- 1二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:03:32
- 2二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:03:51
時間というのは恐ろしいものだ。どんな人間でも時の流れには逆らうことができない。
それは例えば老い、例えば記憶の忘却、例えば――
――枷を壊すほどに想いを積み重ねることであったり。
ステージの上でアイボリーの髪が舞う、細い腕の振りに合わせて衣装がふわりとはためく。
会場に詰めた観客は一言も発さずそれを目で追っていた。彼女が左に揺れれば左に、右に揺れれば右に、まるで犬が好物を見せつけられているかのように。
満ちる静寂さに反して彼らが溜め込む熱気は目に見えてしまいそうなほどで、しかし彼女が躍るステージだけは清涼で神々しさを湛えていた。
歓声のないライブ。
アイドルとしてありえない光景だ。きっと録画した映像では彼女の魅力の一分も伝わりはしないだろう。
しかし彼女は唯一無二のアイドルだ。誰よりも魅力的で、そして蠱惑的。
多くのファンにとって正しく彼女は偶像といえる。 - 3二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:04:19
カツン、という音に思わず足元に目を向けると、靴の横に誰かのスマートフォンが滑り込んできていた。
おおよその方向に当たりをつけて持ち主だろう男性に声を掛けようとして気づく。
「……あぁ」
恐らくライブを撮影していたのだろう、顔の高さに挙げられた手は何かを握ろうとしたポーズのまま静止している。
眼球が乾いてしまいそうなほど見開き、目尻から一筋の涙を流す彼を見て思う、もう彼女から目を逸らせなくなってしまったのだろうな、と。
これからの彼の生活にはふとしたときに彼女の顔が過ぎるだろう。目覚めのコーヒーを淹れるとき、電車で居眠りしそうになったとき、友人と他愛ない世間話をするとき、暇つぶしにニュースサイトを見るとき、料理を作るとき、うまく寝つけないとき。
彼の尻ポケットに落とし物をねじ込みながら憐れむ。
彼女は劇物だ。見れば見るほど真綿で首を絞められるように溺れていってしまう。しかしそれに気づいたときには彼女の姿が網膜に焼き付いてしまっているのだから避けようがない。
ほら、今も琥珀色の瞳がこちらを捉えている。
あれはいつ俺の心臓を握りつぶそうかと窺っているに違いないのだ。
視線を無理やりに切って腕時計を確認する。もうすぐパフォーマンスの時間が終わる、いつまでも観客気分ではいられない。ライブの後の彼女はろくに動けはしないのだから、色々と備えておかなければ。
人の群れを抜け、控室への道を小走りで進みながら観客のどよめきと会場のアナウンスを耳に拾った。
「い、以上で初星学園三年、篠澤広さんのパフォーマンスを終了します。一度お昼休憩を挟みまして――」 - 4二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:04:44
彼女と二人三脚で歩んだ日々は困難と苦痛に満ち満ちでおり何度ため息をついたのかなんて考えたくもない。でも俺の人生の中で最も幸せな時間だった。きっと、彼女も同様に。
時間というのは恐ろしい。三年という時間がこれほどに濃密で短く感じるものだとは思っていなかった。
結局俺の担当アイドル、篠澤広が一番星になることはなかった。
彼女の同期が強豪揃いというのもあったが、やはりアイドルとしての実力を軸に据えるH.I.Fと根本的な相性が悪かったのも敗因の一つだろう。最後の年、激闘の末の勝者は……いや、わざわざ言わなくてもいいことだ。
しかし彼女は他のアイドルと一線を画しているものがある。それがライブでのファン定着率だ。
ときに”女神”とさえ称される彼女の美貌と目を奪われる退廃的な雰囲気、それを直接目にした観客は一種の狂気に陥る。
現にグッズの売り上げはあの倉本千奈と常に一、二を争うほどだと言えばその凄まじさが理解できるだろう。
倉本財閥をバックにした強烈なプロモーション、そしてなによりも倉本千奈の天性の愛嬌の合わせ技。この強大な武器を持った相手に彼女は対等に戦える。
