- 1二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 09:57:42
- 2二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 09:59:26
やけに暑い夏なのに、今日だけはずっと涼しい。風が気持ちよくて、いつにも増してレッスンなんてどうでもよくなって。
わたしはプロデューサーと二人きりでお出かけ。青空も心地よさも、愛する人も、全てがあって──足りないものはひぐらしの声くらいだった。
都会に片足を突っ込んだ郊外の街。そんな中でもさらにクーラーの効いた、駅の真横の殺風景なオフィスを後にして、彼にしては珍しく「ふう」と一息つく。
「今回の外出はこんなところでしょう──お疲れ様でした、秦谷さん。」
「ええ。お疲れ様です、プロデューサーさん。」
こちらを向いて届けてくれた言葉に、わたしなりの気遣いをできるだけ込めて返した。
「…それにしても珍しいですね。秦谷さんの方から、今度のステージを直接見ておきたい、なんて言い出すとは。」
「まあ。アイドルとして当然でしょう?それに、お天気も良くてこんなに涼しいんです。ふたりでお出掛けできるなら、とっても素敵だと思いましたから。」
そっと並ぶ肩を近づける。彼の目線が追う。
普段なら立場上云々で一線退いてくるところだが、それでも言及しないのは疲れからか。それとも、少しずつでもわたしを受け入れてくれているからか。
──後者だったらいいなと思う。
「理解されているのであれば、常にしてほしいところですが……。今日は軽い打ち合わせと挨拶回りも兼ねていましたから、疲れたでしょう。ちょうど列車が出ますから車内で休んでくださいね。」
「ええ、そうさせていただきます。」
彼の、いつも通りの無自覚の優しさを受ける。 - 3二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 10:00:27
プロデューサーだから、というわけでもない──彼の根っからの優しさが、今、わたしだけに向けられている事実が、どうしようもなく愛おしい。
改札をくぐりながら、恋愛感情と呼ぶにはあまりに粘ついた、赤黒い気持ちがぐつぐつと沸き出すのを感じる。それを感じさせないように、なるべく丁寧な言葉を編む。
「……プロデューサーさんこそ、随分お疲れに見えます。…いかがでしょう?一緒に列車に揺られながら転寝などは。」
彼の眉が少し動く。
「ありがたい申し出ですが、書類の確認をしなければ。携帯で済ませられますので。」
分かりきったそっけない返答。
でも、わたしのプロデュースで詰まっている彼のスケジュールはすごく嬉しくて。…このままわたしにつながる情報だけで、頭を埋め続けてくれれば。
わたしにひたむきな彼の横顔が、大好きで。
「それに、俺まで眠りこけてふたりで寝過ごす…なんて、想像もしたくありませんから。」
「まあ。魅力的に思えますが。」
《──2番ホームに、列車が到着します。ご注意ください。》
無機質なアナウンスが響く。少しずつ強くなる、ホームにわたる風。視界の端でそっと何かが動く。
「…この列車ですね、足元に気をつけ──」
彼もその“何か”、いや誰かに気づいて目をやる。
…線路の方にふらふらと吸い寄せられて…倒れ込んだ。列車の轟音が近づく。
少し遅れて背筋が凍る。彼がわたしの眼前に手を伸ばす。彼の血色で網膜が満たされる。
少し嬉しいけど、同時に体の奥の何かが警告した。
世界が壊れる感覚がした。
ばん、と、破裂音とも打擲音ともとれる、なにかが激突する音が響いた。 - 4二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 11:54:21
保守
- 5二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 13:13:08
保守
- 6二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 14:27:32
埋め
- 7二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 15:06:35
彼の手で隠されなかった視界の隅に、嫌な色が飛び込んでくる。塊か液体かも分からない。脳に、がりがり、とストレスが刻み込まれる。
直視せずに済んだのは不幸中の幸いだろうか。
────直視?わたしはともかく、彼は?
その後の記憶はまばらだった。
彼は真っ青な顔でわたしを気遣ってくれて…いっしょに立ち尽くしていた。
駅には一応の救急車が来て、人型と思えないシルエットの影がビニールシート越しに浮かぶ。
彼が携帯を──おそらくタクシーを呼ぼうして──取り出したが、明らかに手が震えていた。
まともにタップできていない。
異常だった。
彼のこんな姿は初めてだった。
わたしが代わりに電話をかけて、彼の袖をゆっくり引っ張って駅を出た。
タクシーの中で彼はずっと下を向いていて、なぜかわたしに謝るばかりだった。
自然に腕を組めたのはすごく嬉しかったけれど、こんな状況でも彼のことばかり考えてしまった自分が分からなくて──わたしも決してキズが浅い訳では無いのに。
運転手さんは、何も知らないまま、ミラー越しにこっちを見ていた。
その目が、なんだかやけに気まずそうで、今でも覚えている。 - 8二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 16:39:11
ほしゅ
- 9二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 17:15:45
美鈴も余裕ないの、良い
- 10二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 18:57:21
保守
- 11二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 19:02:46
主です、退勤次第更新しますので少々お待ちください。
ありがとうございます!
