【ss】葛城さんが不登校になった話【葛城リーリヤ】

  • 1二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:10:50

    ssスレです。今回はかなり読みごたえがあると思います。是非最後までお付き合いください。
    ※他のサイトで投稿したものの再録になります。既に内容を知ってる人は懐かしみながら読んでくれると嬉しいです。

  • 2二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:11:58

    「急に悪いね。いきなり呼んじゃって」
    「気にすんなって。俺とお前の仲だ。それに話したい事があるんだろ?」
    「ああ。3年前の話なんだけど、してもいいかな」
    「3年前だと......お前の担当アイドル.......」
    「3年前の9月。葛城さんが学校に行けなくなってた時期」
    「それ、俺が聞いてもいいやつ?」
    「気持ちの整理がついたから、話しておこうかなって」
    「俺も噂程度では聞いてたけど、つまり......そういう事情だったんだよな?」
    「......」
    「悪い、辛いなら無理に話さなくていい」
    「.....気にしないで。君には話しておきたいんだ」
    「お前にそう言われると少し嬉しいな」
    「ありがとう。......どこから話せばいいのかな。えっと、その頃、ベタって魚を飼ってたんだ」
    「ベタって熱帯魚のか?」
    「そうそう。ホームセンターとかで売ってるやつ」

  • 3二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:13:04

    「センパイ......」
    「おはようございます、葛城さん」
    それは、よく晴れた9月の水曜日の事だった。
    カーテンの閉められた薄暗い部屋ではたきを掛けていると、葛城さんの眠そうな声が聞こえてきた。
    「センパイ......毎朝早いですね......」
    そっとベッドに腰掛けた俺を見上げる寝ぼけ目の葛城さん。
    熱っぽい湿気を帯びた布団から白い腕だけ出すと、俺の手を探して握りにきた。
    布団の中で汗ばんだ手のひらはどうしても昨日の夜を思わせるから、慌てて話題を逸らす。
    「9時頃に先生が食料を持ってきてくれましたよ」
    「そうですか......ありがとうございます」
    葛城さんはふわっと微笑みを浮かべてまた布団の中に潜り込もうとする。
    遮光カーテンに光を遮られたこの部屋はどこか湿っぽく、教室に忘れられた水槽のように澱んだ空気に満ちている。
    でもその生ぬるい空気も何故だか居心地がよくて、俺も一緒にひと眠りしたくなってく。
    それじゃ駄目だ。
    俺は無理矢理ベッドから立ち上がり、カーテンを開けた。
    差し込む強い光はこの部屋の水分すらも蒸発させていくようで、心地いいはずなのに何故か心もとなく感じてしまう。
    「ん......まぶしい.......」
    葛城さんの潤んだ2つの瞳はまだ夢と現実との間を彷徨っているようで、陽の光に目をきゅっと細めている。
    カーテンをもう1度閉めてあげようか悩んだが、やっぱり起こすことにしよう。
    「もうすぐ11時になりますよ?」
    潜り込もうとする葛城さんの布団を少しだけゆすって声をかけると、葛城さんは中から顔を出して誤魔化すように笑った。
    つられてこちらも笑ってしまい胸の奥にほっこりした熱が点るのを感じた。
    日差しに乾いていくシーツを縋り付くように握りしめた葛城さんが愛おしくて、カーテンを開けた事を少し後悔した。
    本棚の埃すらしっとり湿らせるような心地良い蒸し暑さと、甘味料のように吹き込むかすかな風。
    ......すみません、葛城さん。
    俺はこの瞬間が1番幸せなんです。

  • 4二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:14:14

    「お腹が空いてきました」
    葛城さんは布団の中をごそごそと探り、脱ぎ捨てられていた下着を付け直して身体を起こす。
    今や見慣れた着替えだが......やっぱりどうしても意識してしまう。
    パソコンの埃をわざと念入りに落とす。
    するとパソコンの電源がつきっぱなしという事に気づいた。
    昨日葛城さんが寝る前誰かとチャットでもしていたんだろう。
    「センパイ」
    そんな事をぼんやり考えていたら、すっかり目を覚ました葛城さんに声をかけられた。
    その声がやけに冷たく聞こえて、息苦しくて一瞬戸惑った。
    「......やっぱり、なんでもないです」
    「すみません、聞き逃しました。なんですか?」
    「わたし......引きこもり、やめた方がいいですよね」
    葛城さんは今年で高校3年だが、今は初星学園に通っていない。
    クラスでうまくいかなかったようで、玄関から外に出ようとすると体調を崩して立っていられなくなるみたいだ。
    心の病気で家から出られない葛城さんが心配で、今では俺と一緒に生活を送っている。
    寮の大きめの部屋を借りてるから生活スペースに不満はない。
    俺の責任でもあるから葛城さんを支えるのは当たり前だ。
    こんな生活が、かれこれ半年近く続いている。
    先生と紫雲さんが週に2,3回食料などを持ってきてくれるので不自由はしていない。
    周囲の人たちの力を借りながらもなんとか暮らせている。
    狭い家の中だけれど、俺たちは幸せに満ちた生活を送っている。
    そうに決まっている。
    けれど時々、これから先の事を考えると不安で堪らなくなり眩暈が起こる。
    そう、今みたいに。

  • 5二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:16:23

    「無理、しなくていいんですよ?葛城さん」
    葛城さんが無理に外に出てしまったら、どうなってしまうんだろうか.......
    自分の声が急に震えてしまって唇がうまく動かない。
    どうしよう。
    葛城さんを元気付けなきゃいけないのに.......
    「すっ、すみません.......なんでもないです。お昼にしましょうか」
    葛城さんはそう言ってベッドから飛び出した。
    Tシャツにホットパンツだけの格好で俺を先導する。
    柔らかい日差しを集めたような葛城さんの笑顔はいつだって何かを忘れさせてくれる。
    手を引かれてリビングに着く頃には不安の種も消えてしまった。
    しばらくして、俺は昼食の用意をする。
    つくってる間、ソファで仰向けになりながら横たわった葛城さんが向けた逆さまの笑顔。
    床に垂れ下がった伸びた髪。
    窓から吹き込む風に微かに揺れる姿は台所でガスを使う俺の心も風鈴のように涼ませてくれた。
    テーブルに2人で向かい合う。
    箸を動かしながら他愛もない会話をする。
    調味料の分量を少し変えたのが良かったのか、葛城さんのほっこりした顔が今日は多く見れる。
    「センパイ、聞いてますか?」
    美味しそうに食べる葛城さんを眺めてたらいきなり話しかけられてびっくりする。
    「.....すみません、なんでしたっけ」
    慌てて漬物に箸を伸ばして落としそうになってしまう。
    急いで会話の内容を思い出す。
    確か、レッスンもしないで俺の飯を食べすぎたら太りそうとかだったはず。
    「葛城さんは痩せすぎな方ですよ。もう少し体重が増えてもいいくらいです」
    「ホントですか.....?」
    「増えすぎたら問題ですけどね。でも、それくらいで葛城さんの魅力は消えません。いいお嫁さんになれると思いますよ」
    「.....///」
    ......っ?!
    俺今なんて言った?!
    「すみません、口が滑りました」

  • 6二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:17:43

    「わたし、お嫁さんにならなくていいかもしれません」
    箸を動かす手を止めて葛城さんがそう言った。
    「センパイとずっと一緒ですよね.....?」
    それは、葛城さんからしたら特に意味のない発言だったかもしれない。
    けれど、胸の奥に無邪気に飛び込んできたその言葉は内側から俺の事を必要以上に甘く蝕んでいく気がして。
    「......あっ、別に....そういう意味じゃ........」
    「ええ、分かってます」
    場を繋ぐように葛城さんと笑い合う。
    けれど、微笑みを浮かべようとする唇はどこかぎこちない。
    なんとなくだけど、葛城さんも無理して笑っている気がする。
    「今日はわたしがお皿を洗いますね」
    「はい、お願いします」
    気を遣わせてしまったのが少し後ろめたい。
    葛城さんに迷惑をかけてばっかりだ。
    何かしていないと落ち着かなくて、とりあえず電話棚から熱帯魚用の餌を取り出す。
    俺たちはリビングの窓際に置いた金魚鉢でベタという魚を飼っている。
    揺れる水草と透明な水の中で空を一欠片持ってきたような青々とした尾ひれが動いてるのを見ると俺もどこか涼しげな気分になる。
    このベタはこの前、病院帰りに葛城さんと寄ったホームセンターのペットショップで見つけた。
    水槽の照明に照らし出されたベタはのんびり泳いでいて、葛城さんは一目惚れをしたらしい。
    『小さくて可愛くて柔らかそう.......なんだか守ってあげたくなっちゃう......』
    その時葛城さんはそう言っていた。
    俺の手を握りしめながら呟かれたから俺に向けて言ってるような気がして、少しだけ顔が熱くなったのを覚えている。
    そうしてその場の勢いで買ってしまったベタだが、今も金魚鉢の中で気持ちよさそうに泳いでいる。
    名前はたーくん。
    名付け親は葛城さんだ。
    葛城さんらしく、可愛い名前だと思う。
    「たーくん。ご飯ですよ」
    金魚鉢に餌を一粒落とすとたーくんは振り向いて餌をぱくっと食べた。
    振り向いた時の勢いで水草の気泡が浮かんで水面に消える。
    日差しの向きが変わったからか、金魚鉢を通した半透明の影がゆらゆら揺れている。

  • 7二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:19:23

    そういえば、朝起きた時にも餌をあげていたな。
    どの魚だったかは忘れたが、餌のあげすぎは水質を悪くして寿命を縮めるという記事を読んだ事を思い出した。
    「お腹、いっぱいでしたよね」
    なんとなく不安を感じる度にたーくんに餌をあげにきてる気がした。
    とりあえず手のひらに残った餌を缶の中に払い落とす。
    「きゃっ.....」
    後ろでガラスの割れる音が聞こえた。
    「大丈夫ですか?」
    「センパイ......すみません」
    慌てて駆け寄ると床には散らばったコップの破片が。
    俺はすぐに葛城さんの指先や手の甲を見渡す。
    良かった、怪我はしてないみたいだ。
    葛城さんに少し離れてもらって、袋に大きめの破片を集めていく。
    「すみません......わたし、なんにもできなくって」
    その場に立ち尽くす葛城さんが沈んだ声で呟く。
    そんな事ない。
    だって、葛城さんは俺のために........
    「拾うの手伝います.....!」
    「大丈夫です。それより掃除機を持ってきてください」
    「わかりました......!」
    出来ることを見つけて嬉しいのか、葛城さんはパタパタと足音を立てて飛び出した。
    「......これで、大丈夫でしょうか?」
    「ちゃんと掃除したし大丈夫ですよ」
    葛城さんが掃除機で小さな破片を吸い取った後、俺たちは台所の床の拭き掃除をした。
    コップは割れてしまったが、以前よりも床は綺麗になった。
    「床、綺麗になりましたね」
    「はい!」
    2人で掃除道具の片付けをする。
    「あぁ、そういえば今日紫雲さんが」
    そう言いかけた時、部屋のチャイムが鳴った。

  • 8二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:21:10

    インターホンを覗き込むと荷物を持った紫雲さんがいた。
    「お米持ってるから早く開けてー」
    「噂をすれば、ですね」
    「今開けるね」
    葛城さんが玄関を開けると紫雲さんは入り口に米を置いた。
    「清夏ちゃん、今日早いね。お昼過ぎだよ?」
    「今日は撮影の仕事があったんだー。終わったら帰って良いって言われたんだ」
    制服姿の紫雲さんは食材が入った大きなビニール袋を玄関の外から持ってきた。
    全て部屋の中に置くと、側に座り込んだ。
    「すみません、ありがとうございます」
    紫雲さんが持ってきたビニール袋を抱え上げる。
    冷蔵庫に早くしまおう。
    「はーっ、この量は腰にくるわぁ......」
    「なんかおばあちゃんみたい」
    「買い出ししてきたのに酷い事言うねぇリーリヤは」
    2人でくすくす笑っている。
    「お茶でも飲んでいきますか?」
    「そうしよっかな」
    俺たち3人はリビングで紫雲さんを労うために一息入れる事にした。
    葛城さんがつくったお菓子と一緒に紅茶を淹れる。
    「ああ、そうそう。いい物を持ってきたよ。リーリヤが最近元気ないって言ってたから」
    「そんな事ないけど......」
    葛城さんはきょとんと小首を傾げた。
    「少し元気が......朝だって」
    「あれはなんでもないです。気にしすぎじゃないですか?」
    俺は困ったように笑う葛城さんの声は何故か必要以上に強く聞こえた。
    外が怖くて出られないけど、本当はいつも通り元気なんだ。
    そう言い聞かせたがってるかのように。
    でも、朝に引きこもりをやめるって......

