり目覚めたものの、星南さんはまだくすくすと笑っている。
    「ふふっ、ごめんなさい。そこまで慌てるとは思わなくって」
    涙の跡を隠さず笑っている彼女の顔はどこか晴れやかで、無理をしている様子は見受けられない。
    なら、どうして泣いていたのだろうか?
    「星南さん、大丈夫ですか?涙が…」
    そう聞くと、彼女は俺の手をさすりながら微笑んだ。
    「とても大切なものをもらったから、嬉しくって泣いてしまったのよ」
    大切なもの…?眠る前に何が渡していただろうか?
    「何もお渡ししていませんが…」
    まったく記憶にない。何のことを言っているのだろうか。
    真剣に頭を悩ませていると、星南さんは少し呆れたような表情で言った。
    「もう、そういうことではないわ。...あなたって本当...いいえ、そういうところよね。先輩らしいわ」
    少しいたずらっぽく俺を睨んでみせると、どうやら一人で納得したようだった。
    さっぱり分からないが、とにかく星南さんは普段通りになった様子は分かる。
    俺は心の中でほっと胸を撫で下ろした。

  • 32◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:42:58

    「先輩には、教えてあげない」
    そう言った星南さんは、ようやく手を離してゆっくりと身を起こす。
    「それはそうと...驚かせてごめんなさい、こんな子どもみたいに泣いてしまって」
    布擦れで少しだけ乱れたルームウェア姿で、無防備にベッドに座り直す彼女に目を奪われた。
    「でも、おかげさまでもう大丈夫だから」
    彼女がそのまま布団を脱ぐと、体温で温められたベッドから立ちのぼる彼女の甘い香りも鼻腔をつく。
    ほんの少しだけ寝癖と静電気で乱れた髪も、だらし無さは皆無だ。彼女なら可愛らしさを補強することにしかならない。

    ...いや、そうじゃない。混乱しているみたいだ。プロデューサーとして冷静にならないといけない。
    急激に背徳感と罪悪感が襲いかかり、脳が今の状況を振り返り始めた。
    俺はいま担当アイドルの私室で一晩過ごし、寝起きの姿をまじまじと見てしまっている。
    明らかに踏み込み過ぎで問題のある状況だ。
    ベッドに横たわる担当アイドルをじろじろ見て美しいだなんだとのたまっていた記憶も蘇ってきた。
    俺は眠い目をこするふりをして、必死に動揺を隠していた。

  • 33◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:43:12

    昨晩は流れでやむを得ない状況ではあったが、状況に流されていたにしても、プロデューサーとして...年長者として問題がある。
    流石にこれ以上はいけない。早く退散しなければと思い、俺は素早く目を逸らして立ち上がった。
    「…調子が戻られたのなら何よりです。俺はそろそろ帰りますね、状況が落ち着いたら今後の話を...」
    これ以上の長居は禁物だ。使用人の方も昨晩は容認してくれたかもしれないが、いつつまみ出されてもおかしくない。
    そう思って立ち上がっていた俺に向かって、少し困った顔で彼女は言った。
    「あなた、昨日はシャワーも浴びられていないでしょう?」
    それはその通りだ。プロデューサーとして活動を始めてからは徹夜なんて縁遠くなったが、風呂にも入らず一晩立てば汗臭いであろうことは自分でも分かる。
    「私のために色々としてもらったのだから、せめてシャワーと朝食くらいは済ませていってちょうだい。貰いっぱなしは心苦しいわ」

  • 34◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:43:24

    ーーー


    結局観念して、使用人に案内された来客用の風呂に入ることになり、ようやく一人になった。
    もう準備されていたことは予想外だったが、実際のところ疲労困憊だったからシャワーを借りられて良かった。
    なんと着替えも用意してもらえている。プロデューサーとして十王の家に甘えすぎるわけにはいかないが、今回ばかりは助かった。
    しかしどこかで調達してもらったのだろうか? 立て替えて頂いたなら、代金は後で払わなければ。

    などと考えながら頭から熱いシャワーを浴びていると、昨日からの疲れが洗い流されるようで心地よい。
    俺が住んでいる部屋より広さがある浴室なのは予想通りとしても、シャワーが天井からも降ってくるのは驚いたし、シャンプーもトリートメントも手をかざせば自動で出てくるようになっていて何だかわくわくする設備だ。
    今は浴槽に湯は張っていないが、滝でも流れそうな設備ついていて気になって仕方がない。

    それなりに気が散っている自分に気が付き、少しリラックスできていることを自覚した。
    ならば、と星南さんのことを考える。
    "二度とこんなことが起きないように"。俺は何をすべきなのか。
    どうすれば星南さんに、あんな思いをさせずに済むのか。
    やるべきことはシンプルだ。星南さんから目を離さないこと。星南さんのそばを離れないこと。
    俺がそばに居れば、何かが起きてもすぐに盾になれる。星南さんを守ることができる。
    物理的な制約で常々というわけにはいかないが、もう二度と彼女を傷つけさせないためにはこの程度、やり遂げなければいけない。
    そう、俺はプロデューサーとして、アイドルである星南さんをそばで守り続ける。
    決意を新たにし、シャワーを止めた。
    「…十王社長に、アポイントを取らなければ」

  • 35◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:43:41

    ーーー


    先に支度を済ませて食卓につき、先輩が来るのを待つ。
    せっかく彼がいるのだから、朝食は一緒に食べ始めたい。
    少し待つと、お待たせして申し訳ございません、と先輩が入ってきた。
    先輩を見ると、いつもより上質なスーツを着て大人びた雰囲気を醸し出していた。
    決していつものスーツが見すぼらしいわけではないけれど、今日の彼は数段上品に見える。
    色白の肌にチェック柄の濃紺が映え、背が高く細身の体格でスリーピースをすっきりと着こなし、ピンクのネクタイが少しだけ血色をよく見せる。
    見たことのあるスーツだと思う。きっとお父様の若い頃のもの。彼の身体にぴたりとフィットしていて、とても似合っている。
    お父様と先輩って、若い頃の体型まで似ているのね。
    普段から清潔感のある彼だけれど、こうして上質な装いをするとさらに洗練された印象になる。
    これなら、眼鏡も少し雰囲気を変えてみてもいいかしら、なんて思いながら彼を見つめていた。

    「なかなか…その、こう明らかに高級なスーツは着たことがありませんので、着るだけで緊張しますね…」
    席に案内された彼は、少しぎこちない動きで席に着く。
    「あら、似合っているわよ。お父様のスーツ、ぴったりね?お兄様♪」
    先輩の様子がなんだかおかしくって、ついからかってしまう。彼が緊張しているなんて珍しい。
    私から見れば十分に着こなしていて、とっても素敵なのに。
    「星南さん、あまりこういう場でそういう冗談は…。はぁ、もういつもの星南さんみたいですね…」
    屋敷の者達の前でお兄様と呼んだことに慌てているのか制止してきた。
    なんだか今日は慌てる彼をたくさん見られて、特別な日だ。
    昨日は色々あったけれど、こんな彼をたくさん見られるなら、今日だってもう少し彼の前で弱ってみせれば良かったかも知れない。

  • 36◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:44:04

    お互い席について雑談を交わしていると、朝食が運ばれてきた。
    昨晩は食べていないから、スープから頂いて少しずつ胃を慣らしていく。
    温かくて、おいしい。そういえば、ずいぶんお腹が空いていたことを今になって思い出した。ずっと気が張っていたのかもしれない。
    そう思いながら彼の顔を改めて見ると、先ほどとは少し変わって思い詰めたような顔をしていた。
    まだ、彼は自分を許せていないのだろうか?
    「…"プロデューサー"、私はもう大丈夫。ふふっ、この程度で尾を引くような軟弱者ではないのよ」
    強がりではなく、心から笑ってみせた。
    すると彼はスープを飲んでいたスプーンを置き、私の目をまっすぐ見つめた。
    「星南さん、プロデューサーは何があっても担当アイドルを守らなければならない。俺はそんな基本も果たせなかった」
    彼はいつもの仏頂面とは違う、無表情だけど熱のこもった様子で私の目をまっすぐ見つめている。
    眼鏡越しの切れ長の目に射抜かれて、私は少しだけどきりとした。
    彼にこんなにもまっすぐ、熱っぽく見つめられたから。しかもここには屋敷の者達がいることを意識してしまったから。
    …いけない、せっかくからかう側に立っていたのに。
    顔が少し熱くなるのが分かる。
    私が返事に困っていると、彼は続けて話し始めた。
    「星南さん、俺はあなたを一生離しません」

  • 37◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:44:23

    え?
    なんと言ったの?
    言葉の解釈に困った私は、つい彼に聞き返してしまった。
    「それは…その、どういった意味…?」
    そう問うと、彼は眼鏡の位置を直し再び口を開いた。
    「お屋敷の方々もいらっしゃるので、丁度いい機会です。俺は、ずっとあなたをそばで支え続ける。どうか認めて頂きたい」
    そう真顔で私の目を見て言うのものだから、私はすっかり混乱してしまって、何を聞き返せば良いのかもわからなくなった。
    「ええと…ずっと…って…?」
    伝わらなかったのかと、彼は言葉を続けた。
    「ずっとです。生涯、いや永遠に、あなたと共にあり続けると宣言します」
    私は絶句してしまった。

    先輩は、いったい何を言っているの?
    彼の言葉は、今朝私が彼に、一生を共に...なんて感情を抱いたことを強制的に思い出させた。
    し、生涯…?永遠?先輩も同じことを?
    いやでも私はそんな、愛の、告白...みたいな言い方は…。
    なぜ今そんなことを言われたのか、わけがわからない。
    とっても嬉しい言葉な気がするけれど、どう返事をして良いのか、さっぱりわからなくて。
    もう、どうすればいいのよ!
    感情が定まらなくなって、顔の熱さがどんどん増して、視界がにじむ。
    「星南さん」
    私がぼーっとしていると、彼はテーブルの反対側で立ち上がり、身を少し乗り出して私の手を掴んだ。
    「ひぇっ!ええと…その…?」
    唐突に手を握られた私はもう頭のてっぺんまで熱くなっているのが自覚できた。
    神経はすべて握られた手に集中してしまっている。先輩の力強い感触、体温、熱がこもって少しだけ汗ばんだ手のひら。
    私も手が熱くなって、瞬く間にみっともないくらい手汗をかいてしまった。もう、どうしていいのかわからない。
    「もう、あなたが涙を流すことが無いように、俺がお守りします」

  • 38◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:44:33

    その言葉で完全に頭が茹で上がった私は、背後で若い屋敷の者達が色めき立っていることにも気づかない。
    私は確実に赤くなっている顔を隠したくて、うつむいたまま ありがとう とだけ答える。
    先輩はむしろ言い切って一人ですっきりしたようで、完璧なテーブルマナーで朝食を淡々と再開した。
    なんだか...悔しい。けれど、いつまでも照れているのも癪なので精一杯の反撃を、誰にも聞こえないような声で先輩に言ってやった。
    「...そういうところ、嫌いよ...」

  • 39◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:44:55

    ーーー


    所信表明が無事に済んで朝食も食べ終え、星南さんと二人で紅茶を頂きながらスケジュールを確認した。
    幸い、今日はもともと仕事は入れておらずレッスンのみの予定だったので、調整は容易だった。
    星南さんは今日も変わらず取り組みたいと言っていたが、気持ちは一旦落ち着いたとしても、実際に昨日の異常事態からほとんど時間も経っていない。
    普段通りのプロデュースを実行するのは早計だ。
    先程の食事中も、少し顔が赤らんで心ここにあらずといった瞬間も時々見受けられた。
    やはり星南さんの体調は万全ではないのだろう。
    幸い、明日は星南さんはオフで担当アイドル達もレッスンの日だから、今日と併せて2日程度休むほうが安全だと判断することにした。