篠澤広はアイドルとして成功した。 - 5二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:05:07
「――ねぇ、プロデューサー、話聞いてる?」
「……え、ああ、すみません。少し気が抜けていました」
「最近、ちょっと元気ない?なにか、あった?」
「いえ、何も。そんなことより、今度の休日の話でしたよね」
明らかな誤魔化しだ、現に篠澤さんはその細い眉を下げて不審がっている。
しかし彼女は特に言及することなく話題をもとに戻した。俺の態度から本気で触れてほしくないことだと察してくれたのだろう。その気遣いがありがたく思うも俺の良心を抉る。
「……うん、プロデューサーの部屋でライブの録画を見る」
「つい一週間前に来たばかりですよね、最近頻度が増えてきていませんか?」
「だって、プロデューサーもわたしも忙しくなっちゃうから。いま、できるだけ一緒にいたい、だめ?」
上目遣いになった彼女から意識的に目を逸らしながら思考を巡らせる。
今年、彼女は高校三年生、俺は専門大学の三回生。自分たちの将来について真剣に考えなければならない時期だ。
とはいえ二人の間で目標とする事務所は共有している。十王グループのアイドル事務所の一つで、彼女が卒業してから俺の正式雇用までの一年間を、特別なインターンシップという形で篠澤さんのプロデュースに関わらせてもらえるよう学園長にも話を通してある。
しかし学園での生活のように気軽に会いに行けるようにはならないだろう。お互い研修に時間を取られるだろうし、そもそも距離が離れてしまうからだ。
「……理由は分かりましたが、それなら学園内の事務所でもいいのでは?」
「ライブの疲労回復のためには、よりリラックス効果の得やすい環境が必要。具体的には、プロデューサーの部屋にあるふかふかのソファと、手作りの料理」
「貴女は、昔より輪にかけて図々しくなりましたね」
「そういうプロデューサーは断らなくなった。ふふ、似たものどうし」
アイドルとプロデューサーの関係としてこの距離感は正しいのか、いや正しくはないのだろう。週1以上の頻度で部屋に遊びに来るなんて親友か、それこそ恋人のような距離感だ。
彼女が俺に向ける感情はこの三年間でわかっている、はずだ。同様に俺の気持ちも、彼女は察しているのかもしれないが。
ただ、篠澤さんには上辺の綺麗な感情だけを見ていて欲しい。
俺が隠している薄汚い欲望には気づかないでいてくれと願わずにはいられなかった。 - 6二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:05:36
時は過ぎ、今日は篠澤さんと約束した休日だ。外にはしんしんと雪が降り世界を少しだけ静かにしている。まだ積もるほどの降雪量ではないが、今日の夜は相当冷え込むのは間違いなさそうだ。
そんなふうに考えながら暖房のリモコンを操作しているところに、ピンポーンとインターフォンの音が部屋に響く。
無警戒に扉を開けると、焦げ茶色のモッズコートに身を包み、寒さからか耳を赤くさせた篠澤さんが所在なさげに佇んでいた。
「あ、きたよ、プロデューサー」
「ええ、おはようございます。とりあえず上がってください、準備を整えるので」
玄関で上着を預かりハンガーにかけた後、早速と言わんばかりに部屋の中に足を進めようとする彼女を引き留める。
不思議そうに首を傾げる彼女の後ろに回り、髪を持ち上げ手に持ったタオルで丁寧に水滴を拭き取っていく。髪型が崩れないように少量の髪束を掬ってはタオルを優しく押し付ける。
すると彼女はこそばゆそうに身を震わせながら振り返って言う。
「……ぁ。ね、これお姫様になった気分」
「調子に乗らないでください。部屋が濡れて困るのは俺なんですから、当然の処置です」
「そうなんだ」
「はい、そうなんです」
目を細めて笑う彼女は何もかもを見透かしているようで、また俺は目を逸らしてしまう。
まだ雪が降り始めだったからか水滴はそう多くなく、数分のタオルドライで髪は乾いてしまった。
最後にさらりと一撫でして彼女の髪を指で梳かすと、ようやく部屋の中に入る。 - 7二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:06:02
