【SS】エアグルーヴと走らないウマ娘

  • 1二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:15:01

     午後、学園の外は生徒でにぎわう。皆、こぞってトレーニングを行うからだ。私もそうだった。冷たくそよぐ風を正面に受け歩いていた途中、気になる生徒を見つけた。長髪で、コース脇にただ立っているウマ娘。
     普段なら気にしなかった。だが、なぜだろうな。一切コースに入らないのに、走っている他の生徒を見ている彼女を、放って置けなかった。
    「走らないのか?」と声をかけると、彼女はこちらに振り向く。しばらくして口角を上げた。そして、再びコースに目をやる。
     いつも通り、はしゃぎながら走る後輩達。真剣な眼差しで競り合う先輩方。何人もの姿がそこにある。それを、彼女はただ見つめていた。
    「あの中に、友人でもいるのか?」私の問いに、彼女はうなずく。「なぜ、一緒に走らない?」今度の問いかけに、彼女は困ったような顔をした後、視線を戻す。先程から一切口を開かない彼女に、少し苛立ちを感じるが、それ以上は気にせず、私もその場を後にした。

     その後も、度々彼女の姿を見た。ジャージに着替え、長い髪をなびかせているが、コースには入らず、見ているだけ。時折何かをメモしているが、大人が近くにいるわけでもなく、ただ他の生徒が走る様子を見つめていた。
    「走りたくないのか?」彼女の後ろから、前とは違う問いかけをしてみる。彼女は肩を跳ね上げた後、私の方を向いた。そして、口をへの字にしたままうつむく。しばらくして、ゆっくりと首を横に振った。「友人を応援したいのか?」今度もまた苦い顔をしたが、すぐにはにかんだ。そして、手元のメモに何かを書き、それを私に見せた。

    『私、サポーター志望なんです』

     ウマ娘と言えど、レースに挑戦しない者もいる。中央では少数だが、初めからトレーナーやコーチ志望として専門知識を学べるコースもある。彼女も、そういううちの一人なのだろう。今までのことも、彼女なりにトレーニングを見て勉強していたとするなら、納得できる。だが、なぜ彼女はしゃべらない……もしくは、しゃべれないのだろうか?

  • 2二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:15:25

     そんなことを考えていたら、ふとベンチにあるノートに気付いた。「お前の物か?」聞くと、彼女はうなずく。それを手に取り、ページを開く。そこには、一人のウマ娘の名前と、大量の文字列が並んでいた。どれも、そのウマ娘の走りを分析し、強みや弱み、改善点を書き連ねている。並みのトレーナーでも、ここまでの情報量を留めておけないだろう。
    「これ、お前一人で書いたのか?」その問いかけと同時に、彼女はコースの方へ小さく手を振り始めた。視線の先を見ると、コースの対岸から大袈裟に手を振る生徒がいる。
    『友達なんです。ここでできた』彼女は再びメモを見せてくる。ニコニコと笑っている顔は、晴れやかに見えたが、何か引っかかる。

    「どうして、一緒に走らない?」
     彼女は目を丸くした。
    「分析はさすがだが、共に走ることで得られることもある」彼女はそのまま十秒ほど固まった後、ゆっくり首を振った。そして、小走りでコース内へ入っていった。対岸までたどり着き、友人であろう生徒と何かを話している。

     やがて対岸の生徒達は一列に並び、そして一斉に走り出した。どの生徒も、まだデビュー前なのだろう。その走り方には未熟さがあった。彼女は、そんな様子をじっと見つめている。一同がゴールインすると、彼女はメモを走った生徒達へと見せる。それを見合いながら、生徒達はうなずいたり肩を叩いたり、盛り上がっているようだった。

     その日のトレーニング後、日が暮れたコースで一人、走っている影を見かけた。辺りも暗い中、明かりの下を通るその姿を見て、驚いた。その正体が、彼女だったのだ。そしてさらに驚くことに、彼女は普通に走れている。それどころか、フォームがとても整っている。あの生徒達と同等か、もしかするとそれ以上かもしれない。
    「なぜだ? お前はあの時、なぜ走らなかった?」走っている途中、コース外から声をかけると、彼女の体は跳ね上がった。そしてこちらの顔を見るや否や、一目散に走ってコースを飛び出す。その脚は速く、トレーニング後の体力では追いつけなかった。



