スティルインラブ大学トレスティ学部純愛学科の卒業論文です

  • 1二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:43:49

    【私の心の真ん中には】

     カラカラと、タイヤのリムが音を立てている。夕暮れの遊歩道は、木々が程よく日差しを遮ってくれる。ハンドルを決して手離してしまわないように、両手に力が籠る。

    「トレーナーさん」

     時折声をかけながら、ゆったりと道を進んでいく。眩しいところでは傘を差し、段差があれば車椅子ごと持ち上げる。妨げになるものは、全て排して。

    「お加減はいかがですか?」

     か細く、呻くような「ああ」という返事があった。今日は、芳しくないながらも安定した様子だった。
     彼によると、体調には大きな波があるという。調子がよい日には、二人で歩いて出かけることもできるが、よくない日は、自室でほとんど眠ったまま。月が満ちて、欠けていくように、日ごと揺らめいている。

     再び、共に日を重ねるようになってから、状態の優れない時間が増えていった。検査をしても異常は見つからず、入院して療養し、多少回復しても、退院して数日もすればもとに戻ってしまう。その繰り返し。
     彼の器が限界を迎える日は、徐々に、ひたひたと近づいている。終わりの時は遠くはない。

    「……トレーナーさん、はちみーのお店がありますよ。ご一緒しましょうか」

     タイヤにロックをかけ、キッチンカーのカウンターに手を伸ばした。小銭を差し出し、気づいてもらえるように。

    「すみません……すみません、はちみーのSサイズを……ひとつ」

     今では、手助けしてもらうことは難しい。一人の力で解決しなくては。

    「あの! はちみーの、Sサイズをひとつ……!」

     幾度か声をかけると、ようやく返事があり、なんとか購入することができた。

  • 2二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:44:51

     車椅子を押して、広場のベンチに横付けた。腰をかがめて、目線の高さを合わせる。もっとも、彼の眼はサングラスに遮られている。

    「トレーナーさん、一口いかがですか」

     ストローを口元に添えると、小さく頷いた彼は、その先端をくわえた。弱々しくも、啜る音が聞こえる。

    「……ありが、とう……」
    「もう、よろしいですか?」
    「ああ……」

     あまり口にしてもらえないとは思っていたが、少しだけでも飲んでくれた。飲み物を摂ってくれたことと、ほんのわずかでも同じものを共有できることが嬉しかった。

     残されたストローを目の前にして、逡巡すること数十秒。理由もなしに辺りを見回してから口をつけた。分けて二つ買ったとしても、彼は飲みきれない。きっと私がほとんど全部を飲むことになるとわかっていた。
     定番の甘味と酸味。貴方と同じ味を感じている。やっぱりもう一口どうですか、と差し出そうとしたところ、彼は既に眠っているようだった。

    「気分転換に、なったでしょうか」

     お顔を眺めながら、また一口。彼は一人だけでいると、お部屋でずっと朦朧としていることも多い。そのままでは身体に悪いと案じて、時間を作っては無理のない範囲で外に連れ出すようになった。外出も難しいときは、ベッドの傍で見守っている。

    「……帰りましょう」

     起こしてしまわないように、細心の注意を払いながら、もと来た道を戻っていく。
     太陽の角度はより浅くなり、夜の闇が空を覆い始めている。風がそよいで、前髪が揺れた。

  • 3二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:45:52

     部屋の前まで着いて、玄関の鍵を開ける。靴を脱がせ、両腕に彼を抱き上げた。軽い。けれど、体温を感じる。
     レースの専門書、ノート類、最近新しく買ったらしいアクセサリーの本と――身辺整理に関する本たちが並んだ書棚を横目に、彼をベッドまで運んで、そっと身を横たえた。

    「トレーナーさん、お夕飯は冷蔵庫に入っていますからね」

     冷蔵庫の中身は、私が買ってきた食材と、作り置きの品がほとんどを占めている。調理器具の場所は、彼の生活を手助けするようになってからすべて覚えた。料理を召し上がれないようなら、自分で食べてしまえばいい。

     書き置きを残しながら、自問自答していた。このような生活は、果たして幸せなのだろうかと。
     私にとって、幸せであることに間違いはない。彼の傍に身を置くことができるのだから。――では、彼にとっては?