彼女が通うようになってからこの部屋も随分と様変わりしたものだと思う。
雑貨屋でみつけたフクロウの置物、いつの間にか飾られた観葉植物、家具店で一緒に選んだ二人掛けのソファ、彼女のパジャマや生活用品をしまうための小さな収納棚。
必要性のないものも多いが、反論するたびに何かと言いくるめられてしまい結局はこの有様である。
勝手知ったるといった様子でソファに座り込んだ彼女は身体を弛緩させ、ソファの背に体重を預けた。
そのまま無防備に両足を投げ出し、ふらふらと揺らす姿に俺の中で得も言えぬ感情が巻き起こる。
彼女がこうも油断してくれているのは三年間の信頼の積み重ねの結果だろうか、それとも……
俺が益体のない考えに浸っていると、ふと彼女が机の上に乗った紙束を指す。
「あれ、これ引継ぎの資料?遂にわたし、捨てられちゃう?」
「はぁ……わかっていて聞いているでしょう。事務所に所属するにあたり形式上必要なだけです。貴女との関係はこれからもアイドルとプロデューサーですよ」
「そっか」
「それに、偉大な先達に篠澤さんの相手を押し付けるのは気が引けますから」
「へぇ、つまりお前は一生俺のもの、ってこと?ふふ、意外と束縛系」
「……これからはプロとしてやっていくんですから、外でそのような不用意な発言は控えるように」
「わかってる。でもいまは二人っきりだから、ね」
「……」
篠澤広というアイドルを一番輝かせることができるのは、自分であるという確信がある。
一番星を逃し、堂々とトップアイドルを名乗る機会は失われてしまったが、俺たちの挑戦はまだ終わらない。これからも趣味を楽しみ続けるだけだ。
彼女はまだまだ飛躍できる。その思いは先日のライブでより鮮明になった。
今でも思い出せる。彼女の舞い踊る肢体を一心不乱に目で追うファンの静かな熱狂と興奮を――
ちくりと、胸に微かな痛みが過ぎった。 - 8二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 22:07:16
書いたのはここまでです
スレが残れば続きを落とす、かも - 9二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 23:00:07
学P視点でかたる広もいいよね
- 10二次元好きの匿名さん25/03/08(土) 23:11:30
いい味わいだ…!よかったよおおお
- 11二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 02:27:28
素晴らしい!続きください!
- 12二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 11:54:24
保守
- 13二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 20:04:06
『~♪』
「どう?わたしのライブ」
「やはりダンスにはまだ粗がありますね、二曲目の後半ステップが乱れています」
「……ライブが終わったときは褒めてくれてたのに」
「現地でのものと映像のものとでは見え方が変わります。ただ、ファンサなどの技術については着実に向上していますね、場数を踏んできた成果でしょう」
「うん、たくさん頑張った。みんなは喜んでくれたかな?」
「はい、間違いなく」
「なら、よかった」
映像の中の彼女は腕に括りつけられたヴェールを翻しながら激しいダンスパートを踊り終えたところだった。
本来であれば体力が貧弱な彼女に合わせて極力動くの少ない振り付けにするべきなのだろうが、まあそこは篠澤広であるから自身を逆境に置くのは当然の帰結である。
体力不足改善を意識して強度の高いトレーニングをするためにも、プールで心肺機能を鍛えた方が良いだろうか。それなら身体を冷やさないように夏頃に予定を組みたいから少し先の話になるだろう。
壁掛けのカレンダーを眺めながらおおよその計画を頭の中で立てていると、ふとその上に取り付けられた掛け時計が目に入る。時刻は12:21、ちょうどお昼時といったところだ。
「一先ずこのくらいにしておきましょう。お昼ご飯を作るので少し待っていてください」