     彼女の様子が気になり、業務の間に彼女の素性を調べた。といっても、在籍するクラスから名前を割り出し、会長に聞いただけだが。会長も彼女のことは気にしていたようで、色々と知っていた。

  • 3二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:16:22

     彼女は地方から転校してきた生徒らしい。家庭の都合でこちらに引っ越してきたため、中央に所属することとなった。だが、二ヶ月後には再び引っ越すため、別の地方に移るそうだ。

     そして、彼女が話せない原因も、走らない理由も、同じだった。幼少期の頃、ウマ娘同士の徒競走で転倒し、大ケガを負ったからだ。周りに囲まれたことで姿勢を崩し、頭を蹴り上げられ、腕と足を骨折するという事態になった。幸い重症にはならず、骨折も完治した。しかし、再び走る場に立った時、動悸や過呼吸が起きて走れず、辞退。その日以来、彼女は走ることも、しゃべることもしなくなった。過呼吸が起きたところを見た人間は、彼女が何かを言おうとしているように見えたようだが、結局何を言おうとしていたか、誰もわからない。

     話を聞いた時は、絶句した。彼女が抱えている恐怖心は、私の想像を絶するだろう。だが、私には、彼女が走ることを諦めているようには見えなかった。それに、光る物があるのも事実。彼女がこのまま走らないのは、勿体ないと思った。だから、私はある決断をしたのだ。

    「今日の昼休み、校舎裏に来い」授業の合間に彼女を見つけ伝えると、彼女は目を丸くした後、小刻みにうなずいた。

     そして、約毒通り、彼女はやってきた。不安そうな顔を浮かべながら。
    「アネモネという花を知っているか?」私が尋ねると、彼女は静かに首を振った。「春に咲く花だ。今はまだ咲かない」私が指差した先には、花はおろか、つぼみすらまだ無いアネモネが何本も生えている。以前、後輩達と植えたものだ。
    「花は、一年で生涯を終えるものも多い。が、アネモネは球根がある。一度枯れた後、苛烈な暑さを耐え忍べば、再び咲き誇れる。しかし、冬の寒さに強いわけでもない。日当たりが良い場所を選ばないと、花をつける前に枯れてしまう。水やりはもちろん、肥料も随時追加しなければならない。手入れをする者がいないと、十分に育てない」私の説明に、彼女は首をかしげている。気にせず、花壇端の枯れかかった一本を指差す。

    「このアネモネが、今のお前だ」そう言うと、彼女もその一本を見た。「夏の暑さを越え、今は冬の寒さにさらされている。このままでは本当に枯れてしまうだろうな」しゃがんでじっと見つめる彼女に目線を合わせ、肩に手を置く。

    「友人のトレーニング後、私のところに来い。私が、お前を走れるようにしてやる」

  • 4二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:17:01

     その日、私はトレーニング後に彼女の走りを見た。彼女も不安そうにしていたが、普通に走ってくれた。他に誰もいない、暗くなった土の上を走る彼女は美しかった。「悪くない。デビュー前の者に引けを取らない。明日も見せてみろ」走り終わった彼女にそう伝えると、彼女は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、こくりとうなずいていた。

     二日目には、マイルの距離を走らせてみた。疲れや息切れはあるものの、タイムは悪くない。走ることを避けてきた者のタイムとは思えない。いや、もしかすると、一人で走ることは続けていたのかもしれない。他のウマ娘がいるレースを避けてきただけで。
     そのタイムを見せると、彼女は瞳を輝かせ、口を開いて笑った。初めて見た、彼女の満面の笑み。小さくガッツポーズをし、体をうずうずさせている。誘ってみて正解だった。

     三日目は、私との併走を行った。彼女には、私よりも速いスピードを維持するよう伝えた。序盤から先行する走り方だ。もちろん、私は本気で走ったわけではない。デビュー前の彼女と私とでは、実力差がある。それに目的は彼女が走ることに慣れることだ。私が勝っても仕方がない。測ったラップタイムに合わせ、私は走った。
     だが、この日の彼女の走りは、前日のそれとは全く違ていた。私が近づいた途端、ペースを上げるものの、終盤は完全に失速していた。簡単に追い抜かせてしまった。彼女も前日より表情が険しく、息切れも長く続く。