    「星南さん、俺は午前でお暇させていただきます。十王社長にご報告することもありますので...」
    そう言うと、星南さんは少し眉をひそめた。
    「お父様に?...まぁ、そうよね。仕事上のトラブルなのだし、隠すようなことではないわ」
    大げさな話にならなければ良いのだけど、などとこぼしながら星南さんは溜め息を付いた。
    今の俺は星南さんのプロデューサーであり、100プロにインターンとして所属している。
    星南さんがアイドル科を卒業して100プロに正式所属しているが、俺はまだプロデューサー科に在学しているためこういう形に収まっていた。
    「今日は確か、プロダクションに出社されているはずよ。アポイントを取るなら早いほうがいいわね」

  • 40◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:45:15

    ーーー


    100プロダクションのオフィスビル、その上層階にある社長室の前。、俺は勇気を振り絞って数回ノックをし、反応を待つ。
    「入りなさい」
    促された俺が社長室へ入ると、そこにはデスクについてこちらを真っ直ぐな…温度のない目線で射抜く十王社長がいた。
    秘書の方に連絡してアポイントを取ろうとしたら、すでに事情を把握されていたのか「すぐに来て下さい」とのことだった。
    叱責を受ける覚悟もしてきたし、インターン解消の可能性も覚悟してきた。
    その場合の星南さんの担当プロデューサー継続をどう食い下がるかも想定済みだ。
    「社長、私からご報告が」
    そう言いかけたとき、十王社長は俺の言葉を遮って、重くのしかかるような声で言った。
    「君にしては遅い。もう対処した」

    "遅い"、"もう対処した"。
    遅いということはもう事態を把握されていて、俺の報告が遅かったということだろう。
    それは...言われても仕方ない、昨日のうちに報告できたことだからだ。
    では対処した、とは?
    相変わらず言葉の裏側を読み取ることが難しいが、黙っていても仕方がない。
    今は言われた言葉に食いつかず、持ってきた話を進めよう。そう思って次の言葉を絞り出した。
    「ご報告が遅くなってしまい、申し訳ございません。そして星南さんについても、私がついていながら...誠に申し訳ございませんでした」
    そう言って、深々と頭を下げた。
    それで何かが解決するわけでは無いが、筋を通さないまま次の話はできない。
    「私は、星南さんのプロデューサーとしてあるまじき失態を犯しました」
    頭を上げ、十王社長の目を見て続ける。
    「ですが、私は星南さんのプロデュースを諦めることはしません」
    十王社長の表情は変わらない。だが、俺の話を遮ることはしなかった。
    その目は、最後まで言ってみなさい、と言っているようだった。
    「もう二度と星南さんから目を離さない。彼女のそばを離れない。そのための"物理的な距離の制約を排除"する、お願いをさせて頂きたいと考えております」

  • 41◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:45:30

    十王社長は俺の言葉を聞き、すぐに返答した。
    「言ってみなさい」
    試されている感覚がする。自分を相手にどこまで言えるのかと。
    物理的な距離の制約を排除するためには、今俺がいる大学の学生寮では単純に距離が遠すぎる。だから...。
    「使用人の方と同様の、十王家の別邸の部屋をお借りできませんか?」
    "同じ敷地"に住めば、出発から帰宅まで完全に目を離さずにいられる。
    かなり踏み込んだ要求だ。一蹴される可能性だってある。
    果たして通るだろうか...と緊張していると、社長はまったく表情を変えず一言で返してきた。
    「交渉するなら、まずは最大の要求をしなさい」

    そう返されて、流石に困惑する。これ以上ない要求をしたつもりだったが、どういうことだろうか?
    「い、いえ、かなり思い切った要求をさせて頂きましたが...」
    思わぬ回答に動揺が隠せないでいると社長は、思い至らないか、まだ固い、などとつぶやいてこう言った。
    「星南との物理的な距離を排除するなら、"星南と同じく本邸に住まわせろ"というべきだ。構わない、使っていない客間があるから空けさせよう」
    スラスラとそう言うと、彼は話は終わったと言わんばかりに手元の書類に目を向けた。
    ...同じく本邸?まさか同居するということか?いや、それはいくらなんでも常識外れすぎる。
    「流石にその...同居というのは、担当アイドルとプロデューサーとしては、問題視されかねない状況かと...」
    必死に言葉を選んで異を唱えるが、顔を上げて俺の目を見た社長は呆れたような顔だった。
    「"君が問題を起こさなければ問題はない"。理解できたなら荷運びを手配させるから、明日には移動しなさい」

  • 42◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:45:45

    断言されてしまっては、もはや反論の余地もない。
    実際、何も問題を起こすつもりは無いし、制約をほぼゼロにできるのだから、この上なくありがたい提案ではある。
    今まで以上に、十王星南ファンに俺の存在が浮かび上がらないように、迂闊な行動は慎もうと心に刻んだ。
    そして、俺は最も気になっていたことを尋ねる。
    「...社長、"対処した"というのは、どのように?」
    そう問うと、社長は明らかに数段、圧を強めた。部屋の空気が一変する。
    「あの制作会社は明日、監査が入り不正会計が発覚する。明後日には週刊誌に内部告発が掲載され、3日後には当該人物は懲戒処分を受ける。以上だ」
    "もう決まっていること"かのように淡々と話し、これ以上この件について話す価値もないかのように会話を打ち切った。
    とてもではないが、掘り下げる気にはなれない。
    俺は背筋が凍るような思いで、一礼すると踵を返した。

    「二度と目を離さない、だったかな」
    部屋から出る直前、背中から声をかけられた。
    「えっ?」
    不意を打たれて、戸惑いを隠せず振り返ると、これ以上ないほど冷たく鋭い視線で俺の目を貫いていた。
    「星南に目をかけたなら、覚悟を決めるように」
    冷や汗が止まらない。プロデューサーとしての覚悟に釘を差されたと理解したが、何故かそれ以上の圧もびりびりと感じる。
    俺は、止まらない冷や汗を拭うことも出来ず、改めて一礼して足早に社長室を後にした。

  • 43◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:46:02

    ーーー


    翌日の午後。
    先輩がお父様に会うと言って屋敷から去り、丸一日が経った。
    あれから、先輩からの連絡はない。
    お父様も私には会わずまた出張に出発してしまったし、一体なんの話をしたのかしら?
    私は本当に久しぶりの2連休でしっかり休息するため、昨日はことねのファーストライブから今までのライブ映像を通しで視聴し、体が鈍らないようにコールもダンスもしっかり合わせた。

    今日は朝から祭壇の模様替えをしていた。昼食を挟んで、なんとか今日中に一番いい状態に仕上げたい。
    ことねのぬいは新しい衣装が増えるたびに公式で販売するようにしたから、昔のように拙い手作りの衣装を着せ替えることはなくなった。
    それはそれで一抹の寂しさを覚えるけれど、ことねがすっかり日本中に認知され、様々なグッズが発売される現状は彼女にとってもプロデューサーの私にとっても嬉しいことだった。
    ことねは来年卒業する。知名度ではすでに私に並ぶ彼女は、私と肩を並べるトップアイドルとして100プロに所属することになる。
    建前上は先輩が受け持つアイドルということになるけれど、引き続き私が実際のプロデュースを行う予定だ。
    思い出に浸りながら飾る写真を選んでいると、祭壇に飾る候補のケースの奥に見覚えのある写真立てが入っていた。

    入っている写真に写っているのは、プロデューサー。
    私が最後のH.I.Fで"一番星"を守りきったときの、ライブ後の楽屋で撮った記念写真。
    本当に最高のライブだった。
    才能を覚醒させたことねは本当に素敵なアイドルで、プロデュースした私自身が、何度も彼女に見惚れてしまいそうになって。
    最後の最後の一騎打ち。すんでのところで私が勝利したけれど、どちらが勝ってもおかしくはなかった。
    私達はあのとき、本当のライバルになったんだ。

  • 44◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:46:17

    それで、そんな最高の出来事があったのだし、そんな私を育ててくれた彼と1枚くらいはツーショットを撮ろうなんて思っていて...楽屋で珍しく涙の跡をつけた笑顔の彼を、不意打ちで撮ったものだ。
    結局ツーショットは、ことねがこっそり撮ってくれたものが数枚あるだけだ。プロデューサーがカメラを見ている写真は殆どない。
    この写真も、何度も飾ろうと思っては、なんとなく視線を感じるようでそわそわとしてしまい何度もケースに戻したことを思い出す。
    「...別に、プロデューサーに見られてるからって、今更のはずだけれど」

    彼の写真をどうしようかと悩んでいると、屋敷が少し騒がしいことに気づいた。
    廊下に出て、窓から屋敷の裏手を見ると、屋敷の者達がトラックから荷物を運び出している。
    荷物の数はそう多くないけれど、まるで引っ越しみたい。
    なんて思っていると、トラックの隣に止めた車から本当に彼が降りてきた。
    ...引っ越し?私のプロデューサーが?...この屋敷に!?

  • 45◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:47:00

    ーーー


    十王家への引越し作業が進んでいる中、俺は応接間でハーブティーを頂いている。
    手持ち無沙汰なので手伝うことはないかと使用人に尋ねるも、我々の仕事ですから応接間でお待ち下さい。と言われてしまった。
    もうここまで来たら慌ててもしょうがないので、色々と観念してお茶を味わう。
    星南さんにはなんと説明しようか。
    担当アイドルと同居なんて明らかに踏み込みすぎだ。星南さんの気持ちも確認せずに...というのは、相談なく別邸に住もうとしていた俺も人のことは言えないものの、同居はレベルが違う。
    星南さんのそばを片時も離れないとは言ったが、プライベートに近寄りすぎるのは流石に彼女に失礼だ。
    そもそも俺と彼女はプロデューサーと担当アイドルという関係のもとで信頼関係を築いている。
    プロデュースを担当して もう3年ほど経つが、生活圏の接近となると非常に慎重な距離感の構築が必要になる。
    内心かなり不安なので、ティーカップを持つ手が若干震えるのを必死に抑えていると、応接間の扉がノックされた。
    どうぞ、と応えると入ってきたのは星南さんだった。

  • 46◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:47:11

    「先輩!あなたもしかして...!」
    今日はガーリーなロングスカートワンピースの上にカーディガンを羽織り、可愛らしく柔らかな印象だ。
    この屋敷に?と当然のように問われたので、もはや隠すことも誤魔化すこともできず正直に答える。
    「はい、客間を一つ貸して頂けると伺っています。突然で申し訳ありませんが、俺はなるべく屋敷内では存在感を消すようにしますのでご安心下さい」
    同居してる以上は何も安心できないとは思うが、せめて日常的に存在を感じさせなければ少しは気楽になるだろう。
    「はぁ...。そんなことはしなくてもいいわ、まったく」
    俺の言葉を聞いて、呆れたように星南さんは溜め息をついた。
    「一体、お父様とどんな話をすれば、先輩がこの屋敷で同居することになるのかしら?」
    星南さんがじっとりとした目でこちらを見る。警戒されて当然だろう。
    「実は、アイドルとしての星南さんを常にそばで支えるためにと、物理的な距離の制約を排除しようと考えまして...使用人の方々がいらっしゃる別邸のほうへ引っ越しをさせて欲しいとお願いしたんです」
    それを聞いた彼女は、驚いた顔をしたと思うとすぐに赤い顔で怒って言った。
    「なっ、なっ...そばでって、あなた、まさかそれをお父様にも言ったということ!?」
    言いました。と端的に答えると、彼女は頭を抱え始めた。
    目を離さないために別邸に住まわせて下さいと確かに言った。確かにそう言ったのに、何故同居ということになったのやら...。

    「星南さん、予定より踏み込みすぎる形になってしまいましたが、こうなってしまっては仕方ありません」
    そう言って俺は立ち上がり、星南さんに向き合う。
    星南さんはまだ顔を赤くして怒っているようだ。
    心からの言葉で安心、いや信頼してもらう他に方法はない。
    「星南さん、あなたを不安にさせる要素は俺がすべて取り払います。これからは俺と一緒に暮らすこと、どうか受け入れて下さい」
    そう言うと、彼女はさらに顔を赤くしたが、最終的には渋々といった様子で同居を受け入れてくれた。
    「もう、分かったわ、分かったから...あなたはもっと、言葉を選んでちょうだい...」

