- 1二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 19:55:41
- 2二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 19:57:06
3月2日のレースを見てたならわかると思うんだけど、彼女はちょっと変わったヤツだった。そりゃあ、変わったウマ娘なんて腐るほどいるけど、彼女はその中でも飛び抜けて変なヤツだったと思う。だってさ、普通ゲート潜るか?
あたしなら潜らない。でも、これはレースに挑んだことのないヤツの意見だ。芝でも砂でもいいけど、そこに自分を全部投げ出さなかったヤツの言葉だ。だからあんまり意味はない。ゲートの中に入ったらさ、ひょっとしたらそこを潜りたくなるもんなのかもしれないね。
彼女はなんだか不機嫌そうだった。華々しい中央のウマ娘。何が気に食わないのか、ちょっと不貞腐れた感じで、見た目で得してたんじゃないかな。穏やかに微笑んでるように見える顔つきとか、綺麗に切り揃えられたサラサラの栗毛とか、すらっとしてどこか儚げな体とか……そういうところで。
あたしに言わせれば、彼女は競走狂いだ。
次の出走を、今か、今かと待っている。自由に走れる機会を、まだか、まだかと窺ってる。だったら目でも血走ってそうなもんだけど、その気持ちは彼女にとって当たり前のものなんだろう。だから静かだ。サイレンス。思うように走れないことだけが彼女を煩わせる。
- 3二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 19:57:41
金曜の夜十時にはシンデレラが現れる。
一人じゃない。二人、三人と増えていく。あんまり増えてくもんだから、近頃は二十人で切ることになった。先着にあぶれたウマ娘は、まあ悪いね、次の機会に出走してよ。この夢のような二時間はできるだけ続けるつもりだし、もし終わることが不服なら、あんたがまた始めりゃいい。走りたい気持ちがあって、走れる場所がないのなら、誰だって舞踏会を開けるだろうさ。そこには出来損ないのシンデレラがやって来る。灰じゃなく、排気ガスをかぶって。
シンデレラ・チャレンジは、走る場所がないウマ娘のためのレースだ。非公式、毎週金曜夜十時、廃工場横、アスファルト、直線1200メートル、雨天決行。なぜその距離かって、日付が変わったら魔法は解けるもんだろう? 12時00分、このレースは終わる。その二時間を除いて、シンデレラ・チャレンジは存在しない。だから、存在するように語ることも許されない。
レースに参加するのは、主に三種類のウマ娘だ。まず、才能のないヤツ。次に、才能がないこともないけど、トレセンに通うほどでもないヤツ。最後に、才能はあるけど、事情もあってトレセンに通えないヤツ。この三種類だ。
あたしは二番目のウマ娘で、ここいらじゃ一番速い。なんでって、そりゃ走ってるからだろう。朝起きて、走って、学校行って、バイトにも行って、また走って、家に帰る。毎日のトレーニングは欠かさない。「トレーニング」は大げさかな。あたしはやりたいようにやってるだけだから。
- 4二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 19:58:05
「……よろしく」と、新参者のじゃじゃウマが睨んでくる。ヘイヘイ、かわいい顔が台無しだ。もっと肩の力を抜けよ。はっきり言っておくが、どれだけ凄んだところで、出せるタイムには限りがあるんだぜ。つまり才能ってヤツさ。耳の位置がどこにあろうと、こいつは関係ない。誰しもできることには限りがある。
それでも諦めなかったヤツなんかも、トレセンにはいるんだろう。
周りが諦めさせなかったのかもしれないな。でも、どっちでもいいさ。重要なのは、そいつの意思だ。そいつ自身だ。そいつそのものだ。何がしたくて、何はしたくないのか──そいつがはっきりしてるかどうかが、きっと重要なんだ。
