- 1◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 21:27:45
日傘をたたんで店内に入る。
外の熱気が嘘のようにかき消えて、冷たく乾いた風が尾花栗毛を揺らした。
SNSで話題のネイルオイルが確かこの系列のドラッグストアにあったはず。
そんな目的があったものの、オフの日にまで炎天下のなかを歩いてたどり着いたクーラーのきいた屋内では、涼むことを優先してしまう。
そうして気ままに店内を見て回るゴールドシチーの目にとまったのは、しかし商品ではなかった。
「トレーナー……?」
角を曲がった棚の前で腕を組んでいるのは、紛れもなくシチーのトレーナーだった。しかも、その場所は美容関係のコーナーである。
時折スマホを出して目の前の商品と見比べてと、何やら念入りな様子。
スキンケア? ボディケア?
───まさか、プレゼント? - 2◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 21:28:46
「いや、ナイナイ、ないでしょ普通に」
頭によぎった考えと、女性にはにかみながら選んだ化粧品をプレゼントするトレーナーの姿を頭を振って追いやる。
どーせボディケアに悩んでるとか、そういうことだろう。それくらいなら力になれるかもしれない。
シチーは前髪を直しながら、まるきり偶然通りかかったようにトレーナーに声をかけた。
「やっほー、トレーナー。さっきから何悩んでんの……」
(……あ)
腹の底が冷える。やってしまった。失敗した。
え、ちょっと待って。もう一回やり直させて。
「(折角今来た風を装ったのになんで今アタシ「さっきから」なんて言った!? これじゃトレーナーのこと陰から見てたの丸分かりじゃん!?)」
痛恨のミス。しかし、この場でその失態に気づいていたのはシチーだけだった。
「え!? シチー!?」
振り向いたトレーナーはシチー以上に驚いていた。唖然とした表情で、「なんでここに…」と呟いている。
その顔を見ながら、シチーの心情はさっきのミスどころではなくなっていた。
「(トレーナー、アタシに会いたくなかったんだ)」
なんとなく、そう思った。
自分がトレーナーの立場だったら、完全オフの日にまで面倒な担当と出くわすなんて願い下げだろう。そりゃそうだ。この前だってCMの撮影で押したスケジュールを立て直すためにトレーニング内容を調整してもらったばかりなのに。
二足のわらじでやっていくと決めて、それを応援してくれる人なのも分かってる。だからといって、かけている迷惑が消えるわけじゃなくて……。 - 3◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 21:29:56
気の抜けていた表情に力を入れる。笑顔でなくていい。ただ、隙のないように。
さらっと挨拶したら別れて、店から出るだけ。動作を確認しながら、別れの挨拶を口にしようとした時。
「驚いた、いま君のこと考えてたから」
「それじゃあね、トレ……は?」
「何か用が……ん? もう帰るのか? 気をつけてな」
「いやちょっと待って、アンタ今なんて言った?」
「気をつけてな」
「その前。最初」
「シチーのこと考えてたらシチーが来てびっくりした」
「なん……なんで?」
あ、駄目だ。眉が下がって、口に力入んない。アタシ、今どんな顔してる?