  • 47◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:47:22

    ーーー


    お風呂に入った私は、自室で明日のスケジュールを確認していた。
    私のではなく、私の担当アイドルたちのスケジュールを。

    ...それにしても、自分の屋敷で先輩と二人で食べる夕食は、なんだか珍しくて楽しかった。
    これから毎日、先輩と一緒に夕食を食べる。
    いや夕食だけじゃない、朝起きれば彼がいるし、そのまた翌朝にも彼がいる。
    不思議な感覚だけれど、高揚感の他に安心感もある。
    守ってもらえてるというよりは、いつでも対等に相談できる人がすぐそこにいるという安心感。
    私の部屋を出て、屋敷の中では少し離れた部屋だけれど、外に出なくても先輩の部屋にたどり着ける。
    ...会いに行ってもいいかしら。
    だって早々に「やっぱり止めましょう。帰ります」なんて、いつ言い出すか分からないし、今のうちだ。
    ちょうど今、ことね達のプロデュースプランについて相談したいことはある。
    それに...彼は不意打ちに弱いから、ちょっとだけ驚かせてやりたい。
    私はガウンを羽織り、すぐに先輩の部屋へ向かった。

  • 48◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:47:53

    ーーー


    ようやく今日が終わりかけている。
    風呂に入りひと心地ついた俺は、プロデューサー科の講義の予習をしていた。
    星南さんのプロデュースプランについても、このあいだの件を踏まえて少し調整中だ。
    「星南さんと同居...くれぐれも気をつけないと...」
    ...こうして何かしていると、細々とした悩み事や戸惑いは忘れられる。今日はもう少しやっておこう。

    夜も更けた頃、部屋をノックする音がした。誰だろうか?
    分からないまま扉まで行き、はい、と扉を開ける。
    そこには、このあいだとも違う、柔らかそうな可愛らしいルームウェアにガウンを羽織った姿の星南さんが立っていた。

    「星南さん?こんな遅い時間に俺の部屋に来られては...」
    色々と問題があります...?いや、変に意識したような言い方はかえって誤解を招く。俺は彼女のプロデューサーだ。
    ...誤解を招く?どんな?そんなことで気を揉んでいるのは俺だけなのだろうか。
    なんと言ったものかと悩んでいると、彼女はさらりと部屋に入り込んできた。
    「構わないでしょう?あなたのことは信頼しているもの」
    そう言って微笑む彼女は、メイクをしていなくともハッキリとした目鼻立ちで、普段よりも可愛らしさが勝っている。
    ヘアオイルでしっとりとした彼女の髪は普段のふわりとした金髪ではなく、赤色のメッシュが色鮮やかで、ストレートに流れる金髪は赤い薔薇をさした金糸雀のようだ。

  • 49◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:48:06

    「あら、随分すっきり片付いているのね。イメージ通りだけれど、あなたって私物が少なそう」
    俺の眼の前を横切って、彩りがないわね、なんて部屋の感想を述べていく。
    彼女からふわりと香るのは、普段の香水とはまったく違う。
    オイルの香りか化粧水の香りかは分からないが、星南さんから漂う甘い香りは、あの朝にも感じたものだった。
    ガウンを少しはだけて肩にかける彼女はあまりにも無防備だ。
    気品を纏いながらも可憐で、少女のような可愛らしさを見せるプライベートの彼女は、この近い距離で感じるにはあまりにも魅力的過ぎる。
    どれだけ理性を弄しても見惚れる以外の選択肢が与えられない。
    俺は、星南さんが部屋に入ってきたこの一瞬で、星南さんに夢中にさせられていた。
    思えば星南さんをプロデュースするようになって俺は色々な星南さんを見てきたけれど、どんなときも彼女に夢中だった。

    ...いけない。余計なことを考えすぎている。
    これでは彼女を守る以前に、プロデューサーとして失格だ。
    少し正気...いや、理性を取り戻すと、俺はかぶりをふって自らの邪念を払った。
    彼女は俺を信頼してくれている、プロデューサーとして。
    だから、その信頼に背くな。"その先"を見るな。

  • 50◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:48:21

    ーーー


    いざ先輩との相談が始まると、非常に有意義な意見交換を行い、充実した時間を過ごすことができた。
    一段落したところで、自分の格好がとてもラフだったことに気がつく。
    「ふふっ、そういえば...私こんな格好ね。はしたなかったかしら?」
    少しだけからかうように、この服かわいいでしょう?と彼にガウンを広げて見せる。
    彼はいつも通り...よりも少し難しい顔で、軽い溜め息をついて言った。
    「信頼して頂けているのは光栄なんですが、トップアイドルとしてはいかがなものかと」
    言ってしまえばいつもの仏頂面だけれど、そんな微妙な変化もなんだか楽しい。
    私は気分良く肘をついて、彼の顔を覗き込みながら言った。
    きれいに刈り上げられた襟足は清潔感があって、少しだけ目にかかる前髪はさらさらと流れている。
    「"先輩の部屋"で"先輩の前"でなら、もう一枚くらい仮面を外しても、誰の夢も壊さないでしょう?」
    そう言うと、彼はとっさに目を逸らして、眼鏡ではなく眉間に指を当てた。
    これは少しだけ、からかうのに成功したかしら?と返事をわくわくして待っていると、彼は振り絞るように言った。
    「...あまり無防備にされて、星南さんの信頼に背くわけにはいきませんから...」

  • 51◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:48:35

    「...え?」
    なんと言われたのか、とっさに分からなかった。
    "信頼に背くわけにはいきませんから"...というのはその、つまり。
    彼は今の私を見て、その...。

    少し二人の間に間があったが、どうやらお互い私達がした会話を理解したようだった。
    私は、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
    うつむく寸前、彼も大きく顔を横に逸らした様子が見えた。
    大変。こんなの、想定外だわ。
    だって、先輩がこんなこと言うのは、初めてで...。

    顔が熱い。頭のてっぺんまで熱い。
    私は、助けを求めるように、おそるおそる彼の顔を伺った。
    すると目に入ったのは、赤く頬を染めて必死に私から顔をそらしている彼の姿だった。

  • 52◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:48:46

    私はその瞬間、彼の横顔に目を奪われた。
    そんな顔、初めて見た。
    彼はいつも、大げさな事を言って、自分は涼しい顔をして、私だけを困らせるのに。
    そんな顔をしたあなたは、いったいどんな気持ちなの?
    胸がぎゅうっと苦しくなる。とってもとっても苦しい。今までにないくらい。
    苦しくって、切なくって、けれど絶対に手放したくない気持ち。
    すぐ目の前の この人に、この苦しさを打ち明けたいという強い気持ち。

    私はようやく理解した。
    ずっと目を逸らして、自覚することを避けてきたこの気持ちの正体を。
    私は、ずっとこの人を愛していて
    たったいま、恋をしたのね。

    なんて尊く、幸福な時間だろう。
    きっと一人の人間として、これ以上の瞬間なんて訪れないと断言できる。
    満たされた心の中で何分、何時間経ったかも分からないけれど
    私は、この聖なる時間を無限にも感じながら
    彼への愛情と恋心を、自分の心に染み渡らせていった。

    また、涙が溢れた。
    当然よ。だって私、いま...とっても幸せだもの。

  • 53◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:49:33

    ーーー


    星南さんがこちらをじっと見ていることに、少し経って気がついた。
    彼女はまた、涙を流している。
    ...完全に迂闊なことを口走った。星南さんの気を悪くしていないだろうか。
    薄氷の上で踊っている気分だった。
    ひとまずこの状況、このままではいけないと思い、意を決して立ち上がった。
    「そろそろ休みましょう!明日から通常のスケジュールに戻りますので!」
    声は裏返ったが、なんとか会話を再開する。星南さんもハッとした顔をして立ち上がった。
    「そ、そうね!夜ふかしになるといけないわ!」
    星南さんも声が裏返っていたが、そのまま振り返って部屋の出口に向いた。
    その瞬間、何かを踏んだのか転びそうになる。
    俺は咄嗟に星南さんの肩を抱く形でキャッチし、事なきを得た。

    「星南さん、大丈夫ですか?...すみません、すぐに離します」
    男が触れることで嫌な記憶を呼び覚まさないか、と思い早々に離そうとすると、星南さんは俺の服をつまんで制止した。
    「ほら、大丈夫よ。あなたのおかげでもう怖くないわ」
    肩を抱かれた星南さんの顔はとても近い。けれど、彼女「の表情はとても穏やかだ。
    「それに、トップアイドルはちょっとやそっとじゃへこたれないのよ」
    そう言って彼女は俺の腕から外れて立ち上がり、部屋の扉に向かっていった。
    やはり、彼女は強い。
    きっと明日からはまた、万全の十王星南を見せつけてくれる。
    ...担当アイドルに勇気を貰っているようでは、俺はまだまだだ。
    そう思った俺は、決意を新たに星南さんに声をかけた。

  • 54◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:49:49

    「星南さん!...明日からもまた、よろしくお願いします。少し予定は狂いましたが...」
    こんなトラブルが起きて、こんな状況になって...。
    俺の思い描いていたプロデュースからは少しずつ外れてきたかもしれない。
    けれど、十王星南の...トップアイドルのプロデューサーなら、何があっても立ち止まってはいけない。
    そんなことを考えていると星南さんは扉を開けて振り返り、こう告げた。
    「その責任、とってあげましょうか?先輩♪」
    そう言うと、星南さんはウィンクをして部屋から出て、おやすみなさい とだけ言って扉を閉めた。

    「おやすみなさい」
    もう星南さんはそこに居ないけれど、声に出した。
    軟弱な自分に、明日からの自分に活を入れる。
    プロデューサーとしてではない、一人の人間として十王星南に抱く想いを、見せてしまいそうになったから。
    この気持ちだけは決して、星南さんに悟られないように。
    今はまだ、自分だけの宝物にしておくために。
    きっとその時がきたら、いちばんの言葉で彼女に伝えられるように。

  • 55◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 12:50:34

    第二話 -完-
    です、お目汚し失礼しました!

  • 56二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 13:33:54

    お疲れ様です
    最高でした

  • 57二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 14:04:26

    これを見るために今まで仕事頑張ってきたんだなって今なら胸を張って言える
    貴方は私に生きる価値をくれた

  • 58二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 14:50:09

    ブラボー👏
    ブラボー👏

  • 59二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 14:52:32

    人生長く生きてると、生きてて良かった、って思う瞬間が少しはある訳で、それが今なんだよね
    本当にありがとう……

  • 60二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 15:34:10

    続きを制作する予定はありますか?

  • 61◆0CQ58f2SFMUP25/02/19(水) 15:44:06

    元スレで書いた、ことねにイジられる話と千奈にイジられる話は番外短編な感じで書き進めてます!
    (星南さん恋自覚のあとのほうがイジられ甲斐があると思ったので、怒涛の3日間みたいな話になりました)
    あとはせっかく2年後にしたから、お酒の席で誘い受けシチュとかもいい砂糖が採れそう...

  • 62二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 16:07:29

    口角上がりっぱなしなんだけど?責任とってよね

  • 63二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 18:22:22

    元スレより砂糖増量してる

  • 64二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 19:54:38

    よかった…

  • 65二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 20:07:34

    >>61良いですねえ最高です

  • 66二次元好きの匿名さん25/02/19(水) 22:41:55

    保守

  • 67二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 01:27:24

    保守

  • 68二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 05:03:01

    こういうSSが書ける人ってめっちゃ尊敬するし感謝して崇めたいくらい もはや神 ありがとうございます

  • 69二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 08:21:12

    >>68分かる 凄いよね

  • 70二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 09:35:49

    学Pに恥ずかしいこと言われても照れるけど致命傷にならないのに
    学Pが自分に矢印向けてることに感づいたら致命傷になるのは
    解釈合いますねぇ

  • 71二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 14:17:32

    >>70本当に良いよな

  • 72二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 18:30:45

    ブラックコーヒーをおくれ!

