- 1二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:40:17
始めて来る駅前の、小さな広場。
わたしは一人、道行くたくさんの人達を眺めながら時を過ごしていた。
ふと時計に目をやれば、待ち合わせ時間の10分前。
きっと、そろそろ来る頃だろうと、耳と尻尾がぴょこぴょこと反応してしまう。
「お待たせ、フライト」
「! いえいえ、わたしもさっき来たところで────」
背後からかけられた、慣れ親しんだ優しい声。
胸の奥がぱあっと暖かくなるのを感じながら、表情をちょっとだけ引き締めて振り向く。
そこには期待通り、柔らかな微笑みを浮かべたわたしのトレーナーさんの姿。
目を惹くストライプ柄のジャケットに淡い紫色のニットTシャツ。
プレスの効いたデニムパンツを併せて、カジュアルでありながら大人っぽい印象の、夏らしいコーデ。
彼にとっても似合っているのだけれど────そのジャケットにだけ、妙な違和感があった。
「……?」
「どうかした? もしかして、今日の服装に変なところでも」
「そんなことは、ないんですけど」
失礼なことと思いながらも、ついつい、じっと見つめてしまう。
シンプルなデザインの、テーラードジャケット。
軽やかな造りになっていて、様々なシーズンで活用することが出来そう。
でも、トレーナーさんがこのジャケットを着ているのは、今日が初めてだった。
もちろん、わたしだって彼の持っている衣服を全て把握しているわけじゃない。
たまたまお出かけ時のコーデに使わなかっただけ、ということだってあるだろう。
ただ何となく、このジャケットからはトレーナーさんのセンスとは違う雰囲気を感じた。 - 2二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:41:20
「…………もしかしてこれ、気になる?」
「あっ、えっと、それは」
わたしの視線を察したのか、トレーナーさんはジャケットに軽く触れながら問いかけて来た。
気を遣われるほど見てしまっていたことにハッと気づいて、頬が熱くなるのを感じる。
そして彼は少し困ったような苦笑いを浮かべて、言葉を続けた。
「実は、元々着ていく予定だった服が、ちょっと破れてることに直前で気づいてね」
「あら」
「慌てて奥から引き出したのがこの服で、実はこれ、随分前に人から貰った物なんだ」
「……なるほど、そういうことだったんですか」
トレーナーさんの説明を聞いて、ストンと腑に落ちる感覚がした。
他人からの贈り物、ということであればセンスの違いは理解出来る。
……でも未だにほんのりと残っている、微かな違和感。
わたしは心の中で首を傾げながらも、改めて、そのジャケットに注目してみる。
確かに雰囲気は少し合わない気もするけれど、決して似合っていない、ということはなかった。
きっと、彼のことをちゃんと理解している人が、贈ってくれたのだろう。
「ふふ、とても素敵なジャケットですね、お友達から贈られたんですか?」
「…………まあ昔の友人だよ、もう随分と会ってないけど」
────女の人だ。
何故だかは良くわからないけど、一瞬で確信することが出来た。
少しだけ寂し気な表情、微妙な間、言い淀んでいるような口調。
贈った相手が、いわゆるトレーナーさんの“元彼女”だとすれば、ピースがピタリとハマる。 - 3二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:42:23
「そう、ですか」
息が詰まりそうになりながらも、何とか相槌を打つ。
別に、何もおかしなことはない。
トレーナーさんだって、健康的な成人男性。
わたしと出会うまでファッションにはあまり興味はなかったみたいだけど、身なりはしっかりとしていた。
それに彼の輝きは契約する前も契約した後もずっと変わっていない、それに惹かれる人もいるだろう。
理解していながらも、心の奥に溜まるもやもやとしたものは抜けてくれなかった。
…………ああ、ダメよフーちゃん、着込んで、纏わないと。
「こんな素晴らしいものを贈って下さるなんて、良いお友達さんなんですね」
「……うん、俺には勿体ないくらいに良い友人だったよ、本当」
遠い目をしながら、懐かしいものを語るように言葉を紡いでいくトレーナーさん。
そんな彼の言葉一つ一つに、わたしの胸は針が刺さったかのように、ちくちくと痛んでいく。
それを誤魔化すように、両手で服をぎゅっと掴んで────。
「……フライト?」
気づけば眼前に、不思議そうな目でこちらを覗き込んでいるトレーナーさんの顔。
その真っ直ぐで純粋な瞳は、曇ったような表情を浮かべているわたしを映し出していた。
我に返って、慌てて笑顔で取り繕う。
「あっ、その、すいません、ぼーっとしてしまって……!」
「いや、それは良いんだけど、急に服を掴んで来たからどうしたのかなって」
「……えっ?」
トレーナーさんの言葉に、自分の両手を見やる。
左手は自身のスカートをぎゅっと掴んでいて、右手は、彼のジャケットの裾をきゅっと摘まんでいた。
再び、かあっと頬が燃え上がる。 - 4二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:43:24
「……ッ! すっ、すいません、これは、その……!」
慌てて手を離そうとするものの、右手だけは、決して離れてはくれない。
一人でわたわたとしているわたしに対して、トレーナーさんは優しい微笑みを浮かべていた。
「いいよ、気にしないで、初めて来る場所だから不安になるのはわかるし」
「…………はい、そうなんですよ」
トレーナーさんは、なんだか変な誤解をしていた。
……まあ、不安になっていたのは事実で、都合が良いのでそういうことにしておく。
…………ついでに、もう少し、甘えてみようかしら。
「あの、トレーナーさん」
「ん?」
「はぐれてしまわないか不安なので、手を、繋いでいてもらっても良いですか?」
「もちろん、お安い御用だよ」
