- 1二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:21:29
>(大井の調教師だった父親から)100%の拒否宣言を何度もされた。たまの話し合いには、自分なりに完壁な理論武装をして臨むのだが、その頃には既に自治体競馬の限界、現在(※2004年)の地方競馬の惨状を予告していたような父であったから、高校生の僕の理論など問題外、常に簡単に論破され、話は全く前に進まない。
(中略)
>解決策は行動しかなかった。高校を卒業し、一応の浪人生活に入っても、受験勉強は全くしなかった。馬の尻ばかり追い掛け、ノートの内容は血統に関する勉強ばかりであった。
>さすがの父も呆れ果てたのだろう。あきらめという形で渋々GOサインが出た。19歳、ホースマン人生のスタートとなった。
凱旋門賞への熱き思い ~現役調教師が現地で抱いたこのレースへの情熱~ ※優駿2004年11月号 [競作ノンフィクション・シリーズ] | 矢作芳人厩舎上品な華やかさ、賑わい。馬達の周囲にのみ漂う、近寄り難い緊張感。『伝統』という安易な言葉だけでは片付けられない、営々と積み上げられてきた重みが、15年前と同じくそこにあった。 僕の方は変わった。15年前の〝聖地″には『夢』だけを持って足を踏み入れていた。だが今回は違う。心の中に抱いているのは、明確なる『目標』だ。競馬場内でのいかなるシチュエーションにおいても、まっ先に頭に浮かぶのは「自らの管理馬を連れてきた場合」のシミュレーションであり、調教師としてどう動き、どんな指示をスタッフに与えるのか、であった。これが実に楽しい!あくまでもシミュレーションだからだろうが、そんな気分での競馬観戦は初めての経験だった。僕は高揚する気持ちを抑えながら、『目標』のレースに登場する日本代表馬を待った。 何故、凱旋門賞? 69年スピードシンボリ10着。72年メジロムサシ18着、その時の優勝馬はその後日本に輸入されたF・ヘッド騎乗のサンサン。そんな記録を、僕はもちろん活字の上でしか知らなかった。しかし、活字だからこそ広がる想像という物もある。どんなコースなんだろう?ペースはやはりスローなのか?日本馬はどの様な状態でレースに臨んだのだろうか?映像が無いが故に、想像はどんどんと果てしなく広がる。ホースマンとしての人生を少しずつ意識し始めていた中学・高校生時代、僕の凱旋門賞に対する『夢』はこの様にしてふくらんでいった。 以前から「何故、凱旋門賞なの?」とよく開かれた。ドバイワールドCは歴史があまりにも浅いから分かるが、どうしてケンタッキーダービーやブリーダーズCでは駄目なのか?という話だ。伝統、雰囲気、世界最高峰と呼ばれるから、長年日本馬が挑戦しては跳ね返されているからetc.…あえて挙げればいくつも理由は見つかるだろうが、はっきり言って、これと決められる明確な理由は無い。ただ純粋に、僕は凱旋門賞が好きなのだ。凱旋門賞でなければダメなのだ。これはもう趣味の問題としか言いようが無い。野球よりサッカーが好きなように、痩せ過ぎより少しぽっちゃりした女性が好きなように…。 唯一つ言える事は、この様な問いに答える毎に、益々凱旋門賞に強い憧れを抱く自分がいて、凱旋門賞こそ俺のオンリーワンだという気持ちが強くなってきた事である。 ホースマン人生の始まり 我が母校・開成は皆さん御存知の通りの〝超″受験校である為、クラブ活動は高校2年の秋で〝引退″となる。硬式テニス部のキャプテンとして、かなり熱心に活動していた僕は、この〝引退″により、一気に暇を持て余す状態になってしまった。自然、週末は府中・中山通いが増えた。そして、この頃にはもうかなり明確に「ホースマンへの道」を探り始めていた。競馬場通いは、その一環!?であった。 ただ、大きな壁が立ちはだかっていた。 父である。あれから25年の歳月を経た今年、調教師試験に合格して初めて〝一人前″と認めてくれた程厳しい人だから、その頃は取り付く島もなかった。とにかく反対!馬の仕事など絶対にやらせない!100%の拒否宣言を何度もされた。たまの話し合いには、自分なりに完壁な理論武装をして臨むのだが、その頃には既に自治体競馬の限界、現在の地方競馬の惨状を予告していたような父であったから、高校生の僕の理論など問題外、常に簡単に論破され、話は全く前に進まない。凱旋門賞に対する『夢』を語る事も侭ならなかった。悔しかった。そして、人は叶わぬ恋ほど熱く燃えるものである。ホースマンヘの道、ロンシャンへの道。