  • 73二次元好きの匿名さん25/02/20(木) 21:55:21

    一応保守

  • 74◆0CQ58f2SFMUP25/02/20(木) 22:12:24

    保守ありがとうございます!
    ことね短編は今晩〜明日くらいに完成しそうなので、残ってたらここに投下します

  • 75二次元好きの匿名さん25/02/21(金) 00:39:29

    保守

  • 76二次元好きの匿名さん25/02/21(金) 08:23:14

    保守

  • 77◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:38:42

    保守ありがとうございます。
    ※たぶんこのスレに投げれるのは一旦ここまでになりそう

    ↓ことね短編?続編?書けたので、以下連投していきます。↓

  • 78◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:38:54

    先輩と同居を始めた翌日。
    先輩に恋をした翌日。
    私は、ことねを現場に送るための車に乗り込んでいた。
    いつもと違うのは、先輩が運転しているということ。
    そのおかげで、私はことねの隣に座れているということ。

    「ことね!今日はいつもの番組収録よ!2本撮りだから少し長丁場になるけれど、よろしくお願いするわね!」
    「ハイ!ハイ!近いし声デカいですって!がんばります!」
    いつもより近い距離で私のことねと話している事実に浮かれてしまい、ほんの少し声が大きくなる。
    私は、自分の担当アイドルを送迎するときは私自身が車を運転するようにしていた。
    先輩はあくまでも私をサポートする立場で、彼女達は私の担当アイドルだから。
    あとは、"プロデューサーは担当アイドルを自分の車で送迎するもの"だから。
    そのために18歳になってすぐに免許を取得した。…ただの憧れでしょう、と言われればその通りだけれど。
    いつも移動中はルームミラー越しに会話することねが、今日は同じ車内で、隣に座っている。
    その事実に少し舞い上がってしまっていた。

  • 79◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:39:08

    ことねはいつも通りのベストコンディション。
    顔はとっても可愛いし、声も可愛い。
    今日の服装も三つ編みも凄く可愛い。いい匂いだってする。
    一つ違うとすれば、今日は先輩のことを時々睨んでいるようだった。
    なにか言うわけではないけれど、少しだけ言葉の端々が厳しい...ような気がする。

    「...星南先輩のプロデューサーさん、珍しいですね。いつもはあたしの仕事だけなら同行しないのに」
    運転している先輩にことねが話しかける。
    このあいだの事情については、先輩がお父様に会いに行った日に説明してある。
    もしかすると、事態を防げなかった先輩に少し怒っているのかもしれない。

  • 80◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:39:19

    「はい、今日は...その、出発前に星南さんと合流する機会があったので俺が運転を、と」
    その様子に気づいているのかいないのか、それ以前に知られてはいけないことを言わないように、彼はたどたどしく返した。
    流石に、同居することになったとは教えていない。
    絶対に知られてはいけないこと...ということでも無いのだけれど。なにかその...勘違いというか、誤解を招く気がするから。
    アイドルとプロデューサーが同居なんて、内輪でもひけらかすような話ではないのは理解している。
    別に私と先輩が、想いを交わしたわけではないのだし。
    私が一方的に...そういう気持ちを自覚してしまっただけだから。
    だからまだ、誤解になってしまう。

    先輩も同居の件を伏せておくことは同意してくれたので、こうして微妙な言い方でかわしてくれていた。
    「ふ~ん...? ま、同行するのは評価してあげますかね~」
    ことねはそうこぼすと、一応は納得したような様子でシートにもたれた。

  • 81◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:39:40

    ーーー


    今日のテレビ収録のスタジオに到着し、中に入っていつものメンバーに挨拶を交わす。
    このあいだとのテレビ収録とは局が違うし、場所の雰囲気も全然違うけれど、少しだけ自分の表情が強張ってしまうのが分かった。
    今日はことねのレギュラー番組だから、馴染みのスタッフに馴染みの共演者たち。
    いつもの、女性の番組プロデューサー。
    なにも心配なんて無いのだけれど...。

    「...星南先輩、大丈夫です?」
    ことねが私の顔を覗き込んでくる。
    ことねに心配してもらえることはとっても嬉しいけれど、事情が事情だから申し訳ない気持ちになってしまう。
    大丈夫よ、なんて返してみたものの、ことねは納得いかない様子だった。
    「...もぉっ! 星南先輩の担当アイドルとして、いっぺん言っとかないとダメだと思うんで言いますけど!」
    そう言って、ことねは先輩の前に立ちはだかった

  • 82◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:40:11

    ことねは先輩の胸元を指差す。言ってやらないと気がすまない、といった顔だ。
    「アンタ、星南先輩のプロデューサーなんですから!」
    先輩は、ことねの目を見て動かない。
    「アンタがしっかり守ってあげないとダメなんですよっ!」
    ことねが先輩を叱りつける。
    私のために…いや、私たちのために怒ってくれていた。
    きっと、ことねだけじゃない。この場にいるスタッフ達もなんとなく事情を把握しているだろう。
    だからこそ、きちんとけじめを付けたのだということを、証明する場を作ろうとしてくれている。
    でも、先輩が私を...その場に立ち会うことはできなくても、私の心を守ってくれたことは本当だから。
    私は、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが同時に湧き起こって、ほんの少しいたたまれなくなる。
    「次またこんなコトあったら、もうアンタのこと星南先輩のプロデューサーだなんて、認めませんからねっ!」

    先輩は言葉を選んでいるのか、ことねの目をじっと見つめたまま動かない。
    周りのスタッフも、みんな自分の持ち場を離れてはいないけれど、聞き耳を立てている様子だった。
    ...場合によっては、私からでも...。
    そう思って先輩に近寄ろうとしたとき、彼が口を開いた。
    「弁明のしようもありません。藤田さんの仰るとおりです」
    彼の、低く心地よい声がスタジオに響く。
    「俺は星南さんから目を離してしまった。彼女の強さに甘えてしまっていたんです。ですから...」
    力強く言葉を続ける。
    この場にいるみんなが、彼の言葉を聞き届けようとしていた。
    「俺は、星南さんから二度と目を離さない。二度と離れない。俺の生涯は、彼女を支えるために全て使うと誓いました」
    私も聞き届けようとしていたれど、このままでは大変なことになると気づいて制止に走った。

  • 83◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:40:37

    「ちょっ、あなた、それは...!」
    止めに入った私の隣で、ことねは思わぬ言葉が飛び出してきて絶句している。
    彼はきっと、私がアイドルとして活動する間はもう目を離さないようにする、といったようなことを言いたいのかもしれない。
    けれどこれでは、あのとき屋敷の者達の前で宣言したときの二の舞いになってしまうじゃないの!
    「..................はっ!」
    絶句していたことねが意識を取り戻した。
    「俺はもう決して油断しません。俺の人生を懸けて星南さんを守り抜きます」
    先輩は止まらない。私が何か言おうとしても、言葉を続ける。
    「え、えぇ~!とんでもないこと言ってません!?」
    ことねが顔を赤くし、私と先輩の顔を見比べながら言う。
    もう、完全に勘違いを生んでいる様子だった。
    私の顔が熱くなる。また、こんな...私を振り回そうとするんだから!

    「せ、先輩!言葉を選んでちょうだいって言ったでしょう!勘違いされるじゃないの!」
    気がつけばスタッフ全員の手が止まっていて、みんなこちらを見ていた。
    共演者達も何か何かと楽屋や前室から集まってきていて、完全に先輩の独壇場だ。
    「勘違いではありません、これは俺の本心です」
    先輩はまったく止まらない。
    「も、も~!プロデューサーさん、星南先輩のこと好きすぎでしょ~!」
    先輩の肩をバシバシと叩きながら、ことねは火に油を注いだ。
    完全に混乱しているのか、目がぐるぐると回っているように見える。私も、だんだんとくらくらしてきた。
    「無論です。誰にも負けませんよ」
    ことねの言葉に、先輩はすかさず返し、眼鏡の位置を直した。
    言いたいことは言ったとばかりに堂々と佇む彼と、おぉ~...と声が漏れる周囲の人達の様子に、たまらず私は先輩とことねの腕を掴んだ。
    「もう!二人とも落ち着きなさい!」
    私は恥ずかしくってみんなの顔を見ることもできず、二人を楽屋まで引っ張っていった。

  • 84◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:40:59

    ーーー


    二人の腕を掴んで楽屋まで引っ張ってきた私は、まだ顔の熱がとれないでいた。
    ...まったく、この人は本当に...!
    もともと、彼は私が想像もしなかった選択肢を与えてくれる人だった。
    私がアイドルとしての将来を諦めようとしていたときから、ずっとそうだ。
    その過程で、私は彼の突拍子もない行動に振り回されてきたこともある。
    だからか、彼は私を振り回すのが仕事だと思っているのではないか、なんて疑問を抱いてしまうときがある。
    今日だってそうだ。あんなに顔馴染がたくさんいる場所で、あんなことを宣言してしまう。

    彼はきっと"担当プロデューサーとして"、"担当アイドルから目を離さない"って言いたかったのだと思うし、事実そのスタンスで行動しているのは伝わってくる。
    彼はずっとそう。何もかも私のために行動してくれる、私だけのプロデューサー。
    私が最も信頼できる人物で、私だけのプロデューサー。
    ...そうだ、ずっとプロデューサーとして彼は私のそばに居てくれている。
    彼が私のそばにいるとき、プロデューサーである自分を絶対に崩さない。
    その一線を頑なに守ってくれるからこそ、私は全幅の信頼をおいて、私はこの2年間と少しを彼と共に駆け続けられた。

  • 85◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:41:16

    ...なのに、いまはそれが、ちょっとだけ苦しくなる。
    彼にとっては、私はやっぱり担当アイドルで、それ以上でも以下でもないの?
    じゃあ、昨晩のあの言葉は。
    昨晩のあの横顔は、いったいなんだったの?
    きっと、もっと心の強い子なら、確信をもって彼に問い詰められるのかもしれない。
    でも私はできない。だって...怖い。
    自分には何もなかったと、結果が出ることが怖い。
    私は十王星南として、自分のアイドルとしての人生に決意と覚悟をもって生きてきた。
    一度は挫けかけたけれど、彼のおかげで再び立ち上がれた。
    だからアイドルとしての私は決してブレない。立ち止まらない。
    けれどこれは...アイドルじゃない私は?
    ぜんぜん分からない。こんな気持ちになるなんて、生まれて一度もなかったから。

    「...ハァ~、なんか楽屋あっついわ~!」
    沈黙に耐えかねたことねが、私に掴まれていない手で顔を扇ぎながら口を開いた。
    私はことねの腕を離し忘れていたことを思い出し、ぱっと手を引いた。
    「ごっ、ごめんなさい、ことね!跡になってないわよね!」
    収録前の担当アイドルになんてことを...と心配したが、幸い掴んだ跡は残っていなかった。
    ことねは、自分を掴んでいた手とは反対の、私の手を指さして言う。
    「"それ"終わってぇ、顔の赤いのがひいたら、ちゃんとスタジオに来てくださいね~。星南プロデューサーちゃん♪」
    ことねが指さした私の手は、まだプロデューサーの腕をしっかりと掴んだままだった。
    慌てて先輩を掴む手を離して言葉を失う私を尻目に、ことねはいたずらっぽい笑顔で一人、スタジオに戻っていった。

  • 86◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:41:38

    ーーー


    ことねが去ったあと、私と先輩は少しのあいだ沈黙していた。
    先輩もなかなか口を開かない。私と同じで気まずいのか、何か言おうと言葉を選んでいるのか。
    私も楽屋まで引っ張ってきた手前、なんと言ったものかと悩んでいると、先に彼が話し始めた。
    「申し訳ありません。星南さんの担当アイドルや関係者の方々にも安心して頂こうかと思いまして」
    さっきまで掴まれていた手で頬をかきながら言う。いつもの仏頂面だ。