「今日は何作ってくれるの?」
「そんなに凝ったものは作れませんよ。花海さんから教えてもらった鶏肉のトマト煮です」
「佑芽に……?」
「いえ、姉の咲季さんの方です。というか篠澤さんが特に仲良くしている三人組は全員料理が壊滅的でしょうに」
「仲、良かったっけ?」
「それなりに交流はありますよ、自主レッスンの監督とレシピの提供を取引する程度の仲ですが。言ってませんでしたか」
「聞いてない。もしかして……浮気?」
「なんでそうなるんですか。はぁ、とにかく大人しく待っていてください」 - 14二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 20:04:28
わざとらしくジト目を送ってくる彼女からの視線を遮るようにキッチンに入る。ひとり暮らしの寮部屋なので大した広さはないが、調理器具や調味料は一通り揃っている。
早速冷蔵庫から食材を取り出し、下処理に移ろうかというところで背後からペタペタとスリッパが床を叩く音が近づいてきた。
「なにしに来たんですか、こと調理場において貴女が戦力外なのは自覚しているでしょう」
「何事も、挑戦が大事」
「その結果が通知表に刻まれた家庭科の最低評価だと思いますが。あの、本当に狭いので出てください」
キッチンの唯一の出入り口から徐々に歩を進めて、こちらに迫ってくる彼女に逃げ道を潰される。
やがて少し手を伸ばせば触れられそうな距離まで近づいた彼女は、俺の目を真っ直ぐに見据えて宣言する。
「料理、手伝う」
「いや、邪魔なのでいりません」
「手伝う」
「だから……」
「手伝う」
「……わかりました。ただし、包丁は持たないこと、俺の指示に従うこと、これが条件です」
「うん、それでいい」
目を瞑り、目頭を押さえながらため息をつくと、瞼の向こうで彼女が笑う気配がした。
比較的安全なピーラーでの野菜の皮むきを彼女に指示し、その横で俺は鶏肉を一口大に切りながら考える。
なぜ篠澤さんが急にこんなことをしたのか。直前の会話で出た咲季さんへの対抗心だろうか。それとも俺にもっと構って欲しかったのか。単純に言葉通り、苦手な料理に挑戦したかったのかもしれない。
俺の疑問に対する答えをすべて知っているだろう彼女は隣でじっと俺の横顔を見つめている。
「篠澤さん、手が止まっていますよ」
「……うん」
ぽつり、ぽつりと言葉を交わしながらも俺は結局彼女の方を振り返ることはなかった。 - 15二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 20:04:47
カチャリ、とスプーンと皿が触れ合う音が食卓に響く。
赤く染まった鶏肉を口元に運び、ゆっくりと咀嚼し飲み込んだ。
「おいしい、ですね。信じられません、奇跡が起きたんでしょうか」
「プロデューサーはときどき、わたしのことをすごく過小評価する。レシピ通りに作ればできる」
「なぜ普段からできないんですか?」
「だって、アレンジした方がおいしくできると思うから」
「篠澤さんの腕前でそんなことはありえないのでこれからは普通に作ってください」
「うーん、善処する」
気のない返事をよこしながらも彼女は満足げにその小さな口にスプーンを運んでいる。どうやら口にあったらしい。
偏食ではないが、胃の容量が小さい彼女にとって積極的にたんぱく質が取れる料理は重要だ。改めて咲季さんにはお礼を言っておこう。 - 16二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 20:05:07
「そういえばプロデューサー」
「なんですか?」
「プロデューサーってお酒飲む?」
「急ですね、まあ付き合いで飲むことはありますよ。なぜそんなことを?」
「さっき冷蔵庫を覗いたとき、ビールの缶を見つけた。あんまりイメージなかったから気になって」
「ああ、あれは苦手を克服するために買ったんです。ビールは得意ではありませんが、周りが同じものを頼んでいるなか自分だけ別のを注文するのは気が引けますしね」
とりあえずビールという言葉が浸透しているほど、飲みの付き合いではビールは広く好まれている。
そんな状況で別の注文をして悪目立ちしてしまうのを避けるために苦手克服は必須と言える。