     この選択をして――引退を撤回し、走り続ける道を選んで――幸せだったと、彼は教えてくれた。私の走る姿を見ていられて、幸せだったと。
     しかし、今となっては、そのような姿をもう一度見ることは叶わない。ただ、臨界点を迎えるのを待つことしかできない。
     私のせいで貴方を苦しめている。本当は幸せにできていないのではないかと、ふと悩んでしまう。

     お花畑で私を見つけてくれたとき、もう一緒にはいられないと伝えた。それでも、貴方は、想いは“ここ”にあると答えてくれた。その身が壊れてしまおうとも、私の隣で、必ず私を守るという約束を果たすことを選んでくれた。

     私は、その愛に甘えている。
     甘えているから、少しでも愛を返したい。
     苦しみが、少しでも和らぐように。私といることを選んで、心から幸せだったと思ってくれるように。

     穏やかな寝息が聞こえている。テーブルにメモを残し、身体に毛布をかけた。カーテンを閉め、常夜灯だけをつけておく。

    「愛しています、トレーナーさん」

     返事のない額に、手のひらを添えて。

    「また明日、お伺いします」

     そっと、頬を撫でた。

  • 4二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:46:59

    *
     放課後になり、チャイムが鳴るのと同時に学園飛び出した。駆けつけた病院のエントランスで、トレーナーさんの帰りを待つ。何度もここに来ているから、警備の方や、何度もお会いしている看護師さんとは、もはや顔馴染みだった。
     エレベーターの扉が開き、人が流れ出てくる。その中に、彼の姿は見当たらない。これを何度も繰り返し、ついに彼が現れたとき。駆け出したいのを抑えて、歩いてお迎えに行くのだ。

    「お疲れ様でした、トレーナーさん」
    「スティル、ありがとう」

     今回はだいぶ長くなっちゃった、と困り顔ではにかむ姿が眩しい。しばらく会えなかった日が続いたからか、これまでよりも魅力的に見える。退院するのを迎えに行く度に、毎回同じように惹かれているのだが。

    「お荷物、お持ちします――あら」

     衣類などを詰めたカバンを受け取ろうとして、ふと気付く。入院時に荷造りしたのとは別に、もう一つバッグがある。

    「こちらはいかがされたのですか?」
    「雑誌を買ったりしたから、まとめてあるんだ。どっちも自分で持つよ」
    「いえ、ご無理はさせられませんから」
    「身体が動くうちは迷惑をかけたくないんだ」
    「迷惑だなんて! 貴方のために何かして差し上げられることが、嬉しくて――」

     いくつかの押し問答の末、カバンを持つことになった。渡されるとき、ぎゅっと手を握られた。指を撫でる感触に、また胸が跳ねる。彼は、微笑んでいる。

    「帰ったらまずはお洗濯ですね」
    「自分でできるから大丈夫だよ」
    「私が片付けておきますから。自由に使える時間は、大切に使わないと」

     今でこそ不調などないような姿を見せているが、これは一時的なもの。数日後には、彼の身体は再び蝕まれていく。以前よりも元気でいられる時間は短くなり、入院期間は長く、間隔は狭くなっている。下り坂を進んでいるのは確かだった。
     活動ができる貴重な時間を、少しでも長く。私がしてあげられることは、何でもしてみせる。

  • 5二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:48:00

     半歩下がった隣をゆく。横顔を覗くと、確かに血色がいい。願わくば、ずっと健康でいてほしいものだが、私とともにする日々を選んだ以上、それは叶わぬ望みだった。

     寄り道がてら近くを散策して、スーパーマーケットでいくらかの食材を購入して。彼の部屋に辿り着いたのは夕刻だった。衣類を洗濯機に放り込み、手早くお米を研ぐ。作り置きは彼の入院中に食べきってしまったので、二人前と少々を作る必要がある。

    「料理から掃除もしてくれてるよね。……いつもありがとう」
    「いえ、日々の楽しみのようなものですから」

     不在中にも、部屋には掃除のため数日おきに訪れていた。こうして彼が帰ってきたときに、綺麗な状態にしておきたかった。
     野菜を切って、フライパンに油を少し引き、細切れ肉を広げた。自分の家のようにキッチンを操っている。
     塩コショウを振り、火が通ったら野菜を投入して、あとは炒めるだけ。炊飯器がアラームを鳴らすまでに、リンゴも剥いておく。
     その間、トレーナーさんは色々な方に電話をかけたり、メールを送ったりしているようだった。