あたしは主役だった。どこかのお調子者が、サウンド・システムを持ち込んで、ガンガン音を鳴らす、品のない舞踏会の、さしずめお姫様だった。ガラスの靴は残さない。王子様もいない。まあ、意地悪な家族がいないだけ万々歳だろう。
かぼちゃ頭の運転する軽自動車に乗って、あたしは舞踏会に参席した。
その日も同じはずだった。新しいシンデレラが、今日こそはとあたしを睨む。でも、あたしが主役であることは変わらない。春も終わろうとするあの日まで、あたしはお姫様だった──あいつが、本物がやって来る日までは。
- 5二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 19:59:05
トレセン学園。ウマ娘なら、誰だって知ってる。正式名称は、日本ウマ娘トレーニングセンター学園。舌がもんどりかえって絡まりそうな名前だけど、言えないヤツはいないだろう。
誰でも通えるわけじゃない。まあ、ざっくり言って才能がいる。それも飛び抜けたヤツだ。努力って言葉が好な人がいて、そいつをやたらに振りかざしたがるんだけど、まあ、努力が実るのも才能だって言える。素質、素養、運、環境、血統、鍛練──なんだっていい。とにかく、通えるヤツと通えないヤツ。そこはきっぱり分かれてる。だってあたしは通ってないから。
あたしは朝早く起きて、ちょっと走りに行く。ジャージを着て寝てるから、トイレに入ったり、顔を洗ったり、歯を磨いたり、水を飲んだりするだけで、すぐ走ることができる。お気に入りのランニングシューズを履いて、ぴんと立った耳にイヤホンを突っ込み、ボリュームを上げて、軽くストレッチをしたら、もう準備は完了だ。脚はステップを踏むように軽い。
走りながら、いろんなことを考える。たとえば、トレセンのことなんかがそうだ。才能がどうだって話がそうだ。ボリュームを上げる。ペースを上げる。息が上がる。だんだん、考えることができなくなっていく。走ることに集中する。走ることに集中さえしなくなる。ただ走る。走る。走る。
家に帰ったらシャワーを浴びる。ジャージを洗濯機に放り込む。毎朝走るから、洗濯はあたしの役目だ。洗剤を入れる。蓋を閉じる。スイッチを押す。洗濯槽が回る。ごうんごうんごうん。ぐるぐる回る。
シャワーを浴びて、ボサボサ跳ねた短い髪を、ちょっとだけ整える。指は通らない。櫛も通らない。ドライヤーがむなしく鳴いてる。あのサラサラの栗毛が羨ましく、黒毛は無情にぴょんぴょん跳ねる。
どんぐりまなこ。太い眉。引き結んだ口。肌着を身につけたら、なんとなく化粧をする。ファンデーションとアイライン。それくらい。それだけ。
ああ、耳飾りは忘れちゃいけない。白い鳩のタリスマン。左耳のあたりにぱちんと留めたら、いつだって誰にでも会える。
母さんが朝ごはんを用意していて、父さんがのっそり起きてくる。あたしたちは三人揃って、「いただきます」と手を合わせてから、朝ごはんを食べる。他愛のない話をする。あいつの話をしたことも、何度もある。
- 6二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 19:59:26
学校は退屈だけど、大切だ。あたしはあんまり成績がよくないけど、授業は真面目に受けてる。宿題もする。必要なら挙手だってして、先生をいつも驚かせる。クラスメイトは笑ってる。そんなにおかしなこと言ったかな、と首をかしげる。でも、楽しいんならそれでいいだろう。
休み時間は、友達とよく話す。たいてい、最近デビューしたウマ娘の話だ。やれ誰それがかわいいだの、かっこいいだの、綺麗だの。そんな話をする。速さについてはあまり語らない。気を遣われてるのかもしれない。
昼になったらお弁当を食べる。たまに早弁するから、購買に駆け込む。もちろんお金は払う。なけなしのバイト代。トレセンは食費がタダだって言うんだから、そればっかりは羨ましい。でも、あんまり食べると太り気味になるだろうから、これくらいがきっとちょうどいい。
