【SS】恋人同士になった星南さんと学Pの初めてのバレンタイン

  • 1◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:41:27
  • 2二次元好きの匿名さん25/03/27(木) 18:42:20

    P星南のエース!待ってました

  • 3◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:43:27

    またちょっと長くなってしまってるので、とりあえず前半部分(いやらしい雰囲気になるまで)を連投していきます!
    ↓↓↓以下連投↓↓↓

  • 4◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:44:06

    2月。 まだ春はどこか遠く、冬が終わりを見せずにいる頃。
    夕焼けが差し込み、茜色に染まった生徒会室。
    私は、一人静かに佇んでいた。

    今日は2月14日。 バレンタインデー。
    人々が愛を伝え合う日に、私は最愛の人を待っていた。
    とっくに卒業したはずの、ここ初星学園で。
    とっくに任期を終えて、今は千奈が生徒会長を務めている、生徒会室で。

    肌寒い空気が頬に触れ、少しだけ冷静になる。
    まったく、もう卒業して二十歳になった私がどうして。
    ……どうして、母校の制服を着てこんなところにいるのか。

    ライブツアーが始まっているのに、髪型まで変えて。
    わざわざ昔を意識して、前髪もつくって、ストレート気味に整えてきた。
    初星の制服は、アレンジしていたものはけっこう着古してしまっていたから、予備で持っていた標準仕様のもの。
    持ち出すのに、少しはらはらしたけれど、体型が変わっていなくて本当によかった。
    こんな恥ずかしいことをしておいて、サイズが合わないなんて情けないもの。

    衣装ではもっと肌を出しているようなものがあるのに、これはなんだか今までで一番恥ずかしい。
    してはいけないことをやっているようで……それに、先輩が気に入るかどうかも、気になってしまう。
    紙袋の持ち手を握る手に、力が入る。
    彼に、とっておきのチョコレートを作ってきたから。 気に入ってもらえると嬉しいな。
    この格好で引かれてしまって、受け取っても貰えなかったら……そんな不安も湧き上がり、そわそわする。
    どうしよう。計画を間違えた?
    でも、恋人になった彼に、なにも隠さず本命チョコです、と渡せる初めてのバレンタインなのだから。
    彼にとって、特別な思い出になって欲しい。
    私との思い出を、また刻んで欲しい。彼の、他の人との思い出を塗りつぶせるくらい。

  • 5◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:44:48

    彼を待つ時間が、ひたすら長く感じる。
    タイムリミットは、千奈たちが生徒会室に戻って来るまで。
    この時間だから、もう会議は開かれないはずだけれど……。
    会長机の上に、チョコレートが大量に入った紙袋を置いてあった。
    きっと、千奈が下級生たちにたくさん貰ったチョコレートの山だと思う。
    いま、講堂で卒業式の打ち合わせが行われているから、そのあとに取りに来るはず。
    だから、日が完全に落ちるまでが、勝負。

    焦る気持ちと、まだ来て欲しくないという気持ちがせめぎ合っている中で。
    紙袋を持つ手が、緊張で少し、しっとりと汗ばみ始めた頃。
    扉を越えて、廊下の遠くから足音が聞こえ始めた。

    聞き慣れた足音。誰の足音かなんて、私になら分かる。
    私が一番聞いて、隣に居て、共に歩いた足音なのだから、分かる。
    私の、いちばん好きな人の足音だ。
    ほら、もうすぐ部屋の前に来る。 その扉を開けたら答え合わせ。

    足音が止む。
    一瞬、躊躇うような間の後、がらがらと音を立てて扉が開かれた。
    扉を開けて入ってきたのは……ほら、やっぱり彼。
    「…………星南さん? その格好は……?」
    私を見て、呆気にとられている。
    一緒にお酒を飲むこともある二十歳の恋人が、学生服を着て待っていたのだから、当然だ。
    でも、今日も見られてよかった。あなたの、そんな顔。
    それだけでも、勇気を出した甲斐があったもの。


    ―――

  • 6◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:45:07

    バレンタインデー当日、夕方。
    星南さんに呼び出された俺は、生徒会室を訪れていた。
    プロデューサー科の講義が終わったら生徒会室に来いと言うので、一体何事かと思っていたものの。
    いざ生徒会室の扉を開けると、初星学園の制服を着た星南さんが立っているのだから、動揺が隠せない。
    なぜ、制服? しかも、星南さんが着ていたアレンジされた制服ではなく、初星学園の標準制服だ。
    「……その格好は、どうされたのですか?」
    とにかく状況に理解が追いつかない。当人に聞かなければどうしようもなさそうだ。
    ひとまず扉を閉め、ゆっくりと彼女のそばに歩み寄る。

    星南さんは髪型も普段とは異なり、ストレートヘアに近い状態だ。
    普段の壮麗な髪型よりも、どちらかというとお淑やかな少女といった印象になる。
    それでも、彼女の艷やかで輝くような金髪は、夕焼けに照らされ得も言えぬ神々しさを放っていた。
    「それに、髪型も。 とても、似合っていますが」
    とても可愛らしく、美しい星南さんの姿に見惚れてしまい、言葉がしどろもどろになってしまう。
    いや、しかし本当に分からない。
    今日はバレンタインデーだから、おそらくチョコレートを頂けるものとは思って来たものの、流石にこの状況は予測していなかった。

    トップアイドルの恋人が、二十歳の恋人が、母校の学生服を着て。
    いや、衣装でも学生服風のものは何度も着ているから、まったく完全におかしなことではないけれど。
    これはおそらく衣装ではなく、星南さんにとって何かしら意味のある装いなのだろう。

  • 7◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:45:31

    なぜ? と、ぽつりとこぼした。
    察しの悪い俺にはピンとこない。けれど彼女には大切なことだろうから。
    俺が呆気にとられていることを面白がって、くすくすと笑っている彼女に。
    意地悪で魅力的で、俺の心を無遠慮に揺さぶる、大切な恋人に、教えてもわらないと。

    戸惑う俺の様子を見て笑っていた星南さんは、軽く咳払いをした。
    目を瞑って、数秒。 よく見ると、手元には紙袋を携えている。
    おそらくあれはチョコレートで、用件はバレンタインということで間違ってはいないはずだ。
    テーブルを回り込み、彼女に近寄りながら答えを待つ。
    戸惑いと、今日はどんな突飛なことを言うのかという、少しの期待とともに。

    静かに目を開けた星南さんは、赤らんだ顔で話し始める。
    「今まで、渡して、いなかったから」
    俺の目を見て、そう告げる。
    いつもの凛とした声を、少しだけ可愛らしく上擦らせながら。
    ……渡していなかった、というのは、チョコレートを?
    けれど、去年も一昨年も、彼女から間違いなくチョコレートを貰っている。
    どちらも手作りだったし、これ以上ないほどの贈り物だったはずだ。

    俺が未だ状況を掴めず、きょとんとしていると、星南さんは紙袋の持ち手をぎゅっと握りしめた。
    「……1年生と、2年生のとき、あなたに、チョコを渡せなかったから」
    先程よりも小さな声で、仕方なくといった表情で彼女は言葉を続ける。
    もじもじと、体を揺らしながら話す彼女は、なんとも可愛らしく。
    見慣れた初星の制服を着ていることもあり、本当に年端もいかぬ少女のようだ。
    心揺さぶられる。それを隠すのに、心がざわめいている。
    「そのときのチョコ、あげたいなって、思ったのよ」
    そんな格好で、そんなにも可愛らしいことを言うものだから。
    口元を隠せばいいのか、目元を隠せばいいのか分からなくて、難しい顔をするしか逃げ場がない。

  • 8◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:45:54

    1年生と2年生のとき、というのは、俺と星南さんが出会う前に、という意味だろう。
    「それは……俺がプロデューサー科に入学した年には、星南さんは3年生でしたから」
    仕方ありませんよ、と伝える。
    それは、と、彼女がなにかを反論しようとするも、すぐに言葉を止めてしまった。
    本当に仕方がない。俺も星南さんともっと早く出会えていれば、とは事あるごとに思いを馳せる。

    あと2年早ければ、彼女が片時も立ち止まることなくアイドルとして走り続けられたのに。
    より強固に、確実に、彼女を世界の頂点に導くことができていたのに。
    より長く……その頃の星南さんを、独り占めすることが、できていたのに。
    そう思って止まない。 けれどそれは不可能な夢物語だ。
    それに、そうして3年生の星南さんと出会ったからこそ、俺達はこうして恋人同士になれたのだから。
    悪いことばかりではない。こうして目の前に、とても可愛らしい恋人がいる事実が、そう思わせてくれる。

    星南さんの可愛らしい願望と、恥ずかしげで健気な様子に見惚れていると、彼女は俺から顔を逸らした。
    先ほどまでよりも、輪をかけて言いづらそうに、ごにょごにょと小さな声でこぼす。
    「……だって、莉波が」
    姫崎さん?姫崎さんが、なんだろうか。
    聞き逃すまいと徐々に距離を詰めていたからか、気がつくと俺はもう、彼女の目の前だ。
    途端、恥ずかしさと怒りが混じったような複雑な表情を俺に向けて。
    「莉波が、私が知らない昔のあなたを知っていたのだもの!」
    彼女は声を上げ、なんともいじらしい真相を口にした。

  • 9◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:46:12

    語気を強めた彼女に、一瞬たじろいでしまうが、その言葉でようやく合点がいった。
    昔、ずいぶん昔だ。 確かに姫崎さんと俺は、小さい頃に交流をもっている。
    確かに、大切な思い出だ。なんてことは無いけれど、幼い頃の思い出。
    それで、つまり星南さんは、そのことに……やきもちを焼いてくれているのだ。
    自分は、そんな昔に知り合っていないから、と。
    姫崎さんだけずるい、と。