想いは一段と募った。 解決策は行動しかなかった。高校を卒業し、一応の浪人生活に入っても、受験勉強は全くしなかった。馬の尻ばかり追い掛け、ノートの内容は血統に関する勉強ばかりであった。 さすがの父も呆れ果てたのだろう。あきらめという形で渋々GOサインが出た。19歳、ホースマン人生のスタートとなった。 一度決まってしまえば、師匠となった父の動きは早い。「お前は馬に関してまだ何の能力も無いから、外国で何でも良いから身に付けて来い。これからの厩舎人は英語も必要だから」 この一言で方針は決まった。朝の調教を終えてから御茶ノ水のアテネ・フランセに通う日々が半年間続いた(残念ながら英語だけ。フランス語も学べば良かった…)。 初の研修先には、オーストラリアを選んだ。 日本に似た、芝のスピード競馬である事。厩舎システムがイギリス式のラッド制である事。欧米に追い付き、追い越せという上昇志向等が決め手となった。いきなりヨーロッパに行くという手もあったが、憧れのニューマーケットやシャンティーで学ぶには、まだあまりにも未熟過ぎると自ら判断した。もつと経験を積んで、ある程度一人前になってから凱旋門賞を見たかった。ロンシャンへの道は、まだ遥か彼方であった。 結果的にはそれが正解であったと思う。 オーストラリアでの一年余りは本当に貧しく、苦しかったけれども、ホースマンとしての礎を築くには、今思えば最高の環境であった。現在ではクィーンズランド州に競馬学校も有り、厩舎で働く日本人も相当数存在するらしいが、僕が渡航したのは1981年、第1回ジャパンカップが行われた年である。競馬場には、本当に誰一人として日本人は居なかった。従って、何をしたくても、自分一人の力で切り拓くしか道は残されていなかった。 一般的には、他人に道を付けてもらうのも、ある意味合理的で近道であろう。しかし、我々の職業は会話の通じない馬という動物を中心にして動く特殊な仕事である。プロフェッショナルであり、スペシャリストでなければならない。本来、馬の仕事に近道は許されないのだ。あの時オーストラリアで、何度も壁に当たりながら遠廻りをしながら一つ一つ問題を解決していった経験が、その後馬を仕上げる課程でトラブルに見舞われた時に、どれ程貴重であった事か…。 またその経験が、調教師となった現在の仕事では更に活かされている事は語るまでもない。調教師は、オーナー、牧場、従業員、JRA、マスコミ、ファン等々いかなる相手に対しても個々に判断し、自ら責任を負って対処しなければならない立場にある。判断に困った時に、あの四面楚歌の23年前を思い出すと、不思議と自信が湧いてくるのだ。そして、この自信と自分の主張を通す強い意志は、いつか来たる日の海外遠征において、語学力を含めて更に大きなサポートとなってくれる事だろう。 84年秋、サガスがアークウイナーとなった1週間後から栗東で働き始めた。おぼろげながらロンシャンへの道が見え始めた気がしていたが、現実は厳しかった。初めて担当したディクタス産駒の牝馬は調教中に骨折し、僕の膝の上で息を引き取った。続いて受け持った期待のハンターコム産駒は、内臓破裂という競走馬には珍しい症状でこの世を去った。2頭のオーナーは各々吉田善哉氏と㈲社台レースホース。ショックは大きかった。代わって担当した馬達も、重賞はおろか1勝することも侭ならなかった。ルーティンワークに忙殺され、夢を見るのも忘れかけていた3年間だった。 これではいけない。何かを変えなきゃ、変わらなきゃ、と糸口を模索している時に見たのが、86年ダンシングブレーヴの鮮烈なる勝利と88年トニービン優勝の映像だった。 弛緩した身体に、一本筋が通った気がした。 大袈裟でなく、仕事に疲れ埋没しかかっていた僕を、あの2頭が救出してくれたようなものだった。それも大好きなロンシャンの緑を背景にして。 『夢』は復活した。僕はすぐにドバイ奨学生応募用の論文作りに取り掛かった。 特別なものなど存在しない 翌89年8月から、ニューマーケットで研修に入った。この研修は多くの人々に支えられていた事を今でも忘れられない。勤続5年以上という応募資格を強引に手直しして後援してくれたJRAの佐藤雄三理事(当時)、3ヶ月もの間厩舎を空ける事を「お前の将来のためだから」と快諾してくれた菅谷調教師、そして当然この研修費用を負担してくれたモハメド殿下である。責任の重さを感じていたのは勿論だが、それよりも、皆さんの支援が僕に初めての凱旋門賞ライヴを見させてくれるんだ、という喜びばかりが胸の内を占めていたのを鮮明に思い出す。 