- 1二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:30:00
私の目の前で────トレーナーさんが跪いている。
緊張した面持ちで、私のことを見上げていた。
いつもは少し高めの視点から、柔らかな表情で私を見ていてくれる彼の顔。
それが色々とあべこべになっているのが新鮮で、ちょっとおかしかった。
「ヴィルシーナ、手を」
「……ハイ」
上擦った声が出てしまった。
どうやら緊張しているのは彼だけではないようだ、と頬が熱くなる。
そっと目を閉じて、深く、細く、長く、息を吐いた。
多少気持ちは落ち着いてきたれど、静かになった分、自分の心臓の音が良く聞こえる。
とくんとくん。
早鐘を鳴らしている原因は、不安からなのか羞恥心からなのか、はたまた期待からか。
まるで見当もつかないまま、私は自らの自らの左手をトレーナーさんへと差し出すのだった。 - 2二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:30:17
────事の発端は、とあるイベントでの出来事だった。
それは、興行として行われたエキシビジョンレース。
私はそこで、しっかりと勝利を収めてみせた。
トゥインクルシリーズのレースとは色々と違うとはいえ、勝利は勝利。
会心の走りで得た確かな自信と実感は────その後の“彼女”の走りで冷え込むこととなる。
鹿毛のドーナツヘア、ハート型の髪飾りに、赤と黒を織り交ぜた豪奢な勝負服。
ジェンティルドンナさんは、他者を寄せ付けないまさしく圧勝といったレースを見せつけた。
私が越えなければいけない壁、その高さを改めて思い知った気分。
けれど、くじけてなんてあげないわ。
私はこの衝撃すらも糧に、頂点たる女王の座を目指していかなくてはいけないのだから。
改めてそう心に誓いながら、私はジェンティルさんの勝利を祝福すべく地下バ道へ向かい────見てしまったのだ。
『……ジェンティル、さん?』
他のウマ娘達がとっくに立ち去った後、ゆっくりと戻って来たジェンティルさん。
彼女は無言のまま、さも当然と言わんばかりに待っていた男性へと左手を差し出す。
差し出した先にいるのは彼女のトレーナー。
彼は淀みのないスマートな動きでその場に跪くと、流れるように彼女の手を取った。
まるでそれは、映画や演劇のワンシーンのよう。
淑女と紳士が相対するその姿は、見惚れてしまうほどに絵になっていた。
『……っ』
思わず、息を呑んでしまう私。
見てはいけない気がするのに、目を離すことが出来ない。
そして彼は、そのままジェンティルさんの手の甲へと顔を近づけて、口付けするように唇を寄せた。
直後、小さく響くリップ音。 - 3二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:30:29
『お上手に、なりましたわね』
ジェンティルさんはそれを見て、柔らかく眉尻を下げ、口元を緩める。
その表情は単純に嬉しそうで、どこか誇らしげで、とても、幸せそうに見えた。
胸の奥が、とくんと高鳴る。
やがて、ふいに彼女の視線が揺らめいて、私の方へと向けられた。
一瞬だけではあるが、その真紅の瞳はきょとんと丸くなり────そして、得意気に細められる。
『…………ふふっ』
どうぞ、いくらでもご覧になって?