     四日目、今度は私が先行し、彼女が差す形になるようにペース配分する。しかし、彼女が私を差すことはなく、そのままゴールしてしまった。
     原因は明らかだ。他のウマ娘がいると、彼女は実力を発揮できない。過去にケガをした体験を、今も引きずっている。そうとしか考えられない。どうにかこの問題を解決できないかと、私は考えた。
     というのも、私は心の中で『彼女が模擬レースで勝つこと』を目標に据えていた。トゥインクルに挑むわけではなくとも、彼女にとって良い経験になる。だから、一人で走ることを極めるのではなく、誰かと走ることを上手くなって欲しかった。

     五日目、この日は走りを見るのではなく、彼女の基礎体力を鍛えた。先日の走りから、併走を続けるのは負担が大きいと考えたからだ。こうして振り返ると、私はトレーナーのようなことをやっていたな。

  • 5二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:17:41

     休日、私は彼女がレースでもポテンシャルを引き出せる方法を考えた。一人で走る方が得意。その姿勢は、スズカを思い出させる。スズカも、先頭を一人で走り切るのが好きで、最初から飛ばして走るタイプだ。

     一つ、案が浮かぶ。彼女も、スズカのように逃げ切ればいい。そうすれば、他のウマ娘を見ないで済む。誰かに囲まれることもなく、一人で走る感覚に近い状態を維持できる。
     だが、これは大きなリスクも抱えている。逃げるウマ娘に降りかかる宿命。見えない相手を意識させられることだ。そのプレッシャーはおそらく、相手が目に見えている時よりも大きい。スズカはそれを気にせず走るが、周りが怖い彼女が、同じように走れるとは思えない。逃げ切れる自信があるなら、話は変わるかもしれないが。
     かと言って終盤に差す走り方も、彼女には難しい。バ群に飛び込むこと自体が、彼女の恐怖心を煽るだろう。

     となれば、取れる方法は一つ。大外から差す。逃げをせず、囲まれることを避けるのなら、これしかない。だが、大外から差すには途轍もない速力と体力がいる。終盤までに開いたリード差を縮めるために、他のウマ娘より長い距離を走るしかなくなるからだ。それに、前方のペースに合わせて走る必要もある。自由気ままに走ることは、できなくなる。彼女にそこまでの瞬発力やアドリブ力があるようには見えない。だが、これしかない。鍛えるしかない。

  • 6二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:19:03

    「二週間後、デビュー前の生徒のみで行う模擬レースがある。そこに参加するぞ」
     翌週のトレーニング日、日が暮れた頃にまた彼女を呼び出し、そう伝えた。彼女は何度かまばたきした後、自身へ人差し指を向ける。「ああ、お前が走るんだ」私がそううなずくと、彼女は両手と首を、しきりに振る。
    「この二週間、お前の走り方を矯正する」そう言うと、彼女は咄嗟にメモを書き、見せてきた。
    『私にはできません。こわいんです』
    「知っている。だが、そんなお前でも勝てる方法はある」そう言った時、タイミング良く二人の後輩がコース内に入ってきた。
    「今日は四人で走る。そして、お前は私達を大外から抜くんだ」再び、両手を左右に振る彼女。そんな彼女の腕を引き、横一列に並ぶ。「位置について、よーい……」後輩のかけ声と共に、真っ直ぐ前を向き、構える。


    「ドン!」その合図で、一斉に走り出した。私や後輩達が先行し、彼女一人を置いてきぼりにする。少々強引なやり方だが、後方からも足音が聞こえる。彼女は走っている。
     そして、トラックを一周しそうになったその時、視界の右端に素早く動くものを捉えた。彼女だ。彼女が、私達より先に、一周し終えた。わずかな差であったが、確かに彼女が一着であった。

    「やった……やれるじゃないか!」
     肩で息をする彼女に近づく。彼女も、こちらに笑顔を向けてくれたが、その顔にはどこか、陰りが見えた。まだ恐怖心があるのか、ここ最近の走りで疲れが溜まっているのか。彼女はなんとか歩き、ベンチに座り込んだ後、メモに何かを書く。それを両手でこちらに向けた。

    『私、やれるんでしょうか?』不安そうに、私を見つめる彼女。

    「やれるさ。絶対に、お前を勝たせてみせる。私の経験則も、全部伝えよう」
     それを聞き、彼女はまた笑顔になった。再びメモに書くと、今度はそれをベンチに置いた。そして、ノートの方を持ち上げ、何かをたくさん書きこんでいた。置かれたメモを覗く。『ありがとうございます!』と書かれた横、ピースしている手が描かれていた。こういう方が、本来の彼女の性格なのだろうか。