  • 9二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:22:13

    「あちっ」
    「せ、センパイ?大丈夫ですか?」
    唇を刺すような痛みが走る。
    その場しのぎに口に含んだ紅茶が思ったより熱くてむせてしまう。
    ......考え過ぎだよな。
    「センパイ、もう熱くないんじゃないですか?」
    葛城さんは俺のカップをペタペタ触って温度を確かめる。
    落ち着いて火傷をしないようにそっと息を吹きかけてから紅茶を口に含む。
    少し冷めた、でもほんのり熱を持った液体が体の奥へと流れてきた。
    「アツアツじゃん」
    「もう少し早く火から離すべきでした」
    「そういう意味じゃないって」
    紫雲さんが葛城さんを揶揄っている。
    「す、清夏ちゃん。いい物って?」
    「あぁ、これこれ」
    紫雲さんが取り出したのはA4サイズのクリアファイルだった。
    「じゃーん、課題貰ってきちゃった」
    「ぜ、全然いい物じゃないよぉ!」
    「ウソウソ、ホントはこっち」
    今度取り出した物は貯金箱程の大きな瓶だった。
    「ローヤルゼリー。滋養強壮にいいらしいよ」
    葛城さんは瓶を受け取ったもののどうしていいか分からないといった目を俺に向ける。
    「朝食前に摂らせてもらいます」
    「美味しいからって沢山食べちゃダメだよー?」
    「そ、そんな事しないもん......!」
    「いくら身体のためだからって、美味しいからって沢山食べすぎたら体に毒だかんねー」
    「清夏ちゃん.....!」
    紫雲さんは不意に顔を曇らせて、俺達の向こう側を見るような遠い目をして黙り込んでしまった。

  • 10二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:23:36

    「紫雲さん.....?」
    「あたしね、ずっと昔に小さい魚飼ってたんだ。グッピーって品種なんだけど」
    紫雲さんはたーくんの方を見ている。
    「それであの時、餌をあげすぎて逆にグッピーを病気にしちゃった事があって」
    だからそうやって手を掛けすぎるとダメになる事もあるんだよ。
    紫雲さんはその言葉を何故だか葛城さんの方に向けて言ってるようだった。
    葛城さんも何か言いたげな顔をしているが......どんな感情を抱いてるのかよく分からない。
    「清夏ちゃん、一緒に課題やらない?」
    不意に顔を上げた葛城さんがそう言った。
    「えー?あたしとやっても足引っ張るだけな気がするけど」
    「手伝ってほしいな。漢字とか、たまに分からないの出てくるから」
    「まー、この後用事ないから良いけどね」
    「片付けはやっておきますよ」
    「センパイ、ありがとうございます.....!」
    葛城さん達が別の部屋に移動していく。
    あの時の感じた感覚がよく分からない。
    言葉に出せない何かが澱んだ水のように部屋に中を満たしている気がして、少し息苦しく思える。
    紫雲さんの言葉を聞いたせいか、心なしかベタの緩やかな動きも弱まっているように見えた。

  • 11二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:25:28

    「......何?」
    「何って?」
    「リーリヤがあたしに勉強頼るはずないでしょ?何か秘密に話したい事でもあったんじゃないかなって」
    「......センパイに変な事を言うのやめて」
    「それは......だって、リーリヤもこのままじゃダメなのは分かってるでしょ?」
    「うん、分かってる」
    「じゃあ少しでも良い方向に持っていった方が......」
    「分かってないのは清夏ちゃんの方だよ」
    「......あたしも悪かったって」
    「......今日はこのまま帰って」
    「それを言うんだったらリーリヤだって.....!」
    「センパイは悪くない!」
    「......悪いのは、ずっとサボって学校にいかないわたし」
    「ちょ、ちょっとリーリヤ......」
    「もうそれで良いの。わたしはこのままずっと家で引きこもって暮らすんだ」
    「......分かった、話はまた今度にしよう」
    「うん」
    「......でもね」
    「......なに?」
    「リーリヤのプロデューサーに対する付き合い方も、褒められた物じゃないと思うな」
    「......だってセンパイの事、本当に大事なんだもん」
    「じゃあそのセンパイのために前向きな事をしなよ」
    「してるもん!」
    「1日中引きこもってネットするか寝てるかがセンパイのためなの?」
    「......清夏ちゃんだって分かってる癖に」
    「リーリヤだって、いつまでもこんなことしてられる訳じゃないって分かってるでしょ」
    「......もういい、この話やめにしよ」
    「......」
    「わたし、もう寝るから。おやすみ」
    「......プロデューサーの事、ちゃんと考えてあげなよ」

  • 12二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:27:47

    「.......うん、ごめんね清夏ちゃん。言いすぎちゃって」
    「別にいいよ。あたしのせいでもあるんだし」
    ❇︎
    「もう帰るんですか?」
    「うん、リーリヤったら久しぶりに頭を使ったせいで疲れちゃったみたい」
    皿洗いを終えて休憩用のクッキーとレモンティーを持って葛城さんの部屋に向かうと紫雲さんは帰る支度を始めていた。
    部屋の中には膨らむ布団の中に、寝癖が少しついた葛城さんの髪が見えた。
    「葛城さんは大丈夫そうですか?」
    「心配ないよ。またしばらく寝たら起きてくるはず」
    紫雲さんは優しそうにそう言うが、それに反して部屋の中はやけに空気が重く感じた。
    俺は部屋に入って遮光カーテンを開けて外の風を入れる。
    眩しがって葛城さんは布団を被った。
    「じゃあね、リーリヤ。あんまり心配かけちゃダメだよ」
    「......清夏ちゃんだって」
    葛城さんの声には変にトゲがあって、また少し息苦しさを覚えた。
    この部屋には酸素が足りない。
    なんとなくそう思った。
    ......葛城さんさえいれば、大丈夫なはずなのに。
    紫雲さんを見送ってから葛城さんの部屋に戻る。
    「......センパイ、今はひとりにしてほしいです」
    そう言われてしまったのでリビングに戻る。
    1人分余ったクッキーとレモンティーをテーブルに置いてソファに腰を下ろした。
    気付けばもう陽が傾き始めていて、オレンジ色の光が窓際の植物や金魚鉢の影を伸ばしている。
    しばらく網戸のままにしていたせいか、乾いてしまった部屋の空気がやけに冷たく感じる。
    俺も昼過ぎの葛城さんみたいにソファに仰向けに寝転がり、床や天井をぼんやりと眺めていた。
    紫雲さんは、多分本当は俺たちの関係を快く思っていない。
    それなのに俺たちのために買い出しをしてくれて......迷惑をかけてばかりだ。
    床に広がった半透明の影の中、たーくんが不安げに揺れ動いてるのが見える。
    「たーくん」
    なんとなく、影に向かって声をかける。

  • 13二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:29:15

    何を言おうとしたのかは自分でも分からない。
    だけど、言葉は浮かび上がるのを待っていた気泡のように簡単に出てきた。
    「......すみません、こんな狭い所に閉じ込めちゃって」
    すみません。
    本当に、すみません......

    気付くと俺は眠ってしまって、夢を見ていた。
    水の中をどこまでもどこまでも泳いで行くような、そんな夢を。
    青く深い海の中をどことも知れず泳いでいく。
    最初の頃は誰かと一緒に泳いでいたが、気付けば泳ぎ続けてるのは俺だけになっていた。
    身体が疲れて動かなくなっても、息が詰まっても、泳ぐのを止めれない。
    だって、泳ぐのをやめたら死んでしまうから。
    それに......ここを泳ぎ切ったらいい所に辿り着くと。
    誰かがそう言った記憶がある。
    早く無事に辿り着かなきゃ。
    そしたらみんな喜んでくれる。
    それなのに、俺の体は少しずつうまく動かせなくなっていく。
    うまく泳げなくなればなるほど、身体に酸素が行き渡らなくて必死にもがく。
    けれど、もう光すら届かないほどの深みに来ていた俺を、水圧がゆっくりと押し潰していく。
    助けて。
    息ができない。
    もう、泳げない.......

    そんな時、唇から温かい息が流れてきた。
    「......えへへ、センパイ」
    水中から浮かび上がるようにして目を覚ますと、ぼやけた視界の向こう岸にいたのは俺の大好きな人だった。
    抱え上げるようにそっと腕を回した葛城さんの背中に俺はしがみつくように抱きつく。
    気付けばさっきまでの息苦しさが嘘のように薄れていた。
    あまりの安心感に思わず涙が溢れてくる。
    葛城さんは何も言わず、抱きしめた俺の頭をずっと撫でていてくれる。

  • 14二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:30:35

    「......すみません、怖い夢を見てしまって」
    「それは辛かったですね」
    「苦しくて、息ができなくて......」
    「もう大丈夫ですよ。センパイにはわたしがいますから」
    気休めだと誰かは言うだろう。
    気持ち悪いとさえ思う人もいるだろう。
    だけど、何よりも......葛城さんの言葉と温もりは俺の事を守ってくれる。
    「葛城さん......離れないで」
    「はい、ずーっとそばにいますよ」
    駄目だと分かってる。
    心の中で葛城さんに謝って、もう少しこの温もりを感じている事にした。

    もう陽もすっかり沈んだ頃、夕飯をつくり始めた。
    いつもこの時間、葛城さんは部屋でパソコンを使うか本を読んで過ごしている。
    「今日はパソコンやらないんですか?」
    「いつもチャットしてる人が来てなくて」
    ネットで葛城さんはどういう話をしてるんだろうか。
    「いつもどんな人とチャットを?」
    「マリアさんとするのが多いです」
    「外国の方ですか?」
    「ハンドルネームって言うんですか?チャットでの名前です」
    ああ、そりゃそうか。
    葛城さんだって本名でやってないしな。
    掃除の時チラッと見たが、葛城さんはリリィという名前だったのを思い出す。
    出来上がった夕飯をテーブルの上に置き、2人で食べ始める。
    「ん、この煮物甘い.....!」
    「紫雲さんから貰ったハチミツを入れてみました。お口に合いましたか?」
    「とっても美味しいです.....!」
    工夫した料理をつくった時、葛城さんがそう言ってくれるのは嬉しい。
    葛城さんが美味しそうに食べる様子は言葉以上に嬉しくて、心が温まる。

  • 15二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:31:51

    「ローヤルゼリーだと思って見てみたら普通の蜂蜜でびっくりしました」
    「何か違うんですか?」
    「ローヤルゼリーは錠剤か粉末ですよ。こんな高価な物貰っていいんでしょうか」
    「清夏ちゃん、甘すぎるのは苦手だから持ってきたのかも」
    お菓子みたいな甘くて美味しい物は心のために必要だけど、甘すぎるのは流石に体に悪そうって。
    紫雲さんがそう言っていたと葛城さんが無邪気な笑顔で教えてくれた。
    「甘すぎると体が悪く......」
    「......センパイ?」
    「ああ、すみません。食事を続けましょうか」
    甘すぎると身体に良くない。
    食べ終えた食器を洗いながら、何故かその言葉が頭をぐるぐると回っていた。
    蜂蜜だけでなく糖分は成長に必要だ。
    それがなかったら頭が働かなくなる。
    だけど、そればかり摂取していたら身体を壊してしまう事も事実で。
    「センパイ?」
    葛城さんの言葉で我に返る。
    「葛城さん、お風呂沸かしてもらってもいいですか?」
    「......はい、一緒に入りましょうね」
    何か言おうとして押し留めたのか、その声はわざと明るくしたように聞こえた。
    嘘が下手な葛城さんは可愛いけれど、時々どうする事もできずに苦しくなる。
    「......そうですね」
    なんとなく答えてしまうが、それでいいのかも分からなくなってくる。
    紫雲さんは多分気付いている。
    だから"そういう事"を続けるのは葛城さんのためにならない。
    今日の紫雲さんは俺たちにそれを伝えにきたんだろうか。
    葛城さんが引きこもってから半年間。
    それは俺にとってもかつてない程、どうしようもなく甘いひとときだった。
    ......やっぱり、駄目だ。
    これは葛城さんの回復のため.......
    俺は理性を働かせようと、浴室の方に声をかける。

  • 16二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:34:22

    「すみません、今日はひとりで入りますね」

    しばらくして、葛城さんがお風呂から上がった後にひとりで湯船につかる。
    ここ最近、葛城さんと一緒に入る事が多かったからひとりで入るのは久しぶりだった。
    うなじに胸元、二の腕を通って指先を洗い流す。
    自然と葛城さんが洗うようにしてしまう。
    けれど、いつもと違って背中から伝わる熱はない。
    意識すると余計にひとりに思えてしまう。
    シャワーの蛇口を力を込めて捻った。
    目を瞑った中で温水に打たれて、難しい考えも一緒に流してしまおう。
    ......だけど、水に当たってるとさっきの夢を思い出してしまって、思わずシャワーを止める。
    ......誰も、いない。
    水音が消えた浴室はやけに静かに思えた。
    何かで埋めなければ耐えられなくなるほどに。
    頭と身体を一通り洗い流してからゆっくりとお湯につかる。
    温かい水が身体中に沁み込んで全身を暖めてくれる。
    だけど、浴槽の反対側に手を伸ばすとあるはずの柔らかい肌は今日はない。
    なんとなく目を瞑って浴槽の中に頭を沈める。
    そうすると、自分が狭い金魚鉢の中のたーくんになったように思えて気が少し楽になる。
    ひとりだと広く感じる浴槽の中でさっき見た夢のように自由に泳ぐ姿を想像してみる。
    どこまでもどこまでも深く、暗い海の向こう側へ。
    海の向こう側には、幸せが待っている。
    顔の分からない優しそうな人たちが、口々にそんな言葉をかけるイメージが頭をよぎる。
    葛城さんも手を叩いて応援してくれてる気がして、深く深く潜っていく。

    「......ふぅっ」
    実際の葛城さんの声が聞きたくなって水の中から顔を出す。
    浴室の照明に目が慣れず、眩しさにくらくらしてしまう。
    俺はどれくらい浴槽に沈んでいたんだろうか。
    水から顔を上げると急に狭い世界に閉じ込められたように感じる。

