- 1二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:35:32
- 2二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:36:42
アーラシュの子孫について教えてください
日本語版wikiに一行だけ記述があるけど本当か分からないです
結論から:
「アーラシュの“子孫”」という言及は、中世以降の史書や叙事詩の中にいくつか見つかりますが、古層(アヴェスター)には系譜の記載はありません。日本語版Wikipediaの「タバリーではバフラーム・チュービーナはアーラシュの子孫とされる」という一文は、実際にアラブ・ペルシア系史書や『シャー・ナーメ』に見える系譜上の主張に対応しています。ただし、これは政治的・象徴的な家系づけ(後代の伝承)と見るのが一般的です。([Encyclopaedia Iranica][1], [アカデミア][2])
# 何が史料で確認できるか
* **最古層(アヴェスター)**
Āraš(Avestan: Ǝrəxša)は「最速の矢を持つ射手」として言及されるのみで、家族・子孫についての記述はありません。([Encyclopaedia Iranica][1])
* **叙事詩『バフマーン・ナーメ』系**
戦場に現れる\*\*ピールーズ(Piruz)\*\*が「アーラシュの子孫」と明言される場面があり、敵方として捕らえられるエピソードが紹介されています。これは“アーラシュの子孫”の具体例としてしっかり本文に残っています。([イランナマグ][3])
* **史書・『シャー・ナーメ』周辺の系譜付け**
サーサーン朝末の名将**バフラーム・チュービーナ**(Bahram Chobin/Bahram Čūbīn)について、**アル=タバリー**や**フェルドウスィー**、**ガルディーズィー**らの伝える系統では「先祖がアーラシュ」と叙述されます。研究論文もこれを整理しており、こうした連結は「後代的(比較的新しい)起源」の系譜作為と評されています。([アカデミア][2])
* **日本語版Wikipediaの一文について**
「タバリーではバフラーム・チュービーナはアーラシュの子孫とされている」という記述は、上記の伝承に基づく要約で、出典の方向性としては妥当です(ただし“歴史的事実”というより“物語世界の家系主張”)。([ウィキペディア][4]) - 3二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:38:10
# まとめ
* アーラシュ自身の**古い宗教文献**には子孫の話は出てこない。([Encyclopaedia Iranica][1])
* **中世ペルシア文学・史書**では、物語や政治的正統性の演出として「アーラシュの子孫」を名乗る・位置づける例(ピールーズ、バフラーム・チュービーナなど)がある。([イランナマグ][3], [アカデミア][2])
* よって、Wikipediaの“タバリーの一文”は**伝承上は本当**ですが、**史実として検証可能な血統**という意味ではありません。([アカデミア][2])
もし、そのWikipediaの「一行」の箇所(節名や脚注番号)が分かれば、原文箇所まで追って訳出もできます。
[1]:
"ĀRAŠ - Encyclopaedia Iranica"[2]:www.iranicaonline.org
"(PDF) Bahrām Čūbīn in Early Arabic and Persian Historiography -Why so many stories"[3]:Bahrām Čūbīn in Early Arabic and Persian Historiography -Why so many storiesThis doctoral dissertation discusses the transmission and evolution of Bahrām Čūbīn stories in early Arabic and Persian historiography in fourteen source texts. Bahrām Čūbīn (d. 591) was a historical figure and general in the Sasanian army during thewww.academia.edu
"Why Was the Story of Arash-i Kamangir Excluded from the Shahnameh?* - IranNamag"Why Was the Story of Arash-i Kamangir Excluded from the Shahnameh?* - IranNamagIn contemporary Iranian culture, the legendary figure of Arash-i Kamangir, or Arash the Archer, is known and celebrated as the national hero par excellence. After all, he is willing to lay down his life by infusing his arrow with his life force in order to restore territories usurped by Iran’s enemy. As the legend goes, …www.irannamag.com - 4二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:39:45
そもそもバフラーム・チュービーナは何をした人なのか そして調べてみると同じ名前の人も多く何世がアーラシュの子孫なのか教えて
ざっくり言うと――
**バフラーム・チュービーナ(Bahram Chobin/在位590–591=バフラーム6世)は、サーサーン朝末期の大将軍で一時的に王位を奪った人物**です。ホルミズド4世の下で北方方面軍(アゼルバイジャン〜大メディア)を率い、588/589年の東方戦役では**西突厥・エフタル軍を破り、可汗を矢で射落とした**と伝えられます。その後、失脚させられ反乱を起こして都クテシフォンを占領、即位(590)。しかし翌591年、ビザンツの支援を得たホスロー2世に敗れて、**トルキスタン(フェルガナ)で暗殺**されました。([Encyclopaedia Iranica][1], [Encyclopedia Britannica][2])