そんな問答を終え、俺が一息つくと彼女は意気軒昂といった様子で語りかけてきた。
「ふーん……ねえ――」
「だめです」
「む、まだ何も言ってない」
「どうせ俺が苦戦しているものに挑みたくなったんでしょう。しかし貴女は未成年です、あと二年待ってください。それと、海外なら大丈夫だったという意見も聞きません」
「さすが、わたしのことよくわかってる。でも、今じゃなくてよかった……」
「ただでさえ健康診断の結果に余裕があるというわけではないんですから、変なことはしないように」
「……じゃあ、プロデューサーが飲んでるとこ、見たい」
未だに好奇心の光を瞳に宿しながら彼女はそう要求した。
なぜそれが彼女の挑戦の代替行為になるのかはわからないが、自分が酒を飲むだけで彼女が満足するなら安い代償だ。
ないとは思うが彼女が好奇心に負けて勝手に酒を飲んでしまうという万が一が発生してしまえば、それこそ監督責任だ。原因が無くなってしまえばそんなことも起きようがない。 - 17二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 20:05:21
肯定の返事を放ち、冷蔵庫から取り出したビール缶をテーブルの上に置く。プルタブを引っ張ると勢いよく炭酸が抜ける音とともに少し飛沫が舞った。
「おお……」
「楽しいですか、これ」
「うん、ここからでもお酒って感じの匂いがする」
「昼間から飲むのはあまり褒められたものではありませんが……」
「大丈夫、その分わたしがプロデューサーのこと褒めてあげる」
「はぁ……」
微妙にズレた彼女の励ましを受けてビールを口に流し込む。
やはりこの苦みはどうにもなれない。ワインの苦味は平気なのだがビールだけは口に合わない。
結局三口ほど飲んで缶を置く。飲み切れると思っていたが厳しいかもしれない。
「どんなところが苦手なの?」
「苦味がきついです。コーヒーとはまた別のなんとも形容しがたいのですが、とにかく舌に残るんです」
「炭酸は平気だったよね」
「はい、なので味が受け付けないんでしょうね」
「なら、好きなお酒はなに?」
「好きな……ウィスキーでしょうか。そういう席でハイボールはよく飲みますし、風味も気に入ってるので」
「ねえ、わたしのこと好き?」
「は、い?」
突然方向が逸れた質問に、知らず泳いでいた視線を思わず彼女に向ける。
そこには薄い胸を張り、勝ち誇った表情を浮かべる憎たらしい担当アイドルの姿があった。 - 18二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 20:05:56
「いま、はいって言った。やっぱりプロデューサーはわたしのことが好き」
「……まさか、このために俺にお酒を飲ませたんですか」
「うん、お酒は人の口を軽くする。パパもお酒を飲んだときは素直にママに好きって言ってた」
「ああ、微妙に知りたくなかった情報をどうも……そもそも俺は酔っていないのでその条件に当てはまらないと思いますが」
「そうなの?」
「三口程度では余程の下戸じゃない限り酔いませんよ」
「ふーん、でもね、プロデューサー」
「なんです」
「耳、真っ赤になってる、よ」
指摘された瞬間、咄嗟に両手で耳を隠す、抑えた耳からじんわりと熱が手のひらに滲んでくるような気がした。
そして目の前でにまにまと笑みを浮かべながらこちらを観察する彼女を見て、先の自分の行動が失策であることを悟った。
「ふふ……嘘。でも、隠したくなる理由があったんだ」
「……仕事をするのでしばらく話しかけないでください」
「ねえ、ねえ、なんでそんなに急いで隠したの?」
「鬱陶しいです、邪魔なので離れてください」
楽しそうに纏わりついてくる彼女を引き離して、食器をまとめてキッチンに早足で逃げ込む。
洗面台に食器を置いた後、缶ビールを冷蔵庫に戻そうとしてピタリと止めた。
そして、缶の淵に唇をつけると先とは違い勢いよく缶を傾けた。とどめる間もなく苦い液体が口内に次々と侵入してくる。
口を離したときには中身は半分ほど減ってしまっていた。僅かに頭に痛みが走ったような気もする。
ただこれほどの酒を一気に飲んだのだから、今俺の顔が赤いのはきっと酔いのせいだろう。