  • 17二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:35:40

    けれども、程よく狭い水の中はかえって居心地がよく、泳ぐ気持ちも薄れてくる。
    たーくんのような魚が金魚鉢の中で飼育されてる時も、こんな感覚なのかも知れない。
    「......葛城さん」
    駄目だ。
    嫌だ、ひとりでなんていられない。
    何故葛城さんはここにいないんだ?
    身体の奥に開けられた穴が心を乾かしていくようで息が詰まる。
    その穴は多分、葛城さんの腕の中でしか埋められない。
    どうしてこんな風になってしまったんだろう。
    甘い日々に我を失って、既に身体のどこかが壊れてしまったからだろうか。
    ......いや、もっと前から壊れていたのかもしれないけど。

    入浴を済ませた俺はその後、結局葛城さんの部屋に行ってしまった。
    葛城さんの柔らかい腕に抱かれていると、それだけで満たされる。
    重ねた肌と、溶け合う汗。
    眠りに落ちる前に繋いだ手が起きた時ほどけずにいると嬉しい気持ちになる。
    葛城さんはすっかり眠っていて、はだけた布団を掛け直そうともしない。
    呼吸に合わせて上下する胸にゆっくりと頭を乗せて、心臓の音を聞いてみたりする。
    胸の奥から響く一定のリズムは俺の頭を撫でる時のように優しくて、空いてる方の腕で葛城さんを抱きしめた。
    「葛城さん.....」
    身体を少し起こして、目を覚さないようにゆっくりとキスをする。
    暗い部屋で目を閉じると唇の感触がいっそう強く感じられる。
    もっともっと葛城さんを求めたくなってしまう。
    そしてその度に自分がとても気持ち悪いものに思えて耐えられなくなる。
    身体を重ねるようになったのは、葛城さんが不登校になった辺りからだ。
    あの頃はお互いにどうしていいか分からず、ただ抱きしめなきゃいけない気がして、気付くとここまで来てしまっていた。
    求められたくて、葛城さんそのものが欲しくて、縋るようにそうしてきた。
    葛城さんも俺のバラバラになりそうな心や身体の輪郭をなぞるように、崩れそうな俺を集めて守るようにして抱いてくれた。
    それは性行為の時だけではなく、例えば一緒にお風呂に入る時だってそうだった。
    葛城さんは丁寧に.......変な言い方だが、溶け崩れていく俺を身体に集めてしまいこむようかのように、指先から爪先まで洗ってくれる。

  • 18二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:37:06

    好きだった人にそんな風にされたらもっと好きになってしまう。
    愛してはいけない人でも愛してしまう。
    もう1秒たりとも葛城さんから離れたくない自分がいる。
    だから、時々思ってはいけないことまで考えてしまう。
    例えば、葛城さんがずっと引きこもりでいてほしい、なんて。
    「.......最低だ、俺。死んでしまえばいいのに」
    自分を傷つけるナイフのような言葉を、わざと口に出してみる。
    何か罰を受けたくなった。
    今も葛城さんを抱きしめてる俺がどうしようもなく思える。
    甘い蜜のような快楽は一瞬だけすべてを忘れさせてくれる。
    けれども理性を溶かすような快楽が終わって、祭りの後のようにひとり目覚めた時。
    逃げていた現実に急に引き戻され、打ち揚げられた魚みたいに呼吸の仕方すら分からなくなる。
    布団の奥で足を絡ませながら、葛城さんの心音をずっと聞いていた。
    肌の感触と体温とが俺を安心させてくれる。
    けれど、同時に葛城さんを閉じ込めているようにも思えてしまって。
    息苦しさを感じると空を見上げたくなるものらしい。
    葛城さんから見せてもらった不登校の方のブログに空の写真が多いのもそういう理由かもしれない。
    たとえ狭いディスプレイの中の空の画像でさえも、水草から浮かぶ気泡のように意識をゆらゆらと浮かばせられる気がするのだろう。
    葛城さんにしがみ付くように肌を重ねたまま、窓の外の空に目を向けた。
    今夜は満月のようだ。
    薄い雲ににじんだ月明かりが、雲の動きによって揺れ動いて見える。
    もし、あの窓ガラスが俺たちを外と隔てた壁だとすれば。
    俺たちもたーくんと一緒で、この家という小さな金魚鉢に閉じ込められているのかもしれない。
    そうして俺たちは外での泳ぎ方を忘れて、ここで息絶えてしまうのだろうか。
    閉塞感の心地よさが怖くて、俺はその夜うまく寝付くことが出来なかった。
    ぼんやりと眺めた窓ガラスの向こう側。
    月明かりは雲の波間に浮かんで、いつまでも揺れていた。

  • 19二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:38:36

    「......ごめんな、変な話聞かせちゃって」
    「気にすんなって。俺とお前の仲だろ」
    「......ありがとう。続き、してもいいかな」
    「お前は大丈夫なのか?」
    「......うん、平気。話を戻そうか」


    うなされる時はいつだって溺れる夢を見る。
    今朝もそうだった。
    教室、ノート、席に着いた生徒の群れ。
    今はもう懐かしく思える休み時間の騒ぎ声が蝉のように遠く響いている。
    次の瞬間、木製の机と椅子と床が砂のように崩れて足元の濁流に飲み込まれる。
    手も足も出ずに沈んでいく。
    ズブズブと身体が飲み込まれていき、気付くと俺は海の中に漂っていた。
    さっきまでいた生徒たちがいつしか深海魚へと姿を変え、名前も思い出せないほど変わり果てていた。
    尾びれが肥大化したり、何か触覚のようなものが生えたりして奇形化したクラスメイトたち。
    どうやら俺もその気になれば魚の姿に変われるみたいだが、周りの深海魚を見てるとどうにもそういう気にはなれなかった。
    徐々に背中があたかも氷で焼かれるように冷たくなってくる。
    息ができない。
    吸い込めば吸い込むほど酸素が逃げていき、苦い海水が喉の奥へと押し込まれていく。
    助けて、苦しい.......
    水の中でもがく俺を、深海魚たちは遠目で不思議そうに眺めている。
    時々笑ってる奴もいた。
    人間のままでいるとこのまま溺れ死ぬ。
    諦めて指先に力を込めてヒレに変えようとした時、どこか遠くから柔らかいまなざしを感じた。
    無理しなくていいんだよ。
    その声は水の中を伝って俺に届いたかと思うとすぐに途切れてしまった。
    もっとあの声が聞きたい。

  • 20二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:40:49

    深海魚たちが発する音とは違う、俺を優しく包み込むあの声が。
    こっちに来てほしい。
    離れないでほしい。
    助けて......

    水の中で無様に手足を動かしていると、やがて光が辺りを飲み込んでいく。

    「......はぁっ、はぁ......」
    体温と熱のこもったタオルケットに触れる。
    目を覚ますといつもの葛城さんの部屋だった。
    何故だか背中が冷たい。
    寝ている間に掛け布団がどこかへ行ったらしい。
    自分の息遣いがうるさい。
    また、変な夢でも見たんだろうか......
    「......葛城さん」
    声をかけて抱きしめる。
    かけがえのない存在を確かめるように、身体をくっつけで抱きしめる。
    葛城さんはまだ夢の中で、寝顔は落ち着いてる。
    俺のように変な夢を見てる訳じゃなさそうだ。
    俺は眠ってる葛城さんを起こさないように気をつけてベッドから降りる。
    それにしても今日は随分と寒い。
    灰色の雲が空を覆い尽くしているせいだろうか。
    9月に入ってもずっと続いていた生ぬるい天気から急に冷え込んだからか、喉の調子も悪い。
    リビングに着いて顔を洗い、朝食の前にたーくんに餌をあげる事にした。
    だけど、たーくんの様子がおかしい。
    俺が餌をあげようとしても少しも動かず、じっとしている。
    いつもなら金魚鉢を軽くつつくと反応するのに、今日はそれもなかった。
    「餌、あげすぎたからか......?」
    どうしよう。
    俺が世話をしすぎたせいで苦しめてしまったのかもしれない。

  • 21二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:42:44

    餌の缶を握ったままどうしていいか分からず動けずにいる俺の顔が、金魚鉢に歪んで映る。
    とりあえず水の中を掃除しよう。
    汚れが原因かもしれないし。
    スポイトを用意して水面を覗き込む。
    金魚鉢の中のゴミをスポイトで吸い取っている最中、錯覚なのか俺がたーくんを閉じ込めていたぶっているような気がした。
    ベタはカルキが抜かれて酸素が程よく入った水でないと弱ってしまうからあまり水を変えるわけにはいかない。
    たーくんは弱ってるようだが時々ひれを少し動かして体の向きを変えている。
    ゴミ掃除を終えてから熱帯魚用の薬を数滴垂らした。
    薬浴といって、薬の入った水に浸かることで具合が良くなるらしい。
    俺はまたソファーに身体を預け、ぼんやりと金魚鉢や窓の外を見ていた。
    窓の向こうの曇り空は濁った水槽のようで、リビングの生ぬるい空気は心地良い。
    ときどき家の外を通る車の音が小さな気泡がはじけるように遠く聞こえて、すぐ前の道路ですら遠い世界のように思える。
    窓を開けなきゃ。
    換気をしなくちゃ。
    そう思うが......なんとなく、このままでもいい気もしてしまって、ソファに寝そべってしまう。
    そういえば。
    ここ最近は金魚鉢の水を替えてなかった。
    何度も綺麗な水に替えてしまうとかえって住み心地が悪くなって弱ってしまう。
    そう聞いたから抵抗はあるが、流石にそろそろ替えなければいけない時期か.....?
    そんな事を考えてると電話が掛かってきた。
    この番号は.....先生だ。
    『もしもし』
    『朝早くにすみませんね』
    『いえ、大丈夫です。どうしましたか?』
    『今日の9時頃食料を渡しに行こうとしてたんですけど病院に行く予定が入っていたのを忘れてしまってて』
    『大丈夫ですか?』
    『定期検査みたいなものだから平気ですよ』
    先生が歳を取ると物忘れが増えて嫌だと笑う。
    『あ、今のは突っ込むところですよー?』
    『すみません』

  • 22二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:44:18

    『それで、今日は私の代わりに有村さんにお願いしました』
    『すみません、何から何まで』
    『いえいえ、早く元気になるといいですね。元気になったらお散歩でもどうですか?』
    『いい提案ですね』
    『晴れてたら気持ちいいと思いますよ。今日は曇っちゃってますけど』
    会話も程々に、先生との通話は終わった。
    俺は電話を切った後、開けていたカーテンを閉めた。
    陽の光が、窓の外から注ぎ込まれる熱が、ちょっとだけ怖かった。
    「センパイ.....?」
    「葛城さん、おはようございます」
    「誰からの電話でしたか?」
    いつの間にかリビングに降りてきていた葛城さんが訝しむような表情で俺を見る。
    「先生からでしたよ」
    「何て言ってましたか?」
    「今日は食料を持って来れなくなったそうで、代わりに有村さんが来るそうです」
    「そうなんですか?」
    「定期検査があるそうです。それと散歩も良くて......ええと、なんでもないです」
    とっさにわけが分からなくなって、繋がらない言葉をやみくもに並べてしまう。
    急に頭の中にいろいろなものが溢れてきて、息がうまくできない。
    「けほっ、けほっ......」
    「わわっ、大丈夫ですか.....?!」
    「え、ええ......水、ありますか?」
    葛城さんはすぐにキッチンへと走り、コップに水を入れて持ってきてくれた。
    そして床に少しこぼれて広がった水滴に気付きもせずに、相変わらず咳き込む俺の背中をさすってくれる。
    「大丈夫ですか?紙袋も......」
    「落ち着いてきたから大丈夫です。すみません」
    「......センパイは悪くないです」
    背中をあたためていた手が離れると、すぐにその腕は俺の身体ごと抱きしめた。
    肩にそっと頭を乗せて、頬を近づけるようにして葛城さんは囁く。

  • 23二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:46:02

    「わたしが全部悪いんです。学校に行けなくなったのも、わたしが引きこもりだから......」
    「......はい」
    そんな事ない。だって......
    そんな言葉が頭に浮かんで、けれど葛城さんの柔らかい腕がそれをかき消す。
    このまま抱きしめられていてはいけない。
    けれど、そう思うことも葛城さんを裏切る気がする。
    なにもかもが壊れてしまいそうな、そんな予感が。
    「ごめんなさい。ダメなアイドルで」
    「......そんな事ありません。一緒に治していきましょうね」
    怖かったんだ。
    プールの中みたいに居心地の良いこの場所が、ガラスのように割れて壊れてしまうことが。
    もっとも、ずいぶん前に壊れてしまっているのかも知れないが。
    落ち着くと俺たちはいつも通りの生活に戻る。
    葛城さんは自分の部屋で課題を進めて、俺は洗濯機を動かしてから部屋の掃除を始める。
    本当は掃除なんていらないほどきれいなリビングの床に掃除機をかけ、ほこりの溜まりそうな所を濡れ雑巾で拭く。
    あまり掃除をし過ぎてしまうと居心地が悪くなってしまいそうだが日課なので欠かすことはできない。
    昨日葛城さんがコップを割ってしまった床を特に念入りに磨き上げ、ほかの床よりも綺麗にできたところで休憩に入る。
    その時、電話が掛かってきた。
    『はい』
    『有村麻央です』
    『有村さん、おはようございます』
    『おはようございます。もうすぐ着くので一応連絡をしておこうと思いました』
    『わざわざすみません』
    『困った時はお互い様ですよ。それでは』
    本当に近くまで来ていたようで、5分も経たずにチャイムが鳴った。
    「今開けます」
    葛城さんも課題を中断したらしく、一緒に有村さんを出迎えに来ている。
    「おはようリーリヤ」
    「おはようございます、麻央センパイ」
    「元気そうで安心したよ」