### 「同名が多い」問題(どのバフラーム?)
「バフラーム」はイラン世界でよくある名で、**サーサーン朝だけでも王名として6人**(I〜VI)がいます。ここで話題なのは\*\*将軍で簒奪者の“バフラーム6世=チュービーナ”**で、しばしば名君**バフラーム5世(グール)\*\*などと混同されます。([Encyclopaedia Iranica][3])
### 「アーラシュの子孫」って本当?何世?
* **一次の古層(アヴェスター)**には系譜の話は出ませんが、**中世ペルシア史書・叙事詩**では政治的正統性を示す文脈で「アーラシュの後裔」を名乗る/付される例があります。バフラーム・チュービーナ自身については、**『シャー・ナーメ』に描かれた反乱場面で「自分は名高いアーラシュの種(=後裔)」と誇る詩句**があり、ミーラーン家(チュービーナの氏族)の祖とされた**ミーラード/その子グルギーン**への連結も同時に述べられます。つまり、**“アーラシュ系”を称する系譜付けが物語世界で明確に存在**します。([イランナマグ][4], [Encyclopaedia Iranica][1])
* ただし、\*\*「第○世」という固定の数字は主要史料にありません。\*\*研究的には“後代の象徴的系譜”と理解されます。([Encyclopaedia Iranica][1]) - 5二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:41:37
**要点まとめ**
* バフラーム・チュービーナ=**将軍→反乱→一時即位(590–591)→敗走・暗殺**。([Encyclopaedia Iranica][1], [Encyclopedia Britannica][2])
* 「アーラシュの子孫」言及は**中世の伝承・政治的系譜付け**としては実在。ただし**何世**かは史料上**固定されていない**。([イランナマグ][4], [Encyclopaedia Iranica][1])
* 参考系譜では**グルギーン→(19世)→バフラーム**という数え方があるが、**学界の合意とまでは言えない**。([アカデミア][5])
必要なら、その『シャー・ナーメ』詩句やタバリー系史書の該当箇所をもう少し具体的に引いて訳します。 - 6二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:42:51[1]:
"Bahrām VI Čōbīn - Encyclopaedia Iranica"[2]:www.iranicaonline.org
"Bahrām VI Chūbīn | Sasanian Dynasty, Persian Ruler, Conqueror | Britannica"[3]:Bahrām VI Chūbīn | Sasanian Dynasty, Persian Ruler, Conqueror | BritannicaBahrām VI Chūbīn was a Sāsānian king (reigned 590–591). A general and head of the house of Mihran at Rayy (near modern Tehrān), he performed, in gaining the throne, a feat exceptional for one not of Sāsānian royal blood. Prominent as master of the household in the Byzantine wars of the Sāsānianwww.britannica.com
"BAHRĀM - Encyclopaedia Iranica"[4]: https://www.irannamag.com/article/why-was-the-story-of-arash-i-kamangir-excluded-from-the-shahnameh/?utm_source=chatgpt.com "Why Was the Story of Arash-i Kamangir Excluded from ..."[5]:www.iranicaonline.org
"(PDF) On the Origin of Bahram Chubin, in: Transoxiana, Journal Libre de Estudios Orientales (ISSN 1666-7050) / Ed. Paola Raffetta, Julio 10 (2005). (On the Origin of Bahram Chubin, in: Transoxiana, Journal Libre de Estudios Orientales (ISSN 1666-7050) / Ed. Paola Raffetta, Julio 10 (2005). (http://www.transoxiana.org/0110/kamoliddin_bahram_chobin.html ).This paper discusses origin of Bahram Chubin, the military commander of the Sasanid shahanshah Hurmazd IV Turkzada (reigned in 579 - 590).www.academia.edu