そうに違いない。 - 19二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 20:07:46
完結まであと一幕ぐらいです
- 20二次元好きの匿名さん25/03/09(日) 21:12:49
最高や!おじさんつづきが待ちきれないよ〜
- 21二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:30:30
キーボードの打鍵音とノートを滑るペンの音が不可思議な調和を持って部屋の中を駆け巡る。
つい先ほどひと悶着あったばかりだが俺と篠澤さんはソファに隣り合ってそれぞれの作業に励んでいた。
俺の部屋には机が二つあるが一つは食卓机で、そこで作業をするのはなんとなく行儀が悪い気がして居心地が悪い。よってソファ前の机しか選択肢はなかったのだ。
強いて言えば、彼女との間に挟んだ薄いクッションがせめてもの抵抗といえるだろう。
恐らく彼女の専門だった理論物理の難解な本を前に猫背気味になりながら、ノートにこれまた難解な式を書き連ねていく。その腕の動作や僅かな身じろぎがクッション越しに俺の身体をくすぐる。
時折漏らす悩ましげな声、ソファに押し付けられた衣服の衣擦れ、ふわりと舞うフローラルな香水の匂い。今日は妙に彼女の存在が気になってしまう。
酒の酩酊と合わせてどこか夢の中にいるような、意識が水面に揺蕩うようだった。
だから俺の手の上に冷やりとした感触が乗ったとき、はっと目が覚めるように感じた。
手の上に乗った白く華奢な腕の主を辿ると、そこには心配げな顔をした篠澤さんがこちらを見つめていた。
「やっぱり、プロデューサー最近変。ちゃんと休んでない?」
「すみません、休養は十分に取っています。ただ……」
「プロデューサー、わたしに隠し事なんてしなくていい、よ。全部、話して」
「……いえ、心配せずとも大丈夫です。貴女のプロデュースに支障はきたさないように――」
プロデューサーとして担当アイドルの前では何でもできる魔法使いたれ、そんな先生の教えから俺は酷く遠い存在だ。自分の心を抑えきれずに、半透明なヴェールに隠したそれを見透かされて不安にさせてしまっている。 - 22二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:30:49
己を不足を恥じて、謝るように視線を下げて続けようとした言葉はふいに両頬に置かれた冷たい手の感触に遮られる。
気づけば彼女の身体は彼我の間に挟まれたクッションを乗り越えて、俺にもたれかかるように迫ってきていた。彼女の長い髪から一束分かれて俺の太ももに垂れる。
頬を挟んだ手は普段の彼女からは考えられないほどに力強く、逃げるのは許さないという言外の意が伝わってくるようだった。
「目、逸らさないで」
「なにを……」
「ライブの後から、プロデューサーはずっとわたしから目を逸らしてる。今日もあんまり目を見て話してくれなかった」
「そう、でしたか」
「うん、ずっとこのままは嫌、さみしい。だから、わたしのために話して欲しい」
「……わかり、ました」
彼女の琥珀の瞳があまりに真っ直ぐで、綺麗に俺を映すものだから、肯定以外の返事は出せなかった。
例え俺がどんな想いを吐き出したとしても受け止めてくれると信じて、いや情けなく甘えてしまったのだ。
本当に、強い人だと思う。せめて彼女の覚悟に見合うようにと頬に当てられた手を取り、自分の意志で彼女の目を真っ直ぐに見つめて話し出した。 - 23二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:31:05
「篠澤さんは、可愛くなりました」
「……ぁえ」
「一年生のときから女神と標榜されるほどに美しい外見、それに理外の神秘性を持っていました。年を追うごとに貴女は魅力的な女性になっていった」
「ま、まって、それほんとに関係ある話?」
「あります、なので聞いてください」
「うぅ……」
突然の褒め殺しに篠澤さんは顔を赤くし、今にも顔を俯きそうになっていたが『目を逸らさないで』と自分が言った手前、必死に顔を上げて目線を合わせようとしている。