  • 24二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:47:26

    今思えば、葛城さんは先生や紫雲さん、それに今のように有村さんと会う時は笑顔になる。
    葛城さんだって早く病気を治して外に出たいんだろう。
    一瞬だけ胸の奥が曇ったような気がして、そんな自分がいやになる。
    なに考えてるんだろう、俺。
    「冷蔵庫まで運べばいいですか?」
    「そんな、悪いですよ」
    「気にしないでください。こう見えて鍛えてるんです」
    有村さんに食料を運んでもらって申し訳ない気持ちになる。
    お礼にお茶でも淹れようとした。
    だけど、有村さんが金魚鉢を覗いてるのを見て動きが止まった。
    「これ、そろそろ水を変えたほうが良くないかい?」
    きっかけは些細な事だった。
    「......あまり水を変えすぎるのは良くないと聞きました」
    「それにしたってもう替え時だと思いますよ」
    「スポイトで定期的にゴミは取ってますよ」
    「スポイトで吸い出して捨てられるゴミだけじゃないと思いますけど......」
    「水を変えたら.....ベタが......環境に慣れなくて.......」
    さっきまでと違って、どう話していいか分からなくなる。
    言葉を選ぶのにも焦るほどだ。
    有村さんも言葉を選んでいるみたいだが、なぜか慌ててしまう俺を諭すように話している。
    「ずっと同じ水の中にいる方が体に悪いですよ」
    「ええ......その、水を変えた方が良いのは分かってます。分かってる.......」
    「プロデューサーさんも......その、ええと、過保護すぎて逆に......」
    「ま、麻央センパイ......」
    急に喉が苦しくなる。

  • 25二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:49:23

    「だ、大丈夫ですか?!」
    さっき治まったはずの咳がまたぶり返してしまって、立っていられなくなる。
    弾みでティーカップを落としてしまい、破片が床に散らばる。
    どうしよう、またやってしまった。
    どうしよう、どうしよう.......
    「センパイ?!待っててください!今紙袋を......!」
    「リーリヤ、ボクも.......」
    「麻央センパイは黙っててください!」
    突き刺すような葛城さんの声が部屋に響く。
    何も言えず立ち尽くむ有村さんの横を葛城さんは駆け出し、すぐに紙袋を握りしめて戻ってきた。
    「センパイ、もう大丈夫です。ゆっくり息を.....深呼吸です」
    俺の身体を抱き留めて背中をさする葛城さんの向こう側で、有村さんがじっとこちらを見ていた。
    怯えているのか、哀れんでいるのか分からないけれど、有村さんの目が怖くて葛城さんの手を握りしめる。
    「すみません、センパイ......わたしがこんな事になったせいで迷惑ばかりかけて......」
    違う。
    違うって分かってるのに......
    大丈夫と何度も自分に言い聞かせて呼吸を無理矢理整えようとするが、酸素がうまく身体に入って
    こない。
    どうにか空気を吸い込もうとするが、すると余計に咳が酷くなって涙まで溢れてくる。
    だいじょうぶ、だいじょうぶ.......大丈夫。
    葛城さんの声と背中をさする温かい手に合わせて、少しずつ呼吸を楽にしていく。
    「大丈夫ですよ、センパイ。わたしが側にいますから」
    葛城さんは床にうずくまった俺の右手と指を絡ませて、息が苦しくならないように身体を支えてくれる。
    体重を預けてリズムに合わせて深呼吸を繰り返していくうちに、がらがらと鳴っていた喉も次第に落ち着いてきた。
    「......麻央センパイ」
    「......ごめん、ボクが変な事を言ったせいで」
    「......わたしだって分かってます」
    来たばかりの有村さんは身支度を始めた。
    葛城さんはその間もだいぶ楽になった俺の身体をずっと抱きしめて、大丈夫と何度も囁いてくれていた。

  • 26二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:50:27

    「......言いにくいんだけど」
    帰りの支度を整えた有村さんが、目を逸らしながら葛城さんに声をかける。
    葛城さんは俺を守るようにぎゅっと抱きしめて、有村さんの方を向いた。
    「リーリヤ。君はプロデューサーさんのためにも......引きこもりは辞めた方がいいと思う」
    「......そんな事、分かってます」
    「プロデューサーさんの事が大事なら尚更......今の関係はおかしいと思う」
    咎めるでもなく、労わるでもなく、ただ心配そうな声で最後に有村さんはそう言った。
    それからドアを閉める間際に振り返り、何かを言おうとして.......代わりに目を伏せて、その場を後にした。
    葛城さんの身体が震えたのに気づいて顔を上げる。
    すると......その大きな瞳から涙が溢れて、ぽたりと俺の服に染み込んだ。
    「センパイ......すみません、何もできなくて......つらいまんまで........」
    葛城さんが顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、俺に抱きついてずっと謝り続ける。
    ......違う。
    全部、俺のせいなのに。
    葛城さんが学校行けなくなったのも、外に出られなくなったのも。
    全部俺が悪いのに.......
    「わたしが......いけないんです。ずっと家でごろごろしてるわたしが、全部悪いんです.......」
    フローリングの床がすっかり暖まるほど長い間、涙を流す俺たちは抱きしめあっていた。
    曇り空が晴れて差し込んでいたはずの光は、また厚い雲に遮られ、部屋の照明が作り物の光を俺たちに浴びせている。
    葛城さんの腕の向こうには今も割れたティーカップが散らばっていた。
    一瞬......たーくんの金魚鉢がそんな風に割れる光景が頭をよぎって、思わず葛城さんの胸に顔を押し付けてしまう。
    「センパイ......大丈夫です。大丈夫です。わたしがダメなだけなんです」
    半年前から引きこもりになってしまった葛城さんは、昔と変わらず俺の頭を撫でてくれている。
    そんな感触に身も心も委ねながら......けれども、有村さんのさっきの言葉がずっと離れないでいた。
    ガラスが割れる音のように、ずっと頭に鳴り続けていた。

  • 27二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:53:28

    <Mariaさんがオンラインになりました>


    lily :こんばんは〜

    Maria :こんばんは、元気にしてた?

    lily:家でずっとゴロゴロしてました...!

    Maria:リリィらしいね

    lily:マリアさんはお勉強ですか?

    Maria:うん、臨床研修医としてまだまだ覚える事沢山あるからね

    lily:大変そうです......

    Maria:リリィちゃんは高校生だっけ?

    lily:はい。学校は行ってませんけど

    Maria:学校は行きなよー

    lily:行きたいんですけど、やっぱり外に出るのが怖くて

    lily:ドアを開けて外に出るだけって分かってるんですけど

    Maria:うんlily:なんていうか、広い海に出るくらい怖いんです

    Maria:井の中の蛙、大海を知らず

    lily:何ですか?それ

    Maria:水槽の中の熱帯魚は幸せだけど不幸ってこと

    lily:むずかしいです......

    Maria:症状はどんな感じなの?

    lily:多分、心の病気なんだと思います

    Maria:聞いてる感じパニック障害っぽいよね

    lily:病院行ってないから分かりませんけど......

    Maria:病院は行きなよ

    lily:はい......

    Maria:私だってまだまだ素人なんだ。先輩のためにも病院には行くべきだよ

    lily:でも、病院に行くには外に出る必要が

    Maria:甘えすぎ

    lily:すみません......

  • 28二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:54:44

    Maria:リリィちゃん的にはどうなの?
    Maria:やっぱり、まだ出たくない?
    lily:外に出たいです
    Maria:....えと、何かあったの?
    lily:なんでですか?
    Maria:急に変わったから言いすぎちゃったかなって
    lily:違います
    lily:今日、学校の先輩が遊びにきてくれて
    Maria:うん
    lily:わたしたちの関係はおかしいって、喧嘩っぽくなっちゃいました
    Maria:どうみても共依存だもんね
    lily:でも、先輩の事が大事なのは本当です
    Maria:.....今のリリィちゃんの気持ちは信用できないかも
    lily:どうしてですか?
    lily:わたしが引きこもりだからですか?
    Maria:そもそもリリィちゃんが引きこもってるのってあれじゃん
    lily:それは分かってます
    Maria:自立してない人が言う愛は大体ただの依存だよ
    Maria:落ち着いて聞いてほしいんだけど、リリィちゃんが先輩の事を凄い思ってるのはわかる
    lily:はい
    Maria:だけどそれって、先輩の事を同時に閉じ込めてる訳でしょ?
    lily:わかってます
    Maria:それでいいの?
    lily:わたしは先輩に元気になってほしいです
    Maria:だったら、ちゃんと向き合わなきゃ
    lily:はい
    Maria:然るべき医療機関にかからなきゃダメ
    lily:前行った時は睡眠薬をくれただけでした
    Maria:じゃあ他を探しなよ。できるだけ話を聞いてくれる所
    lily:はい

  • 29二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:55:53

    Maria:ベタ飼ってるんでしょ?
    lily:飼ってますけど...
    Maria:ベタって闘魚なんだよ。知ってた?
    lily:しらないです
    Maria:狭い水槽の中に2匹入れてたら共食いしちゃうんだって
    Maria:だから2匹以上が育つためには広い水槽が必要みたい
    lily:何が言いたいんですか?
    Maria:リリィちゃん達も自分達の水槽を壊さなきゃダメだよ
    lily:でも、魚は外に出たら息ができなくなります
    Maria:それは水槽の水に慣れすぎたからでしょ
    Maria:ちょっとずつでも外の世界に慣れていかないと
    Maria:そのまま水を入れ替えなかったら酸素足りなくなって死んじゃうよ
    lily:わかりました
    Maria:それに助けてくれる人もいるんでしょ?
    lily:はい、多分、すごく心配してくれてます
    Maria:だったら、後は勇気を出すだけだよ
    lily:がんばってみます
    Maria:頑張れ
    Maria:2人の事応援してるから
    lily:はい!


    溢れる涙がようやく収まったのは、陽がすっかり沈んだころになってからだった。
    俺の部屋の窓からは電灯や隣の家の灯りが漏れ、夕暮れ時を過ぎたせいか自動車の走る音も多くなっていた。
    どうやらずっと葛城さんの腕の中にいたからか、しばらく夢を見ていたように感じる。
    リビングを出た葛城さんは夕飯をつくろうとする俺をおさえて、一眠りした方がいいと言った。
    心配ないと、大丈夫だと言ったのだが、どうやら葛城さんにもやることがあるみたいで。
    根負けした俺は久しぶりに自分の部屋のベッドに入り、泣き濡れた時から残る夢うつつのまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
    部屋の窓に反射する豆電球の灯りをぼんやり眺めながら、有村さんに言われた言葉を思い返す。
    妙に寂しくなってその場の布団を抱きしめてみるが、いつもと違って葛城さんの匂いはしない。

  • 30二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:57:12

    「......葛城さん」
    綿の入った布袋を抱きしめてわざと声に出して名前を呼ぶ俺は傍から見たら滑稽なのかもしれない。
    葛城さんのいない布団を抱きしめていたらいつの間にか眠ってしまったみたいだ。
    その時見た夢はどこか遠い昔のような、けれどもすぐ先の未来のような、そんな不思議な物だった。
    俺たちは葛城さんの部屋の隅に高さ20センチぐらいの小さなドアがあるのを見つけた。
    葛城さんは俺の手を引っ張って、そのドアへと入っていく。
    すると俺たちはそのドアへと吸い込まれて、一瞬息ができなくなる。
    吸い込まれていった先は海底のようだ。
    いきなり水の中に来てしまって息が出来なくなりそうだったが......しばらくするとだいぶ楽になってきた。
    変な話、これも慣れなのかもしれない。
    俺ははしゃぐ葛城さんに手を引かれながら、階段の形をした珊瑚礁やブランコのように揺れる海草を見て回る。
    その世界は初めて見るようで、けれども大昔に見たことがあるような不思議な物だった。
    小さな魚が3匹、俺の後ろから泳ぎ抜けていく。
    そのあどけない姿がどこか懐かしく思えると、手を繋いだ葛城さんも俺と同じように微笑んでいた。
    「なんだか懐かしいですね。ずっと前に来た事があるみたい......」
    「そうですね」
    葛城さんも俺と同じ感情を抱いてるようだった。
    俺たちは目の前の珊瑚礁を眺めながら、その場に隠れて遊ぶ小魚たちを見守っていた。
    水の中だというのに葛城さんの手はずっと温かいままで、それがずいぶん俺を安心させてくれた。
    しばらく海底を散歩する夢を見て、俺は目を覚ました。
    窓の外から静かに鳴る虫の音は寄せては返す波の音のようにも聞こえて、布団の中に帰ってきたのにまだ海底にいるような錯覚がある。
    うなされない夢を見られたのはずいぶん久しぶりだ。
    多分、夢の中で手を繋いでいてくれた葛城さんのおかげだろう。
    豆電球のやわらかい灯りの下で、俺は夢で繋いでいた方の手を出して眺めてみる。
    夢のことを思い出すと葛城さんが愛おしくなって、眠い目を擦ってベッドから起き上がろうとした。
    ......会いたい。
    夢みたいに、手を繋いで.......外に、出てみたい。
    自然とそう思えた矢先、扉をノックする音が聞こえた。