    私は、なんだか無性に腹が立ってきて、珍しく彼に食って掛かりたくなった。
    「その心がけは間違っていないけれど!」
    これでもかというくらい彼を睨んでやる。
    じっとりとした目で、ちくちくと刺してやる意気込みで。
    「このあいだも言ったけれど、もう少し言葉を選んで喋ってちょうだい!」
    変わらず仏頂面を崩さない彼の目を見て言う。
    「...はい、それも申し訳ありません。しかし俺の本心ですから、もっとも伝わりそうな言葉で喋りました」
    その仏頂面でこんなことを言うものだから、私は睨んだ目を維持できない。
    どうしてこの人は、こんなに真っ直ぐに言ってしまえるの?
    本当に、まったくそんな気がないから?
    私を揺さぶって、私の気持ちを聞き出そうとしている?
    前者だったらどうしようなんて、過ぎっただけで心がしくしくと痛くなる。
    結局、いつものように彼は涼しい顔をして、自分だけが勝手に苦しくなっていて。
    私はアイドルなのに恋なんてしてしまったから、これは罰?
    ...分からない。いま考えても答えなんて出ないだろうし、彼が不思議そうな顔で私を見ている。
    いつまでも黙ってはいられない。言ってやるのよ、十王星南。
    「…ずるい」
    逡巡の後、それだけが口をついて出た。

  • 87◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:41:51

    そうだ、先輩にいま言ってやりたいことなんて、これだけだ。
    「星南さん?ずるい、とは一体なんの…」
    とぼけた顔で彼は聞き返してくる。
    うるさい。こんなのただの仕返しなんだから、黙って聞いていなさい。
    「教えてあげない。罰として、私が行った5分後にスタジオに来て」
    私は、ぷいっと横を向いてしまった。
    こんな子どもみたいな気持ち、絶対に教えてあげない。
    だって、あなたが引っ張り出したんだから。私のこんな気持ち。

    「5分後?しかし俺は星南さんから二度と...」
    言うと思った。でもこれは罰だから、言う事聞くまで許してあげない。
    「私に恥ずかしい思いをさせた罰なのだから、せいぜい いきなり失敗していなさい」
    私は、ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼を置いて楽屋を出た。
    ことねとの約束を、一つだけ破ったまま。

  • 88◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:42:05

    ーーー


    スタジオに戻ると ことねはもう今日の撮影打ち合わせに入っていた。
    私も関係者席で番組スタッフ達と今後のスケジュール確認や、企画の頭出しに事務所として問題ないかを相談する。
    結局、先輩はきっちり5分後にスタジオに入ってきて、自分の事務処理をこなしながら時々私の様子を伺っているようだった。
    心なしか、スタッフの視線が生暖かい。
    誰も聞いてはこないけれど、さっきの話は絶対に全員が聞いている。
    私も何度も共演したようなベテランの方達も、絶対に。
    変な尾ひれがついて、厄介な方面に情報が流れてしまって、それがもし、スキャンダルになんてなりでもしたら...。
    嫌。そんなのは絶対に嫌だ。
    誰かに邪魔をされて、先輩を手放さないといけなくなるなんて、そんなのは絶対に嫌だ。
    そんなことを もやもやと考えていると、馴染みの女性スタッフが私の顔を見ながら言った。
    「星南ちゃん。そんな難しい顔しなくても、誰も言いふらしたりしないよ」
    先輩と同世代の彼女は、微笑みながら私の肩をぽんと叩く。
    ...まったく!こんな心配を担当アイドルにさせるプロデューサーが悪いのよ!
    私はスタッフに ありがとうございます、とだけ返し、お茶を頂こうと休憩スペースに移動した。
    出演者のためのものだから普段は手を付けないけれど、今日はなんだか無性にのどが渇いてしまう。
    でも良かった、馴染みのスタッフさんがそう言ってくれるなら、きっとこの現場から他の業界に漏れ伝わるってことは無いはずだから。

    「でも驚いたなぁ...。星南ちゃん、プロデューサーさんと婚約したのかぁ」

  • 89◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:42:27

    ーーー


    一通り撮影が完了し、今は別撮りのVTR撮影を行っている。
    ことねは今のところ出番がなく、一緒に休憩スペースで休んでいた。
    結局、ことねとゆっくり会話する機会はなかったから、二人で話せるタイミングは久しぶりのような気がする。
    今のうちに今朝の誤解を解いておかなければと思い、何から切り出したものかと悩んでいると、ことねから声をかけてきてくれた。
    「いや~、今朝はびっくりしましたね、星南プロデューサー?」
    ことねは楽しげに言うと、先輩の方をちらっと確認した。彼は相変わらず、私の方をときどき目視で確認しているようだった。
    「びっくりどころではないわよ、まったく…あれではストーカーと勘違いされてしまいそうよ。スタッフ達にも聞かれてしまって…」
    四六時中ついて回って、一定の距離を保って私の方をちらちらと確認する男性。
    どう見てもストーカーの振る舞いだもの。
    守るも何も、先に逮捕されてしまうんじゃないかしら…。
    「せ、星南先輩がそれ言うか…。でも、聞かれても大丈夫だと思いますけどねぇ。プロデューサーさんが星南先輩におネツなのって今に始まったことじゃないですし」
    ことねはそう言って、からかうような顔で私と先輩を交互に見た。
    可愛らしい金のおさげがふわふわと揺れる。
    「おっ...!? かっ、彼はそういうつもりで言っていないから!」
    思いがけない言葉に、私は一気に顔に火が点いたのが分かった。
    そんないやらしい言い方、いえ、そもそもそんなこと無いんだから!
    「...?あれ?なんかいつもより...ふ~ん...」
    ことねは私の反応を見て、なにやらひそひそと独り言を言っている。
    私が卒業してからというもの、ことねは段々私のことをからかうようになっていた。
    ほかでもないことねだから別に構わないのだけれど、ことねってこんな意地悪な子だったかしら…。
    気がつくと、ことねは私の赤くなった顔をまじまじと見ていた。覗き込むことねの顔が近い。
    「...ことね?その目は...な、なに?」
    たじろいだ私がそう問うと、ことねはゆっくりと満面の笑みを見せた。
    いつもは天使のような笑顔のことねも、今は何故だか、いたずらな悪魔のようだ。
    いつもなら、こんなに近くで笑ってくれたら、声を大にして褒めちぎるのだけれど。
    今は、とてもそんなことをする余裕はなかった。

  • 90◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:42:45

    「星南先輩、まんざらでもなかったりして?」
    「ン゛ン゛ッ!? ゴホッ!ゴホッ!」
    またもや思いがけない言葉がことねから飛び出し、私はむせてしまった。
    私の様子を見て一瞬慌てたことねも、また意地悪そうな顔をし直して私をにまにまと見続けている。
    どうして?いえ、今日は私は怒っているのだから、まんざらでもないなんてありえない!
    プロデューサーに、そばに居てもらうのは、まんざらでもない…かも知れないけれど…。
    私の呼吸が落ち着いたのを見計らって、今とばかりにことねは話し始める。
    「星南先輩ってぇ、プロデューサーさんとめぇ~っちゃ心の距離近いじゃないですか。ベストパートナー!みたいな」
    へっ?心の距離?
    そ、それってどういうことなのかしら…。私は、彼と心の中で寄り添いあっているということ?
    そんなの、まだ分からない…。
    分からないし、寄り添い合う私たちを勝手に想像して、さらに顔の温度が上がったのが自覚できた。
    「なっ、あっ、そっ...それは、最高のプロデューサーだと、私も思っているけれど...」
    私はもう何を言っているのかもよく分からなくなっていたが、わずかな意識で面目を保とうと言葉を繋げる。
    なんだか顔だけでなく体も熱くなってきて、そわそわと身をよじってしまう。
    こんな、みっともない姿、いま彼に見られたら…。
    「は〜、赤い顔で もじもじしやがって…。思ったよりマジなやつじゃん…」
    ことねが私の様子を見て小さい声でなにか言っている。
    早く、早くこの話を終わらせて元の私に戻らないと、この醜態を晒し続けてしまう!
    そう思っていると、ことねが私の耳元に顔をぐっと近づけてきた。

  • 91◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:43:24

    「…最高の、"プロデューサー"、だけで良いんですかぁ?」
    な、何を言っているの!?
    ことねは、やっぱり気づいているのかも知れない。
    私の、先輩に対する気持ち。
    いつ気づかれたのか、何が原因でばれてしまったかはさっぱり分からないけれど。
    「良いのかって、どういうことよ...?」
    かろうじて、そう返す。
    この話の腰を折ってでも、はやく終わらせなければとチャンスを伺う。
    もう、これ以上彼の見ているところでみっともない顔をしていたくないから。
    けれど…。
    「星南先輩ず~~~っとプロデューサーさんのこと目で追ってるし、プロデューサーさんと通話してるときの顔、めっちゃキラキラしてるし」
    そんな私の企みは一瞬で吹き飛ばされるような、おそろしい暴露が始まるとは思ってもみなかった。

    「なっ...私、そんなこと...」
    そんなこと、していない...と言いたい。
    けれど今思い返せば、私は先輩との電話を心待ちにしていた。
    業務連絡でも何でもいい、先輩の声が聞けた瞬間に活力が湧いてくる感覚を覚えていた。
    でも私はそんな、キラキラなんて、していないはずだ。
    だってそんなの、自覚してなかったのが自分だけだったなんて。
    いくらなんでも、恥ずかし過ぎるじゃないの!

  • 92◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:43:46

    「してますって!あとスマホの壁紙もあたしの写真と思いきや、絶対プロデューサーさんが見切れてるやつだし?プロデューサーさんと立ち話するとき絶対普通より一歩近づいて触れるか触れないかみたいな位置に立つし~」
    ことねは堰を切ったように次々と話し続ける。
    壁紙のことなんて、それはその、本当…だけれど、どうしてバレてしまうの?
    でもそれは何ていうか、私の大切なみんなが写ってる写真にしたいって思っただけで。
    本当、本当よ!
    先輩との距離だって、信頼の証明のつもり。
    私が近づいたって先輩はいやらしい目で見ないし、決して先輩からは触れようとしないもの。
    ...先輩は絶対に私のことを、担当アイドルとしてしか見ていないから…。
    すっかり頭が混乱してしまっている私は、ずっと頭の中で会話して、ことねに返事をすることも忘れていた。
    こんなにことねの顔が近いのに、今は彼女の可愛らしさにまったく集中できない。
    混乱したまま、ぐるぐると目が回っている私を面白がって、ことねは追い打ちをかけてきた。

    「夏にプロデューサーさんが袖まくりしただけで釘付けになってトキメいてたのは、流石に少女漫画かよ!って思いましたけどね~」
    袖まくり...?
    それは...そう。だって先輩、色白であんなにきれいな肌をしてるのに。
    仕事中はおくびにもださないのに、ふとした瞬間に男性らしさを見せるものだから、ちょっとだけ、どきっとしただけ。
    「...そんなの、ときめいて、ない」
    もうほとんど声にならない。ある意味ぜんぶ図星だから、強く否定できない。

  • 93◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:45:00

    「あと今日もですけど、星南先輩ってプロデューサーさんが運転してるときにうなじとか、ハンドル切るときの手とか見すぎですよぉ」
    それは、だって。
    だって、だって!
    ...もう私は、先輩のこと、好きなんだもの。
    「.........意地悪」
    もう、ぜったい顔も真っ赤で、熱くてぼーっとするし、頭まわらないし。
    こんなに全部言わなくたっていいじゃない。
    いくらことねだって、許してあげない。
    「...星南先輩?」
    ぼそぼそと喋って黙り込んだ私を、ことねはまた覗き込む。
    ちょっとやり過ぎたか?なんて思ってそうなとぼけた顔。そんな顔も可愛いけれど、許してあげない。
    ことねに言い返してやるのよ。私は彼女のプロデューサーなのだから。
    私は髪で口元を隠し、上目遣いで必死に睨みつけてやった。
    めいっぱい睨みつけた。もう頭は茹で上がってわけがわからないけれど、全力で睨んで言ってやる。
    「...ことねなんて、嫌いよ…」