きっと俺も彼女と似たようなものだろう。耳に集まった熱が逃げ場をなくして脳まで焼きそうになっている。
「これまで貴女はその色香で多くのファンを獲得してきました。それはアイドルとしての成功を意味し、俺もプロデューサーとして誇らしく思っています。ただ、つい先日のライブで俺は我慢できなくなると自覚したんです」
「我慢?」
「はい、俺はアイドル篠澤広のプロデューサーでありながら、貴方を……独り占めしたくなってしまったんです。俺だけが貴女を見つめていたかった」
「えと、それは女の人のファンもだめなの?」
「……正直」
「わぁ……」
「プロデューサーとして篠澤広の魅力が多くの人に伝わったのは間違いなく嬉しいんです。ファンの方たちの声が貴女の背を押していることも知っています。それでも……」
そこで一度言葉を切り、呼吸を整える。
この言葉は呪いだ。彼女の気持ちを知っていて言おうとしているのだから、なおたちが悪い。
それでもきっと、こんな情けない独白を笑って聞き続けてくれる貴女なら、俺一人になんて流されてはくれないだろう。
積年の想いはその重さに反してするりと口から出た。 - 24二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:31:21
「それでも、貴女に恋をしました」
「そう、なんだ」
「はい、そうなんです」
「……目を合わせてくれなかったのは?」
「これ以上貴女を見て好きになってしまったら、自分がどうなるのか分からなかったので」
少し呆然とした彼女の質問に答えるため、捕えていた彼女の手を俺の左胸に当てさせる。
いつの間にか二人の体温は溶け合って、手の温度は温かくも冷たくもなくなっていた。
「俺の心臓の音が聞こえますか」
「うん、すごくどきどきしてる。これが、恋の音?」
「どうでしょう、恋にも種類がありますから」
どちらともなしに口をつぐみ、部屋を沈黙が支配する。
一線を越えてしまった。今までの戯れとは違う、本気で想いを伝えてしまった。
普段彼女の思わせぶりな言動を注意していた俺から境界を破ってしまうなんて、彼女は想像できていただろうか。
失望されただろうか、軽蔑されただろうか。どんな結果になっても、なんて言えはしない。
俺は想いの結実を願ってしまっているし、そんな自分をさらけ出してしまったことに後悔している。
それでも、篠澤さんならきっと。 - 25二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:31:34
「ごめんなさい、わたしはプロデューサーだけのものにはなれない」
「……はい、そう言うと思いました」
「プロデューサーはわたしにとって、大事な人で大好きな人。でもファンの人達もとっても大切。だから、篠澤広を貴方だけに独り占めさせてあげることはできない」
「すっかり、良いアイドルの顔をするようになりましたね」
「ふふん、プロデューサーが育てたんだよ」
「ええ、俺の人生の中で一番困難なことでした」
想いが成就しなかったことに悲しさはある、しかし彼女がアイドルとして一人前以上になったことに対する喜びもあった。
いま俺の心臓が震えているのはどちらの感情によるものだろうか。
それでも、ここは彼女の言うところの『恋の音』を奏でているのだろう。
最近は日が短くなってきた。篠澤さんとお互いに作業をしてから大して時間は経っていないように思うのに、もう太陽が沈んでいく。空の赤さが暗く覆われていき、部屋の中にも大きな影が忍び寄ってきた。
影が篠澤さんの顔にかかる直前、覗いた口元で彼女が妖しく笑ったように見えた。 - 26二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:31:54
「でも、わたしもすごくどきどきしてた。触ってみて」
「は」
油断していたのか、はたまた男の性か、大して力を込めていない彼女の手に導かれて俺の手の甲にふわりと柔らかい感触が当たった。それは先程の焼き増しのように彼女の左胸から鼓動を伝えてくる。
客観的に自分がどういう行為をしているのか理解した途端、素早く彼女の手を振り払った。
「な……正気ですか、貴女!?」
「もちろん、正気、だよ。男の人に触られたのは初めてだったから、ちょっと恥ずかしいけど」