眠たい午後の授業を終えると、あたしはちょくちょくバイトに行く。カフェでウェイトレスをやってるのだ。自慢じゃないが、あたしは愛想のいい方だ。表情はコロコロ変わる。ペラペラと舌が回る。だからお客さんからの評判は良かったり、悪かったりする。
春も終わろうとしていて、勝手知ったるバイト先、あたしは勤務時間までコーヒーを飲んで過ごすことが多くなっていた。その日もそのつもりで、勢いよくドアチャイムを鳴らしたのだけれど、あいにく混雑していた。だから相席することになったんだ。いくつか席の候補があって──あたしの目は、サラサラの栗毛に釘付けになっていた。
「やあ」とあたしは彼女に声をかけた。「ここ、いいかい」
彼女は雑誌を見ていた。読むでも目を通すでもなく、ぼんやりとただ見ていた。中身が頭に入っていないことは明らかだった。だから、だろう。すぐに顔を上げて、あたしを見ると、一瞬ぎょっと驚いたように目を見開いてから、首を左右に振り、ため息を吐き、自分を落ち着かせてからこう言った。「……えぇ、どうぞ」
- 7二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:00:29
「どこかで見た顔だな?」あたしは席に着きながら言った。
「そうかしら」冷ややかに彼女は答えた。
「いーや、見たね」あたしは嬉しくなって笑った。「中山でのレース。話題になったろ?」
シンデレラ・チャレンジは、金曜夜十時から日付が変わる二時間しか存在しない──だから、そこでの関わりも、その二時間しか存在しない。レースに参加したウマ娘は、どれだけ激戦を繰り広げようとも、あの二時間を除いて、お互いの健闘を讃えることは許されない。
「その話はあまりしたくないの」と彼女は言った。
「悪いね」とあたしは答えた。「悪気はないんだよ。本当さ。あたしもウマ娘だからね。中央で走ってる人と話せるってなったから、興奮してるのかもしれない」
「私は結果を残してないわ」
「そうかもしれない」あたしはコーヒーを注文した。「でも、これからはどうだ?」
彼女はふたたび視線を落として、雑誌を見た。ぺらぺらと忙しなくページをめくり、答える言葉でも探していたのか、それ以上は何も言わなかった。
「トレーニングは休み?」お構いなしにあたしは訊ねた。
「えぇ」と彼女は呟いた。
「ここにはよく来るの?」
「いいえ。あなたは?」
「あたし、ここでバイトしてるんだ」
「……だったら、見たことがないことくらい、わかりそうなものだけれど」彼女の視線が鋭くあたしを刺した。
「いや、毎日ってわけじゃないから」冗談めかしてあたしは弁明する。「常連さんかもしれないだろ?」
彼女は何も言わなかった。目を細めてあたしを見ると、みたび雑誌に目をやって、ぱらぱらとめくり、閉じて、紅茶に口をつけた。冷めているようだった。
「……あなたは」と彼女は小さな声で言った。「トレセンに通わないのかしら」
「さあてね」あたしは肩をすくめた。「少なくとも、早弁したときの昼飯代は、自分で稼がなきゃならないからさ」
- 8二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:00:57
あんな乾いた音はしない。
けたたましいクラクションが、レース開始の合図だ。空砲なんて鳴らしてみろ。あたしらを見逃してくれてるお巡りさんが、今にすっ飛んでくるから。だからあたしらのレースは、鉄のウマのいななきがいつも始まりになる。
あたしは脱力している。頭が、肩が、脇が、腰が、脚が──全身が溶けてアスファルトの地面に広がる様をイメージする。もはやウマ娘でも、ヒト娘でもない。単なる液体。クラクションとともに、前へ弾けるただの液体。それがあたしだ。本能はない。あたしは走りたい。
──あたしの本能はあたしか?