    「…かっ…」
    ことねは、私を見て少し顔を赤くした。
    ことねはどんどん顔がゆるんでいき、にやけ顔が隠せなくなっていく。
    「かわいすぎかよ〜!も〜そんなん優勝じゃないですかぁ〜!」
    三つ編みをくねくねと揺らしながら、ことねは頬に手を当てて叫んだ。
    どっ、どういうこと?ぜんぜん怯んでいないのだけれど...。
    怖い顔をしたつもりなのに、ことねを喜ばせるだけだった。どうしてかはまったく分からない。
    あんまり恥ずかしくなって、かといってもう手札がない私は、ただ怒ったような顔をすることしかできなかった。
    「もぉ~拗ねないで~ぷろでゅーしゃあ〜♡ また進展あったら教えて下さいネッ♡」
    結果、追い詰められすぎた私は、語彙を失った。
    「もう、知らないっ!」

  • 94◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:45:26

    ーーー


    今日の収録がすべて終わって、私達3人は撤収した。
    今は、また先輩の運転で、帰りの車に乗っているところだった。
    どうしてかは...わかるけれど、どっと疲れてしまった。今日もよく眠れそう。

    ことねと車内で明日のスケジュールを軽く確認し、学生寮の前で降ろした。
    今日はいきなり先輩に振り回されたけれど、ことねにも振り回されてしまった。
    先輩と同居して翌日にこれでは、先が思いやられる気分だった。
    千奈や佑芽にもからかわれるかもしれないと思うと気が重くなる。
    いや、重くなっているだけではダメだ。気を引き締めなければ。
    「そうだ!星南先輩!」
    降りたことねが、車の扉を閉める前に体をずいっと車の中に押し込んできた。
    「どうしたの、ことね?」
    なにか伝え忘れがあったかと記憶を辿るが、特に思い当たらない。
    それになんだか意地悪な顔をしている。これはもしかして...と思ったら、もう手遅れだった。
    「現役アイドルはぁ、恋愛禁止ですよ〜♪」

    「なっ!そっ、そんなのっ!私は恋愛なんてしていないから!」
    つい叫んでしまったが、ことねは笑いながら行ってしまった。
    先輩に聞かれてしまった。私の想い、その片鱗が気づかれてしまった?
    怖い。思い至って、気づかれて...そして、報われなかったらと思うと、怖くなる。
    先輩は、私のこと、どう思ってるのだろう...。

  • 95◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:45:52

    ーーー


    先輩と私の乗った車が、屋敷に到着した。
    まだ夕食まで時間がある。夕食前に少しトレーニングをして体を動かしたい。
    帰り道の車中で先輩と話した、明日からの私のスケジュールもしっかり頭に入っているし、ここ二日ほどでなまった体を起こさないと。
    先輩が外から車の扉を開けてくれたから、私は ありがとう、と言ってすっと降りた。
    ふと、彼の顔を見ると、なにか言いたげな様子だった。
    今日の暴走のときのような、言いたいことを言おう…という雰囲気とは少し違う。
    「どうかしたの、先輩?」
    言い出しにくいことならと、私から聞くことにした。
    彼は、いつもより少しだけ申し訳なさそうな顔をして口を開く。
    「その…自分で言い出したことですが、やはり俺が常に視界にちらつくのは、ご迷惑だったでしょうか…」
    もう少し早く思い至りなさい…と思いつつも、流石に先輩も今日の様子を見て思うところがあったのかも知れない。
    だから、私は彼に本心を伝えてあげることにした。

  • 96◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:46:04

    「あなたと一緒にいて、嫌だった時間なんて一秒もないわよ」
    私の答えに彼は えっ、と声を漏らした。
    ほら、また勘違いしている。
    私は、あなたに散々振り回されたけれど。
    あなたと一緒に居たくないなんて、一度も思ったことはない。
    でも、そうね。
    あれだけ私を振り回したのだから、ちょっとだけ反省しなさい。

    「なんでもないわ。さぁ、帰りましょう」
    やっといつものペースを取り戻した私は、とびきりのすまし顔で彼を置いてけぼりにする。
    戸惑っている彼が慌ててついてくる様子に少しだけすっきりした私は、足取り軽く、愛しい彼の前を歩いた。

    あんなに振り回されて、散々な目にあったのに、いまの私の心はすっかり穏やかだ。
    今日の夕食は何かしら。
    確か今日はお母様も帰ってらっしゃるから、3人で食事ができるわね。
    お母様の前で緊張する彼が目に浮かぶ。
    ふふっ。そうしたら、今晩も先輩の部屋を訪れて、慰めてあげようかしら。

    そんなことを考えながら、玄関扉の前で振り返る。
    「おかえりなさい、先輩」
    おかえりなさい、わたしの大好きなひと。
    「…ただいま戻りました。おかえりなさい、星南さん」
    微笑む彼を見て、顔ではなく胸が温かくなった。
    だからやっぱり、私たちは、これからもずっと一緒だ。

  • 97◆0CQ58f2SFMUP25/02/21(金) 08:46:34

    ことねにイジられる話 -完- です!
    お目汚し失礼しました!

  • 98二次元好きの匿名さん25/02/21(金) 08:48:07

    こりゃあまたずいぶんと良質な砂糖だ

  • 99二次元好きの匿名さん25/02/21(金) 09:33:42

    この砂糖はガンに効く

  • 100二次元好きの匿名さん25/02/21(金) 12:31:58

    なるほどね
    口の中がジャリジャリするね

  • 101二次元好きの匿名さん25/02/21(金) 15:43:28

    ブラックコーヒーを持てい!

  • 102二次元好きの匿名さん25/02/21(金) 16:20:23

    巻き込まれてないことねは貴重

  • 103二次元好きの匿名さん25/02/22(土) 00:43:01

    保守
    千奈編待ってます

  • 104二次元好きの匿名さん25/02/22(土) 08:44:10

    保守

  • 105二次元好きの匿名さん25/02/22(土) 15:16:46

  • 106二次元好きの匿名さん25/02/22(土) 23:12:54

    保守

  • 107二次元好きの匿名さん25/02/23(日) 08:02:01

    hs

  • 108二次元好きの匿名さん25/02/23(日) 11:00:22

    良きかな

  • 109二次元好きの匿名さん25/02/23(日) 16:07:01

    これが愛

  • 110二次元好きの匿名さん25/02/23(日) 22:11:43

    保守

  • 111二次元好きの匿名さん25/02/24(月) 05:30:26

  • 112二次元好きの匿名さん25/02/24(月) 13:00:12

    保守

  • 113二次元好きの匿名さん25/02/24(月) 14:21:12

    ピクシブに同じの書いてたりします?

  • 114◆0CQ58f2SFMUP25/02/24(月) 15:19:12

    >>113

    ここで投下したあとpixivにも残してます!

    ここで砂糖だしたおかげで書けてるから、スレ残ってる間は先にここで投下するよ!

  • 115二次元好きの匿名さん25/02/24(月) 21:45:33

    保守

  • 116二次元好きの匿名さん25/02/24(月) 23:30:27

    保守

  • 117二次元好きの匿名さん25/02/25(火) 04:15:35

    保守

  • 118二次元好きの匿名さん25/02/25(火) 07:51:51

    保守

  • 119二次元好きの匿名さん25/02/25(火) 11:03:13

    保守

  • 120二次元好きの匿名さん25/02/25(火) 15:41:38

    保守

  • 121◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:40:13

    長期保守ありがとうございました!
    前スレで出した千奈短編、書けたので投下していきます!
    ↓以下連投します↓

  • 122◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:40:35

    先輩と同居し始めて幾日が経った。
    彼に恋をして幾日。
    私たちは、騒がしくも不思議と心満たされる日々を送っている。

    同居当初は、想い人との一つ屋根の下での生活という事態に、何が起きるのかとそわそわしてしまっていたけれど。
    いざ暮らしてみると、当たり前だけれど先輩はプライベートには踏み込んで来ることはない。
    私も、みだりに部屋に呼ぶような、はしたないことはしない。
    そんな先輩だからこそ安心して同居できるのだけれど、拍子抜けのような、信頼が深まったような、ちょっとだけ複雑な心境だった。

    それでも朝起きると、この部屋を一歩出れば彼がいるかもしれない、なんてことを考える。
    夜、お手洗いに行く途中に普段と違う彼に会えるかも、なんて思って、ゆっくり歩いてみたりもする。
    それだけで、毎日がほんの少しわくわくしていたりして。
    今年二十歳になる私にとっては、あまりにも子どもっぽいかも知れないけれど。
    これはきっと最初で最後の恋だから。
    物心ついた頃からアイドルだった私に、自分には関係ないものだからと知らずにいた私に、舞い降りてきた恋だから。
    私は彼との暮らしを、日々の胸の苦しさを大切に大切に味わいながら。
    今日もまた期待に胸を躍らせて、朝を迎える。

    今日は平日、休養日の朝。
    いつもより少しだけ遅い時間に起床した私はベッドから降りると、今日はいつ彼に会うのだろうかと、どきどきしてみながら自室の扉を開けた。

  • 123◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:40:57

    ーーー


    結局、ドレッシングルームまでの廊下では彼に会わなかった。
    プロデューサー科の講義があると言っていたから、今日は午前から大学に行くと聞いている。
    いまごろ朝食を摂っているか、そろそろ出発しているころかしら。
    少しだけ残念だけれど、毎日決まったことが起きるわけではないのも悪いことばかりではない。
    彼の生活がすぐそばで息づいている気がして、ちょっとだけ嬉しいから。

    などと考えながら、下着を着替えて今日の服を選ぶ。
    先輩はどんな服が…なんてことを毎朝思っては、きっと彼は私の服装に逐一コメントなんてしない、と諦める。
    褒めて欲しいとか、そういうことでは無いのだけれど。
    今日の私を見た彼の、その仏頂面が少しでも揺らげば痛快だな…と、そんなちょっとした気持ちだ。
    2年以上一緒に居て、彼の…好みのタイプなんて、まったく分からないままだけれど。
    あれだけ躊躇いなく恥ずかしいことを言ってのける彼だから、私に何も言わないということは、特に感動もしていないのかも知れない。
    …じゃあ、あの夜の…赤い顔をした彼は?
    不意に思い出してしまい、ほんの少し顔が熱くなる。
    あんな顔、ずるい。
    あんな顔をするから、彼が私にどんな感情を抱いているのか、分からない。
    私を担当アイドルとしてしか見ていないような彼は、どうすれば、また私にあんな顔を見せてくれるのだろう。
    私に、どきどきするのだろうか。

  • 124◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:41:09

    ふと、まだ下着姿だったことを思い出す。
    こんな格好で何を考え込んでいるのやらと恥ずかしくなり、サッと今日の服を選んだ。
    今日は…変に意識してしまったから、可愛らしい服を選ぶのはなんだか気が引けてしまう。
    マニッシュにまとめて、色味だけは春らしいトーンで、冷たい印象にならないように。
    気恥ずかしさを振り払うようにさっと服を着替えて、お化粧をする。
    今日はオフの日だから軽めのメイクで済ませるけれど、リップだけはしっかりめにメイクしておこう。
    …別に、彼に見られても良いように、なんてつもりでは無いけれど。
    赤、…いや、オレンジが好きかな。
    別に彼は関係ないけれど!

