- 1◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:31:00
触れそうだった。
声すら立てられないほどに静かな夜の中で、彼女は目を閉じていた。
俺の視線を受け止めるためではない。
その先を待つように、まぶたを閉じている。
風の音も、秋の匂いも、全てが遠くなっていて、彼女の吐息だけが俺の眼前で膨らんでいた。
あと、ほんの数センチ。
俺がその距離を越えたなら、すべてが変わってしまう気がした。
けれど、赤く染まったその輪郭に触れる前に、世界はほどけるように崩れた。
息を止めていたことに気づいたのは、目が覚めてからだった。
夢だった。
けれど、それがどうしようもなく真実の一部だった気がして、ベッドの端に座り込んだ俺は額に手をあてた。
酸素を求めて全身が早鐘を打っている。
喉の渇き。
コップ一杯程度の水では満たされない。
暗がりの部屋を置き去りに、シャツのままドアを開ける。 - 2◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:31:46
時計の針は深夜一時を回っていた。
やけに軽い足取りで、俺は観覧街へ向かう。
夜はほとんど真っ盛りだった。
酔いの残った男たちの影が、アスファルトにへばりついて笑っている。
喫煙所の灰皿に寄りかかる女の髪が、灯を乗せて風に舞っている。
煌びやかな女の腰に回された手が、微笑みと共に妖しい光へと入っていく。
夜の街は生きているのに、俺の呼吸だけが死んだままだった。
誰も彼もが、どこかへ向かっていた。
俺が、俺だけが、行き先を持っていなかった。
ショーウィンドウ越しの灯りに、自分の姿が映る。
他人のようだった。
眠気も酔いもないのに、まぶたが妙に重たい。
喧噪がかすれるたびに、誰かの声を探している自分に気づく。 - 3◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:32:37
遠くで猫の鳴き声がした。
つがいを追うように、俺はその声を辿る。
ふらりと細い路地に足を踏み入れた。
袋小路だった。
明滅する街灯の陰で酔客が蹲っている。
違う。
蹲っていたのは俺だった。
それは紛れもなく俺自身だったのに、不思議と怖さはなかった。
気づけばそのまま地面に腰を下ろして、奴の手の甲を見つめた。
白く細長い左の薬指に、古傷のような痕が残っている。
ひとつ、思い出した。
彼女は俺の手に触れていた。
夢の中で、彼女はまっすぐ俺を見ていたのだ。
目を閉じる直前、たしかに、そうだった。
俺が何も言えないまま、その距離が埋まるのを待っていた。 - 4◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:33:18
不自然なことではなかった。
夢の中だったのだから。
痛みも、笑いも、記憶も、全部そこに残っているのに。
今、そのどれにも触れられないことに苛立ちを感じた。
「なぁ」
声がした。
どこか幼さを残した、自分の声だった。
奴が顔を上げる。
今より少し若くて、少し真っ直ぐだった頃の俺。
「あんまり、変わってないな」
「……俺はお前だからな」
「そうでもない」
「何が言いたい」
「大事なことからずっと逃げている」
「逃げてなんか……」 - 5◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:34:08
声が途中で濁った。
否定しきれなかった。
「お前はまだ、“許される側”に立っていたいんだ」
「……」
「彼女の笑顔を肯定する代わりに、自分の感情は不在のままにしている」
「……違う」
「どう違うんだ?」
「俺は……俺はトレーナーで……」
「それは看板の話だろう?」
「シービーにとって、俺は……」
「彼女にとってお前がどうか、ではないんだ」
声がやさしくなった。
「"俺が"彼女をどう思っているのか」
問われて、俺は黙るしかなかった。 - 6◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:34:41
通りの向こうで、枯れ葉が宙に舞っていた。
赤く、静かに、夜空に吸い込まれていく。
「なぜ夢の中で、あの距離を越えようとしたのか、お前はもう知っている」
「俺は……」
俺の言葉を、奴が遮った。
「夢は嘘をつかない」
「……現実は?」
「現実は、怖がらなくていいと言っている」
つむじ風が凪いだ。
どこかで、何かが変わろうとしていた。
違う。
俺が、変わろうとしていた。
「別の自分に会ったら、彼女のことをもっとわかるとでも思っていたのか?」
「……そうかもしれない」
「ここにはもう何もない。あとはただ帰るだけだ」 - 7◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:35:09
「どこに?」
「自分の部屋に。彼女が来るから」
「……来る?」
「ああ。ずっと前からそう決まっている」
その言葉が終わるや否や、一際強く風が吹いた。
気づけば、俺は部屋に戻っていた。
どこをどう通って帰って来たのかはわからない。
ただ、シャツを脱ぐと襟が微かに湿っていた。
風にでも吹かれたのか、それとも汗だったのかもしれない。
時計はもう三時を回っていた。
なのに、目だけがやけに冴えていた。 - 8◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:35:54
俺はソファに沈み込み、ただ、天井を見上げた。
しばらくして、チャイム音が響く。
一度、間をおいて、もう一度。
ゆっくり立ち上がってドアを開けると、シービーが立っていた。
「……夜更かしさん、だね」
「……どうかしたのか」
「ううん、なんとなく……来ちゃった」
彼女はそう言って、少しだけ眉尻を下げた。
それだけで、胸のどこかが押されるようだった。
「キミが、起きてるような気がして」
「どうして」
「……キミが泣きそうな顔してたから」
「……俺は」
「言わなくていいよ。分かってる。きっと、アタシも言わない」 - 9◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:36:08
言葉は、壁になるから。
沈黙は、橋になることもある。
だから俺は、黙って一歩、踏み出した。
それが、夢の続きだと気づいたのは。
塞いだ隙間から漏れ出た吐息の、切ない甘さに満たされた時だった。 - 10◆GfmocIZ7xY25/06/04(水) 21:38:28
終わり
正しい書き方がわからなくなって来たのでこれでいくことにしました
乙女なシービーが見たかっただけの物語です
前作はこちらからどうぞ
初雪へ【SS・曇らせ注意】|あにまん掲示板初雪が降った。車椅子を漕ぐのをやめて、アタシは辺りを見渡した。静かすぎるほどに静かだった。道は目の前で途切れていた。舗装の継ぎ目が崩れ、白く霜を噛んだ雑草がその割れ目を這っている。もう誰も、この先へは…bbs.animanch.com - 11二次元好きの匿名さん25/06/04(水) 21:55:51
マジで描写がすげぇわ…
前作と違ってシービーとシビトレが結ばれてよかった
最初のキスはどんな味がしたんだろな - 12二次元好きの匿名さん25/06/04(水) 22:39:43
「夜更かしさんだね」は破壊力強すぎる
- 13二次元好きの匿名さん25/06/04(水) 23:45:45
いいね、こういうビターな雰囲気がいい
万人受けはしないかもしれないけど、少なくとも俺は好きだよ - 14二次元好きの匿名さん25/06/05(木) 07:36:01
よくわからんけどキスがえっち
- 15二次元好きの匿名さん25/06/05(木) 17:25:48
このレスは削除されています
- 16◆GfmocIZ7xY25/06/05(木) 17:26:52
- 17二次元好きの匿名さん25/06/06(金) 01:22:22
シービーも同じ夢を見て自分のドッペルゲンガーに会ったんだろうか
考えすぎかもだけど