)."www.transoxiana.org - 7二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:46:16
つまりミーラード家はアーラシュの血を継いでいると主張しているって事ですか
結論:
はい。「(バフラーム・チュービーナの属する)**ミーラーン家**が、伝承上は**アーラシュの後裔**だと自らを位置づける文脈があります」。ただしこれは**中世以降の文学・系譜付け**で、史実としての血統を実証できるものではありません。([イランナマグ][1])
ちょっと用語整理だけさせてください。
* **ミーラーン家(House of Mihrān)**…サーサーン朝の「七大貴族」の一つ。バフラーム・チュービーナの氏族。([КиберЛенинка][2])
* **ミーラード(Milād)**…叙事詩に出る英雄で、**ミーラーン家の祖と認識されてきた人物**。その子\*\*グルギーン(Gurgīn)\*\*とともに、**バフラームが系譜上の先祖として名を挙げ、さらに“アーラシュ”とも結び付けて自らの出自を誇る**記述が学術論考で整理されています。([イランナマグ][1])
要するに、あなたのご質問を言い換えると——
> 「ミーラーン家は“ミーラード→グルギーン→(遠祖として)アーラシュ”という**物語的系譜**で自家の由来を主張した」、という理解でOKです。([イランナマグ][1])
補足:最古層の宗教文献(アヴェスター)では、アーラシュは「俊敏な矢の射手」として語られるだけで、**家族・子孫の記載はありません**。ゆえに“アーラシュの血統”は**後代の象徴的系譜付け**として捉えるのが通説です。([Encyclopaedia Iranica][3])
必要なら、『シャー・ナーメ』系の該当箇所(バフラームが自らの系譜を誇る箇所)の原文と訳も引けます。
- 8二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:47:27
訳して
了解。先に“直訳寄り”、続いて“意訳(読みやすさ重視)”で示します。
# バフラーム・チュービーナの宣言(『シャー・ナーメ』)
> من از تخمه نامور آرشم
> کنم تازه آیین میلاد را
> نبیرة جهانجوی گرگین منم
■直訳寄り
* 「私は名高いアーラシュの種(血統)の者である。
* 私はミーラードの掟(伝統)を新たにしよう。
* 私は、世界を求めた(天下を志した)グルギーンの曾孫(=後裔)である。」
■意訳
* 「我こそ名高き射手アーラシュの血を引く者。
* 祖ミーラードの家法を今一度よみがえらせ、
* 世界に挑んだ英雄グルギーンの末裔として名乗りを上げる。」
※語注
* **آیین (āyīn)**:掟・規範・作法・伝統の意。ここでは「家(氏)の伝統・家法」。
* **میلاد (Milād)**:人名(ミーラード)。ミーラーン家の祖とされる人物。
* **نبیرة (nabire)**:孫~曾孫を含む「子孫」を指しうる語(文脈上は“遠い子孫”のニュアンス)。
* **جهانجوی (jahān-jūy)**:「世界を求める・天下を志す」=勇名を示す定型修辞。
# ホスローの応酬(同場面)
> که بد شاه هنگام آرش بگوی …
> ندانی که آرش ورا بنده بود
■直訳寄り
* 「アーラシュの時の王は誰であったか、言ってみよ……。
* アーラシュがその王の僕(臣下)であったのを知らぬのか。」
■意訳
* 「アーラシュの時代、君臨していた王は誰だった? 思い出せ。
* アーラシュはその王(=マヌーチェフル)の臣にすぎない――そのことを忘れたか。」
必要なら、この部分のもう少し前後も抜き出して通しで訳します。
- 9二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:49:30
どうしてアーラシュがマヌーチェフルの臣下だと正当性がないのか
**「アーラシュはマヌーチェフル王の“臣”だった」という指摘は、バフラーム・チュービーナ(ミーラーン家)が“王たる正当性”を主張する根拠にならない、という反論です。** 理由は3つあります。
1. **王権=ファッル(khvarenah)の論理**
イラン世界では王の正統性は神授の光輝=**ファッル**により担保されると理解されます。ファッルは本来、王家(カヤーン的=王的の意)に属する属性で、英雄個人の手柄だけでは王位の根拠になりません。つまり、**王の家系・王のファッル**に結びつかない限り、出自を誇っても“即位の正当性”にはならない、という前提です。 ([Encyclopaedia Iranica][1])
2. **制度面:ミーラーン家は「七大貴族」であって王家ではない**
バフラーム本人は**ミーラーン家**(サーサーン朝の七大貴族の一つ)の将軍で、**サーサーン王家の血統ではありません。** 彼の即位(590–591年)は「王家の血を持たぬ者としては例外的」だと総説も述べます。つまり、\*\*貴族の“英雄祖先”(アーラシュ)\*\*を掲げても、**王統の欠如**という根本は埋まりません。 ([Encyclopaedia Iranica][2], [Encyclopedia Britannica][3])