    こんなことをしているうちに、もう8時を回っていた。
    最後に、髪をいつものように巻き始める。
    …彼はもう出発してしまったかしら。
    いや、彼にはずっと振り回されっぱなしなのだし、こんな朝から慌ててあげない。
    それはそれで子どもっぽいかもしれないけれど、彼の前ではできる限り"十王星南"で居たいから。
    恋のせいでアイドルとしてだらしなくなったとは思われたくないから。
    私は彼と対等に支え合い、尊敬し合える関係でい続けたい。
    彼の一挙手一投足にやきもきして、言動に振り回されるだけのパートナーではいたくない。
    …などと独り相撲をしていると、ようやく一通り支度が終わり、部屋を出た。

  • 125◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:41:24

    「あっ...」
    驚いて、咄嗟に言葉が出ない。
    部屋を出ると偶然、廊下を歩いている先輩と鉢合わせたからだ。
    なにが"慌ててあげない"なのだろうか。いとも簡単に慌ててしまっている自分が恥ずかしい。
    けれど…恥ずかしい以上に、こんなことで案外 気分をよくした自分に気づいてしまい、なんだか情けなくもなる。
    挨拶も出ない私の顔を不思議そうに見ていた彼は、ふといつもの仏頂面ではなく、とっても柔らかな笑顔と優しい声色で言った。
    「おはようございます、星南さん」
    その笑顔を正面から見てしまった私は、また心が きゅっと締まる感覚になった。
    反則よ、いきなり、そんな…かわいい笑顔。
    そんな笑顔、私以外に見せては絶対に駄目。

    そんな感覚を覚えたのも束の間、朝から振り回されてどうすると、心の中でかぶりをふった。
    「おっ…おはよう先輩。奇遇ね!」
    慌ててあげない…慌ててない!

  • 126◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:41:37

    ーーー


    先輩はちょうど出発するところだったらしく、玄関まで見送ることにした。
    十王の屋敷で暮らすようになった先輩は、新たに十王家であつらえたスーツをすっかり着こなしている。
    この屋敷で暮らす以上はふさわしい装いをしなさい。ということで、お母様が数着ほど仕立てさせたものだ。
    今日はグレーのスリーピースに黄緑のネクタイで、最近少し暖かくなってきたこの季節によく合っていて、とても素敵だった。

    スーツといえば先輩は以前、私の卒業式に合わせてスーツを仕立てていたのを思い出した。
    その時は珍しくそわそわとしていて、何かいいことでもあったのかと聞いてみると、とっておきのスーツを買いました と嬉しそうだったのを覚えている。
    大事な式典で、トップアイドルのプロデューサーがみっともない格好ではいけませんから、なんて嬉しそうに言っていた。
    そんな彼の顔を思い出すと、なんだか愛おしくなってしまう。
    彼も、プロデュース以外で…特別な買い物をして少し舞い上がってしまうような、そんな子どもっぽいところがあるのね、と。
    彼の少しだけ子どもっぽいところを見られるのは、私だけの特権だと思うと、なんだか私まで舞い上がってしまった。

    私が思い出を引き出していると、先輩はいつもの仏頂面とも違う、少し複雑な顔をしているようだった。
    「…意を決して買ったフルオーダーのスーツと同等のものが、いとも容易く何着も揃うとは…。金銭感覚が崩壊しそうですよ」

  • 127◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:42:01

    ーーー
    「今日は、帰りは遅くなるのかしら」
    玄関まで着くと、彼の前に立って聞いた。
    今日はローヒールだから、いつもより見上げないと彼の顔がしっかりと見えない。
    いつもの調子で彼を見ると、彼の首元がよく見える高さだった。
    少しだけ筋ばっていて、中性的なのに喉を見ると男性だとはっきり分かる。
    「いえ、午後の講義は一つだけです。…少し課題をやりますが、夕方には帰宅しますよ」
    動く喉をちらちらと見てしまう。
    一度意識してしまった私は、彼の低い声とともに動く喉が気になって仕方なかった。
    話しているのだから、目を見なければいけないのに。
    視線が泳いでいたのを誤魔化すように、私は返事の声が少しだけ大きくなってしまった。
    「そ、そう!なら夕食は、あなたの帰りを待っているわね」
    一人でも食べられるから一人で良い…ではない。
    二人のほうが満たされるから、二人がいい。
    そんな気持ちも伝わっていないのか、照れ隠しなのか。彼はいつもどおりの仏頂面で言った。
    「お腹が空いたら、先に食べていて下さい」

    先輩はそう言うと、そろそろ…と出発しようとした。
    けれどその時、よく見ると先輩のネクタイピンが傾いていて、ポケットチーフも少し隠れていることに私は気がついた。
    こういう少し抜けたところが、愛おしい気がする…。なんて、ちょっとひたり過ぎかしら。
    「待って、先輩。せっかくのピンが傾いているわ」
    サッと彼の肩を押さえ、行こうとした体を止めた。
    そのまま私は片手でネクタイピンを外し、ネクタイ自体も少し整えながら、きれいな位置にネクタイピンを付け直す。
    「それにチーフも。きれいな色ね、合っているわ」
    彼の胸元に手を添え、ポケットチーフの位置を直す。
    少しだけ香る、爽やかな小花のような香りは、私が以前プレゼントしたオードトワレ。
    嬉しい。使ってくれていて。
    すっきりとした香りは、清潔感のある中性的な彼にとても合っている。
    けれど、こうして触れていると胸元の固さは彼の男性らしさを意識させた。
    …こうして触れていいのは私だけ。私だけのプロデューサー。

  • 128◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:42:16

    「…あの、星南さん。ありがたいのですが、少し…」
    ふと、彼がそう言うと、私は無意識に彼とほとんど密着していたことに気がついた。
    「ご、ごめんなさい!」
    慌てて離れる。少しだけ彼の胸を押してしまった。
    その程度の衝撃では動じない彼は、最近よく見かけるちょっとだけ難しい顔をして眼鏡を直した。
    やってしまった…。はしたないにも程がある。
    けれど彼だって悪い。無防備で、仏頂面で、そんな可愛いところを見せてくるのだから。
    また顔が熱くなる。
    毎日こんな調子の私を見て、彼は呆れてしまわないだろうか。
    「いえ、直して下さってありがとうございます」
    彼はそう言うと、玄関扉を開けた。

    先輩と一緒に屋敷の外に出る。
    「では俺はこれで。星南さんも今日は休養日ですから、しっかり休んでくださいね」
    朝日に照らされて、よく磨かれた彼の革靴が光っている。
    こうして家族のように見送るのは、なんだか悪くない気分だといつも思う。
    「承知したわ。行ってらっしゃい、先輩」
    さっきまでの顔の熱も引いて、清々しい朝にふさわしい笑顔で見送る。
    「はい、行ってまいります」
    そう言って彼は背を向けて歩き始めた。彼は出発したら、もう振り返らない。
    この瞬間はなんだかとても寂しくて、追いかけてしまいそうになるけれど。
    彼はまた、私の屋敷に帰ってきてくれるという事実が、寂しさを吹き飛ばして安心させてくれる。
    私の両親は、そう頻繁には帰ってこられないから。
    きちんと毎日帰ってくる先輩は、私の日々をより満たされたものに変えてくれた。
    本当に、お兄様みたい。
    ふふっ、これから屋敷ではお兄様って呼ぼうかしら。
    そんないたずらを思いつきながら、私は午前をどう過ごそうかと考えるのだった。

  • 129◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:42:29

    ーーー


    「…なんとか、無事に出られた…」
    ようやく学園に向けて出発した。
    朝、出発前に星南さんに会ってしまったのが運の尽きだった。
    星南さんに会うと名残惜しくなってしまうから、早めに一人で朝食も済ませたというのに。
    同居することこそ星南さんは受け入れてくれたが、元はといえば俺の力不足で起こした事態が原因だ。
    プロデューサーとして信頼してくれているからこそ、強い倫理観をもって臨まないといけない。

    最近の彼女は妙に距離が近く、俺はいつも迂闊な行動を取らないように神経をすり減らしていた。
    今朝も…身だしなみが乱れていた自分の責任だが、ああも接近されてはかえって身動きも取れず…。
    俺の胸元でネクタイを触る彼女は、当たり前のように美しく、可愛らしかった。
    普段とは少し違う中性的なファッションに赤みの強いオレンジのリップをした彼女は、かえってロマンティックな雰囲気を際立たせていたと思う。
    本当に、何を着ても似合う。着こなして、魅力に変えてしまう人だ。

    …いけない、また軽率な妄想をしてしまっている。頭を冷やさないといけない。
    そんな乱れた心で彼女と接していると、また余計なことを言ってしまうだろうから。
    などと言って、まったく気持ちが落ち着かないまま、俺は大学へ歩を進めた。

  • 130◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:42:42

    ーーー


    午後。
    昼食を済ませた私は、千奈からのお誘いを受けてお茶会を開いていた。
    「こうして2人でお茶をするのも、なんだか久しぶりね?」
    先輩が屋敷に来てからは、ばたばたと慌ただしい日々が続いたこともあり、二人きりというのは久しぶりだった。
    「このあいだもお仕事では同行して頂いたのに、そのあとすぐ星南お姉さまが別の現場でお仕事でしたもの」
    そう言って困ったように微笑む彼女は、何年経とうと変わらず、この上ない愛らしさを振りまいていた。
    次の"一番星"はことねか、千奈か。
    私は今も変わらず二人のことをプロデュースしているけれど、本当にどちらが一番星でもおかしくない輝きをもっている。
    この子たちのプロデュースができる私は、本当に幸せ者。

    他愛もない話をしながらお茶をしていると、千奈が何か言いたげな様子なことに気がついた。
    聞きにくいことだろうか?私たちのあいだに、そんな遠慮なんていらないのに。
    「千奈? 何か、聞きたいことでもあるのかしら?」
    千奈を促してあげると、彼女は目を輝かせて、期待に満ちた顔で私の顔を見つめながら言った。
    「星南お姉さま…これは、聞いた話なのですが!」
    千奈の目が見開く。
    まさか、先輩との同居の件が漏れている…?もしそうだとしたら、なんと言って誤魔化す?
    それに、同居だけじゃなく私が先輩に恋…をしたことが知られているとしたら?
    私は焦り始めた内心を覆い隠し、なぁに?なんて余裕ぶった返事をしたところ、千奈は私の目を見たまま言った。
    「星南お姉さまのプロデューサーさんが、星南お姉さまにプロポーズしたというお噂は本当なのでしょうか!」

  • 131◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:43:03

    えっ?
    プロポーズ…?
    私のプロデューサーが、私に、プロポーズ…。
    私は完全に硬直してしまい、数秒経ったあとで頭のてっぺんまで真っ赤になっていった。
    プロポーズなんて、私はされていない。
    彼は、プロデューサーとして私から目を離さないと、言っただけで…。
    「しっ…、していないわよ!どこで聞いた噂なの!」
    同居も何もすっ飛ばした噂に混乱した私は、じわじわと顔が熱くなりつつある。
    想定を超えた伝聞の状況で、一体どこでどう話がこじれたのかがまったく分からない。
    すると、千奈は実に楽しそうな顔で言った。
    「いつものテレビ撮影で、番組プロデューサーの方にお伺いしましたわ! それで驚いて、他の方々にも確認しましたの!」
    千奈は次々と恐ろしい言葉を並べ続ける。
    これが事実なら、番組プロデューサーの勘違いから始まり、すでに関係各所に伝播していて…。
    「スタジオで星南お姉さまの手を握り、その場にいる全員に宣言するように『俺はもう星南を離さない。俺がそばにいる』と仰ったと!」
    こんな形で、特大の爆弾になっているということだから。

    意識を失いたくなるくらいには手のつけられない、久しぶりに目を背けたくなる状況だった。
    けれど千奈の興奮は…暴走は止まらない。
    盛り上がった千奈は、畳み掛けるように話し続けた。