まずはじめにお世話になったのは、G・ラッグ厩舎だった。近年、森秀行厩舎が欧州遠征する際に馬を入厩させている厩舎として知られている所で、僕が行く以前の著名馬としてはスティールハート、最近ではペンタイアを出しているイギリスの一流厩舎である。ここの調教は、一言で言えばオーソドックス。それだけにニューマーケットの一般的な調教パターンを十分学ぶ事が出来た。また「将来調教師となった時の勉強になるから」という事で、イギリス国内だけではあったが、各地の様々な競馬場に、トラベリングヘッドラッド(遠征責任者)と共に遠征させてもらった。出来ればフランスやイタリア、ドイツ等への飛行機輸送も経験したかったが、まあそれは贅沢というものだろう。 1ヶ月余をG・ラッグ厩舎で過ごした後、僕はC・E・ブリテン厩舎へ研修場所を移した。別にG・ラッグ厩舎に最後までお世話になる事も可能だったのだが、僕が「どうしても!」と望んだのである。C・E・ブリテン厩舎には、英ダービーを100対1(101倍)の大穴で2着したテリモンが居たからだ。テリモンの次走予定は凱旋門賞(結局は出走せず)、僕はどうしても伯楽C・E・ブリテン調教師の凱旋門賞へ向けた馬の仕上げを見てみたかった。 ニューマーケットではいわゆる〝パブ″の2階に住んでいたから、仕事が終わると、階下に集まってくる数多くのホースマン達と知り合いになった。その中でも、いつも一緒に飲んで騒いでいたのが、M・A・ジャーヴィス厩舎のラッド達だった。彼等とはビールを賭けてダーツや玉突きの〝日英対決″をする事で、いつの間にか何でも言い合える仲になった。 そのM・A・ジャーヴィス厩舎に居たのがキャロルハウスである。期せずして、2頭の凱旋門賞出馬を身近で観察できる幸せに恵まれた。今考えても、僕は本当にラッキーな男である。 結論から言ってしまえば、2頭の凱旋門賞への調整過程には、取り立てて「コレ」と言えるような特別なものはなかった。もちろん厩舎関係者はかなり気合が入っているように見受けられたが、日々の調教はごく普通に、淡々と続けられた。ブリテン調教師やジャーヴィス厩舎の友人達に何度も確かめたが、「アーク・スペシャルなんてものは存在しないよ。あればこっちが教えて欲しいぐらいだ」と一笑にふされた。この言葉は今でも肝に銘じている。我々は管理馬(担当馬)がGI等の大レースに出走する事になると、ついつい特別なことを施したくなるものだ。だがそれは、人間の自己満足あるいは不安隠しにしか過ぎず、馬には迷惑なだけである。むしろ敏感にその雰囲気を感じ取った馬がイレ込んで、状態を悪くしてしまうケースも多い。 「調教にスペシャルは存在しない」 いつの日か凱旋門賞初挑戦という時が訪れても、僕は決してこの言葉を忘れない。 見事アークウイナーとなったキャロルハウスについての話をもう少し続けよう。彼の凱旋門賞へのステップはフェニックス・チャンピオンSだったが、短期の研修でアイルランドに居た僕は、偶然そのレースも観戦する事が出来た。ひどい道悪の中でのレースだったが、とても力強い勝ち方だった。だが僕がその勝ち方以上に驚いたのは、ニューマーケットに戻った直後にキャロルハウスの馬房を訪れた時の馬の様子だった。 全く疲れていなかった。否、正確に言えば、全く疲れを見せていなかった。あのひどい道悪の中での激しい競馬を勝ち抜き、しかも隣国とはいえ飛行機による直前輸送をこなした後である。その頃の僕の常識では全く考えられない事であった。 キャロルハウスのブルードメアサイヤーはシルバーシャークで、それ故道悪巧者として知られるが、同時にシルバーシャークのタフさも受け継いだように思う。 タフな彼はアイルランドから帰った後も順調に調教を積み、グングン調子を上げて、遂に凱旋門賞までも制覇してしまった。この勝利に道悪馬場がかなり有利に働いた事は僕も否定しないが、再びフランス輸送を経て本番まで制してしまった快挙には、彼のタフネスぶりが大きな要因であった事はまた疑いようがないだろう。 凱旋門賞に限らず、外国遠征馬にとっては今や当たり前だが、肉体的にも精神的にも力強い馬、そして馬場状態不問の馬でなければ栄光を手にする事が出来ない事を、キャロルハウスとM・A・ジャーヴィス厩舎の友人達は15年前の僕に教えてくれたのだった。 日本代表の風格 そして2004年10月。レース前日の朝、タップダンスシチーの様子を見にシャンティーを訪れた。前日夜に入厩したばかりだというのに、しっかりと常歩で落ち着いて歩いている姿に少し驚いた。