  • 7二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:19:20

     その後も、体力強化とレース練習を繰り返した。課題は色々あったが、彼女は飲み込みが早く、どんどん改善できていく。ここまで走りを分析し続けてきたからだろう。最終的に、一人で走る時のタイムは、デビュー時の私と同等まで迫っていた。しかし、それを併走でも維持できているとは言えない。勝利には確実に近づいている。だが、まだあと一歩、届かないかもしれない。

     そして、ついに前日のトレーニングも終了した。やはり、一人の時のようには走れていないが、最善は尽くした。これ以上できることも無い。ドリンクを抱え、寮に向かって歩き始めると、後ろからジャージの裾を引っ張られた。
    『私、勝てるでしょうか?』薄暗い中、彼女が見せてきたメモを見て私は、即答できなかった。嘘は着きたくないが、彼女にとって必要な言葉がそうじゃないことくらいはわかる。

    「花、しばらく見ていなかったな」



     私は彼女を花壇へ連れて行った。日が沈み、暗くなった空の下、彼女と歩いてまわる。目を凝らさないと見えない中、難なくアネモネの花壇にたどり着いた。
    「前にも言ったな。枯れかかった一本が、今のお前だと」
     花壇端をスマホのライトを照らすと、そこには青々とした葉と、紫色のつぼみがあった。「しかし、枯れなかった。この一本はまだ、お前のままだ」
     紫のアネモネの花言葉は、「信じて待つ」。彼女の方を見ても、どんな表情をしているかはわからなかったが、その手には力が入っていた。両方を握りしめ、顔をこちらへ向ける。

    「咲かせるぞ。この花を」そう伝えると、力強くうなずいてくれた。

  • 8二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:20:20

     

     いよいよ迎えた、模擬レース当日。七人のウマ娘が、千六百メートルを走る。デビュー前のウマ娘には、少々厳しい距離だが、彼女は既に何度も走り切っている。
     彼女の友人も応援に来ていた。柵の外、何か言葉を交わしている。私はそれをじっと見ていた。友人と話し終えると、彼女は私のところに向かってきた。そして、メモを手に取り『勝ってくる!』と伝えてきた。
    「大丈夫だ。お前は強い」そう言って背中を叩くと、彼女は笑顔でカクカクとうなずき、メモをベンチに置いてからコース内へと入っていった。

     七人のウマ娘が一列に並ぶ。彼女は体をほぐした後、前を一心に見つめて腕を構える。スタートラインの両端に立つ教官が、大きく旗を振り下ろし、一斉に駆け出した。

     展開は先頭が一人、その後ろに三人、さらに後ろに二人続き、彼女は最後方に控えている。ペースを落とすことなく、乱れも無い走りを見せている。順調な走り出しだ。

     およそ四百メートル通過。前との差を維持できている。この走りが続ければ、問題は無い。

     六百メートル通過。前のバ群で、順位の変動が起こる。全体的にペースが上がっている。彼女も、遅れを取らないようにペースを上げる。

     八百メートル。半分を過ぎた。先頭の生徒が、スパートをかけ始めた。速度がみるみる上がる。既に、彼女とは十バ身以上離れてしまっている。

     この時、彼女の顔が見えた。今まで見てきた弱気な表情や、穏やかな顔つきではない。競技者の、戦う者の顔をしていた。鋭い目は一切視線を逸らさず、ひたすらに前を見つめている。口元をかすかに開き、そこから息をしているのだろう。前髪が左右に揺られ、前後に振る腕は風を切る。一歩一歩、着実に、長く伸びる足。今の彼女の姿は、間違いなく、トゥインクルに挑むウマ娘の姿そのものだ。

  • 9二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:20:48

     千メートル。バ群の生徒達が、こぞって前に出ようとする。しかしその速度は拮抗し、横に広がっていく。もしあの中を走っていたのなら、彼女は沈んでいただろう。だが、実際は違う。彼女はこのカーブで、外側にふくらんでいる。速度を維持したまま、いや、速度を上げながら。作戦通りだ。このまま最終直線へ持ちこめば、横のウマ娘とは離れつつ追い抜かせる。行ける。これなら。