3. **物語文脈:アーラシュは“王の命を受けた忠臣”**
アーラシュの矢の物語は、**マヌーチェフル王**(イラン)と**アフラースィヤーブ**(トゥラン)の争いを**王命の下で**解決する場面で語られます。**アーラシュ=王権を支える臣**という枠組みなので、**「アーラシュの後裔だ」=自分が王たる資格**には繋がらない、というのがホスロー側の言い分です。 ([Encyclopaedia Iranica][4], [Tehran Times][5])
要するに、**“王の家系(+ファッル)に連なること”が王位のコア条件**で、**“王の臣の子孫”**を掲げてもそこで正当性は立たない――だからこそ「アーラシュはマヌーチェフルの臣下だ」という指摘が**バフラームの簒奪を論破するロジック**になるわけです。 ([Encyclopaedia Iranica][1]) - 10二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:51:30
それにどう反論しましたか
はい。『シャー・ナーメ』のその場面では、ホスローが「アーラシュは王(マヌーチェフル)の“臣”にすぎない」と突くと、バフラームは論点をずらして次のように返します。
* **サーサーン家の正統性を逆に攻撃**
バフラームは「おまえはサーサーン家の出だが、そのサーサーンは“羊飼いの出”だ」と、サーサーン王統そのものを貶めて、ホスローの血統的正統性を否定します(原文一部:「**تو از تخم ساسانی… که ساسان شبان…**」)。つまり「アーラシュが臣だから君主の根拠にならない」という話を、\*\*「そもそもお前こそ王統が卑しい」\*\*というカウンターにすり替えるわけです。([ganjoor.net][1])
* **自分の系譜と“家法の再興”を掲げる**
さらに「**ミーラードの掟を新たにする/名高いアーラシュの血**」と、自派(ミーラーン家=パルティア系貴族)の由緒と再興の大義を強調します(原文一部:「**کنم تازه آیین میلاد… من از تخمه نامور آرشم**」)。同じ連で「**バルズィーンの烈火**(=ボルゼン・ミフルの聖火)そのものだ」とも誇り、宗教的象徴=王権の輝き(ファッル)を自分に引き寄せる修辞を使います。([IranNamag][2])
要するにバフラームの反論は、**①相手(ホスロー)の王統を貶める**+**②自分は“ミーラーン家—グルギーン—ミーラード—(遠祖として)アーラシュ”に連なる**という**別系統の正統性**と**宗教的権威**を打ち出す、という二段構えです。アーラシュが「臣」である点には正面から再反論せず、**正統性の土俵そのものを“サーサーン vs. パルティア(七大貴族)”の争いに置き換える**戦い方になっています。([IranNamag][2], [ganjoor.net][1])
(参考)このやり方は物語全体でも一貫しており、同場面のやり取りとして「アーラシュは王の臣だ」と釘を刺すホスローの台詞と、バフラームの系譜誇示・再興宣言が対になって出てきます。([IranNamag][2]) - 11二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:52:54[1]:
"شاهنامه » پادشاهی خسرو پرویز » بخش ۵ - فردوسی"[2]:گنجور » فردوسی » شاهنامه » پادشاهی خسرو پرویز » بخش ۵ganjoor.net
"Why Was the Story of Arash-i Kamangir Excluded from the Shahnameh?* - IranNamag"Why Was the Story of Arash-i Kamangir Excluded from the Shahnameh?* - IranNamagIn contemporary Iranian culture, the legendary figure of Arash-i Kamangir, or Arash the Archer, is known and celebrated as the national hero par excellence. After all, he is willing to lay down his life by infusing his arrow with his life force in order to restore territories usurped by Iran’s enemy. As the legend goes, …www.irannamag.com - 12二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:54:22
いい質問です。結論だけ先に:
**バフラーム・チュービーナ(在位590–591。通称バフラーム6世)は、サーサーン朝末期の“七大貴族”ミーラーン家出身の大将軍で、一度は都クテシフォンを奪って王位を名乗った名将です。** ([Encyclopedia Britannica][1])