精神的に少しでも弱い部分がある馬はどうしても速歩が混じって小走りになるものだ。ましてタップダンスは癇性がきついと聞いていたから尚更であった。 「これならやってくれるかも!」 堂々と歩く姿を見て、思わず呟いた。 報道陣オフ・リミットの角馬場での姿も立派なものだった。J・E・ハモンド厩舎の馬達を引き連れて歩く姿は、日本代表の風格に満ち溢れていた。 角馬場からの帰り道、鞍上に声を掛けた。 「テッちゃん、おはよう。さすがだな、たいしたもんだな」 「ああ、おはようございます。そうでしょ!?去年までのタップなら、こうはいかなかったと思いますよ。すごい成長してます」 哲三は日本代表馬の首筋を愛撫しながら、にこやかに答えてくれた。不安だった馬の状態を自ら確認して、とても満足そうだった。 その後佐々木調教師にお話を伺って、当初の予定から大幅にスケジュールが変更されたとはいえ、陣営がいかに万全の態勢で馬をケアしているかが判り、僕としてはとてもハイな気分でパリへの帰途についた。あまりに気分が良くて、その晩はシャンパンとワインを痛飲してしまった程だった。 ところが、翌日ロンシャンの超満員のパドックで、僕の前に姿を現したタップダンスシチーは、昨日の馬とは別馬のような印象を受けた。瞳が、キョロキョロと何かを探し求めるように不必要に動き、落ち着きがない。集中力を欠いて周囲の雰囲気に戸惑っているようだ。僕は「だからといって、決して走れない訳ではない」と自分を奮い立たせたが、それは虚しい強がりだった。時間の経過と共にイレ込みは激しさを増し、明らかに状況は良くなかった……。 直前輸送のメリット 今から13年前、あのキャロルハウスの凱旋門賞から2年後。僕は雑誌のインタビューにこう答えている。 インタビュアー「直前輸送というのは、馬の精神状態のことを考えると、どうなんでしょうか?」 「僕はかえって良いと思います。直前に、例えば府中に入れば、馬はもうすぐレースなんだなって緊張を始めます。その期間があんまり長いよりは、いいんじゃないかと。海外に遠征するときよく言われますけど、何ヶ月か前から行って、馬を向うの環境に慣れさせた方がいい、それはそれで的を射ているわけです。2週間とかの中途半端なことよりずっといい。でも逆に直前に持っていって戦わせるのも良いと思います」 この考えは、大筋において現在も変わってはいない。それだけに今回のタップダンスシチーの直前輸送はたいへん興味深かったし、むしろ予定変更が吉と出るのではないか?と期待もした。結果は残念だったが、当初からのスケジュール通りの直前輸送ではなかった訳だし、持論は揺らいでいない。 人間も外国等全く環境の異なる場所に行った時に、着いて2、3日は興奮して元気だが、その後に一気に疲労感が増したり、時差ボケが出る事は多い。これは脳や神経系の支配する領域が大きく影響するからなのだそうである。したがって輸送前や輸送中の肉体的ケアをしっかりとしてやれば、異国の地に着いて(馬が外国を理解するかは疑問だが…)興奮した精神状態のままレースに臨む方法は、科学的にも根拠があるように思う。 普段慣れ親しんだ環境で最終調整できる利も大きい。サッカーワールドカップアジア予選のインド戦やカタール戦においてジーコ監督は国内合宿を選択したが、それと同じ考え方。練習環境は重要であり、アウェーの洗礼は競馬もサッカーと変わらない。 とにかく、外国に遠征するのに直前輸送なんて馬が可哀想…という前時代的常識を覆さなければ、何も前には進まない。ほんの10年前には、小倉や新潟に前日輸送でレースに使うなんて、現在では当たり前の事も、非常識だったのだ。常識は常に変化している。 また調教師の考え方として ― 国内での前日輸送が当然となったように ― 外国遠征そのものを日常としなければならない。凱旋門賞に行く事が日常的な業務の一環でなく、非日常の特別な出来事という捉え方をしているうちは、絶対に欧米の猛者達には勝てない。 という事は、同時にもっと柔軟な考え方で馬やレースに対さなければならない事が要求される。現在の日本のように、春の時点から凱旋門賞一本に目標を絞るのではなく(もちろん調教師として、レースに対するプライオリティは存在する)、馬の状態や相手関係、馬場状態等を十分に考慮して、目標のレースを変更したり、遠征を取り止めたりする勇気が必要である。常にアンテナを細やかに張りめぐらせ、フットワークを軽くしておくのだ。