     千二百メートル。ここで変化が起きる。彼女が、踏み込み始めた。上がる、上がる。足の回転が速くなり、それまでも十分だった速度が、さらに上がっていく。しかし、そのフォームはどこかぎこちなく、空回りしているようにも見えた。不安が、胸の中に渦巻く。だが。

    「勝て! 勝てぇ!!」

     彼女が目の前を通る寸前、私は大声で叫んだ。もっといい言葉があったかもしれないが、ただ必死に、この言葉を叫んだ。

     千四百メートル。ここで抜かさなければならない。先頭のウマ娘は既に失速し、バ群より後方へと沈んでいった。彼女はと言うと、バ群には届いている。内枠で競っている二、三人と並行になるも、彼女の周囲には誰もいない。絶好の好機。これ以上ない、彼女の独壇場。あとは、初めての実戦の場で、彼女の体力がどれほど保つかにかかっている。

     千五百メートル。残り百メートル。腕の振りが大きくなる。足を踏み込む位置にが乱れる。いつもの走りが、フォームが崩れていく。しかし、それは力を籠めていることの証拠に他ならない。諦めてない。彼女はまだ勝てる。勝てるのだ。まだ。まだ……!
     
     
     

  • 10二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:21:29

     そこからは、あっという間だった。

     最初にゴールラインを突っ切ったのは、バ群の中にいた一人だった。次に、そのウマ娘と拮抗していた二人がゴールした。彼女はと言うと、結果は六着。走り方が乱れて速度が落ちたからか、それとも周りがトップスピードを維持し続けたからなのかはわからない。だが、模擬レースで勝つことは、ついに叶わなかった。

    「おめでとう! すごいじゃん! 久々に走って、現役生にこれだけ追いついて! めっちゃいい勝負だったよ!」友人が、走り終わった彼女に近づき、はしゃいでいる。対して、彼女は息を切らしながら、ペタリと座り込む。その顔に笑顔など無い。そんな余裕も無さそうだった。

    「あ……あ……」
     急に、聞いたことのない声がした。小さかったが、誰の声かすぐわかった。口が、動いていたから。
    「ああ……うああ……うわああああ…………!」
     肩を震わせ、体を絞るように、声を上げる彼女の目から、光るものが流れる。彼女はそれを手に取ると、唇を噛みしめる。そして、せきを切ったように、泣き始めた。泣き、叫び始めた。周囲の生徒は、その様子に皆驚いていた。

     初めて聞いた、彼女の声。それは、友を応援する声でも、気合を入れるためのかけ声でもなければ、夢が叶った歓喜の声でもない。夢が破れた時の、夢が砕け散った時の悲鳴だった。

     私は視界が揺らぎ、ついには膝から崩れ落ちた。そのまま、動けない。立ち上がれない。手が、足先が、血の気が引いたのか、ビリビリする。

     別に、私が負けたわけではない。負けて落ち込む後輩を、過去に見たことだってある。私自身、負けたことだって、ある。だが、どうしても、彼女の負けが、たった一度の負けが、どうしようもなく悔しく、虚しくなった。取り返しのつかないことが起きてしまったような気がして、後悔と虚無感に襲われる。ああ、そうか。彼女が走れなくなった時も、こんな衝撃が彼女を襲っていたのだろう。だから彼女は……。

     その日は、私も彼女も落ち着いてから、帰路についた。その間、どういう言葉を交わし合ったか、よく覚えていない。

  • 11二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:22:25

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  • 12二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:23:51

     
     
     あれから、トレーニング後に彼女と会うことはなくなった。彼女の方から来なくなった。校舎内ですれ違うことも無かった。だが、時折コースで見かける彼女は、前以上にメモやノートを多くとっていた。そんな姿を見ると、また誘おうとは思えなくなってしまった。

     そんな風に過ごして一ヶ月。三月だというのに、夜中に雪の降った日だ。よく覚えている。
     業務に追われて忘れていたが、彼女が再び地方へと引っ越す日だった。会長に言われて思い出し、すぐに彼女を探す。このまま、何も言わず別れるわけにはいかない。至る所を探し、道行く生徒全員に声をかけて周った。
     十五分ほど校内を走り回ったものの、どこにも見つからなかった。仕方なく生徒会室へ向かう。校舎に上がり、普段通り廊下の角を曲がった時、見覚えのある長髪が見えた。