そう言わんばかりの、自慢げな表情。
我に返った私は慌てて物陰へと隠れて、ドキドキと鳴り響く心臓を手で押さえる。
はしたない、悔しい、恥ずかしい、色んな感情が胸の奥に渦巻いては消えていく。
最後に残っていたのは、羨ましい、という想い。
そして、私はトレーナーさんの下へと戻っていく最中、一つの決心を下したのだった。 - 4二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:30:44
控室へ戻った私は、トレーナーさんに頼んだ。
勝者を讃えて、レディに対するマナーを示して欲しい、と。
さすがに、全てを正直には話せない。
映画で見て憧れていた、などと出鱈目な理由を並べて、お願いをした。
最初は困惑した様子を見せながらも、やがて何を察したかのように、頷いてくれる。
『いいよ、任せて』
多分、こういうことを言う私が、珍しかったのだろう。
トレーナーさんはそう言いながらも、何故か嬉しそうな表情をしている。
それがちょっと気恥ずかしかったけれど、それ以上に、心がふわりと舞い踊っていた。
そして彼はゆっくりと膝を床へと着き────現在に至る、というわけ。
「……」
「……」
私の左手に、トレーナーさんの大きな手が触れる。
ごつごつとしているけれど、暖かくて、何だか安心する手指の感触。
ただし、今この状況においては、緊張の方が勝っていたけれど。
「えっと、それじゃあ、やるね?」
「……ええ、どうぞ」
不安そうに、私の顔と手をちらちらと見比べていくトレーナーさん。
その様子が何だか可愛らしくて、ちょっとだけ緊張の糸が解ける。
でも、それはほんの一瞬だけ。
意を決して、表情を引き締めた彼が顔を手の甲へと寄せた瞬間、私の心臓は再び暴れ出す。
それと同時に、奇妙なほどに猛烈な不安が襲い掛かって来た。 - 5二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:30:58
────まだシャワーを浴びてないけれど汗臭くないかしら。
────手の甲が汗ばんでいないかしら、肌荒れとか起こしていないかしら。
焦りが湧き出して来るけれど、だからといって逃げたり、仕切り直ししようという気持ちはまるで起きない。
それでも、待ち遠しくて待ち遠しくて、心焦がれている自分が確かにいるから。
たどたどしい動きのまま、慎重にトレーナーさんは唇を近づけていく。
一秒、二秒、三秒、時計の針が鳴り響く音が、今この時だけは妙に遅く感じられた。
そして、ついに小さなリップ音が────響かなかった。
代わりに、手の甲に少し湿った柔らかな感触。
一瞬だけ頭の中が真っ白になって、直後、顔が燃えるように熱くなっていった。
「…………っ!?」
「えっと、こんな感じ、かな」
顔を離して、困ったような笑顔を浮かべるトレーナーさん。
私はしばらくの間、何も言えずに口をパクパクとさせて、やがて誤魔化すように大きく息を吐いた。
「……トレーナーさん」
「なっ、なに? もしかして、何か間違えちゃったか?」
「…………こういうのは、直接はキ……触れずに、振りだけをしてリップ音を鳴らすんですよ」
「ええっ!? それは、ごめん! 本当にごめん!」
「………………いえ、私も、ちゃんと説明をしていなかったんですもの」
青ざめるトレーナーさんの手から、私は自らの手をするりと引き抜いた。
そして背中を向けて、後ろ手で尻尾をそっと押さえる。
こうしていないと、尻尾が感情の赴くまま、動き回ってしまいそうだったから。
こうしていないと、でれでれと緩み切った情けない顔を、晒してしまいそうだったから。 - 6二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:31:12
「これから、レースに勝つ度にやりましょう、そうすれば段々と様になっていくはずです」
「……キミがそれで良ければ、それだったら挽回の機会はすぐに、いくらでもありそうだしね」
「まあ……ふふっ、でしたら私も、期待させてもらいますよ」
そう言いながら、私は左手の甲をじっと見つめる。
ちょっと唇が触れただけ、跡も傷も、全くもって何一つとして残っていない。
にもかかわらず、トレーナーさんが触れたであろう箇所が、熱くて疼いて、仕方がなかった。
…………ちょっとくらいなら、いいかしら。
ちらりと、背後のトレーナーさんを見やる。
彼は少し気まずそうな様子で目を逸らしており、こちらを見ていなかった。
安心半分、不満半分。
複雑な気持ちを胸に秘めながら、小さく息をついて。
「……ちゅ」
私は自らの手の甲へと、そっと唇を重ねるのだった。 - 7二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:31:46
お わ り
でもやっぱあれ地下バ道でやることではないと思うよ - 8二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 21:33:34
あら、見せられないような無様な姿ではなくてよ?
- 9二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 22:07:09
これからも練習に励んでほしいですね!!
- 10二次元好きの匿名さん25/05/17(土) 22:54:59
隠れて間接キスしちゃうお姉ちゃん可愛すぎない?
- 11二次元好きの匿名さん25/05/18(日) 00:31:06
あららヴィルシーナさん最後に何してるんですか
初々しい二人が眩しいね - 12125/05/18(日) 09:05:52
- 13二次元好きの匿名さん25/05/18(日) 11:47:20
姉さんのかわいさといじらしさが身に染みる ありがと
- 14二次元好きの匿名さん25/05/18(日) 20:26:05
ジェンティルサイドは二人ともだいぶ慣れてるんですね
- 15二次元好きの匿名さん25/05/18(日) 20:29:10
練習n回目、トレーナーがリップ音を鳴らそうとしたら緊張した姉さヴィルシーナが手をピクッと動かしてしまって唇が手に触れてしまうところまで見えた
- 16125/05/18(日) 23:37:57