    星南さんの表情は、俺を睨むような照れ隠しのような、複雑な表情だけれど。
    ひとたび世に出れば、可憐で華麗な容姿で注目を集め、力強く澄み渡る声で人々を惹きつける、星南さんが。
    俺への独占欲を募らせ、いじらしく嫉妬心を露わにしている。
    その事実だけで、俺は彼女のことが一層、可愛らしく感じてしまい、笑みがこぼれた。

    ……いや、何を考えているのか。
    家の外では、まだアイドルとプロデューサーだと、何度も何度も自分に言い聞かせてきたのに。
    トップアイドルのプロデューサーが、自惚れて舞い上がっているようで、どうするんだと。
    そう思っている、はずなのに。

    拗ねたような、ねだるような顔で、彼女は言葉を続ける。
    「莉波が知らないような、学園の思い出、いまからでも作って」
    そう言って、素直な言葉を投げかける彼女は、俺のくだらない見栄を忘れさせてくれて。
    彼女の前では、プロデューサーらしく、格好をつけていようと思っているはずなのに。
    「私たちだけの思い出のほうが、多くしたいと思ったのよ!……悪い?」
    俺の、プロデューサーではない俺を、容易く引っ張り出してしまうんだ。

  • 10◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:46:30

    もう、とっくに俺と星南さんの思い出は、俺の人生のほとんどを占めているのに。
    俺のすべては、星南さんのものなのに。
    それでもまだ、あなたは俺が足りないと言ってくれる。
    俺のことを、求めてくれるんですね。
    ……それは、なんて愛おしく、嬉しいことなのだろう。

    抱きしめたい。場所のことなんて構うまいと、俺は星南さんの肩を掴んだ。
    この腕に、愛する人を抱きしめるために。
    「……星南さん」
    愛しています、と伝えながら、抱きしめようと力を込めた。
    「ま、待って!ここではダメよ!」
    けれど、彼女に胸元を押さえられ、制止されてしまった。
    彼女を抱きしめられなかった寂しさと悲しみで、少し拗ねたような心持ちになってしまう。
    すみません、と一言だけ言って、星南さんから一歩離れる。
    絶対に漏らしてはいけないそんな気持ちを、ひた隠しにして。

    俺が離れて一安心といった表情をした星南さんは、うつむいて深呼吸をした。
    紙袋から、可愛らしくラッピングされた小箱を取り出す。きっとチョコレートだろう。
    彼女は手に持っていた紙袋だけを床に置き、数秒、沈黙が訪れる。
    深呼吸を繰り返す。
    ゆっくり、ゆっくりと。まるで本当にここが、数年前の、その時のように。
    まるで本当に、今から、愛の告白をするように。

  • 11◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:46:55

    次に顔を上げた彼女の表情は、頬を赤く染めたままで。
    けれど、とても真剣な、決意を固めた表情だった。
    俺は、その顔を見たことがある。
    確かあの時は、俺もそんな顔をしていたはずだから。
    「……その、これ……」
    おずおずと、俺に小箱を差し出してきた。例年のように、堂々とした姿ではない。
    これが今年のチョコレートよ、と、自信たっぷりに贈られてきた今までとは、まったく違う。
    震えた手で差し出されるそれはきっと、とびっきりの特別なものだから。

    アイドルと、プロデューサーではない俺とのバレンタイン。
    ただの先輩と後輩の、初めてのバレンタインなんだ。
    1年生の彼女が、俺に想いを伝える、そんな特別なひととき。
    「私の気持ち、受け取って、ください。……先輩」
    ごっこではない。だって、俺の愛する人は、いま目の前で。
    涙をこらえて、心を込めて、俺に想いを伝えてくれているじゃないか。

    潤んだ目を見れば分かる。星南さんの勇気が、チョコレートに込めた想いが。
    そんな、俺たちが想いを交わしたあの時と同じ目をして。
    そんな顔をされてしまったら、俺はまた、あなたしか見えなくなってしまう。
    世界に、あなたと二人だけになってしまったと錯覚してしまう。

    「ありがとう、ございます」
    何度目かの、聖なる瞬間の訪れに声が上ずる。
    服装や、姿が少し違うだけなのに。こんなにも、胸が高鳴る。
    別に、俺も彼女も本当に若返ったわけでもない。過去に戻ったわけでもない。
    ただ、本気だからだ。心の底から、俺との取りこぼした時間を手に入れたいと願っているから。
    だからこそ、星南さんはこんなにも想いを込めて、"あの頃"を作り上げて。
    なんの疑いも持てないほどに、俺たちはいま、"ここ"にいる。

  • 12◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:47:17

    可愛らしい小箱を、丁重に、落とさぬようにしっかりと受け取った。
    不意に、顔が緩んでしまう。顔が熱いから、きっと俺も頬を染めてしまっているだろう。
    けれど、それを隠す気にも、取り繕う気にもならなかった。
    「……なんだか、照れて、しまいますね」
    目の前の愛しい人に、正直な気持ちを伝える。
    髪型のせいか、いつもよりも愛嬌が勝つ彼女は、心なしかずいぶん年下に見えた。
    本当に、本当にただ、愛しい後輩が目の前にいるような。
    俺を慕ってくれる、可愛い可愛い後輩が、目の前にいるような、そんな気持ちになる。
    どう報いればいいだろう。勇気を振り絞った彼女に。愛する人に。

    俺の言葉を聞いた星南さんは、ふっ、と表情を緩ませた。
    「先輩も"そう"なら、よかった」
    私もなの、と小さくこぼした彼女の顔は、はにかんで笑う彼女の顔は、きらきらと輝いて見えて。
    俺の胸が、ぎゅっと苦しくなるのが分かった。

    俺が、星南さんに伝えるにふさわしい返事を思いつけないでいると、彼女は はにかんだまま言った。
    「でも、本当に1年生のときに渡していたら、困っていたかも知れないわ」
    赤く染まった部屋に、彼女の神秘的な佇まいが浮かび上がる。
    「だって先輩。いま……私に、恋してしまったでしょう?」
    なんてね、と。そう言って星南さんは、おどけるような素振りを見せると。
    夕焼けで隠しきれぬほど頬を赤くし、まばゆく笑った。

  • 13◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:47:33

    とても、とても愛らしく、健気で、可憐で。
    どんな言葉を並べても、表現しきれぬ尊さで。
    何ものにも代えられぬ、愛しいひと。
    胸が苦しい、息苦しい。
    この時間を終わらせたくないのに、早く気持ちを伝えたい。
    だってそんなのは、"してしまった"に決まっている。当たり前じゃないか。
    俺は今、たったいま、星南さんに何度目かも分からぬ恋をしたんだ。

    咄嗟に、彼女に手が伸びていた。今度は、肩を掴むなんてことはしない。
    「恋なんてしたら、あなたにプロデュースしてもらえなく――」
    一歩、二歩、彼女にぐっと近寄ると、俺は一気に彼女を抱きしめる。
    彼女は驚いて、あっ、と声を漏らすと、言葉を止めた。
    力強く、決して手放さぬように抱きしめる。
    大好きだと言いたい。あなたが好きだと、また伝えたい。
    一言で伝わるだろうか、この大きな気持ちが。あなたに届く、一番の言葉は何なのだろうか。

    「もう、仕方のない人」
    くすくすと笑いながら そう言った彼女は、俺の背に手を回す。
    そのまま、ぎゅっと抱きしめてくれた。
    癒やされ、包まれ、満たされていく。
    互いの心が、愛情が。互いの心という器にとめどなく注がれる。
    「分かっているわ……私もよ、先輩」
    場所なんて関係ない。今の俺たちは、ただ初星の先輩と後輩だ。
    その二人が、たったいま、想いを交わしたんだ。


    ―――

  • 14◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:48:10

    永遠にも感じる抱擁の中、星南さんは穏やかに口を開いた。
    「ねぇ、先輩」
    優しい声色。どこか熱っぽく、俺だけに聞かせる特別な声。
    「今だけは、星南って、呼んでちょうだい」
    そんな、耳を溶かしそうな甘い声で、彼女は特別なお願いを言った。
    今だけは。そう、ただの先輩と後輩である俺たちなら、それも構わないだろう。
    普段は絶対に言わないような甘い願望も、今このときならば、ただ彼女を可愛らしく飾り付ける。
    そんな健気な後輩に、愛しい恋人に俺ができることといえば、躊躇わずに受け入れることだけだ。

    抱きしめたまま、彼女の耳元に顔を寄せる。
    込めなければ、不器用な自分が込められる愛情を、ありったけ。
    期待か不安か、彼女が俺の背で、服をぎゅっと掴んだ。
    その感触を背に感じながら、俺は彼女の耳元で囁く。
    「星南」
    一瞬、彼女の体がこわばるのを感じた。
    けれど、まだだ。まだ、伝えるべきことがある。
    「チョコレート、ありがとう」
    俺のために、たくさんのことを思い悩んでくれて、ありがとうございます。
    あなたがここまでして、俺に想いを伝えてくれたのなら。
    俺も、ちゃんと伝えますね、星南さん。
    「……好きだよ、星南」

  • 15◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:48:26

    彼女の、俺の服を掴む手に、いっそう力が入った。
    俺を抱きしめる彼女の腕が、いっそう強くなる。
    喜んでくれているだろうか、俺の気持ちを。
    彼女が俺を愛してくれているのは真実だ。自惚れではなく、信じているから。
    だから、聞かせて下さい。あなたの気持ちも。

    彼女もまた、俺の耳元で囁く。
    「私も、好きです……先輩」
    普段とは、少しだけ違う言葉遣いに、戸惑いと羞恥が入り混じったような、こそばゆい感覚を覚える。
    けれど、その甘く染み渡る言葉は、二人の抱擁をより強くして。
    人生で最も素敵な、昔の思い出が刻まれたことを実感していた。