レースの前に、いつも問いかける。よく言うだろう。ウマ娘には走りたいという本能がある、って。あたしに言わせてもらえば、それがなんだってんだ? 「本能だから」なんて理由は必要ない。「あたしは走りたい」。それだけでいい。
- 9二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:01:14
あたしはスタートを切った。──アスファルトを穿つほどの勢いだった。実際、蹄鉄を履いてウマ娘が全力で走ったらどうなると思う? 答えは簡単、道に穴が空く。牛や羊を盗むエイリアンだって、もう少しうまくやるだろうさ。だからあたしらは、蹄鉄の代わりに高圧ゴムを履いてる。「グリップ」って呼ばれるヤツだ。こいつはたぶん、芝や砂を抉る蹄鉄ほどあたしらの走りを助けやしないんだろう。でも多少の効果はある。市販のランニングシューズとは比べ物にならないほど、あたしらと道を繋ぎ止める。
それは最高のスタートだった。
左脚が地面を噛む。爆発に喩えたっていいだろう、文字通りのロケットスタート。並みのシンデレラなら、この一撃の疾走で戦意を失っている。問題は、今日も相手が並みのシンデレラではなく、本物のお姫様だったことだ。
──なんて速さだろう。
決して脚をゆるめることなく、あたしは思う。見惚れる。減速しない。むしろ加速している。かつてないほどの速さで、アスファルトの地面を噛みながら、前へ、前へと進んでいる。もし。もし彼女がいなければ、今晩の舞踏会もあたしが主役だったに違いない。しかしそうはならない。そうはならなかった。そうするには1200メートルはあまりに短く、距離を伸ばしコーナーを設けたところで、差は広がるばかりだったろう。
今日も負けた。
オーディエンスは大盛り上がり。あたしは加速のあまりに停止できず、つんのめってひっくり返った。左脚が燃えるように熱くなるのがわかり、ひるがえって頭はぞっと冷えていた。
「だ、大丈夫?」と彼女は手を差しのべた。肩で息をしているが、余力を残しているのは明らかだった。
「悪いね」とあたしは手を差し出した。「大丈夫。派手に擦りむいただけさ」
「そう」彼女は胸を撫で下ろしたようで、あたしの手をとった。「ならよかったわ」
「悪いね」あたしは繰り返した。「次は転ばない」
「えぇ。待ってるわ」
- 10二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:02:18
彼女の才能は、多くの人が認めていた。ただ、あの不機嫌そうな、あたしからすると、不機嫌そのものな態度と、そんな態度をとらなきゃならない理由が問題だったんだろう。なぜ彼女があんなにも浮かない表情をしているのか。不思議なことに、そう考える人は少なかったらしい。
残業終わりのサラリーマンが、ネクタイをぶんぶん振り回す。金曜日なのにご苦労様、思う存分楽しんでくれ。バイト帰りの学生が、両手をメガホンみたいに丸めて叫ぶ。バイト中も、それだけ声を張ったんだろうな? 走った後のウマ娘が、素足のままで笑ってる。走る前のウマ娘は、柔軟運動を欠かさない。
その日も彼女はやって来た。
そして、あたしはまた負けた。
シンデレラに年齢は関係ない。中学生もいれば会社員もいる。もっとも、魔法がかけられている間は、中学生でも会社員でもない。ただのウマ娘。ただの一人のウマ娘。二十近くも歳が離れた二人が、競ったりする。なぜかって、これは何度でも繰り返すけれど、走りたいのに、走る場所がないからだ。
サラリーマン、オフィスレディ、学生、無職、閑職、管理職、自称トレーナー、他称トレーナー。いろんなヤツがやって来る。走ったり、走りを見物するために。魔法にかけられたくて。
「ヘイ」とあたしは隙だらけのうなじにエナジードリンクの缶を当てる。彼女は尻尾を逆立てて、びっくり大きく飛び上がる。
「いい顔じゃん」とあたしは言う。「普段からそんな顔しなよ」
彼女は耳を引き絞り、じろりとあたしを睨んだ。降参、降参。あたしは肩をすくめて、エナジードリンクをそれぞれ持った両手を挙げる。そして差し出す。彼女は受け取る。
「こういうのはあまり飲まないの?」
「えぇ、そうね」
「まあ、体にいいもんじゃないよね。差し入れなら、普通にスポーツドリンクでも用意してくれりゃいいのに。なんでこいつかなあ」
あたしたちは500ミリの大きな缶でささやかに乾杯し、栓を開け、ごくりと飲む。彼女は控えめに、あたしは豪快に。
「……慣れないわ」と彼女は眉をひそめる。
「いい顔じゃん」とあたしは笑う。「普段から、そんな顔しなよ」
- 11二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:02:44