例を挙げれば、ロンシャンの馬場が悪すぎるから目標を京都大賞典に切り替えたり、毎日王冠のメンバーが強すぎるので英チャンピオンSに遠征を決めたり…というように。 こういう事が当たり前に出来る手腕を身に付けてこそ、日本馬が凱旋門賞を当たり前に勝つ日が来る、と僕は考える。 優秀な預言者でありたい 長々と直前輸送の必然性について述べてきたが、これには当然調教師としての経営判断も働いている。厩舎には外国に遠征するような馬ばかり入厩している訳ではない。僕が長期間留守をするような事になれば、他の馬主さんに申し訳が立たない。それに加え、長期遠征となれば莫大な費用負担をオーナーにお願いする事になるし、厩務員や調教助手の人員配置の問題も発生する。そのあたりも考慮した上での直前輸送なのである。 しかし、前出のインタビューでも触れていたように、単純に馬の事だけを思えば、エルコンドルパサー方式で早目に渡欧し、ステップレースを使いながら、馬を現地の風土に適応させていくのがベストである事は論を待たない。 自分なりに構想は持っている。 無論、将来的な話だが、現在進行中の競馬界の規制緩和が更に進めば、矢作芳人厩舎が栗東だけに留まっている必要はなくなる。その能力と器量がある事が条件だが、各地に分厩舎を持つ時代が必ずやってくる。矢作厩舎ニューマーケット分厩、矢作厩舎サンタアニタ分厩といった具合だ。そしてニューマーケットにはヨーロッパ競馬に適応する馬を、サンタアニタにはアメリカのスピード競馬に適応する馬を入厩させ、また出走予定レースによって馬を頻繁に入れ替えていく。 夢物語と笑うならば笑え。 ほんの数年前、誰がコスモバルクの出現を予想したか?認定厩舎制度を利用した地方馬が、クラシック三冠すべてで主役を張るなんて事は、夢物語以前の問題だった。一度押し寄せてきた波は、もう誰にも止められない。そればかりか、波は更に大きくなって次々と押し寄せてくる。 調教師という職業は、預言者でなければならない。 預言者になる為に、半生を捧げて努力してきた。そして、生ある限り優秀な預言者でありたいと願う。 イチローは「このドキドキ・ワクワクする緊張感がたまらない」と語った。 僕はその緊張感をオーナーやスタッフ、そしてファンの皆さんと分かちあいたい。 僕が凱旋門賞を獲る時に。yahagistable.com - 2二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:23:23
あの弟子にしてこの師匠あり
- 3二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:24:53
開成卒業したのに馬の尻ばかり追いかけた男
- 4二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:25:45
解決策は行動しかなかった。←まあせやろな
高校を卒業し、一応の浪人生活に入っても、受験勉強は全くしなかった。←うおっこれはキマりすぎ - 5二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:28:11
流石ハットマンの親というか父親も弁が立つ人だったんだな
- 6二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:32:41
若かりしハットマンがやるかやらないかで言ったらこれぐらいはやるだろうなという謎の納得感がある
- 7二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:35:05
勉強しねえの見たらすぐ許可する辺り損切りが上手いというかなんというか
流石に穀潰しにさせるくらいならってなったんやろか - 8二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:35:05
矢作厩舎とかいうスマートな国際派の皮をかぶったスポ根ガンギマリ厩舎
- 9二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:36:51
自分が認めるまで勉強したり就活したりは死んでもやらないのが分かったんやろな
- 10二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:37:27
- 11二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:44:32