    ―――

  • 16◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:48:56

    先輩に想いを伝えて、抱きしめあってしばらく経った頃。
    徐々に恥ずかしさが勝つようになり、私は先輩からパッと離れてしまった。
    なんだか、少しだけ冷静になって……こんな格好で、彼にまた愛を告げて。
    いい大人なのに、こんなこと、と思ってしまう。

    先輩の顔を、ちらりと見てみると、すぐに目が合った。
    その顔はとても優しくて、緩んだ目元を隠しもせず、赤くなった頬もそのままで。
    まるで本当に、積年の想いが伝わったような、そんな顔をしていた。
    服装と、髪型を少し変えただけなのに。別になにも、本当は変わっていないのに。
    でも、あなたもそうやって、本当のことのように感じてくれていたのなら。
    私は、とっても嬉しい。

    すると彼は、軽い咳払いをして、気を取り直したように口を開いた。
    「チョコレート、頂いてもよろしいですか?」
    口調はもとに戻っていたけれど、構わない。
    もう、とっておきの先輩を味わったもの。

  • 17◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:49:20

    もちろん、なんて言いながら、私は会議机に紙袋を置きなおした。
    彼も、机の上で丁寧にリボンを解き、封を開ける。
    「莉波に教えてもらったとっておきだもの、味は保証するわ」
    毎年、独学で一流パティシエの製菓動画を参考に、渾身の逸品を作っていたけれど。
    今年のチョコは莉波に教えてもらった、とっておきだもの。
    一度だけ莉波にもらったことがあって、とっても美味しかったから美味しさの秘訣を聞いたら。
    愛情をたっぷり込めました、なんて言うから。素敵ね、なんて返した思い出のチョコ。

    封を開け、可愛らしくデコレーションされたトリュフチョコが現れる。
    おお、と感嘆の声を漏らす彼に、私は得も言えぬ達成感を覚えていた。
    デコレーションも莉波に手伝ってもらったのは、内緒だけれど。
    数秒、彼がチョコを眺めていたと思うと、思いついたようにいたずらな顔をした。
    私をからかうときの、悪い顔だ。
    「星南さん、……食べさせてもらえますか?」

    彼がなにを言ったのか一瞬分からず、固まってしまう。
    私に……食べさせて、欲しい?
    チョコを?それって……。
    徐々に理解が追いつくとともに、顔が熱くなるのが分かった。
    それは、その、嫌では、ないけれど……。
    「あ、あーんして欲しい、の?」

  • 18◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:49:34

    図らずも媚びたような言い方になってしまい、余計に恥ずかしく感じてしまう。
    燕や、後輩たちに、そういうことをするのは時々あったけれど。
    男性に……恋人にそんなことをするのは初めてで、どきどきしてしまう。
    「高校生カップルなら、これくらいはしても良いのかなと」
    まことしやかに、そんなことを語る彼に背を押されて、私はチョコを一つ手に取った。
    別に、嘘でも何でも構わない。
    珍しく彼が甘えてくるものだから、なんだか甘やかしたくなってしまった、私の意思だもの。

    仕方ないわね、なんて言いながら。まんざらでもない顔をしていることには、自覚があって。
    「じゃあ、ほら……口を開けて?」
    照れてしまうのを誤魔化すように、彼を促した。
    無防備に、少しだけ開かれた彼の口を見て、どきりとする。
    彼の潤んだ唇が、毎日ちょっとだけ私を虜にする唇が、そこにあって。
    指で、触れてしまうかもしれない。

    私は、どきどきと鼓動がうるさくなるのを感じながら、チョコを一粒、ゆっくりと放り込んだ。
    偶然を装って、彼の唇に、一瞬だけ触れて。

  • 19◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:50:01

    ぱっと指を離すと、彼はチョコを咀嚼し始めた。
    気づかれていないだろうか、私が触れたこと。
    気づいていても、何も言わないで欲しい。恥ずかしいもの。
    味の感想が気になるのか、くだらないことが気になるのか、分からないまま鼓動がうるさく響くけれど。
    彼の顔が、徐々に満足気な顔に変わっていくのが見て取れて、ほっとした。
    「美味しいです。 今までで一番美味しいですよ」
    リアクションはそこまで大きくないけれど、彼にしては珍しく嬉しそうな顔をしている。
    作って、よかった。
    莉波にいきなり、チョコに愛情を込める秘訣を教えて、なんて頼んだときは苦笑いされてしまったけれど。
    最後に、指でハートをつくったり、変な儀式をさせられたけれど。苦労をした甲斐があった。

    「とっても美味しいでしょう? もっと食べても――」
    私がそう言って、次のチョコを取り出そうとしたとき、彼に手を掴まれた。
    えっ、と声を漏らすと、彼は、ちょっと待ってください、なんて平気な顔で言って。
    「まだ、チョコが残ってますね」
    そんなことを言いながら、私の指を、舌先でぺろりと舐めた。

    「ひぁっ……!」
    未知の感触に、思わず上ずった声が出てしまった。
    「あ、あなたっ!何……をっ……」
    温かいものに舐め取られる、ぬるっとした感触に、妙な背徳感が襲いかかる。
    気味が悪いとか、不快感ではなく、本当に妙な……。
    彼を、従えているような、いいようにされているような、どちらともとれない妙な感覚だった。

  • 20◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:50:16

    私が、初めての感覚に翻弄されているうちに、彼はさっさと舐め終わってしまった。
    机に置いていたウェットティッシュを取り出し、私の指を拭き取っている。
    「ありがとうございます、残りは持ち帰って頂きますね」
    何やら先ほどより満足気な、ちょっとだけ腹の立つ顔をして。

    「さらっと流さないでちょうだい! 変なことをして!」
    大人しく彼に拭われながら、思い返した恥ずかしさで真っ赤になっている顔のまま激怒する。
    でも、私が怒ったところで、彼はいつものすまし顔だ。
    どうせまた、くだらない言い訳をして煙に巻こうとするのでしょう?
    「申し訳ございません、さっき指で唇に触れられたので、これがしたかったのかと」
    けれど、くだらない言い訳をするかと思いきや、そんな事を言うから。
    私のくだらない隠し事がバレていたことを知らされて、どきりとした。
    「わ、分かっていたのなら、そのときに言ってちょうだい!」

    なんて、八つ当たりのような照れ隠しの怒りをにじませていると、彼が突然耳を澄ませる素振りを見せた。
    何かと思い私も耳を澄ませると、部屋の外……廊下の遠いところから、何人かの足音が聞こえてくる。
    話し声もする。担当アイドルの声を聞き間違えるわけがない、千奈たちだ。
    「いけない、千奈たちが戻ってきてしまったじゃないの!」

  • 21◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:50:48

    彼はきょとんとしたまま、私に言う。
    「倉本さん達には、話を通されていないので?」
    当然それくらいの根回しはするでしょう、とでも言いたげに、痛いところを突いてくる。
    彼に特別なチョコレートを渡したいから、生徒会室に誰も来るな、なんて。
    そんな、そんな子どもみたいなOGの職権濫用、言えるわけないなじゃない!

    彼の言葉を無視しながら、私は慌ててチョコの箱を閉じて紙袋にしまい込む。
    時間がないから、会議机の椅子の陰にサッと隠して、私たちも早く隠れないと。
    「もうっ、いいからこっちよ!」
    咄嗟に彼の腕を掴み、近くの備品ロッカーに逃げ込む。
    彼を奥に押し込み、倒れ込むように私も中に入った。
    反動で戻ってきた扉を、慌てて後ろ手に閉める。完全には閉められないけれど、きっと大丈夫。

    幸い、中に備品はほとんど入っておらず、私たち二人が入っても問題はなかった。
    隙間からわずかに夕焼けが差し込み、真っ暗というわけでもない。
    「星南さん?いくらなんでもここは狭すぎて……」
    私の恋人は相変わらずボヤいているけれど、今はそれどころじゃないから、仕方ない。
    さっきの足音からして、もうすぐやってくるはずだもの。
    「しっ、静かに」
    私は、彼の口に指を添えて黙らせる。
    彼も観念したのか、やれやれといった様子で目を閉じた。

  • 22◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:51:12

    ガラガラと、生徒会室の扉が開かれる音が鳴り響く。
    部屋に入ってきたのは、どうやら一人。軽やかな足音は、天真爛漫なあの子の足取りだ。
    「みなさん、少々お待ち下さいませ! 頂いたチョコレートを取ってまいりますわ!」
    千奈のチョコレートは、会長机の影に置いてあった。
    このロッカーの前を通る。お願い、バレないで……!


    ―――

  • 23◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 18:52:33

    ↑↑↑以上↑↑↑
    前半部分でした!
    出先で投稿してるので、後半はまた夜に投下しようと思います!

  • 24二次元好きの匿名さん25/03/27(木) 21:12:39

    待ってた

  • 25二次元好きの匿名さん25/03/27(木) 21:31:54

    こそばゆい空気感ドキドキします

  • 26◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:21:58

    続き投下します!
    ↓↓↓以下連投↓↓↓

  • 27◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:22:51

    暗い。
    それに、暑い。
    後ろが見えないから、ロッカーの扉もどの程度閉まっているのか、はっきりと分からない。
    声を出せないから、彼に教えてもらうこともできない。
    それに狭くて姿勢が正せないから、先輩と足を絡めるような形になっていた。
    お願い、千奈。早く、チョコレートを回収して……!

    彼の、長い脚が、私の脚の間に差し込まれて、またがるような姿勢になってしまっている。
    手は咄嗟に彼の背に回せなかったから、彼に寄りかかるような格好で。
    屋敷の外で、彼とこんなにも密着するのは初めてで。
    それに生徒会室で、学生の頃の格好をして、ロッカーに隠れて、外には千奈が居て……。
    もう、状況がめちゃくちゃで、頭が追いつかないのに、どきどきしてしまう。

    やっぱり、暑い。
    コートは着ていなくて助かったけれど、それなりに着込んでいるから、どうしても汗ばんでしまっていた。
    彼と密着していていることもあり、汗をかいた彼の匂いが、私の鼻腔をつく。
    ロッカー中が、彼の匂いで満たされている。
    彼も、私の匂いを感じているのだろうか。
    私のこと、汗臭く感じていないだろうか。
    私は、あなたの匂い、嫌いじゃないから、いいけれど。

    逃げようのない空間、声も出せない空間。
    ただ時が経つことを願っていると、彼の体温が徐々に上がっていることに気がついた。
    服越しに彼の体温を感じている私も、だんだんと暑くなっていく。
    暑くなり、汗をかき……そのせいで、彼を より感じてしまい、心が溶け出していく。
    彼の鼓動が、私の体まで響いている。私の鼓動も、きっと彼には丸わかり。
    いつまで、こうしていればいいの?
    ……いつまでも、こうしていてもいいの?

  • 28◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:23:20

    汗が体に服を貼り付けて、少しだけ不快感を覚える。
    彼の体に添わせている手も、汗をかいてしまって、彼の服を湿らせてしまう。
    なんだか、みっともなくて、恥ずかしい。
    くっついて離れられないから、熱い吐息を彼の首元に浴びせてしまうのを、避けられない。
    そのたびに彼は、私の背に回して支えてくれている手に、ほんの少し力が入り。
    身をよじるように、彼の足が私の脚の間で、少しだけ動く。

    ロッカーの中は、彼の匂いと少しの甘い香りで埋め尽くされている。
    ずっと、ずっと嗅いでいたいと思うほど好きな彼の匂いが、いま、この狭い空間で。
    彼と密着することで、強制的に私の脳を刺激してきて。
    しかも私たちは、お互いの体温でより暑くなり、汗が止められないでいて。
    その芳醇な香りを嗅ごうと、つい彼の首元に顔を埋めて、深呼吸をしてしまう。
    だめよ、こんなのもし、見つかったりしたら。
    もし、彼を刺激して、物音でも立ててしまったら。
    ……でも、やめられない。
    最近、ツアーが始まって、あなたを感じる時間が減ってしまっていたから。
    あなたを感じるのを、やめたくない。
    もっと、あなたを感じていたい。

    外で、ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。千奈は、もう生徒会室を出たのかもしれない。
    …けれど、今すぐ出ては物音で気づかれてしまうかもしれない。
    「……星南さん、そろそろ大丈夫では……」
    だからまだ、私たちはロッカーから出ることは、できない。
    まだしばらくは、彼と共に、ここで過ごさないと、いけない。
    彼の言葉が聞こえないふりをして、私は彼に密着し続ける。
    私を押し返さないってことは、あなたも、そうなんでしょう?

  • 29◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:23:38

    暗いロッカーに目が慣れてきて、彼の様子がくっきりと見えた。
    ぼーっとした頭で、彼の首元を見る。首元を、流れる汗の粒を。
    ふと、彼に軽く触れていた唇に、冷たいものを感じた。
    彼の……汗だ。

    のぼせ上がり、心が溶け切っている私の目の前を流れる彼の汗は、どうしようもなく魅力的で。
    とっくにおかしくなっている私の頭は、自分の行動を止めることなんてできなくて。
    不意に、彼の首元を流れる汗に我慢できなくなってしまう。

    そして私は、彼の首元にキスをした。
    途端、彼の体がこわばり、背に回した手が私の体をぎゅっと抱え込む。
    彼に、もっともっと密着する形になったけれど、そんなことはもう、関係ない。
    彼の首元を流れる、彼の汗を。汗でしっとりと潤んだ彼の首元を見て、私は。
    わずかな理性の欠片も捨てて、彼の顔を見上げた。

    暗くてよく見えないけれど、彼の熱っぽい表情と、焦っている様子が伺える。
    なによ、その顔。いつもあなたがしていることじゃない。
    恋人を慌てさせて、蕩けさせて。いつも、あなたがしていることの、仕返しなんだから。
    「……星南、さん」
    だめ、まだ喋っちゃ。
    そんなに聞き分けがないのなら、私が静かにさせてあげるわね。

    彼の体に添わせていた手を離し、彼の首に腕を回した。
    彼の目は大きく開かれて、きれいな瞳が暗いロッカーの中でもよく見える。
    私は、密着している彼の体を滑るように、彼の顔に近づいて。
    私の唇で、彼の口を塞いであげた。

  • 30◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:23:57

    彼は一瞬、苦しげに声を出そうとしたけれど、私に阻まれて吐息だけが漏れた。
    私も、彼とともに吐息を漏らしてしまう。
    熱い。彼の吐息が、とても熱い。きっと、私の吐息もそうだ。
    こんなに熱いキスは、初めて。

    ほんのりと、甘い味がする。彼の唇に残っていたチョコレートかもしれない。
    私はそれを味わうように、彼を逃さないように、唇を重ね続ける。
    時折彼は、首を引いたりして、やめようとする素振りを見せるけれど。
    そんなの、嘘でしょう?
    だってあなた、私の体を抱きしめて、離さないじゃない。

    彼の首に回した腕に、ぐっと力を込める。
    彼の唇を、より味わうように。その感触を、もっと貪るように。
    彼に抵抗の意思は、もはや感じられず、私を受け入れてくれている。
    観念した? ふふっ、あなたをやり込められるなんて、ちょっとだけいい気分。

    もう、甘い味なんてとっくにしないのに、彼の唇から離れられない。
    ごめんなさい、先輩。
    でも、あなたが悪いのよ? 静かにしないといけないのに、喋ろうとするから。
    私があなたの口を、塞いであげないといけなくなったのだから。
    そんなことを思いながら、彼の上唇を私の唇で優しく噛んであげる。
    彼も私の動きを察しては、私の下唇を柔らかく挟み込んでくれた。
    お互いの感触を楽しむように、愛でるように。
    私たちは唇を交わらせる続ける。

  • 31◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:24:15

    この時間、二人の距離がゼロになって、唇から愛情を交わし合うこの時間が、大好き。
    キスをしているときは、いつもそうだけれど。
    もう、どれだけ時間が経っているかなんて、分からない。

    ロッカーから差し込む光はなくなっていて、本当の暗闇に包まれている。
    ここにあるのは、密着しているお互いの体、その体温、流れる汗の感触。
    漏れる吐息、のぼせそうに熱い口づけ。
    不意に、合わせた唇から鳴ってしまう、ぴちゃっ、という音が、得も言えぬ興奮をもたらす。
    汗なのかしら、それとも、違うもの?
    どっちでもいい。彼の一部だというのなら、何一つ嫌じゃない。

    夢中で彼の唇を堪能し続ける。
    終わらない。こんなの、終われない。
    汗をかきすぎたのか、くらくらする。それなのに、終われない。
    不意に、姿勢を立て直そうと、彼にまたがるようになっていた足を動かした。
    もっと彼に近寄ろうと、彼に押し付けるように。
    途端、左の太ももに、固く熱い感触があった。
    えっ?と、声を漏らしてしまう。
    火傷しそうなほどに熱く、奇妙な感覚に、不意に唇を離してしまい。
    彼は、その隙を逃さなかった。


    ―――

  • 32◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:24:38

    私が唇を離した瞬間、彼は私の後ろで扉を蹴り開け、二人で雪崩れるようにロッカーを飛び出した。
    途端、冷たく澄んだ空気が私の肺に流れ込み、生き返るような感覚を覚えた。
    ――涼しい。帰って、来れた。
    まだ、頭がぼーっとするけれど。
    自分で、していたことのせいだけれど。
    ようやく解放されたような、気分だった。

    腰が抜けて、床にへたり込んでしまう。
    視界もぼやけていて、蕩けた表情を引き締められない。
    どうすればいいの? と、助けを求めるように、彼を見つめる。
    彼は、そんな私を見て手を差し伸べようとしてくれたけれど。
    苦しい姿勢のままでいたからか、かがんでいた彼は、さらに膝をついてしまって。
    二人でしばらく、生徒会室の床で座り込んでいた。

    「……先輩」
    ようやく呼吸が整い始め、言葉が出るようになってくる。
    「ごめん、なさい。 ちょっと、調子に乗って、しまって」
    あなたに、ひどいことを。と言いかけたとき、彼もようやく落ち着いてきた様子で言った。
    「嬉しかったですよ、星南さんが、俺を求めてくれて」

    片手で髪をかき上げながら、疲れたような笑顔で、彼はそう言った。
    別に、あなたを求めたのは、結果論で。
    あなたが、勝手に喋ろうとするから、仕方なく、なのだけれど。
    そんな言い訳をしても、彼を喜ばせるだけだろうから、黙っておく。
    でも、あなたとのキスは、やっぱり素敵だったから。
    それだけは、ちゃんと伝えたい。

  • 33◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:24:54

    「あなたとキスができる私は、幸せものね」
    言葉にしながら、自然と笑みがこぼれた。
    彼は、恥ずかしそうに顔を伏せたけれど。
    私にとっては、本当の気持ちなのだもの。
    あなたという人が私の恋人で、私とキスをする人があなたで。
    私は、とっても嬉しいの。

    「……今日は、星南さんにやられっぱなしですね」
    顔を伏せたまま、なんだか悔しげなような、楽しげなような声色で、彼は言った。
    珍しく、完全にしてやられた、といった様子の彼が、なんだか可愛らしく見えてしまって。
    とっても痛快で、愛おしい。なんて思ってしまう。
    「当然でしょう? あなたの恋人は、トップアイドルなのよ」
    だから、これからも私にだけ見せてね。
    あなたの、そんな姿。


    ―――

  • 34◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:25:19

    体に力が戻り、ようやくお互いが立ち上がった頃にようやく気がづく。
    もう外はすっかり暗くなってしまっていて、夜になっていた。
    生徒会室も明かりが点いていないから、本当は真っ暗だろう。
    ロッカーの中で暗闇だったから、目が慣れてしまっていたのかもしれない。
    「そろそろ行きましょう、施錠して鍵も返さないといけません……ね……?」
    会長机に置かれていた鍵を手に取り、出発しようとした彼が青い顔をした。
    どうかしたの?と問う前に、私も思い当たってしまう。

    ――なぜ。
    なぜ、千奈が来たのに。
    鍵が、開いているの?
    千奈は、生徒会の仕事終わりにチョコレートを回収しに来て、それ以来誰も来てはいない。
    今日の生徒会活動が無いのなら、鍵を施錠して帰るのは、当たり前なのに。
    千奈のミス?いいえ、他にも誰か……きっと佑芽や美鈴がいた。だから忘れていても、誰かは指摘するはず。

    私は、嫌な予感が現実ではないことを祈っていると、隠した場所に紙袋が無いことに気がついた。
    まさか、と思い、恐る恐る会長机の裏側を覗き込む。
    そこには、丁寧にリボンが巻き直されたチョコレートの箱と、私のスマホが入った紙袋が隠すように置かれていて。
    私のスマホは、メッセージ着信のランプが点灯していた。

    震える手でスマホを取り、画面を表示する。
    通知は4件。先輩が到着する直前に届いた、莉波からの応援メッセージと。
    30分ほど前に届いている、千奈と、佑芽と、美鈴からのメッセージだった。

  • 35◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:25:42

    「……やっぱり、調子に乗ってしまったわ……」
    膝から崩れ落ち、しゃがみ込んでしまう。
    こんな格好をしていることに、気づかれなかったことだけが幸いだけれど。
    私の隣で佇む彼も、流石に冷や汗を隠せない様子で。
    「……賄賂かなにかで、口封じをしましょう」
    突拍子もない案しか出ないほどには、動揺しているようだった。

    彼のくだらない発案に、ぷっと吹き出してしまう。
    「もう、そんなことしなくても、あの子たちなら黙っていてくれるわよ」
    苦笑いしかできない彼を笑い飛ばしてあげながら、私も立ち上がって荷物をまとめる。
    「一緒に帰りましょうか、先輩」
    少しだけ吹っ切れた私は、ちょっとだけ後輩ぶって甘えてみることにした。
    「夜遅いから、送っていってくださいね」

    そんな私を見た彼は、やれやれといった表情で軽い溜め息をついた。
    先ほどまでの青い顔もどこへやら、いつものすまし顔を取り戻し始めている。
    「分かった。 送っていくよ、星南」
    夜道は危ないから、と、先輩風を吹かせる彼が、とっても可愛らしくて。
    不意に呼ばれた名前も、なかったはずの青春に息を吹き込んでくれたようで。
    「そう言って、先輩が狼になってはダメですよ?」
    なんて、ちょっとだけ調子に乗ったまま。
    私は彼の腕に抱きついて、迎えの車を手配する彼にくっついた。

    私達はその後、正門のそばにあるベンチで二人、迎えの車を待った。
    あの子達からのメッセージを見るのが怖いわ、なんてボヤいてみたり。
    制服、ときどき着てあげましょうか?なんてからかってみたり。
    他愛もない話をしながら。からかったり、からかわれたり、ときどきキスをしたり。
    迎えの車がやってくるまでの、残り僅かな青春を。
    二人きりで、過ごしていた。

  • 36◆0CQ58f2SFMUP25/03/27(木) 22:26:41

    ↑↑↑以上↑↑↑
    星南さんと学Pが青春を取り戻す話でした!お目汚し失礼しました!

  • 37二次元好きの匿名さん25/03/27(木) 23:45:15

    乙です
    なんだかんだノリノリな会長、

  • 38二次元好きの匿名さん25/03/27(木) 23:55:12

    はぁ~~~
    後輩星南ちゃん可愛いねぇ~~~
    いや、ゲームでも後輩星南ちゃんなんだよな…

  • 39二次元好きの匿名さん25/03/28(金) 00:13:59

    好き〜!!!!
    最高です!また明日から頑張れる!ありがとうございます!

  • 40二次元好きの匿名さん25/03/28(金) 00:58:54

    >>37

    >>38

    >>39

    ありがとうございます!!

    今回は会長ノリノリの攻め攻め回でした!

  • 41◆0CQ58f2SFMUP25/03/28(金) 00:59:29

    >>40

    酉わすれ

  • 42二次元好きの匿名さん25/03/28(金) 09:04:43

    やはりロッカー閉じ込めは良いものだ

  • 43◆0CQ58f2SFMUP25/03/28(金) 17:05:52

    4月。
    足早に去った冬を懐かしみ、突然の暖かさに追われる季節。
    桜の見頃もあっという間に過ぎ去り、暖かな陽気が草花を彩らせている頃。
    ライブツアーも二箇所目を終え、次の名古屋開催に向けて入念な準備が進められていた。

    先月、私の可愛い後輩たちは、初星を巣立っていった。
    既にアイドルとしての存在を確立していた子たちは、多くが100プロに改めて所属し。
    夢破れた子たちの多くは、新たな道を求めて去っていった。

    実力か不運かは簡単には決められなくとも、仕方のないことだとは分かっている。
    私に視える才能が、決してアイドルの全てではないけれど、誰もがアイドルの才能に溢れているわけではない。
    せめて私の手に収まるだけでも、未来ある後輩たちをすくい上げてあげたいと思う。
    だからこそ、私はプロデューサーを目指しているのだと、春を迎えるたびに決意を新たにしていた。

    私の担当アイドルたち……ことねも、千奈も、佑芽も、美鈴も、みんな春から100プロに所属している。
    念願叶っての、全員のプロ入り。寂しさに酔いしれている場合ではない。
    彼女たちの同級生も、多くがこの春からプロデビューを果たしている。
    様々な施策、企画が彼女たちを待ち受けているし、私もその手伝いを惜しまないつもりだ。

    佑芽と美鈴は、それぞれのユニット活動を中心にするために、私ではないプロデューサーが担当することになっている。
    私の手元に残ることになったのは、ことねと千奈。
    相変わらず、先輩の預かりという形になっているから、彼には色々と頼ってしまっているけれど。
    彼女たちを迎えるに相応しいプロデューサーになるため、私は立派にアイドルを務め切るつもりだ。

    そう、今は出会いと別れの季節。
    様々な想いが飛び交う、慌ただしい季節。
    ……だというのに。
    私の恋人は、最近、様子がおかしい。

    ―――

  • 44◆0CQ58f2SFMUP25/03/28(金) 17:09:59

    次こんな感じでスタートします。
    (書きながら投下していきます)
    学Pが星南さんに甘えたい話…的なテーマで!

  • 45二次元好きの匿名さん25/03/28(金) 23:00:04

    保守

  • 46◆0CQ58f2SFMUP25/03/29(土) 02:19:33

    彼と一緒に、会議室を渡り歩く。
    打ち合わせ、打ち合わせ、またまた打ち合わせ。
    事務所で、次のライブのステージや演出についての打ち合わせ。
    それが終われば、衣装の打ち合わせ。グッズの打ち合わせ。
    今度は私の担当アイドルたちの打ち合わせ。
    それが終われば、それが終われば……。

    私のツアー準備と、私の担当アイドルたちのプロデュースプランについての打ち合わせが、ひっきりなしに行われている。
    覚悟していたけれど、4月は本当に、ずっと、ずーっと打ち合わせ。
    それに挟まるようにテレビ出演、リハーサル。
    今年はツアーのライブに挟まれた期間だからか、輪をかけてばたばたしていた。

    それでも、私はまだ彼の提示してくれたスケジュールに沿って行動することで、大きな負担にならずに済んでいた。
    打ち合わせも、方向性を決めてくれたものから選択することで、負担を減らしてくれていることも分かる。
    でも、それは結局彼にしわ寄せがいっているということで。
    特に、私の担当アイドルのことは、もっと私に任せてくれてもいいと言っているのに。
    あなたのアイドルとしての集大成のツアーなのだから、と、あれもこれも先回りでなんとかしていく彼に、少しだけ辟易していた。

    「ちょっと、先輩? ちゃんと聞いていた?」
    だって今、彼は私との打ち合わせ中に、目に見えてふらふらしていて。
    いつもなら素早く打ち返されるような私の提案も、今日はどうにもレスポンスが悪く、流されそうになることもあり。
    もともと表情が読みづらい彼だけれど、疲れが溜まっていることは一目瞭然だった。
    今年は大学の講義を受けている場合じゃありませんね、なんてふざけて言っていたことを思い出す。
    年明け頃は気軽に言えていたそんなことも、今ではただの事実として彼に圧しかかっているのだろう。
    多忙で思うように仕事が捌けず、疲労でそれは加速し、結局、こうして疲れ果てているのだから。

  • 47◆0CQ58f2SFMUP25/03/29(土) 02:40:31

    私が催促したのを聞くや否や、彼は正気を取り戻したように眼鏡を直した。
    「すみません。 ……えっと、どこまで話したでしょうか……」
    立て直したのは素振りだけ。表情は焦りを隠せておらず、視線もどこか泳いでいる。
    私が気付かないと思っているのなら、もう彼はきっと、まともな状態ではないかもしれない。
    だって、あなたが取り繕うときは、困った顔も難しい顔もするけれど。
    そんな、私のこともしっかり見えていないような顔、絶対にしないもの。

    「……そんなに疲れているのなら、私にも、もっと頼ってちょうだい」
    そんな彼を見て、たまらず彼に正直な気持ちを伝えた。
    彼は、担当アイドルにプロデューサーの仕事を渡すことは沽券に関わるとでも言いたげで。
    このライブツアーに関するあらゆる仕事を、自ら引き受けていた。
    自分が招いたことだから、と。 十王星南というアイドルを終わらせる決断をしたのだから、と。
    その気持ちは、嬉しいのだけれど。 ”それ"を決めたのは、私達二人でしょう?
    どうして、あなた一人で抱え込もうとしてしまうの?

    「いえ、疲れは問題、ありません。 ちょっと顔を洗いに……っ!」
    彼が、おぼつかない様子で椅子から立ち上がった瞬間、力が抜けたように膝から崩れ落ちた。
    がたん、と机や椅子にぶつかる大きな音を立てて、彼は床に倒れ込んでしまう。
    「先輩!」
    咄嗟に支えることもできなかった私は、彼に声をかけたが、すぐに言葉を返せずに浅い呼吸をしていた。
    目は開いていて、時折こちらを見ているのに。 どこか虚ろで、何も見ていないような。

    得も言えぬ不安に襲われる。
    頭を打ったかもしれないと思い、私もしゃがみ込んで、彼の頭を支えるように触った。
    血は出ていない、腫れもない、怪我は無さそうでよかった。でも、すごい熱。
    顔色も悪く、とてもではないけれど、このままにしておくわけにはいかない状態。

  • 48◆0CQ58f2SFMUP25/03/29(土) 02:42:22

    「……すみません。 大丈夫、ですから……」
    彼は震える手で私の腕を掴むと、かすれた声で私に訴えた。
    …大丈夫って、なによ。
    そんな、青い顔をして、ばかみたいな熱を出して。
    そんなの、ただの嘘じゃない。私に、私という相手に、そんなくだらない嘘をつかないでよ。

    「ばかなこと言わないで。 迎えを手配するから、すぐに帰って療養しなさい」
    私は、彼の手を振り払って、迎えの車を手配した。
    迎えが来るまでの間、彼はずっと、自分は大丈夫だもう動けるだと言っていたが、聞く耳を持ってあげない。
    あなたが私に嘘を付くなら、私は絶対聞いてあげないんだから。

  • 49◆0CQ58f2SFMUP25/03/29(土) 02:42:32

    迎えが来る少し前に、彼はようやく立ち上がれるようになった。
    私は彼に肩を貸して、どうにかこうにか車に乗せると、観念したように彼は目を瞑った。
    「……星南さん」
    苦しげな様子のまま、消え入りそうな声で私を呼ぶ。
    「大丈夫よ。 今日はもう、私に任せてちょうだい」
    そう言って、一度だけ優しく彼の額を撫でてあげた。
    熱い。嫌な汗もかいている。 こんな状態で放っておいたら、どんな悪い方向に進展するかも分からない。
    同乗していた十王家の医療スタッフに、状況と帰宅後の対応を確認する。
    彼を絶対に部屋から出さないこと。 彼の仕事道具を、すべて部屋から撤去しておくこと。
    そんなことまでする必要が、なんて言いたげなスタッフに、私はただ、頼むわね、とだけ伝えた。
    する必要が、ある。
    目の前に道具があって、少し熱が下がっただけの彼は。
    必ず仕事を再開するに決まっているのだもの。

    彼を乗せて出発する車を見送りながら、私は彼の無事を祈っていた。
    仕事のことなんて、どうにだってなる。私は十王星南、彼に鍛えられたプロデューサーでもあるのだから。
    車が見えなくなる前に、私は振り返って事務所に戻ることにした。
    さあ、まだまだ夜まで仕事は残っている。
    打ち合わせも事務処理も、あなたよりも上手にやってみせるから。
    だからあなたは安心して、しっかり休みなさいね、先輩。


    ―――

  • 50二次元好きの匿名さん25/03/29(土) 10:03:09

    ほしゅ

  • 51二次元好きの匿名さん25/03/29(土) 16:18:09

  • 52◆0CQ58f2SFMUP25/03/29(土) 17:45:52

    その日、夜。
    私はシャワーを浴びて、今日の疲れを洗い流していた。
    諸々の仕事がようやく終わり、帰宅した頃にはもう夜の10時を回っていて。
    先に帰らせた先輩のことが気になったけれど、こんなに遅い時間に飛び込んだって、もう寝ているだろうから。

    さっき報告を受けたけれど、やっぱり過労だと言われてしまった。
    それなら、少しでも休ませたほうが、彼にはいいと思う。
    睡眠時間も知らずに削って、休憩もちゃんと取らずにいたのだもの。
    だから今日は寝かせておいて、また明日にお説教をしてあげればいい。
    ひと目だけ、あとで寝顔だけでも覗きに行って、今日は勘弁してあげる。

    シャワーを浴びている間もリラックスとはいえない状態だったけれど、慌てても仕方ない。
    私が駆けつけたって、できることはないのだから。
    ……彼は、どうしてあんなにも自分を追い込んでいたのだろう。
    私たちアイドルには体調管理をうるさく言ってくるくせに、自分のことになると疎かなのは以前からだけれど。
    それでも、去年までも散々指摘してきたから、無理をする癖はずいぶん改善していたと思っていたのに。

    早く先輩の顔が見たい。
    彼の、あの疲れ果てた顔を思い出して、胸が痛む。
    倒れた瞬間の青ざめた顔も、本当に彼が、どうにかってしまうのではないかと思って。
    血の気が引いて、怖かった。
    彼の身に何か起きてしまうことが、とにかく怖くて。
    彼の苦しそうな顔を見ただけで、自分があんなにも動揺してしまうとも、思っていなかったから。
    なんとか上辺を取り繕って対応できたけれど、もう、あんな思いは二度と御免よ。
    ……心配ばかりかけて。本当に、放っておけないんだから。

    シャワーを済ませた私は、そそくさと体を拭いて髪を乾かした。
    アイドルとして最低限のケアは怠れないけれど、できるだけ手早く。
    彼の様子を、一秒でも早く確認できるように。
    彼に会って安心しないと、きっと今日は、安心して眠れないもの。

  • 53◆0CQ58f2SFMUP25/03/29(土) 17:49:06

    身支度を手早く済ませてバスルームから出ると、そのまま彼の部屋に向かうことにした。
    ショート丈のシルクのガウンをなびかせて、廊下を足早に歩いていく。
    同じ建物なのに、もどかしい距離。
    早く、彼に会いたいのに。
    こんなことならいっそ、彼と二人で寮にでも暮らしている方が良かった、なんて思ってしまう。

    ぱたぱたとルームシューズを鳴らして駆けつけた彼の部屋からは、扉越しには物音はしなかった。
    やっぱり、眠っているのかしら。でも、扉の隙間からは光が漏れている。
    もし眠っているなら、起こしてしまわないように、小さくノックをした。
    ゆっくりと扉を開く。
    「先輩、入るわね」
    小声でそう言って、途中まで開けていくと。
    「どうぞ、星南さん」
    中から、ずっと聞きたかった声が、話しかけてきて。
    私は驚いて、思い切り扉を開けて中に飛び込んでしまった。


    ―――

  • 54◆0CQ58f2SFMUP25/03/29(土) 22:57:00

    中に入った私の目に飛び込んできたのは、私を心配させていた張本人。
    本を片手に、ベッドへ腰掛けている先輩だった。
    表情は穏やかで、見るからに体調が悪いといった様子は見受けられない。
    「先輩!起きていて大丈夫なの!?」
    部屋に入った勢いで、私はそのまま先輩に駆け寄った。
    どうして起きているの?いつから?
    大丈夫なの?あなた、過労で倒れてしまって。
    あんなに熱を出して、青い顔をしていたのに!
    私に、弱っている姿を見られたくなくて、無理している?
    だとしたら許さない。ちゃんと寝ていないとダメよ!

    思わぬ状況に、頭の中がやかましく騒ぎ立てている。
    見たところ、彼の顔色は悪くないし、私を見る視線もしっかりとしている。
    倒れたときの、真っ青な顔と虚ろな目を思えば、ずいぶんと体調は良さそうだ。
    ……今までのことがあるから、彼の平気そうな顔を、簡単には信じられないけれど。
    少なくとも、何日も快復できないような、重大な状況ではないことは分かった。

    「ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
    彼は、普段よりも落ち着いたトーンで返事をした。
    いつも冷静で、声を荒げるようなことは無い彼だけれど、今日の落ち着きは少し意味が違う。
    仕事道具が無いから読書しかできません、なんて強がって言っているけれど。
    少しやつれたような雰囲気と、青くはなくとも血色が良いわけではない顔色。
    動きも優雅というよりは緩慢で、せかせかと忙しく動き回っている普段の様子とも異なる。
    「ひとまず、こうして落ち着いて座っていられる程度には回復しました」
    ありがとうございました、と言う彼の表情は、なんとも儚げで。
    やっぱり、起きていられているだけだと、嫌というほど感じさせられた。
    起きていられないほどの不調ではなくても、まだ彼は元気になったわけではない。

  • 55◆0CQ58f2SFMUP25/03/30(日) 00:31:17

    それでも、普段に近い彼の様子が見られて、ほっとした。
    その場に崩れ落ちてしまいそうなほど、安心してしまう。
    そんなことをしても、彼に余計な心労をかけてしまうだけだから、ぐっと脚に力を込めてこらえるけれど。
    張り詰めていたものが切れたような、ほんの少し肩の荷が下りた感覚。
    「本当に、よかった…」
    目が潤むのを必死に、必死にこらえて彼に声を掛ける。
    「あなたが倒れたとき、私、本当に怖かったのよ……」
    あなたに何かあったら、私はきっと生きてはいけないのだから。と。
    彼は、すみません、なんて謝るけれど、まるで許してあげる気にはならない。
    心配ばかりかける恋人には、きっちりと真実を話させないと。
    このままじゃ彼は、きっと明日には仕事に戻って、同じことを繰り返してしまうでしょうから。