    「トレーナーさん、ご飯ができましたよ」

     簡単な野菜炒めだが、一通り揃った食事。かつて作ったおせち弁当のように、凝ったものも作れるが、彼の好みは一般的な献立だった。それよりも、私の作った料理を食べてくれることと、食卓を共有にできることが、ひとえに喜ばしい。

     美味しそうに召し上がる姿が愛らしい。伝えてくれる感想は、愛にあふれている。貴方を眺めてばかりいると、君も食べよう、と窘めてくれる心遣いが愛おしい。

    「明日のご予定はございますか?」
    「ああ。たづなさんにいろいろ報告したり、ちょっと実家に顔を出したりしようと思ってる」

     テーブルを挟んで、貴方とこのような時間を過ごせることが、なんと幸せなことか。きっと、貴方が思う以上に、私は幸せに思っている。そして、貴方の幸せになれていることを願っている。

    「明後日は……スティル」

     どこか真剣さのある声に、目を合わせてみれば、柔らかな表情。

    「ちょっとお出かけをしようか」
    「あの、お体は大丈夫でしょうか……」
    「今日の調子なら、たぶん、まだ大丈夫だと思う」

  • 6二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:49:03

     行きたいところがあるんだ、と語る彼は、なんだか珍しく思えた。大抵、どこかに出かけられるときは、私の希望を聞いてくれていたから。あるいは、やりたいことリストの残りを埋めに行くことがほとんどだった。

    「それから、君に大事な話をしようと思ってる」
    「……大事な話、ですか」

     その言葉に、背筋が伸びた。箸は止まり、流れる沈黙。

    「君に伝えたいことがあるんだ」

     しばらく私は固まっていたが、彼は元の調子に戻って、料理を食べ進めている。ちらりと向けられた視線で、私も再び箸を動かした。

     それから、残った料理はタッパーに詰めて、お皿を洗って、洗濯物を干して。家事をしつつも、大事な話、という単語に緊張していたのが伝わったのか、身構えなくていいよ、と背中を撫でてくれた。

    「明後日の時間とかはまた連絡するね」
    「はい。楽しみに、していますね」
    「スティル。何度も言ってるけど……いつも本当にありがとう」
    「いいえ、とんでもございません。私こそ、いつもお傍に置いてくださり、ありがとうございます」

     また後日、と声をかけて、部屋を後にした。寮へ戻る足取りは、不規則なリズムを刻んでいる。一緒のお出かけが楽しみな一方で、大切なことを聞かされるという。今日と明日は、よく眠れるだろうか。

  • 7二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:50:05

    *

     合流場所を決める連絡は、私からの申し出もあって、時間に迎えに行くことになった。待ち合わせにすると、早く来すぎてしまいがちなことは、もう当たり前に知っているようだった。LANEで教えてくれた行き先は、少し遠出した先の自然公園だった。

     お昼過ぎの約束した時間ちょうどに、ドアチャイムを鳴らす。あまり早い時間に着いてしまうと、かえって心配させてしまうことに、今さらながらに気がついた。また、朝から活動すると直射日光が厳しいので、到着する頃合いが過ごしやすい空気となるように、時間を調整していた。

    「お迎えに上がりました」

     玄関から出てきた彼は、小綺麗にまとまった佇まいをしていた。大切そうにショルダーバッグをかけ、帽子と日傘を携えた姿は。

    「トレーナーさん! とても、よくお似合いです」
    「スティルこそ、一段と綺麗だよ」

     貴方とのお出かけだからと、勝負服を着るときのようにネイルも差した。気合いを入れたメイクをしたことも察してくれる。上機嫌なしっぽを宥めながら、片手を差し出した。

    「お足元には気をつけてくださいね」

     少しぎこちない足の運びに、症状の悪化速度が増していることを実感させられる。それでも、まだ外出には耐えられる体調のようで、安堵に胸を撫で下ろした。

     駅への道中も、車内で談笑しているときも、乗り換えに手間取っているときも。どんなときでも、貴方に夢中になっている。一挙手一投足に心を奪われている。
     トレーナーさん、ご存じですか。貴方といられるだけで、私の心はこんなにもときめいているのですよ。