    「やっぱり星南お姉さまのプロデューサーさんは素敵な御方ですわ〜! 暴漢に襲われあわやというところに颯爽と現れ、星南お姉さまを助け出しただけでなく、 そのまま星南お姉さまをお姫様抱っこで連れ帰るなんて! 心に傷を負った星南お姉さまの枕元で、安心させるための甘いお言葉をささやき続けるプロデューサーさんに、星南お姉さまは "めろめろ"! しかもプロデューサーさんは星南お姉さまが眠りから目覚めるその瞬間まで、手を握り続けて下さった…と!」
    話し続ける千奈の前で、私は言葉を失っていた。
    どうやら様々な場所で勘違いと脚色を生んでいることに。

  • 132◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:43:23

    そもそも相手だって、暴漢…まではいかない。と思う…。
    颯爽と現れてくれたかは、その、彼は思っていないにしても、私としては、そう言って良いかなと思うけれど。
    お、お姫様抱っこなんてしていないし、彼ならきっと、担当アイドルにみだりに触れるわけには…と言って、してくれないだろう。
    私が絶句していても、言い切って少し落ち着いた千奈は恍惚とした表情だった。
    「はぁっ…これは、"愛"…ですわね、星南お姉さま!」

    千奈の直球な一言に、私の体が熱くなるのが分かった。
    愛と言っても、彼からは親愛しか向けられていないはずだけれど。
    こうして言葉にされてしまうと、あのときの彼を思い出すと、やっぱり彼が私を…というのを信じてしまいそうになって。
    でもそんなのは、私が勝手に想像しているだけで、彼はそんな素振りはまったく見せてくれないから、きっと違う。
    …でも、そうだと、いいな。

    ふと、このままでは以前ことねにからかわれた時の二の舞いになることは明らかだと気付いた。
    これ以上攻め込まれる前に、話を逸らすしかない。
    「あ、愛…かどうかはともかく、脚色が過ぎるわよ。本当に、そんな噂が出回っているの?」
    私が精一杯、平静を装って千奈に問うと、彼女は平然とした顔で私に恐ろしい事態を口にした。
    「スタッフの方々と、ことねさんと、星南お姉さまの使用人たちで情報を持ち寄って総括しましたわ」
    私は、思わず深い溜め息をついた。
    つまりそれは、もうほとんどみんなに知れ渡っているじゃないの!

    赤い顔で溜め息を付く私を、千奈は純粋な目で見つめてくる。
    「先ほどのお話、脚色があったと仰いましたけれど…どこまでが真実なのでしょうか?」
    もう、逃げられない。
    みんな知っている…せめて、正確な情報に置き換えていかなければ。
    彼は、プロデューサーとして、担当アイドルの私を気遣っての発言をしていたと。

  • 133◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:43:36

    「……………助けてくれたのと、手を握っていてくれたのは本当よ」
    思い出して、また恥ずかしくなる。
    もう高校生でもない私が、そんな些細なことで深い愛情を覚えたことを語るのは、やっぱり恥ずかしい。
    「…もう私から離れないっていうのも、何度も言っていたわ…」
    けれど、そんなプロポーズなんかじゃなかった、と思う。
    私が勝手に愛の告白みたいな言葉だと思い込んで、一人で舞い上がっただけ。
    それを言う時の彼はいつも仏頂面で、私をからかうために言っているのかと思ってしまうくらい冷静で。
    いつも慌てふためくのは私だけで、だから彼が私を愛しているかどうかなんて、分からない。

    本当に?
    "あの夜"は?

    そんなの、分からない!
    私が、彼を愛してしまっているのは、もう認めたけれど。
    彼の気持ちが見えたのは、その一瞬だけだから。
    彼が、ステージの上でも、事務所でもない場所で。
    私を…無防備な"何者でもない"私を見て。
    "信頼に背いてはいけない"と言った彼の気持ちは、まだ、分からない。
    彼に恋をした瞬間に思いを巡らせ、私はまた頭のてっぺんまで赤くなっていた。
    悔しいのか愛おしいのか、もう自分の感情も分からない。
    少なくとも、こんな会話をしてしまえば、嫌と言うほど実感してしまうことは確かだ。
    "先輩のことが好きだ"と。

    私が茹で上がった顔をしている様子を見た千奈は、その愛らしさを全開にした満面の笑みで私に言った。
    「ふふっ♪大事なところは、ぜんぶ本当なのですね♪」
    千奈は今日、なんだか意地悪だ。
    どうして私の担当アイドルは、みんな意地悪になってしまうんだろう。
    「でもプロポーズなんかじゃ…彼はプロデューサーとして私を支えてくれただけで…私はまだアイドルなのだし、けっ、結婚なんてできないし…」
    言葉がまとまらず、ふにゃふにゃと返してしまう私を見て千奈は、どこかで言われたようなことを私に言った。
    「星南お姉さまは、プロデューサーさんのことは単なるプロデューサーとして見ていらっしゃるのですか?」

  • 134◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:43:46

    単なるプロデューサー?
    そんなことは…ない。それは本当。
    だって私、彼のことが大好き。本当に好きだもの。
    「…翌朝目覚めたとき…私の手を握ったまま眠る彼を見て…私は彼とずっと、ずっと一緒に居られたらと思って…」
    彼となら、永遠に一緒に居たい。彼の言う通り、生涯を共にしたい。
    彼がいない人生なんて、絶対に考えられない。
    もじもじと、熱くなった体をよじりながら、千奈に何かを伝える。
    もう、自分が何を言っているのか分からない。
    「…あと先輩の部屋で、なんでもない私を見た彼が、顔を赤くして…」
    そう、あのときだ。
    「私から目を逸らした彼を見たとき、私は…その、この人のことが、す…好き…って…」
    あのとき決まったの。私が、彼のこと、好きって。
    私の一生の宝物だから、ごまかさないで話した。

    「すっ…素敵ですわ〜〜〜!」
    目の前で千奈が叫ぶ。
    熱くなりすぎてぼーっとした私は、自分が何を言ったのかを徐々に理解していった。
    自分が、赤裸々に、彼への恋を暴露したことを。

  • 135◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:43:58

    ーーー


    少し間が空き、落ち着いて後悔している私を見た千奈が言った。
    「これはわたくし達だけの秘密ですわね♪」
    とっても可愛らしい、意地悪な顔。
    「わたくし、やきもきしてましたの。星南お姉さまがプロデューサーさんに好意を抱いているのは明らかなのに、なかなかお二人とも進展のきっかけが掴めておりませんでしたもの…」
    でも千奈は、からかってくるのではなく、心の底からわくわくと楽しんでいるようだった。
    「あ、明らか…だった?」
    ことねにも言われたけれど、そんなに明らかに彼を追いかけていたのかしら。
    「プロデューサーさんも、星南お姉さまのこと、よく見惚れてらっしゃいますわ♪」
    えっ?
    どきり、とする。
    それが本当なら、私は…。
    私は、どうするのだろう。

    彼のことを想うたび、ころころと表情を変える真っ赤な私を見て、千奈はうっとりとした表情で両頬に手を当てる。
    「恋する星南お姉さま…かっわいいですわね♪」
    やっぱり、千奈も意地悪だ。

  • 136◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:44:11

    ーーー


    慌ただしいお茶の時間もお開きとなり、千奈と玄関まで向かっているとき。
    私たちが玄関に辿り着く前に、扉が開いた。
    「あっ…星南さん、ただいま戻りました」
    入ってすぐ私に気付いた彼は、私の顔を見ていつもの顔で帰宅を告げる。
    今日、二度目の出会いだ。
    さっきの話で、彼への想いがふわふわと浮ついてしまっていた私は、嬉しさを隠せずに彼のもとへ足早に歩み寄った。
    「先輩!お帰りなさい。思ったよりも早かったのね?」
    また、先輩に会えて嬉しい。
    朝とは少し違う、柑橘系のような、エキゾチックな香り。香水の香りの変化が、彼の過ごした時間を感じさせる。
    髭のない彼の顔を見ると、ほんの少しだけ疲れを覗かせている。
    ほんの少しだけオイリーな髪も、彼を労ってあげたいという自分の気持ちをくすぐるだけだった。

    「課題が想定より早く終わりましたので、早々に切り上げました…が」
    いつもの仏頂面…ではなく、少しだけ動揺した顔で言った彼は、私の後ろを見ている。
    その瞬間、私は自分が浮かれてしまって、隠さないといけないことを何も隠せていないことに気付いた。
    「千奈! これは…!」
    振り返ると、千奈はもうこちらを凝視して、先程の会話を反芻しているところだ。
    「お帰り…なさい…?星南お姉さま、やっぱりプロデューサーさんと婚約されたというのは…?」
    思いつく限りの最悪の勘違いをした千奈に、私は必死に言葉を選んで弁明する。
    婚約したから同居したんじゃない。これはお父様が勝手に…。

    「ちがっ、これは、お父様が、勝手に先輩の同居を指示して…」
    そこまで言ったところで、千奈は顔を赤くして舞い上がった。
    ああ、これは間違いなく勘違いをした顔だ。
    私はもう、これ以上取り繕うことはできないと観念して、冷や汗を流す先輩から必死に目を逸らす。
    もう顔の熱なんて取れやしない。お風呂で水を浴びたい気分だった。
    「おじさま公認の同棲ですの〜〜〜!?」

  • 137◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:46:13

    ーーー
    「すみません、タイミングが悪く…」
    倉本さんが帰られたあと、今なお呆然としている星南さんに謝罪した。まさか、こんなに早く知られてしまうとは。
    「もう、いいのよ…。千奈に隠し通すのは無理があると思っていたもの…」
    星南さんは色々と諦めた表情で、乾いた笑いを見せている。
    …でも、よかった。問題視され、ここを出るように言われてしまっては、今までの苦労も水の泡だから。
    星南さんから離れなければならないという、最悪の事態だから。
    俺は、穏便に終わったことに何よりもほっとして、心のなかで胸を撫で下ろした。

    「では、着替えてまいりますので」
    そう言ってこの場を抜け出そうとすると、星南さんが俺のスーツの袖を引っ張った。
    星南さんは俺の目を見ている。じっと、何かを見つけ出したいように。
    いつもより赤み強いのチークだろうか、なんとも可愛らしく見える。
    星南さんに見惚れるように黙っていると、彼女は少しだけ くすっと吹き出した。
    「ずるい人。私ばっかり」
    彼女はそう言うと、踵を返して私室の方へと向かって歩き出した。
    俺はなんとも釈然としない思いで、彼女に後ろから声を掛ける。
    「すみません、その…どちらとも、どういう意味でしょうか…」
    そう問うと彼女は、足を止めて振り返る。
    そして、とびきり可愛らしく、いたずらな笑顔で彼女は言った。
    「プロデューサーならアイドルの気持ち、分かるでしょう?」
    そうして彼女はまた歩き始める。

    まいった。本当に。いま自分が抱えている課題を的確に言い当てられてしまった。
    きちんと分かる日が来るだろうか?
    もしかすると、最後まで分からないで終わってしまうかもしれない。
    でも、絶対に曖昧に終わらせたりはしない。と心に誓う。
    それはきっと、十王星南のプロデューサーとして、彼女を支えるために生きると決めた人間として、果たすべき責任だと思うからだ。

    一人そんな決意をした俺は、とぼとぼと自室に向けて歩き始めた。

  • 138◆0CQ58f2SFMUP25/02/25(火) 18:50:09

    千奈短編 -完- です、お目汚し失礼しました!
    ストック的にもスレの長さ的にも、これで一旦最後になりますので、以後保守は不要です!

    まだまだ書いてみたい砂糖話はあるので、いい感じに書けたらまたスレ立てたりしようかなと思います!
    砂糖吐きからお付き合いくださったみなさん本当にありがとうございました!

  • 139二次元好きの匿名さん25/02/25(火) 19:45:01

    あとは飲酒編か…新スレかピクシブに上がるの待ってるよ…

    というか倉本千奈18歳ってエッッッッッッッッッッッッ

  • 140二次元好きの匿名さん25/02/25(火) 20:38:52

    素晴らしいです…
    本当に素晴らしいです…

オススメ

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています