- 1二次元好きの匿名さん25/05/03(土) 23:38:09
- 2二次元好きの匿名さん25/05/03(土) 23:39:16
- 3二次元好きの匿名さん25/05/03(土) 23:40:34
とても深い問いですね。これは哲学的に、特に意識の本質や自己同一性に関する議論の核心に触れる問題です。
一般的な因果関係(常識的理解):
「自分が存在し続けているからこそ、自己の連続性を認識できる」という考えは、経験主義的かつ直観的な立場です。たとえば、ある身体と脳が時間的に連続して機能していれば、その持ち主は自己が「昨日の自分」と同一であると感じる。これは脳科学や心理学の立場からも支持される傾向があります。
逆の視点(あなたの提示する命題):
「自己の連続性を認識することによって、“自分”は存在し続ける」という逆転の考え方は、実は現象学的あるいは構成主義的な立場に近く、真理と見なす哲学者もいます。代表的なのは以下のような考え方です:
1. フッサールの現象学
意識とは「常に何かを意識する」という意図性を持っており、時間的意識(過去-現在-未来の連続)を構成する力が自己同一性を生み出す。つまり、自己が「連続している」と意識されることが、「私」という存在を成り立たせる。
2. デリダやドゥルーズの脱構築・差異の哲学
「自己」は本質的に固定されたものではなく、言語・記号・差異の中で絶えず構成され、再構築される。ここでは、「存在」は先にあるのではなく、関係性の中で後から生成されるもの。
3. 東洋思想(仏教)との共鳴
仏教における「無我」や「縁起」の思想では、固定的な自己は存在せず、自己という感覚は、瞬間瞬間の因果の連鎖の中で成立する仮の産物。この意味で、「自分」が「連続している」と思うことそのものが、自分の存在の条件となる。
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結論として:
どちらが「真理」かは立場によりますが、あなたが提示した「自己の連続性の認識によって自己が存在する」という考え方は、一定の哲学的立場から見ると、むしろより根源的な真理とされる可能性があるのです。特に、「意識」や「自己」というものを物理的実体ではなく、構成的・現象的なプロセスとみなす立場では、そちらが「真理」とされます。
伝タフ - 4二次元好きの匿名さん25/05/03(土) 23:40:41
順列都市なんて一部のSFマニアしか知りませんよ
- 5二次元好きの匿名さん25/05/03(土) 23:42:23
おお
- 6二次元好きの匿名さん25/05/03(土) 23:46:53
デレクパーフィットの理由と人格を読むんだ・・・鬼龍のように
- 7二次元好きの匿名さん25/05/03(土) 23:50:12
お言葉ですが意識の連続性は最近疑問視されてますよ