「俺は先程貴女に振られたばかりで……」
「違う。振ってない」
「は?」
彼女は俺たちを隔てていたクッションをぽいと前に放ると、そのまま顔に息がかかるほどの近さで覗き込んできた。彼女の髪がカーテンのようにさらさらと広がった。
僅かに残る夕焼けの赤が彼女の顔にかかって、お互いの顔色がわからなくなる。わかっているのは彼女の唇が弧を描いていることだけだった。
「確かに、アイドル篠澤広は独り占めさせてあげられない。わたしはこれからもアイドルを楽しみたいから」
「なら……」
「でも、それ以外ならいい」
「はい?」
「それ以外の、その、恋人の篠澤広なら独り占めしていい、よ」
「き、詭弁でしょう、それは」 - 27二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:32:47
世間が篠澤広を認識するときそこにはアイドルというレッテルが貼られる。それを視界から外して恋人としてのみ見るなど許されないだろう。
机上の空論とも言えない、ただの暴論だ。結論周りにバレなければいいと言ってるようなものなのだから。
「そうでもない。プロデューサーはわたしがアイドルを始めたとき『天才』ってレッテルを剥がしてくれた。今回も同じ、二人きりのときは『アイドル』の篠澤広はお休みする」
「貴女って結構馬鹿ですよね」
「プロデューサーはわたしが好き、わたしもプロデューサーが好き、だから恋人になる。問題を簡略化しただけ」
「いや……」
「プロデューサーはわたしとキス、したくないの?わたしは……したい」
篠澤さんの瑞々しい唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
年単位で思い悩んでいたことをこんな詭弁で丸め込まれていいのか。一時の情欲に互いに流されているだけではないか。将来を考えるならリスクを何年抱え続けることになるのか。
そんな懊悩を溶かすように彼女の言葉が脳に溶け込んでいく。
「プロデューサーとアイドルの枷を壊すわけじゃない。ちょっとの間外すだけ、また後で付け直せばいい」
「お日様だって夜は目を瞑ってるんだから、わたしたちが恋に盲目になるくらい許してくれる」
「ねえ、初めてはプロデューサーから、して欲しい」
暗闇の中で彼女の琥珀の瞳だけは爛々と輝いていて、俺を引き込もうとしている。
ああ、今、彼女は俺を殺そうとしているんだ。
だって、心臓が破れそうなくらいに、痛い。
夜の帳が落ちたとき、唇を交わしながら俺たちは互いの心臓の音を重ねていた。 - 28二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:33:23
「キス、しちゃったね。ほんとに、しちゃった。ちょっと苦い。これって恋の味?」
「……ビールの味ですね。未成年飲酒もしてしまいましたか」
「ふふ、今日のわたしすごく悪い子。でも、夜だから」
「ええ、夜ですからね」
「……次、わたしからしたい」
「今日は、それで最後ですからね」
時間というのは恐ろしいものだ。どんな人間でも時の流れには逆らうことができない。
それは例えば老い、例えば記憶の忘却、例えば枷を壊すほどに想いを積み重ねることであったり。
ただ時間が過ぎる限り夜は何度でもやってくる。何度でも世界に暗いヴェールをかける。
その中の隠し事の一つや二つ、世界は咎めることはないだろう。
きっと上手く隠し通そう、少しの間世界で一番美しい琥珀を独り占めするために。 - 29二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:51:11
以上です
タイトルの元ネタは楽劇サロメの七つのヴェールの踊りから、なんとなく光景広の衣装に似てたような気がするので
最後のキスシーンの台詞以外はほとんど原型ないですけど、ファムファタルが登場するところは一緒ですね - 30二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 01:54:59
- 31二次元好きの匿名さん25/03/10(月) 03:42:04
ありがとうございます!
ありがとうございます!
素敵な作品をありがとうございます!