「日焼け止め、きれたから買いに来たんだ。で、たまたまシチーがCMやってたやつ見かけて」
「トーンアップのやつって男が使ってもいいのかなーとか、ピンクとかラベンダーとかあるけどどの色がいいんだろうなとか。調べてみたけどよく分からなくて……。
こういう時シチーならどう選ぶんだろうなって考えてたら、ちょうど君が声をかけてくれたんだ」
トレーナーはへらっと笑って、「もし暇だったら選ぶの手伝ってくれないか?」なんて言っている。
それを見ていたら、肩に力を入れていたのがバカみたいに思えてきた。トレーナーと同じように、へらりと笑ってしまう。この笑い方、なんか癖になるんだよな。
「ん。しょうがないな」
トレーナーの隣に並ぶ。
これに関しては、アタシがトレーナーのトレーナーなので。 - 4◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 21:31:03
「いやあ、シチーがいてくれて助かった!」
「別に……というか、薦めたのアタシだけど、全部買わなくても良かったのに」
買い物に付き合わせたお礼にと誘われたカフェ。
トレーナーの手もとには、日焼け止めの他にも化粧水や乳液などのスキンケア用品にとどまらず、下地やフェイスパウダーといった化粧品も詰まった袋が置かれている。
メンズの化粧品にも興味があったらしいトレーナーの要望を聞きながら導入として揃えたけれど、そういえば大事なことを聞いていない。
「そういえばトレーナー、なんでメイク始めようと思ったの?」
「前も言ったけど取材の写真うつりが……」
「でも、前にトレーニング手伝った時にはメイクのこととか言ってなかったよね」
ビタミンカラーの酸っぱいジュースをストローで混ぜながら問う。トレーナーはそうだったんだけどなあ、と頷いた。 - 5◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 21:32:03
「君が頑張っていたからな」
「アタシ?」
「君がレースのことも美容のことも頑張っていたから、俺ももっと頑張ろうって思えたんだ」
「……何それ。単純。単細胞。バカ正直」
「そうか? 無人島プロジェクトでもシチーがスキンケア頑張ってるのを知って、教えてもらったこと頑張ってるって言ってくれた娘たちがいただろ?」
「いや、あれはモデルとしてのアタシに憧れてるからであって……」
「それだけじゃないと思うぞ」
アタシの目をまっすぐ見て微笑んだ。トレーナーはいつも、大事な話をする時は目をそらさない。
「シチーの頑張る姿には、見た誰かを『頑張ろう!』と奮い立たせる何かがあるんだよ。それは君がキレイだから、だけじゃない。その裏で努力を重ねているからだ。
頑張る君がキレイだから、みんな、力を貰えるんだよ」
よくそんな小っ恥ずかしいこと言えるよね、と言おうと思ったけど、ぐっと喉が詰まって言えなかった。
キレイに含まれてるのは綺麗だけじゃないって、最近分かってきたけれど。
誰かの頑張る姿に心を動かされて頑張れるって、よりによってアンタに言われるなんて。 - 6◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 21:33:08
───知っている。
アタシを送り出した後、トレーナー室の明かりが夜遅くまで灯っていることも。
英語の論文に、いくつもの付箋と手書きのメモを重ねていることも。
スケジュールの調整のために、自分のオフを何度も削っていることも。
そして、アタシが知らないところで、もっとたくさんの努力を積み重ねてることも。
それでも一度だって、弱音を吐いた姿を見たことはない。
愚直なまでに真っ直ぐに。
歩調を緩めず、一歩ずつ、前だけを見て進んでいく。
その背中を、ずっと見てきた。
口を開いて、また閉じて。上手く言葉にできなくて、口早に「アタシもだよ」とだけ言って、夕陽に目を細める。
自分の映る窓ガラス越しに、トレーナーが座っている。
映り込む自分の輪郭は、昔より少し柔らかくなったような気がした。
「ねえ、トレーナー」
「なんだ?」
「これからも、ちゃんと見ててね。アタシの横で、アタシのこと、ずっと見ててね」
「──ああ」
窓の外、遠い空を鳥が飛んでいた。
誰かの背中みたいだった。真っ直ぐで、力強くて。
羽ばたいていけ。ずっと、ずうっと、どこまでも。 - 7◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 21:34:10
おまけ
昨日は本当に助かったよ。ありがとうな、シチー。はいこれ、お礼。前に君が言ってた新作のネイルオイル。これ買いに来たのかと思ってたけど、結局買い物付き合わせちゃったなって。
……え? 何で覚えてたのかって?
シチーの言ってたことだし、忘れないよ。
うん、トレーニング始めようか。今日は何だか慌ただしいな……。まあいいけど。
ストレッチしてからウォーミングアップで一周ゆったり走っておいで!気をつけてな〜!
(小声)いやー、あのネイルオイル調べたらメンズでも使えるらしいし良さそうだったから自分の分も買っちゃったんだよな〜。これじゃシチーとお揃いだな、なーんて……
シチー!? シチー!? なんでコケた!?!?
待ってろ、いま保健室連れてくから!!!!!!
おしまい - 8二次元好きの匿名さん25/07/01(火) 23:18:52
季節感のあるトレウマSSは良いものだ…
- 9二次元好きの匿名さん25/07/01(火) 23:21:07
いいSSだった
- 10◆MFaz7BoMbM25/07/01(火) 23:54:46
- 11二次元好きの匿名さん25/07/02(水) 00:15:47
おあともよろしいようで何より
- 12◆MFaz7BoMbM25/07/02(水) 00:21:12
熱血で真面目ないいやつだけどシチーにキモイとかストーカーとか言われても仕方ないよなと思えるのがシチトレだと思うのでこんな感じの終わりになりました。そう言っていただけると嬉しいです!