# どんな人?
* **出自と立場**:パルティア系の名門・**ミーラーン家**の出で、本来は王家ではない立場から将軍として頭角を現し、例外的に王位を獲った人物。([ウィキペディア][2], [Encyclopedia Britannica][1])
* **外見・あだ名**:「チュービーナ(“木の柄/槍のよう”)」は**背が高く細身**の体格から来た渾名。『シャー・ナーメ』でも**長身で精悍、黒い巻き毛**の戦士と描かれます。([ウィキペディア][3])
* **軍才(東方遠征)**:588–589年の対東突厥・エフタル戦で\*\*寡兵(約1.2万騎)\*\*を率いて連勝、**可汗を自らの矢で射落とした**と伝えられます。これでコーカサス・トランスオクシアナ方面の主導権を一時取り戻しました。([ウィキペディア][3])
* **反乱と即位**:その後、ホルミズド4世に**戦利品横領疑惑**などで冷遇・罷免され反乱。590年に**クテシフォンを占領し即位**、しかし翌591年、**ビザンツの支援を受けたホスロー2世**に敗れます。([ウィキペディア][3])
* **最期**:敗走して**フェルガナ**で突厥の庇護を受けるも、**ホスロー2世の工作で暗殺**されたとされます。([ウィキペディア][3], [the-persians.co.uk][4])
* **家族・後続**:姉の**ゴルディヤ**はのちにビスターフム(ホスロー2世の義叔父)と結婚。息子の**ミーラーン**らはその後もしばらく活動し、**サーマーン朝がチュービーナの後裔**を称したという伝承もあります(史実性は議論あり)。([ウィキペディア][3])
* **文学的伝承**:中世以降は\*\*『バフラーム・チュービーン書』**や『シャー・ナーメ』で英雄譚として語られ、**“弓の名手・反骨の名将”\*\*という人物像が強く残りました。([Academia][5], [ウィキペディア][3]) - 13二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:55:42
要するに、**長身痩躯の弓名人で、東辺を救った軍略とカリスマで一気に覇権を狙ったが、王家の血統を持たない限界と国際政治(ビザンツ介入)に押し返された人物**、というイメージで押さえるとスッキリします。
[1]: https://www.britannica.com/biography/Bahram-VI-Chubin?utm_source=chatgpt.com "Bahrām VI Chūbīn | Sasanian Dynasty, Persian Ruler, ..."
[2]:
"House of Mihran"[3]:House of Mihran - Wikipediaen.wikipedia.org
"Bahram Chobin - Wikipedia"[4]:Bahram Chobin - Wikipediaen.wikipedia.org
"Khusrau II the Second (Chosroes, Kisr, Kesra, Khosrow"Khusrau II the Second (Chosroes, Kisr, Kesra, KhosrowThe precarious reign of Khusrau II. Big winnings, big losseswww.the-persians.co.uk[5]: https://www.academia.edu/43323134/Bahr%C4%81m_%C4%8C%C5%ABb%C4%ABn_in_Early_Arabic_and_Persian_Historiography_Why_so_many_stories?utm_source=chatgpt.com "Bahrām Čūbīn in Early Arabic and Persian Historiography"
- 14二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:57:41
バフラーム・チュービーの良い逸話はないの
いいよ。“悪役っぽい”場面ばかりじゃなくて、バフラーム・チュービーナ(=バフラーム6世)の「良い(武勇・気概・度量)」エピソードを要点で。
* **矢一発で可汗を射抜いた――東方遠征の決定打**
588–589年の東方戦役で西突厥・エフタルを連破し、最後は**大可汗を自らの矢で射倒した**と諸史書・叙事詩が伝えます(この“矢”は伝説の射手アーラシュと並び称されるほど有名に)。史家セベオス系の伝も補正として使われます。([Encyclopaedia Iranica][1])
* **戦勝後の振る舞い――王族捕虜を丁重に送致**
可汗の子**ビルムダ**を捕らえたのち殺さず、**首都クテシフォンへ送致**。受け取ったホルミズド4世は礼遇のうえで帰還させています(=職業軍人としての手順を踏んだ処置)。([ウィキペディア][2])
* **寛容と騎士道――敵対派の退去を黙認**
反乱で都を制した後も、**ホスロー2世支持派が領外へ退去するのを妨げず**、堅物の重臣ベンドーイの脱出も**見逃した**と記されます。結果的には敵に再結集の機会を与え不利に働きましたが、\*\*度量の広さ(chivalry)\*\*として語られる場面です。([Encyclopaedia Iranica][1])
* **将としての徳目――“教養・寛 generosity・兵の信頼”**
同時代伝承の総括では、**教養ある物腰と気前の良さ、果断さと軍才で兵と民の人望を集めた**と整理されています。([Encyclopaedia Iranica][1])
* **“弓の名手・約を守る王”という文学的肖像**
ペルシア語ロマンス『バフラーム・チュービーン書』および『シャー・ナーメ』の受容では、**最上の弓手・部下思い・約束を違えぬ王**として描かれ、トルコ系・ローマ・アラブ等の外敵から祖国を救う“善き英雄”像が強調されます(文学的誇張を含む点は留意)。([Encyclopaedia Iranica][1])