    溜め息が出てしまう。
    あなたはそんなに、私に対してあれもこれも隠して抱え込んで、一人で潰れてしまうような人ではないじゃない。
    私と恋人になる前だって、2年以上も一緒にいて、隠すようなことなんて……恋心、以外になくて。
    私と恋人になって半年、お互いの弱さも たくさん見せあって、色んな気持ちを共有してきたじゃないの。
    だから、何かあるのでしょう?
    私に言えない何か。私に知られると、"格好悪くて"嫌になるから、言いたくないこと。
    もう、知っているのだから。あなたのそういうところ。だからちゃんと、私に教えてちょうだい。

    ベッドに、彼の隣に腰掛ける。
    揺れながらサイドテーブルに本を置く彼と、二人きりの静かな部屋。
    軋む音が鳴り止むのを待たず、私は彼に詰め寄るように身を寄せた。
    「それで」
    できるだけ低い声で、圧力をかけるように、正直に話せるように。
    そう言って私は さらに詰め寄り、たじろいだ彼に食いついていく。
    乗りかかってしまわない程度に、体を密着させて、逃げられないように。
    「あなたが倒れるまで無茶をした理由は、何なのかしら?」

  • 56◆0CQ58f2SFMUP25/03/30(日) 01:09:14

    目一杯、彼の顔を睨んであげた。
    彼はよく、私が睨むと可愛いと言ってからかうけれど。
    今日に限って言えば、明らかに目を逸らしているくらいには、効果はてきめんだった。
    観念したのか、彼は一度深呼吸をすると、私に少しだけ体を向けて話し始める。
    「…このライブツアーは、俺という人間が十王星南をプロデュースできる最後の大仕事です」
    聞いたことのある理由を、彼は最初に口にした。
    それは、もう分かっている。
    だから今までよりも色々な企画を盛り込んで打ち合わせに追われているのも。
    私の負担を減らし、ライブに集中できるようにしているのも。
    それが全部、あなたにしわ寄せがいって、もう抱えきれないくらい大変なのも、分かっている。
    「そ、れ、で?」
    そんな表向きの理由だけで終わらせたら、承知しない。
    あなたの情けない理由、聞かせて貰わないと気が済まないのだから。
    私が食い下がるのを見て、彼はちらちらと私を見ながら口を開いた。
    「……笑いませんか?」

    不安を隠せない様子で、彼はそう言った。
    笑わないかなんて、当たり前よ、そんなの。私はあなたの悩みをばかにしたこと、一度もないのに。
    そんな当たり前のことを心配してしまっている辺り、ずいぶん思考が回らなくなるくらい追い詰められているのかもしれない。
    きっと彼は、十王星南の担当プロデューサーとして最後の功績をより輝かしいものにしたかった、とか。
    あるいは単純に、担当のトップアイドルに仕事を押し付けるようなプロデューサーになりたくなかった、とか。
    そういう、彼なりにこだわってしまう見栄のために、無理をしてしまっていたのだろう。

    「絶対に笑わない。 だから、ちゃんと教えて、あなたの気持ち」
    彼の目を、しっかりと見て言った。
    睨んでいるわけじゃない。もう、彼は話してくれるから。
    けれど、彼がこれ以上何も隠さないために。これ以上何も隠していないと確信するために。
    私はこれから彼が言う事を聞き逃すまいと、彼に密着したまま、彼の服をぎゅっと握りしめた。

  • 57二次元好きの匿名さん25/03/30(日) 07:04:40

    保守

  • 58二次元好きの匿名さん25/03/30(日) 10:35:59

    甘いブラックコーヒー

  • 59◆0CQ58f2SFMUP25/03/30(日) 14:55:03

    「…このところ、星南さんとの時間が少なくて」
    そう、私との時間が最近取れていない。
    ……ん?私との、時間?
    「星南さんとの時間を、できるだけ多く、作りたくて……星南さんに余計な仕事を回さず、早く帰宅できるようにしようと」
    彼の口から出てくる真相は、私の予想とは色々違っていて。
    彼の不安げな顔は、頬を赤く染めるように変化していき、とても可愛らしくなっていく。
    私との時間が、少なくて、もっとたくさん、二人で居たくて。
    だから、私の仕事を増やさないで、私が早く帰るようにして?
    「……それで、あなたの仕事だけが増えて、消化できずに抱え込んでしまった、ということ?」
    唖然としたまま、彼の事情を汲み取って質問すると、彼は黙ったまま頷いた。
    呆れたら、彼が傷つく。彼にとっては、隠したいような情けない理由で、私はそれを聞き出したのだから。
    それに、私と過ごす時間を少しでも多く欲しいから、なんてことを言われて、悪い気にはならない。
    「……この部屋であなたと、一秒でも長く一緒に居たいと思っています。ですが、力及ばず……」

    そこで言葉を詰まらせた彼は、それでまた黙りこくってしまった。
    彼にとって最大級に"情けないこと"を吐露したのだから、きっと当然だろう。
    「…なによ、それ」
    でも、そんなの。私にとっては、恋人である私にとっては、まったく納得できない。
    だって、私たちは恋人同士で、もうお互いに隠すことなんてないと言っていて。
    これ以上無いほどに、お互いの愛を伝え合ってきたのに。
    「わがままくらい、言ってくれれば、いいじゃない」
    彼の服を握る手に、力が入る。
    あなたが私にわがままを言ってくれないなんて、私は嫌。
    だって、あなたのそれは、私が好きでたまらないから。
    好きで好きで、一人ではいられないから、私にそばに居て欲しいと、そう言ってくれているのでしょう?
    そんなの…そんなのは、私も同じ気持ちなのだから。
    あなたが好きで好きで、一秒でも長くあなたと一緒に居たいの。
    「夜通し、一緒に居て欲しいって。 まだそばに居て、って」
    だから、そんなのは、あなただけのわがままじゃない。
    私がずっと、そばに居てあげるから。我慢なんて、しないで。

  • 60◆0CQ58f2SFMUP25/03/30(日) 18:16:59

    ここまで言っても、彼は未だに顔を伏せていて。
    しかし、それは、なんて口ごもっているものだから、もう黙っていられなかった。
    「遠慮なんて、許してあげない」
    彼から体を離し、ベッドから立ち上がる。
    私の体温を失った彼は、淋しげに私を見つめた。
    分かっている、分かっているから、そこに居なさい。
    あなたが素直になれないのなら、私がこの手で。
    あなたの心を、こじ開けてあげるから。

    立ち上がった私は、ベッドに座る彼に向き合った。
    弱っている彼にとっては、ちょっと威圧的かも知れないけれど、もう構わない。
    星南さん?と私の名を呼ぶ彼を無視して、私は彼の眼鏡を取り上げた。
    呆気にとられて、されるがままの彼は、きょとんとした可愛い顔を私に見せてきて。
    その愛らしさに、私の胸が高鳴る感覚を覚えながらも、それでもまだ踏み出せない彼に代わって。
    私は、一歩前に出て、彼の鼻先に立つ。
    彼の顔が、私の胸元くらいの高さだから、ちょうどいい。
    「あなたを、甘やかしてあげるわね」
    できる限りの慈愛を込めて優しい顔で語りかけると、私は彼の頭を、ぎゅっと抱きしめてあげた。
    小さな子を慰めるように、私の体で包み込むように。

  • 61◆0CQ58f2SFMUP25/03/30(日) 18:19:49

    彼は一瞬、戸惑いをみせて、体をこわばらせた。
    もごもごと私の胸元で何かを言っていたが、そんなのは関係ない、聞いてあげない。
    どうせ、担当アイドルに甘えるわけには、とか、そんなくだらないこと言っているのでしょう?
    察しの悪いプロデューサーは慣れているけれど、察しの悪い恋人だけは許してあげないから。
    いつも自分から私を抱きしめて、弄ぶようにしているくせに。
    自分がされたら抵抗するなんて、許してあげないわ。

    あなたが自分で甘えられないって言うのなら、私が甘やかしてあげるから。
    恋人に素直になれないような先輩は、反省してもらわなきゃいけないから。
    そんなに弱ったあなたは、せいぜい私に癒されていなさい。今日はあなたが嫌になるまで、甘やかし尽くしてあげるから。


    ―――

  • 62二次元好きの匿名さん25/03/30(日) 19:02:03

    誰かセンブリ茶を持って来い

  • 63◆0CQ58f2SFMUP25/03/30(日) 23:57:56

    「よしよし……よく、頑張ったわね」
    囁くように声にして、観念した様子の彼の頭を優しく撫でてあげる。
    髪を解きほぐすようにくしゃくしゃと、さらさらの髪を撫でていると、なんだか気持ちがいい。
    一度シャワーを浴びていたらしく、トリートメントの残り香がふわりと香っている。
    身長差があるから、いつもは逆の立場だけれど。
    こうして一方的に彼のことを愛でることができるだなんて、得した気分。
    いつも私を見下ろしている彼を この腕に抱いていると、ちょっとした優越感を覚える。

    「ふわふわで、肌触りがいいでしょう? たくさん感じていいのよ」
    暖かくなったから薄手だけれど、柔らかく滑らかなルームウェアを、彼に堪能させてあげる。
    「あなたの髪、さらさらで、心地良いわ。 ずっと撫でてあげたいくらい」
    彼の髪を弄びながら、愛しさを募らせる。
    いつもクールで泰然としていて、強かで頼りになるあなたが。
    誰もが一目置く指折りの優秀なプロデューサーである、あなたが。
    私の胸元で、時折甘えたように顔をこすりつけたり。
    背に回した手で、私の服を小さく掴んだり。
    そんな、弱った顔をして、力なく私に縋って。
    ……かわいそうな人、かわいい人。
    私がいないと、ダメなのね、あなた。

    「私がここにいるって、わかる?」
    恋人としては、拗ねたり、欲に駆られたり、そんなところもあるけれど。
    あなたは本当に私のことが好きで。
    好き過ぎて、私から離れることができなくて。
    そんな、みっともないあなたが、この上なく愛おしい。

  • 64◆0CQ58f2SFMUP25/03/31(月) 00:38:23

    私の問いかけに、彼は無言で、顔を埋めたまま頷いた。
    かわいい。弱々しい素振りが、本当にかわいい。
    甘えたいのに勝手に我慢して、心も体もすり減らして、倒れてしまって。
    そんな情けないところを見てしまっても、ちっとも嫌いにならないんだから。
    私はきっと、彼のことを嫌いになんてなれないのね。

    彼を包みこんでいると、彼の頭を撫でていると、どんどん愛しさが増していく。
    もっと、もっと愛してあげたくなってしまう。
    彼が不器用なのも、生真面目で融通が利かなくて、人に頼るのが下手なのも、知っているから。
    これだけじゃ、彼のこと、全然甘やかせていない気がして。
    彼を甘やかしたい欲求を抑えきれなくなった私は、彼の頭から手を離した。

    私が体を離す瞬間、名残惜しそうに私の服を掴んでいた手が、遅れて剥がされた。
    「星南さん……」
    か細い声で私の名を呼んだ彼の顔を覗くと、とても、寂しそうな顔をしていた。
    頬を赤く染めて、潤んだ目で、不安げな表情で。そんな顔で私を見つめる彼に、胸が苦しくなってしまう。
    大丈夫、大丈夫よ。そんな顔しなくても大丈夫。
    あなたのこと、置いていかないわ。

  • 65二次元好きの匿名さん25/03/31(月) 08:17:27

    保守

  • 66◆0CQ58f2SFMUP25/03/31(月) 09:33:51

    「大丈夫よ、まだ私が足りないでしょう?」
    そう言って、私は彼のベッドを揺らしながら、彼の隣にぺたんと座った。
    揺れるベッドの上で、彼も同じように座りなおす。足をベッドに乗せて姿勢を変えて、私に向き合うように。
    さっきの不安げな表情はどこへいってしまったのか、彼は大きく目を見開いていて。
    ベッドに座り込む私に見惚れて、動揺している様子だった。
    私の足元から顔まで、確かめるように視線が動いていく。
    なに?この格好、そんなに似合っているの?

    「せ、星南さん……まだ俺達は、プロデューサーと、担当アイドルで……」
    着けてもいない眼鏡を直すような素振りをしながら、ごにょごにょと何かを言っている。
    まだプロデューサーとアイドルって、そんなこと分かっているわよ、今更どうしたの?
    明らかに普段よりも動揺している彼を不思議がりながら、私は膝をついたまま彼に にじり寄った。
    彼が一瞬、身を引くような素振りを見せたから、咄嗟に彼の腕を掴んで制止する。
    「そんなに慌てふためいて、どうしたの?」
    咄嗟に腕を掴みに行ったから、前かがみになってしまった。
    彼の視線は、先ほどよりもあちこちに行ったり来たり、忙しなく動き回っている。
    もう、ちゃんと私のことをしっかり見ていなさいよね。

    「ほら、先輩」
    掴んだ腕をそのまま引っ張るように、彼を少しだけ私に引き寄せる。
    そのまま私は、彼の頬と私の頬を合わせて、ぎゅっと抱きしめてあげた。
    「ぎゅってして、たくさん触れていいから」
    そう言うと彼は、小さく咳払いをして、私の背にそっと手を回した。
    「そ、そういう意味でしたか……すみません」
    ぼそぼそと、何事かを謝罪する彼の髪を、優しく優しく撫でてあげる。
    さっきから慌てて、おかしな先輩。よっぽど限界だったのかしら、と心が痛むような気持ちになってしまう。

  • 67◆0CQ58f2SFMUP25/03/31(月) 11:18:39

    膝立ちのまま、前かがみになっていた姿勢をゆっくりと整えていくと、少しだけ彼よりも頭の位置が高くなった。
    「ふふっ、なんだか私の方が、お姉さんみたいね?」
    そう言いながら、私は気難しい弟をなだめるように、ぽん、ぽんと彼の背中を叩いてあげる。
    ベッドの上だから、いつもよりリラックスしたまま彼と抱きしめ合うことができて、私もゆったりと満たされていく。
    このまま甘やかして、癒やしてあげて、そのまま彼が眠るまで、ずっと甘やかしてあげればいい。
    彼が望むことならば、なんだってしてあげよう。
    それが、恋人である私にだけ許された方法で。
    そうして解きほぐした彼の心はきっと、今まででいちばん可愛い姿かも知れない。

    私が、そんな彼を見られる期待に胸を膨らませて、たくさん甘やかしていると。
    「星南さん……キス、したいです」
    彼は、抱きしめている私の耳元で、弱々しくねだるような声で言った。
    とっても嬉しい彼の提案に、私も内心、舞い上がってしまうのを必死に隠した。
    今日は彼を甘やかすためなのだから、私がしてもらうようではいけない、と。
    「ええ、私も、あなたとキスしたい」
    熱っぽい吐息が漏れてしまうのは隠さず、彼の耳に浴びせるように肯定する。
    大好きな人との、尊い時間がやってくる。
    本当は毎日、四六時中、彼と唇を交わしたい。
    不意に彼を見て可愛いと思ったり、好き、と思ったときは、いつもキスをしたくなる衝動に駆られてしまう。
    今日は一度も彼とキスができなかったから。
    今、ようやくその時間がやってくるんだと、胸が高鳴った。

  • 68◆0CQ58f2SFMUP25/03/31(月) 11:36:32

    「今日は私が、してあげる」
    体を一度離すと、私は彼と真正面から向き合い、彼の両頬に手を添えた。
    彼の顔を、近くでまじまじと見つめる。
    普段の彼は、少しも隙がないくらいに整えられていて、きれいな肌をしていて。
    私を見つめる瞳も、美しく透き通る湖のようで、私を溺れさせてしまうような深みを感じさせるのに。
    今日のあなたは、肌もかさかさと弱っていて、白い目元には、ぼんやりと隈が残っていたりして。
    弱々しい、疲れ果てた顔をしていて。そんなあなたも、好きだなって思うの。
    守ってあげるなんて、驕ったことは言わないけれど。
    私が癒やしてあげなきゃ、私だけが癒やしてあげて良いんだって、思うのよ。

    彼に、少しずつ顔を近づける。
    もう、視界にはお互いの顔しか見えないような距離で、見つめ合う。
    恥ずかしいけれど、私だってあなたとキスをしたいから。
    ゆっくりと、さらに彼に顔を近づけると、唇が触れる寸前で動きを止めた。
    「……好き、先輩」
    彼の唇に吐息がかかり、彼がぴくりと緊張したのが分かると。
    私は、彼の返事を待たず、彼の唇を奪った。

    優しく、優しくお互いの唇を触れ合わせる。
    それだけで私は、ぴりぴりと痺れるような感覚が背筋に走り、スイッチが入ってしまう。
    先輩とのキスを、ずっとずっと終わらせたくないという、わがままなスイッチが。
    彼も、そう感じさせるときが、時々あって。
    そんなとき、私たちはいつも、時間を忘れて何度も何度もキスを繰り返していた。
    ……この一ヶ月ほど、そんなキスもできていなかったから。
    ずっと、物足りなかったでしょう?
    今日は気が済むまで、私の唇を味わってもいいからね。

  • 69◆0CQ58f2SFMUP25/03/31(月) 11:56:56

    キスの始まりはいつも、彼と唇をぴったりと合わせたまま、互いの唇を堪能し合う。
    いつも瑞々しく、逞しい彼の唇は、少しだけ乾いていて。
    それでも、その奥にある柔らかさと、彼自身の温かみは何も変わらない。
    「……ん……っはぁ……」
    夢中になって呼吸を忘れていたから、私は声を漏らした。
    彼はキスの間いつも静かで、そのスマートさはとっても魅力的なのだけれど。
    そんな彼も、私に主導権を握られているとき、息が荒れて熱い吐息を漏らすようになるのを、私は知っている。

    少しずつ唇をずらし、すべらせたり、またくっつけたり。
    互いの唇を、隅から隅まで確かめるように、堪能し合う。
    彼の唇が私の唇を撫で、刺激するたびに、私の頭は蕩けそうなほど甘い気持ちが溢れ出てしまって。
    その気持ちがあなたにも伝わればいいなと思って、いつもやり返してしまう。
    私の吐息で湿った彼の唇を、彼の吐息で湿った私の唇で。
    私のものだと主張するように、私で染め上げてしまうように。
    何度も何度も、互いの唇を擦り付け合う。

    最後に、先輩とのキスで主導権を握ったのは2月のこと。
    バレンタインのあの日。 私がロッカーの中で、初めて彼をキスで虜にした、あの日。
    私のキスで、彼を、されるがままにした。
    その時の高揚感と背徳感は、その唇に残った熱い感触は、私にとって忘れられない刺激になってしまっていて。
    いま、久しぶりにそれを味わえていることに、得も言えぬ多幸感に包まれている。
    でも忘れないようにしないと。
    今日は、彼を甘やかしてあげる日なのだから。
    私ばかり楽しむのではなく、彼をたっぷり愛してあげないと。
    唇を通して、吐息を通して、私の熱で彼の心を、とろとろにしてあげないと。

    だって、そうなった時の、彼の顔。
    とっても可愛らしそうで、見てみたいもの。

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