はじめてシンデレラ・チャレンジに参加した日から、彼女はちょくちょくやって来た。いつもどこか浮かない表情で、でもここでのレースに参加した後は、心なしか晴れやかに笑っていた。
「思うように走れないの?」
「え?」
「いや、レース。追ってるんだよ、あたし。テレビじゃ見れないけど、ネットで見れるじゃん」
「そうね……」彼女は目を細めた。いつもの儚げな雰囲気がウソみたいに、ぞっとするような冷ややかさでどこを見るでもなく視線をさ迷わせた。「……抑えろ、って意見はわかるのよ。それが定石だし、正しいことだっていうのは、私にもわかってる。でも」
「でも?」
「私は、もっとペースを上げたい」
「ここでのレースみたいに?」
「ここでのレースみたいに」
先輩面したじゃじゃウマが、ひっくり返って嘶いてる。ヘイヘイ、いくら騒いだって結果は同じだぜ。負けは負け。勝ちは勝ち。レースはシンプルだ。競うことは単純だ。もしもを語るのは、魔法が解けた後でいい。
「……ここは自由ね」と彼女は言う。「正直、あまり騒がしいのは得意じゃないの。でも、ここはとても自由だから、寮を抜け出して、つい参加しちゃうわ」
「バレてないの?」
「どうかしら。……見逃してもらってるのかも」
「期待の裏返し、ってことなのかな」
「でも、私は──」
「期待に応えられるかわからない、だろ?」
あたしは返事を待たず、呑気な皿回しに向けて叫んだ。「もっとボリュームを上げろ!」皿回しは陽気に手を掲げた。ヘラヘラと呑気なもんだ、とあたしはつくづく思った。でも、ここに来なきゃならない理由がある。
「シンデレラ・チャレンジは、金曜夜十時から、日付が変わるまでの二時間しかない」あたしは皿回しに親指を立てた。「みんな魔法をかけられてる。だからここでの出来事は、他の時間では存在しない。何を話しても、何を思っても、それは現実の外にある」
彼女はグリーンのメンコに触れた。梅雨本番、雨こそ降っていないが、アスファルトは濡れている。思うようには走れない。ダービーの記憶は新しい。
- 12二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:04:40
いろんなヤツがいる。いろんなヒトがいる。いろんなウマがいる。
「アタシだって!」とそいつは叫ぶ。「もっと恵まれた環境で育ってたらっ!」
「そうだなあ」とあたしは言う。「でも、そうはならなかった」
ガラスの靴が履けたなら、いったいどれだけよかったろう。灰かぶり、排ガスかぶり。彼女のシューズはボロボロで、ダクトテープは便利で、今にも素足がむき出しになろうとしている。そして、施しなんて受ける“たま”じゃない。
「アンタだって!」とそいつは嘶く。「アンタだって、アイツに勝てないくせに! ちょっと速いからって、いい気になって!」
「うん、うん」あたしは頷く。洗いざらい、吐いたらいいさ。
「あ、アイツっ……!」声が小さくなっていく。「中央に通ってるのに、なんで、なんでこんなとこに……」
そう、泣いたらいい。苦しかったら、苦しいって言えばいい。辛かったら辛いって。悔しかったら、悔しいって。あたしらには言葉がある。レースだけじゃない。だから、そいつをぶつけたっていいんだ。
ゴム加工品を取り扱う会社の、三十路を越えてしまった経理係が、優しくそいつを抱きしめる。中学生と会社員。でも、今はただのウマ娘。そいつはわんわん泣く。目尻の小じわが気になるんだと笑ったその人は、無言でそいつを受け入れ続けた。誰も何も言わない。ある金曜日の夜。呑気な皿回しはボリュームを上げる。それが役目だからだ。やりたいことだからだ。
- 13二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:05:17
だいたい、一年くらいだろうか。
彼女はシンデレラ・チャレンジに通い続けた。歓迎と反発。小爆発。でも、みんなおおむね彼女を受け入れた。中央のウマ娘。才能あふれるウマ娘。本物のシンデレラ。ひょっとしたら、あのあまりに有名な灰かぶりみたいに、この国の人間を魅了するウマ娘になるかもしれない、そんな彼女は、受け入れられこそすれ、認められなかった。
一番速いのは、あくまであたしだった。
そして、あたしは彼女に勝ったことがない。
その意味、その理由。今日もあたしは彼女と競う。ここ数ヶ月、あたしは彼女以外と並んで駆けることがなかった。もっとも、並ぶのはスタート地点でだけで、クラクションが鳴ってしまえば、彼女はもう前にいる。
彼女は逃げてるんじゃない。
あたしが追いかけてるんだ。
そいつを誤解してる。彼女を取り巻く人たちが、そのことに気づかないことが、あたしには不思議だった。走ってみりゃいいのに、と思った。そうしたら、彼女の本当の素質がわかる。気持ちがわかる。やりたいことが見えてくる。
──彼女の本能は彼女か?