- 12二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:49:29
競輪で浪漫車券買って討ち死にしたりもう○○は信じられん!と冷徹車券を買ったらその○○に車券破壊されたり弟子のイベントにノリノリで急に出たり今は今でエンジョイしてるよな
- 13二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:50:23
競輪のなにがそんなに駆り立てるんだろう
- 14二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:51:17
ハットマンも最初にオーストラリアに武者修行行ったのか
弟子もそうだけど立場としては前に矢作厩舎に来てたハンバーガー屋のYOUみたいな感じかな - 15二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:53:16
開成出たなら東大京大旧帝行けるだろうに何がどうなって競馬界に行こうと思ったのか
- 16二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:54:15
なぜかハットマンが開業前後に執筆して紙上に掲載したコラムや文章がアーカイブで見られる矢作厩舎HP
予後不良寸前の管骨骨折を起こした馬を安楽死させず治癒させる過程で530キロあった馬が数週間で450キロ程度になった話とか壮絶
一応言っとくとその馬は完治して競走能力喪失レベルの骨折をまたやったのにそれも完治、8歳まで現役を続けた - 17二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 18:55:20
理論武装を完全論破されて勢い任せにするとかガンダムみてえだ
- 18二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:10:30
この頃の矢作さんの回顧録は>>1の記事の18年後の2022年に東スポの連載にも残されている
尖りっぷりもさることながら生き方の勉強にもなるから特に若い人には読んでみてほしいね
矢作芳人調教師連載【5】競馬の道へ進む僕に親父が出した2つの条件大学へは行かず、競馬の世界に進む――。 そんな僕の決断をお袋は気付いていたと思うし、内々に言っていたような気もする。だが、それでも親父に伝えるtospo-keiba.jp - 19二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:14:59
- 20二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:19:25
- 21二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:23:37
- 22二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:41:18
- 23二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:44:39
親父さんもしっかりした方だったんだな
- 24二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:45:55
やはりトンビは鷹を産まないな
鷹の親は鷹や - 25二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:49:38
眞杉を本命にし続けたのに全然良い走りしてくれなく悉く夢破れた結果とうとう眞杉を切ったら眞杉に勝たれたのまだ面白い
- 26二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:51:59
確か2個上の学年に岸田文雄が居る
- 27二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:53:01
むしろ、80年代頭ぐらいで、地方競馬の頭打ちと惨状を的確な理論によって予見してた矢作父が慈眼過ぎる
- 28二次元好きの匿名さん25/05/29(木) 19:59:02
そこからバブルくるのにその先すら予見してるんだものな