  • 31二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 16:58:56

    「センパイ、起きてますか.....?」
    「起きてますよ」
    「ご飯、つくってみたんですけど」
    扉が開いて葛城さんの姿が見えた瞬間、思わず抱きついてしまう。
    あんな夢を見たせいか、葛城さんに触れたくて仕方がなかった。
    「ふふっ。センパイ、甘えんぼです.....」
    葛城さんはくすっと微笑んで、抱きついた俺をそっと受け止めてくれた。
    温かい腕が肩甲骨から腰の方へ回されると、身体の奥まで安らぎが沁み渡っていくようだ。
    部屋を一歩出た薄暗い廊下で、俺はしばらく葛城さんのやわらかい身体に包まれていた。
    離れたくない。
    ずっと一緒にいたい。
    そしてそれは、いつまでも叶うような気もしていた。
    多分全部、あんな夢を見てしまったからなのだろう。
    冷たい廊下で身体が冷えそうになった頃、俺たちはリビングに向かった。
    その前に、俺は気の済むまで抱きしめられてくれた葛城さんにもう1つおねだりをしてしまう。
    「手ですか?どうぞ」
    葛城さんは俺の前に手を広げて差し出してくる。
    その時葛城さんが出した手は......偶然だろうが、夢と同じ右手だった。
    俺は指を絡ませて恋人同士の握り方で手と手を繋ぎ合わせて、階段を下りる。
    電気の点いてない廊下は薄暗く、ちょっとだけ本当に海底を散歩しているような気分になれた。
    「センパイ、なんだか嬉しそうです」
    「葛城さんのおかげですよ」
    「わたしは何もしてないです」
    そんな風に俺に向けてくれる笑顔と、こうして握っている手の感触だけでも十分すぎるくらいなのに。
    そんな事恥ずかしくて言えないから代わりに繋いだ手を握りしめる。
    するとすぐに握り返してくれた手の感触が、また俺の心を踊らせる。
    手を繋ぐ幸せをもう1度教えてくれたのは、やっぱり葛城さんだった。
    それから俺は葛城さんにつくった晩ごはんを一緒に食べた。
    「ハチミツはありましたけどリンゴがなかったので代わりにジュースを入れてみたんですけど......」
    「蜂蜜と林檎なんてよく知ってましたね」

  • 32二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:00:28

    「CMで流れていました」
    葛城さんがつくってくれたカレーライスは、お世辞にも上手いとは言えないだろう。
    けれども葛城さんが俺のためにつくってくれたことだけで、どんな調味料よりもおいしく感じる。
    「林檎はすりおろしじゃなきゃ駄目なんですよ?」
    「......知らなかったです」
    俺は葛城さんが一生懸命つくった水っぽいカレーを美味しくいただいた。
    食べている間、葛城さんは不思議な事をしていた。
    「センパイ.....このカレー美味しくないですよね?」
    「そんな事ないですよ。葛城さんがつくってくれたんですから」
    嘘ではない。
    折角葛城さんがつくってくれたカレーだから、俺にとってはどんな味でも美味しく感じる。
    でも、葛城さんは納得してくれず、何度も俺に不味いと言わせようとしてくる。
    「だって......カレーにジュースを混ぜちゃったんですよ?清夏ちゃんだって美味しくないって言うはずです」
    葛城さんの考えてる事が分からなくて、ちょっと悩んだ末言う通りにしてみる。
    「......確かにジュースはまずかったですね」
    「そっちのマズイじゃなくて......えっと、このカレーが......!」
    何故葛城さんは泣きついてまで俺に不味いと言わせたがるのだろうか。
    葛城さんが引き下がる様子がないから、仕方なく俺は口にする。
    「......このカレー、不味いです」
    「心がこもってません!」
    「えっ......ええ?」
    それから3回、カレーを不味いと言い直してようやくOKが出た。
    大好きな葛城さんのカレーを貶してしまって、俺の方が少し泣きそうになった。
    だけど、葛城さんは何故か不味いと言われて嬉しそうだ。
    「センパイにマズイって言ってもらえた......!」
    「どうしてですか?」
    「ほんとの恋人って、相手のダメな所はちゃんとダメって言わなきゃいけないんです」
    本当の恋人。
    突然葛城さんの口からそんな言葉が出て、心臓がとくんと動く。
    「センパイはわたしのダメなところを見てくれないです。だからちゃんと向き合わないといけないんです.....!」

  • 33二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:02:30

    葛城さんの言葉の意味が伝わると、揺れ動いた胸の奥にじんわりと温かいものが溢れてくるのを感じた。
    たった少しの言葉で、ほんの少し浮かびかけていた涙の意味がすっかり変わった。
    「葛城さん、このカレー不味いです!」
    「そっ、そんなに嬉しそうに言われても......」
    なんだかあまりにもおかしくて、2人で笑ってしまう。

    食べ終えた食器を洗っていると、葛城さんが俺をお風呂に誘ってきた。
    「今日は一緒に入りたい気分なんです」
    「いきなりですね」
    「今日はセンパイの体を洗ってあげたいんです」
    葛城さんにお願いされて断れる訳もなく、結局一緒に入ることに。
    俺がシャワーを浴びてお風呂につかっていると、下着1つつけていない葛城さんが入ってきた。
    本当はいつも見ている姿だけど.......こうした明るい場所だと、正面からみるのはちょっと恥ずかしい。
    そんな俺の気持ちを見透かしたように、葛城さんはわざと俺の顔を正面から見ようと肩をつかまえてくる。
    目を逸らそうとするほど面白がって追いかけてきて、いつの間にか水遊びのようになってしまっていた。
    「体、洗いますね」
    「もう洗っちゃいましたけど」
    「洗わせてください」
    本当に俺は葛城さんに弱い。
    浴槽から上がり葛城さんに身を預ける。
    葛城さんは俺の爪先を指の1本1本まで丁寧に洗ってくれた。
    「......今日の葛城さんはなんだか優しいですね」
    身体を優しく洗ってもらいながら、なんとなく聞いてみた。
    けれども自分が発した質問は葛城さんの優しすぎる感触の中で不安に変わり、5秒後には発したことを後悔してしまう。
    「......なんでもないです」
    「......今日は、センパイをとびっきり甘やかしたかったんです」
    自分で引き下げた問いかけに、葛城さんは待ち構えていたように言葉を返す。
    葛城さんはそれから黙って身体を洗うことに専念し始めた。
    腰骨のあたりから脇腹、二の腕から両手の指の間まで1本1本ゆっくりと洗っていく。
    それは、俺が何かを問いかけるのを待っているみたいで。

  • 34二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:03:48

    期待する気持ちもどこかにあった。
    けれども、怖い気持ちの方がその時は強かった。
    「......どうして今日はこんなにしてくれるんですか?」
    「......センパイの恋人になりたいからです」
    俺たちは半年間、こんな風にお風呂場で過ごした身体を重ね合わせたりしてきた。
    けれども2人の関係を定義しなおす、そんな話になったのは初めてだった。
    当然だった。
    俺たちは悪いことをしていて、関係を問い直したらそれが明るみになってしまうのだから。
    でも、その時の葛城さんの声はいつもと違って、硬い芯のようなものがあった。
    椅子に座る俺に跪いて、俺の瞳を真っ直ぐに見つめる葛城さんが少し怖く思えた。
    もしかしたら俺たち2人で見ないふりをしてきたいろいろなことにメスをいれようとしているのかもしれない。
    そう思うと途端に不安になって、腕が硬直して息苦しくなって......
    「大丈夫です」
    体調を崩してしまう2秒手前で葛城さんは立ち上がって、そっと抱きしめ直してくれた。
    椅子の後ろに倒れこまないように、ぎゅっと俺の身体を抱きしめて。
    俺が体調を崩した時、葛城さんは安心するまでずっと抱きしめてくれる。
    例えばこんな時は、肌と肌が繋がりあってひとつになるような気がするまで。
    「......もう、平気です」
    「良かった......」
    息が耳たぶを暖めるほどの近さで、背中を葛城さんに支えられながら囁きあう。
    けれども......葛城さんの声は、硬いものを残したままだった。
    「.....あの、センパイ」
    「......なんですか?」
    2人きりのお風呂場で、抱きしめ合いながら静かに囁き合う。
    少しのぼせて、眠ってしまいそうなほどの安らぎの中で、けれども葛城さんは何かを変えようとしているみたいだった。
    今までは怖くてたまらなかった"変わる"ということが、葛城さんの腕のおかげで少し平気になったようだ。
    「人を愛する条件って分かりますか?」
    「相手をお互いに思いやること......じゃないですか?」
    「......それだけじゃ、ないんです」
    俺もどんなことを言おうとしているのかが分かった気がして、抱きしめる力を強める。

  • 35二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:06:17

    けれど、葛城さんは俺を驚かせないように数回息を整えて、耳元で囁いた。
    「依存してちゃダメなんです、わたしたち......」
    葛城さんから重いものをおろしたように力が抜け、少し倒れそうになるのを俺が支える。
    身体に纏わり付いたままのボディソープが抱きしめあう俺たちをくっつけ合わせているみたいで少し嬉しくなる。
    もしかしたら、そのために葛城さんは俺の身体を洗ってくれたのだろうか。
    でもそんな愛おしい葛城さんが......なんだか今にも離れてしまいそうで、逃がさないようにと強く抱きしめていた。
    「わっ......!」
    そのせいでバランスを崩して、俺は葛城さんを抱きしめたままお風呂の床に倒れこんでしまった。
    ちょうど葛城さんは俺の身体に上乗りになって、そのまま抱きしめあっているような状態だ。
    葛城さんの濡れた髪から水滴が俺の鎖骨にしたたり落ちる。
    目の前で少しゆがんで細められた瞳には、うっすらと涙の粒が滲んでいた。
    転んでしまったから、じゃないことぐらいは分かる。
    「センパイ......これだけですから、これだけ.......」
    葛城さんは俺に、そして自分自身に言い聞かせるようにそう口にした。
    なにがこれだけなのか、俺にはよく分からない。
    けれどもそれが何を指していても、俺たちの何かが変わろうとしていることは、気付いていた。
    葛城さんは目を瞑り、ゆっくりと俺に顔を近づけ、口付けをした。
    どれほど長く唇の触れ合う感触に惚けていたのだろうか。
    どれほど深く舌と舌を絡め合わせていただろうか。
    それは定かじゃないが、そのとき俺は葛城さんを受け入れ、葛城さんを求めた。
    身体をまさぐったり、身をよじっては声を上げたりといったことはしていない。
    ただ葛城さんを抱きしめながら、いつのまにか繋がれた片方の手を握りしめて、口付けを交わした......それだけだった。

  • 36二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:07:53

    ひたすら、確かめ合いたかっただけだ。
    性的な繋がりではなく、依存でもないところにも俺たちの繋がりがあることを。
    だから、逃避のような快感に身を任せることなく俺たちの唇はそっと離れる。
    あの唇を濡らした液体が俺の唇に垂れ落ちきった頃、葛城さんはゆっくりと身体を起こした。
    抱きしめあった腕が離れる瞬間、ほんの少しだけ身体の表面が冷えた気がする。
    その時、浴室の床でオレンジ色の照明と換気扇を眺めながら気付いた。
    ......いまこの身体を抜けて換気扇の向こうへと消えた少しの熱こそが、これまで俺たちを溶かし合わせていたことに。
    喪失感と解放感に満たされて行き場を失った俺の身体を葛城さんはそっと抱き起こす。
    それからシャワーの蛇口を捻り、葛城さんは俺たちを癒着していたボディソープを丁寧に流していった。
    俺たちはもう1度湯船につかり、抱きしめ合った。
    俺は葛城さんの肩に頭をのせて、少しぬるくなった湯船の中で冷えた身体を芯まで温めていく。
    身体を拭いてパジャマに着替えると俺は葛城さんの手を握った。
    ここから葛城さんの部屋まで連れて行ってもらう。
    一緒にお風呂に入った日はいつもこうして手を繋いだり抱きしめてみたり、ちょっとだけ葛城さんに甘えてしまう。
    だけど今日の葛城さんは俺を先にキッチンへと連れて行き、そこでコップ1杯の水を汲んだ。
    それからそのまま水を持って自分の部屋に行くと、引き出しの奥底から白い紙袋を取り出した。
    中は......半年前に病院でもらった、睡眠薬だった。
    「えっと......今日、センパイが咳き込んでいたからよく眠れるのか心配で......」
    「......ええ、平気ですよ、葛城さん」
    「わたしがもらった薬なので体に合うかは分からないんですけど......」
    葛城さん狼少年のように変にうまい口ぶりで俺を説得しようとしていた。
    だけど俺の心は最初から決まっている。
    「葛城さんが飲んだ方がいいと言うのなら飲みます。ずっと一緒にいたいですから」
    「......ありがとうございます」
    葛城さんさえいれば、もう怖いものはないはずだ。
    俺は葛城さんの睡眠薬を飲んで、一緒のベッドで眠りについた。