ふと、そんなことを考える。一分にも満たない時間。彼女とのダンス。ステップは合わない。エスコートもない。ただ、好き放題に踏んでいる。“グリップ”が、シューズが、靴下が、足が、指が、脚が──前へ前へとアスファルトを噛む。
- 14二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:09:53
「ヘイ」と声をかけると、彼女はあわてて振り返る。とっくに学習している。あたしの手はただエナジードリンクの缶を掴んでいる。
彼女は玉座、すなわちビール瓶のケースをひっくり返したものの上に、いつも行儀よく座ってる。ベルベットの代わりには、汚いコートが広げてある。残業終わりのサラリーマン、他称トレーナー、自称トレーナー崩れのサラリーマン、かぼちゃ頭、あたしの恋人。いつも軽自動車を走らせる、このレースを名付けた魔法使い。彼のコートだ。
「いい顔をしてる」と言い、あたしは軽自動車のボンネットに飛び乗った。「物憂げな顔も好きだったよ」
「そうかしら」
「そうだよ」あたしはエナジードリンクの栓を開ける。乾杯はない。「香港に行ったんだろ? トレーナー、変わったんだって?」
「……よく知ってるのね」彼女はじろりと目を細める。
「そりゃあ、ファンだから」ぐびり、とあたしは喉を鳴らす。「イイ男なの?」
「イイ男……えぇっと、それはどういう」
「あー、ごめんごめん」あたしは肩をすくめた。はっきり言って、彼女はウマに蹴られることのないタイプだ。「走りたいように走らせてくれるのか、ってこと」
「えぇ」彼女は穏やかに笑った。見せかけや印象じゃない。心からの表情だった。「私には、序盤からペースを上げていく方が向いてる、って」
「あのスピードで?」
「あのスピード?」
「ほら、あたしを置いてきぼりにする」
「ああ……」と彼女は呟く。「……そう、あのスピードで」
あたしは嘶いた。「ヘイ! もっと、もっとボリュームを上げろ!」皿回しは笑ってる。それがやりたいこと、皿回しだから。
- 15二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:10:19
「あたしはいつも、レースの前に考える。あたしの本能はあたしか、ってね。どうだい。そんな風に考えたことは?」
「本能?」
「つまり、あたしらはウマ娘だ。ヒト娘じゃない。その違い。耳の位置と形の違い。ふさふさの尻尾が、あるかどうかの違い。力強さの違い。……走る速さの違い。そういうことと、その違いが生む、今にも競走したいって気持ちのことさ。あたしはときどき、この気持ちがあたしのものじゃないんじゃないかって思うことがある。いや。子どもの頃から、ずっとそんな風に考えてたっけ。これは怖い話だよ。あたしとは関係のない意思が、あたしの気持ちを左右するんだからさ。本能なんて言葉で説明されたとき、あたしの想いは、走りたいって気持ちは、いったいどんな風に納得されるべきなんだろうね。それを認めてしまえば、あたしはあたしじゃなくなる気がするんだ。……遠い世界の、いつかの時代の、どこかの誰かの運命を、ただなぞるだけなんじゃないかって、そう思うんだ」
あたしは一気にまくし立てた。
彼女は黙った。そして、首をかしげた。
「……えっと、難しい話かしら」彼女は困惑していた。
「単純な話だよ」あたしは笑った。
目が合った。
反らすはずはなかった。
「本能が走りたいって言ってるのか、それとも、あたしたちはただ走りたいのか。どっちなんだ、って話さ」
答えはわかってる。あたしはボンネットから飛び降りて、彼女の手を引く。もっと前で見ようって、まだ迷いがちな彼女を引っ張っていく。迷いがちだと思いたくて、引っ張りたいと思うから、そうする。でも、きっとそれは必要ない。
- 16二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:11:42
紅葉の色が、少しずつ濃くなってきていた。
あたしは勢いよくドアチャイムを鳴らした。人は疎らだった。あたしは勤務時間までゆっくりコーヒーを飲むつもりで、席は空いていたけれど、サラサラの栗毛が目に入ったので、迷わず彼女に近づいていった。