  • 8二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:51:06

     目的地に着くと、見渡す限りの極彩色が私たちを迎えていた。一面の花畑に、柔らかな日差しが降り注ぐ。花びらのひとつひとつが、風に揺れてきらめいている。

    「トレーナーさん……!」
    「すごいな、これは」

     彼もサングラスの隙間からこの景色を見て、唸っているようだった。地平線まで埋め尽くされた花々が、圧巻の絶景を演出している。
     興奮のあまり、思わず手を取って歩き出していた。場所を変えるごとに、お花畑は無限大の表情を見せてくれる。赤、青、黄、紫。どんなカラーパレットよりも豊かな色彩が、めくるめく続いている。

    「こんなに綺麗な場所、スティルと来られてよかった」
    「はい! どちらでお知りになったのですか?」
    「病院で雑誌を読んでいたときに見つけてね」
    「退院のとき、お持ちになっていた」
    「ああ。前に君を見つけた花畑よりも、もっとすごい所だと思ったんだ」

     仄かに香る花の蜜が、胸に染みわたっていく。まるで、世界が輝いているかのよう。私がこれまでに行ったことのある、どんな場所よりも美しい。

    「あそこのお店でお茶とお菓子が出るから、景色を眺めながら一緒に、どう?」
    「もちろんです!」

     心を弾ませながら、テラス席へと向かった。席の並びは、お花畑に向かって隣り合わせ。注文を待つ間は、会話にも花が咲く。

    「楽しんでもらえてるかな」
    「貴方となら何処だとしても――でも、ここはこの上なく素敵です」
    「それはよかった。下調べした甲斐があったよ」

  • 9二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:52:46

     運ばれてきたハーブティーとクッキーには、季節のジャムと蜂蜜が添えられて。おとぎ話に出てきそうな光景に、思わず。

    「あの、トレーナーさん」
    「どうかした?」
    「写真を撮っても、よろしいでしょうか」
    「いくらでも撮っていいよ」

     スマートフォンを出して、カメラにテーブルの上を収める。それから。

    「もし、差し支えなければ、貴方と、ご一緒の写真も……」

     少し言い淀んだけれど、彼はすぐに動いてくれた。二人で後ろを向き、ティーカップたちと花の絨毯を背景に。

    「もうちょっと寄ったほうがいいね」

     そう言って、間合いをより詰めてくる彼に、否応なしに胸が高鳴る。インカメラに映る私は、少し、頬が赤みがかって見える。いい笑顔は、できているかしら。

    「冷めないうちにいただこうか」

     ささやかな撮影会を済ませて、カップに口をつけた。爽やかな香りが肺を満たす。クッキーとジャムもよく合っていて、蜂蜜からはほのかなフレーバーを感じる。

    「ん、風味があっておいしいね」
    「どれも素敵な味わいです」

  • 10二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:53:51

     ひとつひとつ、この大切なひとときを味わうように、ゆったりと。鼻に抜ける香りを、酸味がほどよく引き締めてくれる。トレーナーさんは、小さく息を吐いたかと思うと、彼のお皿を私の方に寄せて。

    「こっちも食べていいよ」
    「トレーナーさんは、もう召し上がらないのですか?」
    「何枚かは食べたし、スティルが食べてるところを見たいから」

     なんて、笑みを浮かべる。それでも、手を出すのを躊躇していたら。

    「こうしたほうがいいかな。はい、あーん」

     クッキーにジャムを載せて、そのまま腕を伸ばしてくる。慌てて目を瞑り、口を開けた。差し込まれたクッキーの歯触りと、唇に触れた指。甘くて、とろけてしまいそう。

    「美味しい?」
    「はい、とても……!」
    「もう一回してあげようか」

     という申し出には。

    「……お願い、します」

     周りの人もいる前で、こんなことははしたないのに。けれど、甘美な誘惑に抗う術は、持っていなかった。

  • 11二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:54:53

     ティータイムが過ぎて、もう一度景色を見に行こうと、再び繰り出した。私が先を歩いて、トレーナーさんがついてくるような形。彼に、私を収めた写真も撮ってもらった。お返しに、と私が彼の姿を撮ろうとすると、それは止められてしまった。

     日が沈み、黄昏てくる空に合わせて、お花たちは別の一面を見せてくる。朱色の夕陽に照らされて、先ほどまでとはまた違った趣を感じられる。

    「このような時間のお花も、また綺麗ですね」
    「そうだね。それから、もう少ししたら――」

     ぱっと、辺りが明るくなった。花壇の合間に設置されたライトが一斉に点灯して、一面の花々を浮かび上がらせている。

    「このライトアップを見せたかったんだ」

     彼はそう言って微笑んだ。綺麗な場所を見つけると、見せたくなる。かつての言葉を思い出す。

    「こんなに素敵なものを……ありがとうございます」

     息を呑むような幻想的な景色。空が完全な闇に包まれると、地上で照らされている花弁は星に、丘の稜線は波のように。その先は、果てなく空まで繋がっているかのように思えた。

    「それから……君に話したいことがあるんだ」

     彼は星の海を見下ろしながら、そう告げた。たった一言で周りの音がなくなって、世界には二人だけしかいないかのような錯覚さえ覚えた。
     心構えはできていた。目を瞑り、深呼吸をしてから、返事を返す。

    「……仰っていた、大事なお話ですか」

     見上げた横顔が、すっと引き締まる。星々が彼を照らしている。

    「うん」

     彼は一拍置いた。もう一度景色を見渡してから、私に向き直った。

  • 12二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:55:58

    「スティル」

     サングラスが外され、紅い瞳が露わになる。その眼差しに捉えられたみたいに、意識が釘付けにされる。

    「本当はあと少し待って、君が卒業してから伝えたかったんだけど」

     肩をすくめながら、真剣な目つきで。

    「それまで、俺が保っているかわからないから」

     そして、決意を持ったように。声には確かな意思が乗っている。

    「いま、自分の言葉にできるうちに、伝えないと、って思ったんだ」

     瞬きをすると、人影が崩れ落ちていくように見えた。
     倒れてしまったのかと、咄嗟に出した両手は――

    「スティルインラブ」

     ――私の顔を、覆うことになった。

    「――君を愛しています。受け取ってくれませんか」

  • 13二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:57:05

     跪き、差し出された手は、微かに震えている。手の中の小さな箱には、リングが納められていて。

    「どうかな。君に似合うと思うんだ」
    「あのっ、トレーナーさん! これって……!」

     次には、感情が決壊していた。すべてが涙となってあふれ出して、貴方の姿すら霞んでしまうほどに。

    「ずっと考えてたんだ。君にはたくさんの愛を貰った」
    「いいえ! 私はっ、なにもあげられてなんて……っ」

     ううん、と彼は首を振る。
     
    「だから、俺も一番の愛を返したい」

     教えてくれた。はじめは、私の走りに心惹かれたこと。それから、人となりに、やがては私のすべてに至るまで。そして、自分の幸せのために、苦しい決断までしてくれた。そのような愛に、応えたかったと。

    「どうしたらいいかと考えたら、これが一番だと思ったんだ」
    「こんなっ、大切なもの、私で、いいのですか?」
    「君だからだよ」
    「でも、私といるとっ、貴方の身体は、壊れてしまって……!」

     それでも構わない、と彼は続ける。

    「前にも言ったじゃないか。君を守るって」
    「でもっ」
    「そのためなら、どんなことが起ころうとも、なんだって投げ打てる」
    「でも!」
    「できる限り、君と一緒に居たいんだ。君と一緒だという証を残したいんだ」

  • 14二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:58:07

     だめかな、と眉を傾けた彼に、私が首を振る。

    「私は、貴方を苦しめていますっ」
    「俺はそうは思わない――君といられることが幸せだと思ってる」
    「幸せなのは、私の方で……っ」

     負担をかけ、健康を害し、命を危険に晒しても傍に置いてくれるのは、彼の愛に甘えているからだと思っていた。温泉旅行に行ったとき、不確かな意識ながらも、“こっち”を選んで幸せだったと言ってくれた。
     けれど、その後も日に日に衰弱していく様子に、彼にとって本当にそれがよかったのかと、考えることが増えていた。

    「それでもっ……それでも、よろしいのですか……?」

     いま、その悩みは霧消して。何が起ころうとも、私といられることが幸せだと。どんなに苦しい日があろうとも、私といられることが幸せだと!

     涙を拭い、紅のネイルを塗った指を差し出した。彼は、ありがとう、と笑って。

    「ほら、ぴったりだ」
    「はい、はいっ……!」

     指輪は薬指に収まった。そのまま崩れるように、胸元に飛び込んだ。彼の身体がぐらつく。

    「私も、貴方を! ずっと、お慕いしておりました……!」

     やっと言えた。ずっと秘めていた想いを。待ってくれていた言葉を。

    「ごめんね、びっくりさせちゃったね」
    「そんなこと、どうだっていいんです……っ」

     抱き返してくれる温もりが、愛を伝えてくれる。

  • 15二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 21:59:09

    「……きっと、君は不安になってしまうと思うんだ」

     ――また、一人ぼっちになってしまうのではないかと。
     続けられた言葉に、目の奥が痛む。

    「本当は、ずっと隣に居たいんだけど……難しそうだから。これを、君は一人じゃないという証にしたい」
    「そんな、悲しいことを仰らないでください……!」
    「……君もわかってるはずだよ」

     わかっている。わかっている。残された時間は短い。今だって、呼吸に合わせて肩が上下している。

    「つらいとき、悲しいとき、さみしいとき。いつでも君を守ってあげられるように」

     とんとん、と優しく背中を叩かれる。

    「大切にしてくれるかな」
    「……はい。ずっと、片時も外しません」
    「時々は外してもいいんだよ」
    「貴方から離れるなんてっ、そんなことはできません」

     顔を離すと、困ったなあ、と頬を掻く貴方。

    「こんなに想ってもらえて、俺は幸せ者だよ」
    「私も、貴方に想っていただけて、幸せですっ……!」

     ひとしきり抱き合って、目と目を合わせた。貴方の紅い目に映る私は、酷い姿をしている。折角のメイクは崩れ、目も鼻も真っ赤。けれど、間違いなく幸せな顔。

    「――今日、伝えられてよかった」

     目を細めた貴方は、すべてに満足したかのような、達成感の滲んだ表情をしていた。

  • 16二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:00:25

     聞こえてきた閉園時間のアナウンスに、意識を引き戻された。彼に肩を貸して、ゆっくりと立ち上がる。繋いだ手は、確かな愛を伝えてくれる。
     帰りの車内もなんだか夢見心地のまま。浮かれた気分で、彼の顔と左手を交互に眺めている。横顔に見惚れて、確かな手触りが幸せで。天にも昇ってしまいそうな気分だった。


     寮まで送ってもらい、門の前で振り返る。彼は少し消耗してしまったようで、疲労の色が窺えた。

    「トレーナーさん。本日は、ありがとうございました」
    「喜んでもらえてよかったよ」
    「今日という日を、私は、決して忘れはしません」

     一日中、あんなにも幸せな時間をくれた――そして、未来にわたる幸せの証をくださった。生涯の思い出として、心に刻み込まれている。

    「俺の中心に君がいるように、君の大切なところに居られると嬉しい」
    「はい。ずっと前から、私の心の真ん中には、貴方がおります」
    「……そっか。それは光栄だね」

     えくぼが見える。嬉しそうにしている貴方を見ると、私も嬉しい。

    「今日はよく休んでね」
    「トレーナーさんこそ、お大事になさってください」
    「ありがとう。おやすみ、スティル」
    「おやすみなさいませ。トレーナーさん」