    「探したぞ」
     私の声に彼女は肩を跳ね上げる。その所作が、なんだか懐かしく感じる。そして、私の方を振り返り、肩をすくませた。
    「お互いに、同じことを思っていたわけか」
     そう告げた後、私は考える。私が伝えるべきことは何か、私は何を言いたいのか、自分の頭の中を探す。さようなら、ありがとう、元気でな、また会おう……どれも違う。私が言いたいことは……。

    「私の、エゴだったのかもしれない」
     しばらく考えて、ようやく出てきた言葉がこれだった。

    「私が、お前を走らせたいと、勝たせたいと、勝手に思い、押し付けただけだったかもしれない。だが、走るだけが人生じゃない! お前の進む道もまた、正しい道だ! お前は……」
     そう言う私に、彼女は笑顔で首を横に振る。そして、ポケットからメモを取り出し、しばらく何かを書いた後、それを私に見せた。

    『違います。先輩が私の夢を叶えてくれたんです』
     数秒してから、彼女はメモをめくる。

    『私がもう一度、走ることを』

  • 13二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:24:30

    「違う! 私は……!」
     手に力が入る。爪が、手の平に食い込む。
    「私は、無力だ。お前にしてやれることなど、何も……」
     握った拳を開くと、彼女は再度、メモをめくり私にかざす。
    『トレーニング、やめてしまってごめんなさい。そして』するとここで、彼女はメモをポケットにしまう。 



    「あ……」
     しばらくして、急に声が聞こえた。信じられなかった。

    「あ、ぃ、り、が、ぅぅ、と、う……」

     しゃべった。彼女が。今まで、一言もしゃべらなかった彼女が。しゃべれなかった彼女が。言葉を、発している。

    「エア、グ、ウー、ヴ、せん、ぱ、い」

     言い終わると、ほっとしたかのようなため息をつく彼女。そして、満面の笑みを浮かべ、深々とおじぎする。

     泣くことは無いと思っていた。たった数ヶ月の付き合いだ。永遠に会えなくなるわけでもない。なのに、体が言うことを聞かない。私の名前が呼ばれた時、思わず、熱が頬を伝う。口元が左右に引っ張られるように開き、上手くしゃべれなくなる。その力と震えに抗い、言葉を紡ぐ。

    「私が、お前の分まで走る。だから……」
     そこまで言った時、彼女の頬にもきらめくものが見え、言葉が詰まった。しかし、ここまで来て悲しい顔はできない。無理やり口角を上げ、笑ってみせた。
    「いつでも、連絡するといい。いつでも、戻って来い。そしたらまた、私が、道を示してみせるさ」
     流れる涙をそのままに、彼女も大きく笑顔を見せ、うなずいた。そして、玄関の方へと向き直り、歩いていく。最後、角を曲がる時にこちらを振り返り、再び深くおじぎをした。そして、私に向かって大きく手を振った。私も、大きく振り返した。

  • 14二次元好きの匿名さん25/03/14(金) 22:25:23

     これが、私と彼女との間であった全てだ。

     思い返すと、ケガが治った後、彼女の言いたかったことがわかった。走る場で過呼吸になった時、彼女が何かを言おうとした話のことだ。あの時、彼女が言いたかった言葉は「走りたい」だったのだろう。しかし恐怖に負け、言うことはできなかった。その思いを、彼女はここまで引きずってきたのだ。

     そしてそれこそが、彼女がサポーター志望になった理由なのかもしれない。自分のような境遇の誰かへ、正しい道を示すために。形は違っても、彼女もまた、私と同じ志を持ったウマ娘だったのかもしれない。

     結局、彼女が走る道に行くことは叶わなかった。私と彼女の出会いもがんばりも、無駄なまま終わったように見えるかもしれない。

     だが、無駄かどうかを判断するのは、彼女だ。そして、私にとっては無駄ではなかった。彼女が走れなかった分は、私が走る。私が勝つ。女帝として、彼女の魂を背負う。そう、心に決められたのだ。

     それに、彼女は決して枯れたわけではない。雪解けの後の花壇には、紫と青のアネモネが並んで咲いていたのだから。

     青のアネモネの花言葉は「固い誓い」。痛みを知りながらも、選んだ道へと進む。私も、彼女も。

  • 15二次元好きの匿名さん25/03/15(土) 08:12:00

オススメ

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