「やあ。ここ、いいかい」
「えぇ、どうぞ」
あたしたちは相席する。
「調子がいいみたいだね。あのグラスワンダーと、エルコンドルパサーにも勝ったんだ?」
「自分のペースで走れたの」
「いい顔をしてるよ、実際」
「そう?」
「ああ、そうだね」
あたしたちは、このカフェではじめて出会った。決して競い合ったことなどない。魔法が解けた出来損ないのシンデレラは、舞踏会の記憶を綺麗さっぱり忘れているのだから。
「……なあ」
忘れていなければ、ならないのだから。
「来週の土曜、空いてるかい」
あたしは言った。彼女は顔を上げた。コーヒーが運ばれてきた。あたしはミルクを溶かした。砂糖はいらない。その甘さはいらない。ただ、黒と白が混ざりあう必要だけを感じている。
「……空けられるけれど、どうして?」
「わかってんだろ」あたしはコーヒーとミルクをかき回す。「いつもの場所で、レースだ」
- 17二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:12:22
トレーナーが変わってから、彼女はあまり顔を見せなくなった。
そのことを責めるつもりはない。来る者は拒まず、みんなに魔法をかけるのがこのレースだ。去るものは素足で帰る。ガラスの靴は落とさない。王子様もいない。出来損ないのシンデレラのお話は、出来損ないだから日付を跨ぐことはない。12時00分を過ぎれば、そこには何もなくなる。
土曜夜十一時三十分。そろそろ冷え込んでくる時期だった。あたしはシューズを片手に部屋を抜け出した。両親はきっと気づいてる。でも何も言わない。
かぼちゃ頭の軽自動車が、近くのコンビニであたしを迎える。「本当に来るのか?」と彼は問う。それがわからないから、彼は地方トレーナー崩れなんだろう。彼女は必ずやって来る。あたしには確信がある。
ショーツとタンクトップ。肌寒いから、彼のコートを借りている。ハイカットスニーカーには、「グリップ」がしっかり接着してある。近々昇進する会社員。裕福ではない中学生。走るのが好きな高校生。才能に満ちたトレセン生。言葉はいくらでもある。名前はいくらでもある。人はいつもどこかの誰かだ。でも、今は誰でもない。ただのウマ娘。
シューズの紐を締める。きつすぎず、ゆるすぎず。脚を、膝を、腰を、脇を、肩を、腕を、指先を──全身を余すことなく伸ばす、解す。イメージ。爆発する液体燃料。一定の方向への推進力を得たエネルギー。それがあたし。あたしの本能じゃない。それがあたし。
彼女はやって来た。
ベンチコートの下は勝負服だった。悪いね、と労いたくなった。お忍びでやって来るのは、もう簡単じゃないだろう。彼女には大きなリスクがある。いや、もう言ってしまおうか。明らかにみんな気づいてる。でも指摘しない。なぜなら、彼女には魔法がかけられてるからだ。
あたしたちは無言で柔軟運動をする。準備体操をする。合図は必要ない。走れるようになったから、並ぶ。昨晩の舞踏会の名残。かすれた白線。何度も駆け抜けたゴールライン。軽自動車のハイビームが照らす。あたしたちだけのレース。二人のシンデレラ。灰かぶりと、排ガスかぶり。
- 18二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:13:02
クラクション。
姿勢は低く、限りなく低く──冷たい空気を切り裂いていく。口から漏れる熱気は、立ち上ったそばから置いてかれていく。“グリップ”がアスファルトを噛む。蹄鉄には程遠い。あたしは蹄鉄を知らない。ちゃんとレースで走ったことがない。だからこれは想像だ。芝も砂も、きっとこんな風に噛む。
推進力を得たエネルギーが、どろりと前に進んでいく。液体のイメージはやや重たげだ。しかし、それでいて鋭い。ぬたぁん、ぬたぁん、ぬたぁん──ずばり、ずばり、ずばり。柔らかに波打つ刃物。振るう度に踊る名刀。限りなく薄い液固体のリボン。ドレスのようにひるがえり、ガラスのように鋭い。それがあたし。駆けるあたし。走るあたし。競うあたし。
こんな速さで駆ける夜を、もう一度迎えられるだろうか?