あの子の苛烈な人への欲望に焦燥が加わるとどうなるんだろう、傲慢さの隙間に何が見えるんだろう?と考えてばかりでした。嬉しいです。
- 12二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 20:35:36
うめ
- 13二次元好きの匿名さん25/07/26(土) 23:35:39
ほしゅ
- 14二次元好きの匿名さん25/07/27(日) 01:50:23
学園前で一緒に降りた彼はぼろぼろで、とても1人にはできなかった。
他の先生方にはわたしから話す必要がありそうだな。…彼の保護者みたいで、ほんの少しだけ嬉しかった。
心配を塗り潰すくらいのぐじゅぐじゅした気持ちがひとりでに歩き始める。
ちょうど暗くなってくる時間。
図ったように虫が鳴き始めた。
彼がいつも話しているあの女の先生──あさり先生はプロデューサーの異常をすぐに理解してくれて。
最も信頼している担当アイドルが傍にいられるなら付き添ってあげてほしい、と。
わたしも現場にいたのですが、なんて考えはすぐに吹き飛んだ。
彼にもいるであろう同年代の、同性の、友人たちよりもわたしが選ばれたような感じがして。
彼に触れたい。
彼を染め上げたい。
彼を手に入れたい。
そんな邪な雫がぽつぽつと降り続けて、水溜まりが出来ていた。 - 15二次元好きの匿名さん25/07/27(日) 02:01:23
「…こんな形で手に入るなんて思いませんでした。」
ぎゅっと握り込んだ彼の部屋の鍵。
他ならぬ彼自身が渡してくれた。
彼の手にたくさん触れた、かび臭い金属──すごく愛おしくて、なおさら力がこもる。
少し散らかったリビング。1人用にしては大きくて、2人用にしては小さいソファに座った。
鉛のように動かない彼に、ゆっくりと触れる。
彼のジャケットを脱がせてあげる。
彼のネクタイを解いてあげる。
彼のシャツのボタンを───
「…秦谷さん。」
「なんでしょう?」
「…そこまではさすがに」
「いいえ…こんな時くらい、頼ってほしいです。」
すぐに言葉を遮る。真正面から彼の目を見る。
毒を放り込まれた泉のような、不穏な陰りが美しかった。
彼は黙り込んだ。
「……すみません。情けなくて。あなたを不安にさせて、心配までかけてしまって。」
手首がかちかちと震えているように見えた。
あまりに弱々しい。
彼について回り、彼をプロデューサーたらしめる理性のカーテンが、ぼろぼろに裂けているのを感じる。
そっと指を絡ませて、抑え込むように手を握った。
彼は何も言わずに力を返してくれた。
愛おしくて気が狂いそうだった。 - 16二次元好きの匿名さん25/07/27(日) 03:20:12
結局わたしは帰されて。
翌日、彼は学園に体を引きずって来た。
どうにも生気の灯らない顔、それでも身だしなみは整っている。アンバランスな風体が不安を掻き立てた。
いつも通りのレッスン。
いつも通りの営業。
…けれど、わたしと二人きりでコミュニケーションをとる時は別だった。
縋るような目。
時折「秦谷さん」と、消え入るように呼ぶ声。
その癖に用件は無かったりする。
『呼んだだけ』というやつだろうか、彼のかわいい石灰色の脳が、わたしでいっぱいになる時間が増えた。
「…。」
わたしが彼にいくら近付こうとしても、距離を置こうとしなくなった。
ぼろぼろのカーテンはついに消え失せたようだ。
見る間にエナジードリンクの増えたデスクで、PCにぼう、と向き合う彼の、きっとカフェインに塗れた頬を浅く撫でた。
彼が一瞬息を詰めたのが分かった。
わたしの、わたしたちの世界が、はじまりつつあった。 - 17二次元好きの匿名さん25/07/27(日) 03:41:20
彼の唇が荒れ始めた。
無意識のうちに皮を剥く。
わずかに滲む血と共に、神経を洗う新鮮な痛み。
顔を歪めることはない。
わたしは保湿のためにリップクリームを塗ってあげるようになった。わたしもよく使うようになったから、消費ペースは面白いくらいだった。
彼の爪が欠け始めた。
爪同士で先端をがりがりと削ったり、噛み千切ったり。
誤魔化すように整えて、深爪になっていた。
見かねてガムを勧めてあげると、曇った瞳を細めて喜んでくれた。
折を見てわたしが包み紙を差し出すと、飽きの来たそれを吐き出した。
ほのかな温かさが指に残った。