  • 37二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:09:01

    その日、俺は深く寝入ってしまって夢1つ見なかった。
    薬によってもたらされた人工的な睡魔は俺を10数時間の眠りの海へと落とし、なかなか上がらせてくれなかった。
    けれど、俺の寝ている間に何か大変なことが起きていたようだ。
    朦朧とした意識の向こう側で、何か大事なものが離れていくのを感じた。
    けれども薬の睡魔は俺を目覚めさせまいと押さえつけ、結局その感覚も起きる頃には忘れてしまっていた。
    目覚めの間際、最初に違和感を覚えたのは空っぽの手だった。
    俺はいつしか窓から差し込んでいた日光に薄目を開け、眩しすぎる光から逃げるために布団の中へと潜り込む。
    けれど、その布団の中には在るべき存在が消えていた。
    それに気がついて、ガラスが割れたかような驚きと恐怖に俺はすぐ目を覚ました。
    「な、なんで.......葛城さんが......」
    飛び起きて部屋中を見渡しても、葛城さんは影も形もなくなっていた。
    そこで初めて部屋の時計を見ると、もう昼の12時を過ぎたところだった。
    睡眠薬を飲んだせいで必要以上に眠りすぎてしまったことに、初めて気が付いた。
    ......そうだ、勘違いだ。
    葛城さんがこの家からいなくなるはずない。
    葛城さんは起きてこの家のどこかにいるはずだ。
    俺はそれを確かめるために葛城さんの部屋を飛び出した。
    リビング、俺の部屋、ベランダ、トイレ、さまざまな所を探す。
    けれども.......葛城さんは、この家のどこにも見つからなかった。
    俺がリビングの真ん中で倒れそうになったとき、遠くで玄関の開く音が聞こえた。
    呼吸のリズムがおかしくなって酷い眩暈にも襲われながら、俺は手すりにもたれるように玄関へと向かう。
    昨日までずっとそばにいたはずの葛城さんが消えてしまった。
    不安を覚えた時、体調を崩した時、いつでも抱きしめてくれたあの優しい腕が......俺を残して消えてしまった。
    俺の心がバラバラになるのには、それだけで十分すぎるほどだった。

  • 38二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:10:34

    「ごほっ......かつらぎ......ぐっ......かつらぎ、さんっ.......」
    支えてくれた腕を失って、ひとりでは何度も倒れてしまいそうになりながら俺は急いで玄関に向かう。
    手足が上手く動かせずに、何度も階段で転びそうになりながら。
    俺は多分、陸地に上げられた魚のように過呼吸に苦しみよろめいている。
    どうにか最後の階段を下りたちょうどその時、俺は廊下で勢いよく抱きしめられた。
    「センパイ!センパイ!!!」
    .......それは外から帰ってきたばかりの、制服姿の葛城さんだった。
    ローファーも脱がずに廊下に飛び出した葛城さんに抱きかかえられ、俺は玄関の向こう側に見知った人影を見つけた。
    同じく制服を着た、紫雲さんと有村さんだ。
    紫雲さんは鞄の中から何かを取り出そうとし焦って中身を床にばらまいてしまう。
    有村さんも発作を起こして手足を震わせる俺にどうすることもできずあたふたと立ちすくんでいた。
    「清夏ちゃん!お薬持ってきて!わたしの部屋の机の1番下!ピンク色の紙袋に入ってるやつ!」
    「わ、わかった!」
    震える手足を押さえつけながら背中をさする葛城さんが、強い声を上げた。
    葛城さんの声を聞いて紫雲さんはすぐに階段を駆け上がる。
    「麻央センパイはコップに水を!後紙袋も......!靴は脱がないでいいのではやく......!」
    「あ、ああ!」
    紫雲さんに続いて有村さんもリビングの方へと飛び出して行った。
    それから葛城さんはずっと耳元で大丈夫、大丈夫と囁きながら背中をさすってくれた。
    「はぁっ......はぁっ.......かつらぎ....さっ.......」
    「センパイ、大丈夫ですよ。ずっとそばにいますから.......」
    大丈夫。
    心配ない。
    ずっと、そばにいる。
    不安でバラバラにされた俺の心を拾い集めて戻すように、葛城さんは耳元でずっと囁く。
    葛城さんの声はこんな時でも子守唄のように優しく伝わって、耳にあたる息と共に少しずつ呼吸もおさまってくる。

  • 39二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:12:31

    俺は腕の中で、葛城さん顔を見上げた。
    髪の毛もはねたまま、制服のスカーフも半分ほど解けたような状態の葛城さんは......泣いていた。
    「......葛城、さん」
    「せんぱい......ごめんなさい、センパイの事勝手に置いて外に行っちゃって.......わたしが引きこもりだから......」
    涙と鼻水で酷い顔の葛城さんが発作を起こした俺を抑えるのを見て......悪いのは全部俺なのに自分のせいだと謝り続けるのを聞いて。
    ......もう俺は、耐えられなくなってしまった。
    「......違う、病気なのは俺の方だ.......葛城さんは俺のために引きこもりの振りをしていただけだ......」
    9月のある晴れた金曜日。
    半年ずっと俺たちを守ってくれた、2人で守ってきた嘘を.......俺はひと思いに壊した。


    2年くらい前の話だ。
    俺は初星学園のプロデューサー科に入学して比較的早く担当アイドルを持った。
    葛城さんの担当プロデューサーになる前まではクラスの生徒達と交流を持っていたが、時間が進むに連れて会話の頻度が減っていった。
    理由は葛城さんのプロデュース計画を立てるため。
    最初の頃はそんな俺を見て俺よりも遅く契約を結んだ人たちが俺の元に相談にやってきた。
    俺もそれに快く応えた。
    しかし、現実は非情だった。
    葛城さんは伸び悩んで、他の子たちは難なくオーディション突破や仕事を持ってきていた。
    そんな状況が続き、教室内では俺のプロデュース方法が間違ってるんじゃないかと噂され始めるようになった。
    誰とも話せないまま、孤立した教室で黙々とペンを動かしてると自分が誰なのか分からなくなってくる。
    何が正解なのかも、何をすればいいのかも分からない。
    あたかも俺と他のみんなの間は見えないガラスで隔てられている気がして、酷い孤立感に苛まれる。
    教室の中を泳ぐように行き来するクラスメイトも、屈折したガラスのこちら側からは別の生き物のように見えた。
    時々ガラスの向こう側から聞こえる耳鳴りのように響いて俺を傷つける言葉から身を守るように、ますますプロデュース計画を立てる方へと避難していった。
    それで葛城さんは良い結果が出せなくて、その年最後のオーディションが近づいてきた。

  • 40二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:13:43

    この時期になっても良い結果が残せないなら.......そういう事になる。
    過呼吸や痙攣といった症状が出始めたのはこの頃だった。
    ある日の授業中、不意に息が出来なくなった。
    息を吸い込もうとすればするほど苦しくなって、まるで水が喉に入ったかのようにむせてしまう。
    暗い曇り空の日だった。
    窓際の席にいた俺の姿がガラス窓に映りこんだのが今もはっきり目に焼きついて残っている。
    先生の声が頭に反響して吐き気を催す。
    涙が勝手に溢れてどこにいるのかさえ分からなくなってくる。
    目眩があまりに酷くて、足元の床が崩れていくような錯覚さえ覚えた。
    身体が内側からおかしな圧力で壊れていきそうで、このまま死んでしまうとさえ思った。
    俺はそこにいもしない葛城さんに心の中で助けを求めた。
    先生が俺の異変に気付き俺を保健室に連れて行く間も、ずっとずっと葛城さんの名前だけを唱えていた。
    こんな時、本当に辛い時に助けを求められるのは葛城さんしかいないと決め込んでいた。
    そしてそれは、今だってあまり変わらないと思う。
    発作を起こした日、保健室の白いベッドの中で夢を見た。
    夢の中で俺は葛城さんと2人で手をつないで家の近くの公園まで散歩をしていた。
    錆び付いたジャングルジムや、揺れるたびにきいきいと音の鳴るブランコがある。
    ベンチに腰掛けた葛城さんは手をぎゅっと握って、もう片方の腕でそっと俺を抱きしめた。
    それから何かを囁いた気が......うまく聞き取れない。
    繋いだ手の感触はやがてリアルなものへと変わっていき......俺は目を覚ます。
    そこには手を握ったままベッドで眠る葛城さんがいた。
    子どものような寝顔をよく見ると、瞼が赤く腫れていた。
    ついさっきまで泣き顔だったような真っ赤な目を細めて、葛城さんは安心したように微笑んだ。
    堪えきれなくなって、俺は葛城さんに抱きついてしまった。

  • 41二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:14:54

    それからこのような発作は度々起きるようになった。
    授業中に起きたのは1番重かったあの1度きりだったが、休み時間や登下校中、授業前などで軽い過呼吸は何度患った。
    発作が起こるたびに、このままだと俺は死ぬのかも。としか思えなくなっていった。
    いつしか俺は、一度発作が起きた場所を無意識に遠ざけるようになっていた。
    登下校でもわざと最短の道を避けたり、遠い方の階段で移動したり。
    そうやって発作の起きた場所を避けていくたびに行動範囲が狭まると.......見えない網に閉じ込められていく気がしてとても怖かった。
    葛城さんは俺の発作について真剣に考えてくれた。
    過呼吸は紙袋を使って呼吸を整えるのがいいとか、この発作だけで死ぬことは絶対にないとか。
    俺は葛城さんからいろいろなことを聞いた。
    いつでも俺のそばにいられる訳じゃないから、できる事は一緒の時にしておきたい。
    俺が気遣うと、葛城さんはいつもそんな言葉で安心させてくれる。

    あれからも俺は発作に苦しめられたが、今度は最悪なタイミングで発作が起きる事になる。
    それは葛城さんのオーディションの当日。
    当然、オーディション前は葛城さんと離れる事になる。
    俺は葛城さんの写真を鞄に入れて発作が起きそうになったらそれを見て心を落ち着かせようとしていた。
    やがてオーディションが始まって、葛城さんの番が迫ってきた。
    俺は葛城さんの番の前に写真に触れて心を落ち着かせようとした。
    しかし、写真は見当たらなかった。
    帰った後鞄の中を探したら折れ曲がって奥の方に押し込まれていたから、単なる不運でしかなかった。
    だけどもそれは、緊張していた俺の心をバラバラにするのには十分すぎる威力を持っていた。
    「......はぁっ...かはっ......あがっ...ふぅっ......」
    葛城さんの前の出番の子がステージを去る頃には、俺は呼吸の方法を忘れていた。
    静まり返った会場に自分の呼吸音がうるさく響く。
    ダメだ。
    大丈夫にしなくちゃいけない。
    これは病気なんかじゃない、ちょっと息がおかしいだけなんだ。
    ......そう言い聞かせても呼吸が戻るはずもなく、抑えようとするほどかえって悪化していった。

  • 42二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:16:19

    「大丈夫ですか?」
    職員らしき人物が声をかけてきた。
    無事を伝えようとするも、出てくる言葉は気管支まで響くようなくぐもった咳で。
    気付いたら俺はその場に倒れていた。
    倒れた姿勢から会場を見上げた時。
    俺の視界に、俺のことを見下ろしている深海魚の群れが飛び込んで来た。
    『アクシデントのため、次のオーディションは5分遅れで行います』
    アナウンスの声を聞きながら俺の意識は薄れていった。


    それから葛城さんと同じ部屋で暮らすようになった経緯はあまり覚えてない。
    葛城さんの提案でアイスクリームを食べにいったり、手を繋いで散歩に行って嬉しい思いをしたのは覚えている。
    葛城さんと同じ部屋で過ごせるだけで俺の心はだいぶ楽になった。
    授業中辛くても、部屋に戻れば葛城さんがいる。
    そう思って俺は過ごしていた。
    だが、いつしか俺は教室へ足を運べなくなった。
    俺はその教室が深海のように得体の知れない圧力に満ちた場所だと思うようになっていた。
    「......葛城さん」
    葛城さんの部屋で抱きしめられながら眠っていた俺は静かに問いかけた。
    「なんですか?」
    「俺のこと、嫌ですよね」
    「......そんな事ありません」
    俺は葛城さんに何を言わせようとしたんだろうか。
    大好きな人のことさえ信じきれない最低な俺は葛城さんの腕の中で、わざと困らせるようなことを言ってしまった。
    そんなことしたって、ますます嫌われるだけなのに。
    「......センパイ、怖いんですか?」
    「......すみません」
    葛城さんは、これがわたしの気持ちです。と言い、涙で赤く腫れた俺の目をそっと閉じて、唇を重ね合わせる。
    「......これでも、ダメですか?」
    薄暗い豆電球の灯りの下で、葛城さんはちょっと涙ぐんで、けれどもいつものように笑ってくれた。

  • 43二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:17:40

    俺は無我夢中で葛城さんを抱きしめ、胸に自分の顔を押し付けるようにして泣いてしまう。
    そんな涙に濡れた俺のファーストキスは、海のように塩辛い味だった。

    結局、それから俺はまともに授業が受けれなくなった。
    葛城さんはなるべく俺と一緒にいてくれるようになった。
    けれども......家にずっといると、俺が葛城さんをこの家に閉じこめているような気がして、とても罪悪感が湧いた。
    泡のように消えてしまえたらと、何度も考えるようになる。
    保健室の先生の薦めで、俺は葛城さんと何度か心療内科に通ったことがある。
    病院は囁き合う言葉すら吸い取られるような静けさの中で、クラシック音楽が湧き水のようにさらさらと流れていた。
    場の雰囲気に気押されてしまって、診察の席でも俺は何がどうしてこうなったのかが上手く話せなかった。
    医者は俺にいくつかの薬をくれた。
    不安感をなくす薬。
    震えを止める薬。
    よく眠れるようにする薬。
    けれどもどの薬も、ドアを開ける瞬間のあの強すぎる圧力を弱めてくれることはなかった。
    それから時が過ぎ、秋も深まって窓の向こうの木々が色づく頃には、俺は葛城さんと一緒でないとどこにも行けなくなっていた。
    道行く人の視線が怖くて、いつ発作を起こしてしまうかも怖くて。
    気が付くと教室のドアどころか玄関さえも葛城さんの温もりなしで開けられなくなっていた。
    俺は家から1歩も出られず、ただただ家で登校する葛城さんの帰りを待つ身となる。
    やがて俺は誘惑に負けて、少しずつ葛城さんに変な事をしていくようになった。
    わざと身体を冷やしては風邪をひいてみたり。
    眠ってる振りをして葛城さんに抱きついて離れなかったり。
    じゃれ合って甘えているだけだったつもりが、いつの間にか葛城さんが投稿するを邪魔するのが癖になってしまっていた。
    「センパイ.....わたしは絶対帰ってきますから......!」
    玄関で靴を履いた葛城さんにいってらっしゃいを言おうとするたび言葉が詰まる。
    そして自然と手を握っては引き留めてしまう。
    葛城さんは笑顔で俺の頭を撫でて、キスをしてから学校に向かう。
    最初から、気付いていた。
    俺が葛城さんを家に閉じこめようとしてしまっていることに。
    けれどもいない間に心が変わってしまうことが怖くて、不安で、どうしようもなかったんだ。

  • 44二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:19:30

    ......葛城さんを苦しめている俺なんか、水に浮かぶ気泡のように弾けて消えてしまえばいいんだ。
    心の底に焼き付いた自分を傷つける言葉は、ひとりでいると頭の中で反響して......どうしようもなくなる。
    こっそりと包丁の先で指をつついて怪我をしてみるようになったのは、年末頃からだった。
    ことの起こりから言えば、始め俺は葛城さんを心配させたかっただけかもしれない。
    けれども次第に、俺の行為は自分への罰へと変わっていった。
    いくら葛城さんを困らせたって、葛城さんは俺のことを受け止めてくれる。
    受け止めてしまう。
    優しすぎて、余計に失うのが怖くなった。
    いつか俺が葛城さん求めすぎて、いつしか見捨てられるんじゃないかと不安で堪らなかった。
    人の気持ちも考えず、我儘を言う俺は罰を受けなければならない。
    俺は自分の身を傷つけた時に感じる痛みと、皮膚に浮かぶ赤い血を感じることを勝手に自分への罰にした。
    でも、どんなに自分を罰してみたところで罪が消えるわけではない。
    結局自分を傷つけることで自分の行いを勝手に正当化してるだけなんじゃないか。
    ......最初から、そんなことは気付いていた。
    今年の3月のことだ。
    俺は葛城さんをこれ以上苦しめないために、最高で最悪なやり方を選んでしまった。
    学期末最終日の夕方、俺はリビングでテレビをつけたまま掃除をしていた。
    番組を見るためというよりも人の声をそばで流しておくためだった。
    静かな場所は落ち着くけれど、あまりにそれが続くと自分がひとりきりな事を余計思い知ってしまうからだ。
    濡れた雑巾をバケツの上で絞っていたら、夕方のニュース番組で引きこもりの特集が始まった。
    そこに映った引きこもりの男性は、中学受験に失敗して不登校となり、10年近く社会復帰できないでいるそうだ。
    彼は自分の家族に対して暴力をふるい、意のままにならないたびに部屋の物を壊したりと暴れまわる。
    家族はそんな男性を疎んじ、腫れ物に触るような態度でしか関わることができなくなっていた。
    彼のお姉さんは、音声を変えて目線を隠した状態で言った
    『私の人生は、あいつの世話のせいでめちゃくちゃにされたんです』
    機械でねじ曲げられた音声が、俺の耳には葛城さんの心の叫びとして聞こえた。
    もう、葛城さんを家に閉じ込めて世話をさせている自分に耐えられなくなった。

  • 45二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:21:55

    .......しばらくして、俺は葛城さんの叫び声で我に返る。
    「センパイのバカっ!何してるんですか!!!なんで.....なんでこんな事を......!」
    葛城さんの腕の感触に気づくと、左の手首は真っ赤に染まっていた。
    床の向こう側には葛城さんが投げ飛ばしたらしい包丁が転がっている。
    放心状態でまだ感情の追いつかない俺は自分が何故泣き叫ぶ葛城さんに抱きしめられているのかよく分からなかった。
    「......すみません、俺が引きこもってるから、葛城さんは迷惑なんですよね」
    「わたしはセンパイが死んじゃう方がイヤです!なんで......なんでそんなこともわかんないんですか?!」
    どこか冷めた状態の俺とは対照的に、葛城さんは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして叫んでいた。
    制服が汚れるからと身をよじっても、葛城さんは俺から離れようとしない。
    そのせいで俺の手首から流れ出た血が葛城さんの制服をすっかり汚してしまった。
    白い制服に広がった赤い染みが目に焼き付いて、ようやく自分がなにをしたのかを実感する。
    あぁ......そうか。
    俺、死ぬこともできなかったんだ。
    .......また葛城さんを心配させただけだったんだ。
    葛城さんに抱きしめられたまま、どれぐらいの時間が経っただろうか。
    テレビはいつの間にか消えていて、葛城さんと俺のすすり泣く音だけがリビングに反響していた。
    「せんぱいはっ.......せんぱいは悪くないです......わるいのは......わるいのはわたしなんですっ.......」
    葛城さんは俺を抱きしめながら、アイドル活動で俺を追いつめてしまったことを謝り始めた。
    悪いのは全部俺なのに。
    今もこうして葛城さんの身体を汚しているのは俺なのに......
    「葛城さん......俺、もう......貴方に酷い事をしたくない.......」
    答えを求めた言葉では、なかった。
    ただそのときは頭の中はどうしようどうしよう、すみませんすみませんとそんな言葉で溢れていただけだった。
    それなのに、俺を抱きしめる葛城さんはとっておきの嘘をついてくれた。
    「センパイ、引きこもりはわたしの方なんです」

  • 46二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:23:27

    センパイがお家にいるのは、家でごろごろしてるわたしのお世話をするためなんだから.......と。
    「だからっ......センパイは、悪くないです.......わたしが全部わるいんです....っ......」
    ありがとうございます、センパイ.......こんな、ダメなわたしのお世話をしてくれて。
    そう言うと葛城さんは俺に何も言わせないように、唇を塞いできた。
    一瞬拒もうとした葛城さんの舌を......俺は受け入れて、自分のそれと絡め合わせた。
    こうしてその日から、俺たちは共犯関係となった。


    それから葛城さんは不登校になった。
    昼過ぎまで眠って、本を読んだりパソコンで遊んだりする毎日。
    俺はそんなダメな葛城さんのために、朝昼晩とごはんを作ったり葛城さんお話相手になったりと頑張る。
    俺たちはみるみるうちにお互いの演技に騙されていった。
    気付けば本当に自分たちが引きこもりの後輩と、世話をする先輩のように錯覚するほどに。
    「ごめんなさい......わたしが引きこもりなせいでセンパイに迷惑をかけてしまって」
    葛城さん自分の身を呈して、家から出られない俺に仕事を作ってくれた。俺たちは互いになくてはならない存在となった
    もちろん、悪い方の意味だが。
    同じ日の晩のうちに、俺たちは身体の関係を持ち始めた。
    葛城さんが俺を抱いてくれたのは、すぐ疑ってしまう俺にはっきりと気持ちを伝えるため。
    いつだかそう言っていた。
    俺が少しでも不安を感じないようにと、葛城さんは俺の髪の毛から爪先まで深く深く愛してくれた。
    身体の奥のやわらかいところに手を伸ばして、生乾きの俺の手首に滲んだ血を舐めながら言う。
    「ずっと離れません。わたしは一生、センパイのそばにいます」
    お互いの皮膚を溶かし合って、ピークに達した多幸感に意識が焼き切れるあの瞬間。
    ほんの数10秒、あの瞬間だけ俺は葛城さんとひとつに繋がれた気がした。
    満たされきった感触は心の奥底の不安まで塗りつぶしてくれる。
    夜ごとに身体を求め合い、嘘の関係のなかで本当の気持ちを確かめ合う。
    俺が欲していたのは、快楽というよりも実感だったのだと思う。
    現状の関係が何よりも素晴らしい関係だということにして、2人揃って自分たちの依存心から目を背けた。

  • 47二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:25:13

    ちょうど半年前と同じ、制服姿の葛城さんの腕の中で俺はこれまでのことを思い返していた。
    呼吸もいつの間にか治まっていて、手足の震えもなく思うように葛城さんを抱きしめていられる。
    俺の太ももから体温が冷たい廊下へと少しずつ流れていることに、今になって気付いた。
    葛城さんは......泣き疲れて、俺を抱きしめながら眠ってしまったみたいだ。
    「......もう大丈夫そう?」
    「みたいだね」
    紫雲さんと有村さんが腕の向こう側で微笑んでいるのを見つけて、顔を振った。
    何かあったら連絡するように言うと鞄を持って2人で外に出た。
    隙間から見えた向こう側はお天道様も照っていて、散歩するにはとても気持ちよさそうな天気だった。
    なんだか長い夢から目覚めたような気がする。
    たぶん静かな海のように居心地のいい場所で、蜂蜜みたいな甘い夢を見てきたのだろう。
    ふと、時計を見ると午後2時を過ぎたところだった。
    「......葛城さん、おきてください。もう昼過ぎですよ」
    「......あれ、センパイ........」
    俺がそう囁くと、葛城さんは眠りの海から目を覚ましたみたいだ。
    寝ぼけ眼の葛城さんはいつもと変わらないふわっとした微笑みを浮かべていた。
    窓からは陽の光が射し込み、ドアの前をからりと照らしている。
    その温かみも今は気持ちよくて、思わずひと眠りしてしまいそうなところを堪えた。
    「外......晴れてますね」
    「......晴れてるし、外に出たくなってきました」
    ようやく眠りから覚めた葛城さんは、やがて眩しいほどの笑顔で頷いてくれた。
    「じゃあ......一緒に行きましょうか」
    「ええ。手を繋いで、一緒に......」
    葛城さんの手は、柔らかくて温かかった。
    俺はシャワーを浴びて、服を着替える。
    外出するのは本当に久しぶりで、どうしてもドキドキした。
    それにやっぱり、まだちょっと怖い。
    半年ぶりの足を踏み入れる外の世界がどんな風なのか、想像もできない。
    だからか、鏡の中の俺もどこか不安げに見えた。
    けれども、鏡の向こう側に映った葛城さんが手を振った時.......心の突っ掛かりが取れた気がした。

  • 48二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:26:23

    「準備、できましたか?」
    「......はい」
    「じゃあ、行きましょうか」
    繋いだ手を離さずに葛城さんがドアを開けて、俺が歩き出すのを待っている。
    深呼吸をひとつして......向こう側の世界へと、ゆっくり踏み越えた。
    おぼつかない足で少しずつ家を離れ、家の前の道路へと出る。
    「温かくて......気持ち良い.......」
    「そうですね.....!」
    隣の葛城さんは笑った。
    そよ風の吹く暖かい道のりを、2人で歩く。
    絡ませた指に力を込めると、同じように握り返してくれる。
    たったそれだけのことが......とても尊いものに感じた。
    陽の光に照らされて半年振りに歩くこの街は、全てがきらきらと光って見えた。
    「どこに行きましょうか」
    「ええと......」
    「なら、あっちの方に......」
    昼間のまばらな人通りの道を、手を繋いでで歩き出す。
    肌を暖める陽の光。
    遠くで響く、鳥の鳴き声。
    うなじをなでて吹き抜ける風。
    1つにつながって伸びた2つの影。
    そのどれもが、家の中から水槽のような窓を通して見た時には味わえなかった新鮮な感触だった。
    俺はただ、葛城さんの進む方へ歩いて行く。
    着いたのは、近くにある公園だった。
    「あそこに座りましょう」
    葛城さんが指差したベンチに2人で腰をかける。
    2人で座るには少し小さくて、ちょっとだけ窮屈だった。
    葛城さんは握ったままの手を俺の太ももの上に乗せて、肩に頭を預けてきた。
    こうして狭いのも、くっつけるから案外嬉しいな。
    木漏れ日が足下できらきらと揺れるなかで、俺たちは寄り添って過ごした。

  • 49二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:27:35

    葛城さん今朝、俺の復学に必要な手続きを調べに学校に行っていたそうだ。
    話によると、1年近く休んでいても心療内科の診断書があればなんとか取り計らってくれるみたいだ。
    「......落ち着いたら」
    「はい」
    「2人で学校、行きましょうね」
    「......そうですね」
    それは、俺と葛城さんの関係を元に戻すと言う意味でもあった。
    「......センパイ」
    「はい」
    「......好きです」
    「......俺もです」
    「......やっぱりウソです」
    「......」
    「愛してます、センパイ」
    「ええ、俺も......愛してます」
    隣にいる葛城さんの顔を見上げると、うっすらと涙を浮かべていた。
    かすかに震える葛城さんの手を、俺も強く握る。
    俺もまぶたが熱くなって、視界が潤んでいくのを感じた。
    「......センパイ、離れたくっ......ない」
    「......俺もです」
    「でもっ......わたしたち、大人にならなきゃ.......じゃないと、愛せないからっ.......」
    依存じゃなくて愛にするためには、お互いが自立しなくちゃいけない。
    葛城さんは、チャットでそう言われたと涙ながらに教えてくれた。
    いつも俺のことを真っ先に守ってくれた葛城さんが、そのときはとても小さく見えた。
    俺は立ち上がって、そんな葛城さんに覆いかぶさるように抱きしめる。
    涙声の葛城さんが真っ赤になった目で俺を見つめる。
    大きな瞳の中には、同じような顔の俺が小さく映っていた。
    「......センパイ、約束しましょう......?」
    「そうですね.......」
    いつか、本当の恋人になろう。

  • 50二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:29:18

    俺は大きく頷いて、愛する人に最後のキスをした。
    その味もまた......涙で、少しだけしょっぱかった。


    「やっぱり付き合ってたのか」
    「......バレてた?」
    「隠す気なかっただろ。禁断の恋だな」
    「まぁ、なんて返せばいいのか」
    「それで、明日からなんだろ」
    「......うん」
    「葛城リーリヤが、故郷に帰るって」
    「うん、荷物はもう既に送ってある」


    葛城さんの部屋はもう空っぽだった。
    本や勉強机、教科書、布団......様々な物がまだ置かれているのに、葛城さんの匂いを感じない。
    あまりに掃除が行き届いた部屋は、ホテルのように生活感がなくなると聞いたことがある。
    それは例えば、綺麗すぎる水槽で魚は生きていけないことと似ているのだろうか。
    数日前まで部屋を埋め尽くしていたダンボール箱がなくなった今では、部屋に入っても葛城さんの存在を感じない。
    俺は今朝、ただ部屋を掃除しているのが辛くなって昼過ぎに話し相手を呼んだ。
    .......そして葛城さんとの事を、今全て打ち明けた。
    3年前のあの日。
    散歩から帰ってきた俺たちは、半年ぶりに心療内科への予約を入れた。
    自分の名前の入った診察券を使わなくなった財布の奥から取り出して、初めて葛城さんと病院に行った日を思い出した。
    葛城さんはしばらくチャットをしてからリビングに戻ってきて、一緒に夕飯を食べた。
    それからテーブルを挟んで俺たちは少し話をした。
    距離間について、だった。
    キスはダメ。
    それ以上はもってのほか。
    したら嫌いになる......そう誓った。

  • 51二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:30:22

    本当は嫌いになれっこないのだって分かっている。
    ただ、1度そういう振りをするのが大事な事も、互いに分かっていた。
    それを全部分かった上で、俺は葛城さんに頼んだ。
    「でも......葛城さんと手は繋ぎたい」
    「そう.....ですね。それくらいなら」
    それから今の今まで、このルールは破られていない。
    ついこの間の出来事だった。
    お風呂から上がって眠る間際、俺は葛城さんからスウェーデンに帰る事を聞いた。
    急な話すぎてとにかくびっくりしてしまい、思ず問いただすような形になってしまったのを覚えている。
    「トップアイドルになるのを諦めた訳じゃありません。ただ......実家の方が今忙しいらしくて......」
    葛城さんは俺を落ち着かせるように、なだめるように語りかけた。
    「必ず、戻ってきます。遅れた分を取り戻すのは大変かもしれませんけど.......」
    気付くと俺は葛城さんの腕の中で、いつかのように頭を撫でられていた。
    「センパイとなら、きっと大丈夫です」
    葛城さんは俺の身体を抱きしめると、俺の頭を優しく撫でてくれた。
    髪の毛を撫でられていると、心に突っかかったものが甘いドロップのように溶けていくようで気持ちよかった。
    3年前から、俺は自分で作った壁に閉じ込められそうになる度に葛城さんはいつでも助けに来てくれた。
    でも、そんな葛城さんが.......後数日もしないうちに、離れて行ってしまう。
    「......葛城さん、嫌だ......そんなの、寂しいですよ」
    心の壁が葛城さんの体温で溶ける頃、俺の涙も溢れ出てしまった。
    「センパイ......大丈夫、大丈夫ですよ」
    すると葛城さんは抱きしめた耳元で、また囁いてくれた。
    大丈夫、大丈夫。
    そんな囁くリズムに合わせて俺の心は温かいもので満たされて、次第に落ち着いていく。
    「......葛城さん、約束、覚えてますか?」
    「......はい」
    公園のことを思い出して、ちょっと聞いてみた。
    でもすぐに"約束"という言葉ひとつで伝わったことが、俺を心から安心させてくれた。
    「......頑張ってください、俺も、頑張りますから」
    「はい、ずっと......一緒ですもんね」

  • 52二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:32:03

    この手や身体は離れていても、心は繋がっていられる。
    そんな、なんだか小説に出てきそうな言葉でさえも......葛城さんは信じさせてくれた。
    でも......
    でも、だ.......
    1人になると、やっぱり......怖い。
    葛城さんがいなくなるのが怖い。
    ......けれども荷物の整理が始まって、少しずつ家の中から葛城さんの欠片が消えていくにつれて......堪らない気持ちになる。
    明日が来るのが怖い。
    広いリビングに、ひとり取り残されるのを想像するだけで......

    2人で食べる、最後の夕飯を食べ終わった後、葛城さんは言った。
    「今日は......久しぶりにお風呂に一緒に入りませんか?」
    一瞬悩んだ手を葛城さんは受け止める。
    「......そうですね、久しぶりに、いいかもしれませんね」
    お互いに「最後」という言葉を避けながら話している。
    俺は着替えを持って、葛城さんの待つ浴室へと向かう。
    曇りガラスの向こう側にぼやけて揺れる葛城さんの肌が見えた。
    一緒に入ったお風呂の中で、久しぶりにちょっと抱きついてみたりして。
    風呂場の蒸気の中で、こんな温かさが当たり前に続くような.......そんな感覚にさえ囚われた。
    窓の外からはどこか遠くで、虫の音が聞こえていた。
    俺はお風呂の中で葛城さんに抱きしめられながら、ぼんやりとその音を聴いていた。
    後数時間で日付が変わるときのことだった。
    お風呂から上がった後、繋いだ手を離さないように気をつけて俺の部屋に向かった。
    今夜ぐらいは一緒の布団で寝ることになったからだ。
    半日前までは、葛城さんに触れる事すら怖かった。
    柔らかい感触を思い出してしまったら、昔みたいに引き止めてしまいそうな気がして。
    でも、友達に全てを打ち明けて、気持ちの整理がついたからか、先の不安も前よりは薄れていた。

  • 53二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:33:33

    「......なんですか?」
    「......すき、です」
    「......はい」
    「すき......じゃないですけど、葛城さんの事」
    「えへへ.....約束、ですもんね」
    あの日ベンチで交わしたその後のやりとりも、はっきりと覚えている。
    けれども分かりきった台本をなぞるのはやめて、葛城さんを抱きしめたまま眠ることにした。
    うすらぼやけた意識の狭間で、眠りの海のさざなみを感じる頃。
    唇が熱いもので満たされた気がした。
    夢うつつの俺は手をぎゅっと握り返して、深い眠りについた。

    朝、俺は葛城さんの腕の中で目を覚ました。
    手が繋いだままになっていたのが嬉しかった。
    「......葛城さん。朝、ですよ」
    「......センパイ、おはようございます」
    今朝も今までみたいに葛城さんを起こして、一緒に朝食を食べた。
    俺のつくったハムエッグに、葛城さんは美味しいと言ってくれる。
    いつも通りの朝、変わらない会話。
    それは俺に、葛城さんとこのまま2人で一緒に暮らす日々が、ずっと続くんじゃないかって錯覚を引き起こす。
    もう、電車の時間は近づいているのに。
    「......そろそろ出ないと遅れちゃいますよ」
    時計を見ると葛城さんが出発する時間になっていた。
    俺は駅まで葛城さんを見送ることにした。
    玄関先で靴を履くと、葛城さんはドアを開ける。
    ドアの隙間からは柔らかな陽の光が差し込んで、向こう側の世界が色鮮やかに映る。
    「行きましょうか」
    「ええ」
    俺は葛城さんと手を繋いで外へ出た。
    柔らかくて温かい手を、ぎゅっと握り締めて。
    葛城さんと2人で、家の前の道を並んで歩く。

  • 54二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:35:22

    「......あの、葛城さん」
    道中、俺はずっと胸に秘めていた想いを伝える事にした。
    「戻ってきたら......一緒に暮らしましょう」
    葛城さんは、手をきゅっと強く握り返す。
    車が1台、俺たちの後ろ側から走り抜け、追い越していく。
    葛城さんの言葉はその走行音にかき消され......そのままになった。

    長いようで短かった時間も終わり、駅に着いた。
    駅員さんに無理を言ってホームまで葛城さんに着いていく。
    平日のこの時間だと、利用客も少ないようだ。
    「......あのっ」
    葛城さんが何かを言おうとした時、構内放送が流れた。
    『まもなく、1番線に電車がまいります』
    「葛城さん.......」
    電車の近づく音が少しずつ大きくなってきました。
    あの電車が来たら、葛城さんともう離ればなれになる。
    そう考えるだけで息が詰まって......伝えたかった事も、言葉にならなくなってしまう。
    「葛城さん、頑張ってください」
    「......はい」
    「俺も、頑張りますから」
    葛城さんが電車の中へ足を踏み入れる。
    「センパイっ.....!」
    ホームの白線から足を踏み出して、車内から足を出した葛城さんが俺に抱きついてきた。
    発車のベルが鳴り響くまでの数分間、葛城さんと俺は身体を預け合う。
    もう気持ちの整理は出来たはずなのに、みるみるうちに涙が溢れてきて、俺は葛城さんの服を汚してしまった。
    「葛城さん......俺、おれっ.......」
    「センパイ......大丈夫、大丈夫ですよ.......」
    いままでと同じように、葛城さんは頭を撫でて大丈夫と言ってくれる。
    「俺たち......本当の恋人に...っ......」
    「そうですねっ.....大人に.....ならなくちゃいけないんです。やくそくっ.......」

  • 55二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:36:33

    いつしか葛城さんも涙声になっていた。
    時間が止まってほしい......そう思った瞬間、発射のベルが辺りに響き始める。
    葛城さんは俺の腕をそっとはずして、震える俺の手を両手で握りしめた。
    「葛城さん....待ってますよ」
    「はいっ、絶対....センパイのところに帰ってきます......!」
    ベルが鳴り終わる寸前に、葛城さんは俺の顔を引き寄せて、口付けをした。
    唇から愛する人の熱が伝わった、ほんの数秒後。
    俺はホームの側にそっと押し戻され、ドアが閉まり始めた。
    泣き顔の葛城さんを乗せた電車は動きだし、次第に遠く小さくなって、やがて見えなくなった。
    取り残された俺は、顔をぐしゃぐしゃにした涙を拭う気力も出ないままふらふらと改札に戻る。
    今も少ししゃくりあげながら、少しずつ進んでいく。
    改札を抜けようとしたとき、財布を落としてしまった。
    中のものが散らばって、慌ててかき集める。
    そんな中......懐かしいものがそこにあった。
    葛城さんの写真が財布から落ちてきた。
    アイドル活動を始めて最初に撮った写真だ。
    不安げな、でもどこか勇気づけられる表情の葛城さんの写真だった。
    「......変わっても、変わらないですよね」
    写真の葛城さんに問いかけたら、そのままの笑顔で頷いたように見えた。
    ──大丈夫、大丈夫ですよ。
    耳元で囁く声が、聞こえた気がした。
    駅を出て見上げると、海のように澄んだ青空がロータリーの上空に広がっていた。
    お天道様も照っていて、なんだか散歩するのにちょうどいい天気だ。
    「......うん、頑張ろう」
    大きく伸びをした俺は、頭の中のメロディーを口ずさみながら、また家に向かって歩き始める。
    それは3月のよく晴れた水曜日の事だった。

  • 56二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 17:44:41

    これで終わりになります。最後まで読んでくれてありがというございました。
    流石に少し長すぎたかなと思っています。次あたりからこっちにも再録でなく新作をあげる予定ですが3万文字程度に抑えようと思いました。
    文字数なんか気にせず自由に書いちゃってもいいですかね?こんな事いっても実際は完成しない限りわかりませんが......

    もっとこういう系の話がみたかったらコメントください。こっちに再録しようと思います。過去作読み返す機会なので案外楽しいんですよね。

    長くなりましたが最後に。ここまで本当にありがとうございました。

  • 57二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 18:57:32

    重い話大好きなので新作待ってます

  • 58二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 19:11:01

    >>56

    某サイトは投稿されたSSを読みきってから読者がコメントする形式だけど、ここはネット掲示板だから書き貯めた奴を一気に全部投稿するよりもちょっとずつ小出しに投稿した方が読者の反応とか考察とかのレスで楽しめるかもしんない

    特に今回のはセンパイの様子の不自然さからちょっとずつ真相が分かっていくような形式だったから

  • 59二次元好きの匿名さん25/09/06(土) 21:29:08

    >>58

    なるほど、参考にします

スレッドは9/7 07:29頃に落ちます

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