おそらく、その機会は訪れない。今のあたしは生涯最速、過去も未来も、あたしである限り、今を追い抜くことはできないだろう──逃げているのではない。過去と未来が、今を勝手に追いかけるのだ。
背中が、遠い。
速い、速い、速い──呼吸を忘れる。背中が、尻が、太ももの裏が、膝の裏が、足の裏が、ただあたしの前で踊る。孤独な舞踏会。あたしにはそう見える。でも、きっと誰かと踊ってるんだろう? 王子様を見つけたんだな。
ゴールラインを超えて、あたしはひっくり返った。
今日は受け身をとれたから、どこも擦りむいていない。少しの痛みと、熱がある。白い息が、短く途切れとぎれに夜空に昇っていく。心臓が跳ねる。全身に血液が行き渡っているのがわかる。興奮は冷めやらない。しばらくはこのままだろう。
- 19二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:13:27
「スズカ」とあたしは彼女の名前を呼んだ。今夜も見事勝利を浮かべた彼女は、息を切らせてあたしを見下ろしている。「こっちへ来いよ。一緒に空を見よう」
あたしは手を伸ばした。夜空に向けて、何もないどこかへ向けて。彼女は──サイレンススズカはあたしの手をとった。あたしは優しく手を引いた。エスコートするように。スズカはあたしの隣に寝転がった。
「道路に寝転がっちゃイケマセン」あたしは言う。「クソ喰らえだ、なあ、そうだろ」
スズカはきっと笑っている。「星と、月が綺麗だわ」
「この景色を見れないヤツらは、いつだって正しいことを言うんだ。良いことなんだろうな。でも、それはあたしたちの見たい景色じゃない」
「景色──」
「そうだ。スズカの見たい景色だ」
「──先頭の、景色」
あたしたちは手を繋いだ。星座の名前なんてわからない。もっと月の輝く夜もあるんだろう。でも、あたしたちの見ている夜空は、あたしたちだけのものだ。何よりも見たい景色だ。見たいと思ったから、見たい景色なんだ。
「ここは脚に悪い」アスファルトの地面の寝心地は最悪だった。「ここは走る場所のないヤツらの舞台だ。そんなヤツらの、ちっぽけな挑戦(チャレンジ)のための舞台だ」
返事はなかった。日付が変わり、あたしたちは静かに日曜日を迎えた。あたしたちだけの舞踏会、出来損ないの魔法。「もう来るなよ」
彼女は、二度と姿を見せなかった。
- 20二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:14:19
11月1日。
1枠1番1番人気の彼女が、大欅を越えて先駆けていく。誰も彼女に追いつけない。彼女は逃げていない。みんなが彼女を追っている。
あたしは府中レース場を出ることにした。大歓声が背中を叩いた。結果は見るまでもない。聞かなくていい。思い浮かべる必要さえない。それはわかりきっている。
シンデレラ・チャレンジはもう開かれない。なぜって、ちょっとやんちゃが過ぎたんだろう。優しいお巡りさんたちも、見逃せなくなったんだろう。紺の制服、パンダみたいな色の車、くるくる回る赤いランプ。何人も、何台も、いくつも。
お説教で済んだのは幸いで、両親はあたしをあまり叱らなかった。あたしもあまり反省してなかったと思う。後悔ならなおのことしていない。あたしは走りたかった。あたしたちは走りたかった。でも、走る場所がなかった。それだけ。
いつか誰かが、ふたたび魔法をかけるだろう。今も誰かが、魔法をかけられているに違いない。シンデレラでも、赤ずきんでも、青ひげでも、なんだって構わない。童話になぞらえる必要はない。あたしたちはたまたまそうなった。つまり、走りたいヤツがいて、走る場所のないヤツがいる限り、非公式のレースは開かれ続けるだろう、ってこと。
ほとんどのウマ娘を、ほとんどの人が知らない。これは要するに、あなたは全世界に生きる今にも死んで産まれつつあるヒトのすべてを、ご存知ですかってことだ。歴史に名を残すヤツもいれば、路地裏の薄暗がりでうずくまるヤツもいる。いろんなヤツがいる。
出来損ないのシンデレラのお話は、これでおしまいだ──サイレンススズカの物語に、あたしは決して登場しない。
- 21二次元好きの匿名さん22/04/22(金) 20:15:25
終わりです。
投稿してみると読みにくいですね。
暇潰しにでも読んでください。 - 22二次元好きの匿名さん22/04/23(土) 08:04:29
いいね...
- 23二次元好きの匿名さん22/04/23(土) 08:04:48
ss宣伝スレに置いときや
- 24スレ主です22/04/23(土) 18:37:57