* **弓術書の著者とされる伝承**
目録書(『フィフリスト』)は**バフラームが弓術に関する手引書を著した**と伝えます。([Encyclopaedia Iranica][1]) - 15二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:58:55
ざっくり言うと、**「無茶苦茶強い弓の名将で、勝っても増長せず手続きや礼を重んじ、時に敵にも寛大だった」**――そんな“良い面”が史書と叙事の両方に残っています(もちろん、内乱の簒奪者でもあるので評価は立場で割れます)。もっと詳しい原文抜粋が欲しければ、該当箇所を長めに引いて訳します。
[1]:
"Bahrām VI Čōbīn - Encyclopaedia Iranica"[2]:www.iranicaonline.org
"Hormizd IV"Hormizd IV - Wikipediaen.wikipedia.org - 16二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 11:59:59
彼もアーラシュと同じく弓の名手だったんですね
そうそう、その理解でOKです。
**バフラーム・チュービーナも弓の名手**として描かれます。代表例は――
* 東方戦役(588/589年)で**突厥の大可汗を一矢で射落とした**という有名な伝承。
* 目録書には**弓術の手引書を著した**という伝えもあります。
違いを一言で言うと、**アーラシュは神話級の“境界を決めた一矢”の象徴的射手**、**バフラームは実在の将軍として戦場で抜群の射技を見せた名手**――という位置づけですね。 - 17二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 12:01:53
これで終わり
アーラシュの子孫も弓の名手だったみたい
それにしても5 thinking君はちゃんと調べてくれて賢いわ - 18二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 12:26:56
タバリーの歴史書で「アーラシュと並ぶペルシアの領域の弓術三代名手の一人」とされているのは知ってたけど
子孫だったんか…… - 19二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 12:32:28
あそこら辺の英雄って日本で全然資料ないから調べればまだまだ何かありそう
- 20二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 12:32:57
- 21二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 12:34:29
- 22二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 12:45:57
手持ちのシャー・ナーメ(タバリー版)の記述を確認したところ、確かに「バハラームの祖先であるアリシュについて言及され、アリシュがアバルウィーズ自身の祖先であるマヌーシフルに臣従していたことから、アバルウィーズはバハラームを非難した。」と書いてあったわ
翻訳上のアリシュ=アーラシュと気がついてなかった
- 23二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 12:50:51
- 24二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 13:47:23
- 25二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 13:51:48
- 26二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 13:53:23
- 27二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 14:10:13
AIのハルシネーションはだいぶ問題になってるのに「AIで調べた()」って本当に何?としか言えん
- 28二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 17:32:54
ズルいって言われても史実に越される伝説の方が悪いというか
- 29二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 17:34:54
ハルシネーション
奏章3で学んだ言葉です - 30二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 17:43:21
寧ろ昔だからこそ既に妻子持ちってことじゃないか
- 31二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 17:46:57
今北産業
- 32二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 17:52:24
- 33二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 17:56:39
GPTの回答の時点でそれを元に議論・語り合うのがそもそも誤り
GPTに聞いたなどと言ってコピペスレ立て、こういう行為自体をするべきじゃない - 34二次元好きの匿名さん25/08/12(火) 17:59:36
よいこのみんなはGPTに何か聞くときはソースのリンクを提示した上で聞いてついてきたサイトの方を見るくらいにしとけよ!