     手を振って、彼は部屋へと帰っていった。遠ざかっていく背中が見えなくなるまで、その姿を見送る。左手の誓いが、貴方と私を繋いでいる。

  • 17二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:01:34

    「――幸せ」

     小さく、空気に溶けていくように。噛み締めるように呟いた。
     どんなときでも、貴方の愛と優しさを感じられる。

     これからも、ずっと。

  • 18二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:02:34

    ***

     生き物も草木も眠った、静かな夜だった。ひとりベンチに腰掛けて、藍色の空を見上げる。満月が昇っている。もはや激情が顔を覗かせることはない。

     しばらく夜空を眺めてから、ゆっくりと目を閉じた。瞼の裏には色鮮やかな記憶が蘇る。

    「私は、貴方と出会えて、幸せでした」

     声をかけてくれて、時間をともにしてくれて、いつでも気にかけてくれて。

    「貴方の幸せになることができて、幸せでした」

     私の走りを見せてあげられたこと、私といたいという願いを叶えてあげられたこと。貴方が幸せでいることは、私が第一に考えることだった。

    「私の心に、常に貴方はおります」

     胸に手を当てれば、鼓動の奥に貴方がいる。寂しくても、こうすれば貴方を感じられる。一人じゃない。常に貴方が守ってくれる。

    「……ですから、どうかごゆっくり、お休みください」

     左腕を伸ばす。指輪を月にかざして、そっと、唇を落とした。仄かに、紅い光が灯ったような気がした。

    「愛しています――いつまでも」

  • 19二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:07:02

    前作

    全体的に、ふくよか|あにまん掲示板 日課の河川敷ランニングを終え、温かい紙袋を手にトレーナー室に戻って。ただいま戻りました、と声をかけながら、彼の隣に歩み寄る。「トレーナーさんは、コロッケとメンチカツ、どちらがお好みですか?」 トレー…bbs.animanch.com

    スティルのシナリオに精神を破壊され発狂しそうなぐちゃぐちゃの頭の中をぶちまけて、心からの愛を込めて書きました

    温泉旅行の後は、波がありつつも近づいてくる最期の時を前に、二人の思い出を作っているんじゃないか、という解釈です

    文字どおり何もかもをぶちまけるように書いたので展開がちょっと性急で安直な感じもするけど許して


    シナリオは泣きました。お互いがお互いを想っていたからの結末で、例えば金鯱賞で予定通り引退していれば、というのは

    スティルがトレーナーの幸せ(走り続けること)を叶えたいと願い、スティルもレースで見せるトレーナーの笑顔を欲しがってしまう娘なので、どう足掻いてもこの結末に収束してしまうんだろうと思っています

    最後は行ってみたかったというお花畑で見つけてもらえて、お互いの愛を再確認できて、なんと素敵なシナリオだったのでしょうか!

    (未来にもう少し光がある終わり方だとちょっとは傷が浅かったのですが)


    ……つらいです 本当につらい

    今も心が痛くて張り裂けてしまいそう

    この一週間ずっと苦しくて仕方なくて一本書いて昇華させようと思ったけどシナリオを読み返すと解釈が深まって傷口を広げる結果に……

  • 20二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:08:24

    素晴らしい
    是非とも大学院でも研究を進めてもらいたい

  • 21二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:08:29

    う〜んどんな文章を書いてきても落単させたろうと思ってたんだけどなぁ…こんなん読んだら泣いちゃうし合格しか言えねぇや

  • 22二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:08:37

    ありがとう
    読めてよかった

  • 23二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:19:40

    「時々は外してもいいんだよ」ってセリフにスティルを先の無い自分に縛り付け続けることに対する葛藤が感じられるのがまた良いな。
    それでも出てくる言葉が「時々」なのにどうしても消せない強い独占欲を感じて良い。

  • 24二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:37:45

    このレスは削除されています

  • 25二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 22:41:19

    卒業する頃にはバケモノだらけになってそうな大学

  • 26二次元好きの匿名さん25/08/30(土) 23:28:52

    すごく幸せな、素敵な出来事で、人生のハイライトと言ってもよい瞬間であることは疑いようがないハズなのになぜだか育成シナリオよりも下り坂の中にいることを感じてしまってとても寂しくなる
    ただ2人の道中は下り坂に感じられてもたどり着く最期は誰の目から見ても間違いのない幸せだよなと確信できることは救いというか、最後の最後で2人の愛が勝ったんだなと…

  • 27二次元好きの匿名さん25/08/31(日) 00:23:59

    素晴らしい スティルもトレーナーも互いを心の中心に置き、切れぬ愛で結び互いに相手の幸せを願う…美しい…これ以上の芸術品は存在しえないでしょう
    というか純愛学科以外は何があるんだ…?

  • 28二次元好きの匿名さん25/08/31(日) 03:56:36

    >>27

    救済学科があると思う 実装翌日くらいに投げられて伸びてたやつ

スレッドは8/31 13:56頃に落ちます

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