トレーナーさんはそう言うと、ジャケットと摘まんでいたわたしの手を優しく握ってくれた。
大きくて、ごつごつとしていて、暖かな手のひら。
それに包み込まれた瞬間、わたしの指先から、溶けてしまったように力が抜けて行く。
胸のもやもやがぱあっと晴れて行き、安心感が広がっていった。
「……えへへ、ありがとうございます」
わたしはきゅっと握り返しながら、口元をふにゃりと緩ませるのだった。 - 5二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:44:28
「────服を贈る、ってどういう意味が込められてるんだろうな」
「……随分と、哲学的なお話ですね?」
「いや、別に深く考えてるわけじゃないんだけど……どういう意味だったのかなって思って」
目的のフリーマーケット会場へ向かう最中、ふと、トレーナーさんはそんなことを言った。
ちらりと着ているジャケットに視線を向けながら、少しだけ難しい表情で。
その瞳に含まれている複雑な感情からは目を逸らして、わたしは彼の質問に答えた。
「願い、だと思います」
「……願い?」
「相手にこうなって欲しい、服を贈るときにはそういう願いが込められているんだと、わたしは思います」
例えば、親が子どもに与える服。
日々を元気に健康で過ごして欲しい、穏やかな人生を贈って欲しい、周囲からもっと注目してもらいたい。
自分が昔憧れたような服を着てみて欲しい、ちょっと家計の節約をさせて欲しい。
良くも悪くも、大なり小なり、そういった願いを込めて、服と言うものは贈られていく。
わたしのファッションアドバイスだって、同じだ。
相手にもっと輝いて欲しい、そういった願いを込めて、わたしはいつもアドバイスをしている。
それはきっと、トレーナーさんが着ている、ジャケットだって。
「そっか、そうだったのか」
「……トレーナーさん?」
「ありがとうフライト、長年の疑問が氷解したというか……まあ、納得はいったよ、うん」
トレーナーさんは、少し晴れやかな表情で苦笑いを浮かべる。
そんな彼の顔を見て、そうだったんだ、とわたしも一つの納得を得た。 - 6二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:45:31
多分だけれど────このジャケットが、トレーナーさんとの“最後”だったのだろう。
そう思えば、見た時に感じた微かな違和感の正体が、はっきりとする。
贈られたジャケットには、願いが込められていた。
トレーナーさんに対して、こうあって欲しい、という強い願いが。
でもそれは伝わらなくて、すれ違ってしまって、結果としてこのジャケットだけが彼の手元に残った。
誰が悪いとか、そういう話じゃない。
親が与えた服の通りに、必ず子どもが成長するだなんてあり得ない。
わたしのアドバイスだって、上手くいかないこともある。
願いとは、得てしてそういうものなのだ。
「……本当に、素敵なジャケットですね」
「ああ、俺には勿体ないくらい、ステキな服だと思うよ」
わたしは再び、彼のジャケットを見つめた。
生地や造りはしっかりとしていて、決して安価なものではない。
しっかりと彼のことを考えて、時間をかけて、見繕ったのだと一目でわかった。
ほろ苦いものだったとしても、それは二人の、かけがえない思い出の輝き。 - 7二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:46:36
「トレーナーさん、今日は一つ、テーマを決めてみませんか?」
「テーマか、面白そうだね、それでどんなテーマにするの?」
「そのジャケットに合うアイテム、なんてどうでしょうか」
「……なるほど、いいねそれ」
────でも、あなたは、手放したのでしょう?
今は、わたしの、トレーナーさん。
あなたが込めた願いは、わたしがもっともっと、輝かせてあげるから。
あなたとの思い出が、わたしとの思い出に塗りつぶされるくらい、輝かせてあげるから。
「ふふ、それじゃあ、行きましょうか?」
指を一本一本絡めて、ぎゅうっと手を握りしめて、トレーナーさんの手を引いて歩き出す。
わたしの願いを込めるように、歪んだ口元を見られてしまわないように。 - 8二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:47:54
- 9二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:52:44
元カノジャケットとか急に重い設定ぶっこんでくるのズルい!
フライトちゃんの嫉妬と不安がめちゃリアルで、無意識に裾掴んじゃうとこ可愛すぎた。
最後に「今は私のトレーナーだから!」って内心宣言してるのも強くて尊かったわ。 - 10二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:56:26
フライトちゃんの初々しさと、ちょっとした嫉妬心や不安が細やかに描かれていて、読んでいて胸がドキドキしました。
特に、無意識にジャケットの裾を掴んでしまう場面は、もう尊すぎて言葉が出ないくらい。そこから手を繋ぐ流れも自然で、優しい空気に包まれていて、読後感がとても甘くて温かかったです。 - 11二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:59:10
昔の~っていうけどジャケット着こなす体型が変わらないくらいには最近の話なんだろうなとモヤモヤしてそう
- 12二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 22:59:33
元カノジャケットなんて爆弾持ってくるトレーナーさん、罪深すぎるだろ…。でも最終的に全部可愛いフライトちゃんの勝ちじゃん。
- 13二次元好きの匿名さん25/08/19(火) 23:01:02
裾を掴む描写で死んだ、手を繋ぐシーンで昇天した。
ありがとう、今日も生きててよかった - 14125/08/20(水) 07:03:46