- 1二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:10:54
- 2二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:12:22
秋風もまだ吹かぬ夕暮れに、「カナカナ」とひぐらしが鳴いていた。
少しずつ気温が下がり始めた昨今、その声を耳にしてから夏の終わりを実感したような気がした。
暑い日差しに晒され、汗だくで駆けずり回った毎日は長いようで、気付けば一瞬のようにも感じる。
それだけ毎日が充実しているのか、はたまた時間の流れを早く感じるようになったからなのか……果たして思い返してみれば前者であったような気がする。
半年でこの様子では本当に一年などとうに過ぎ去ってしまうのではないか?
苦笑しつつも、ところどころひび割れた長い石段を登っていく。
終着点である大きな鳥居が見えてきた頃、
「プロデューサー」
それを背に佇んでいた少女――秦谷美鈴が声を掛けてきた。
プロデューサーの前に現れた彼女の姿はいつもの制服ではなく、青を基調とした紫陽花の柄があしらわれた浴衣を着ており、貴重品でも入れてるのか青い巾着を手にしていた。
「少し、遅かったようですが?」
集合時間に美鈴が先に来ることは珍しく、大体はプロデューサーの方が待っている場合が多い。
だが、今回彼は遅れてきた。
その原因を訊ねつつも、美鈴は彼の普段とは違う点に目を向ける。
「すみません、手間取ってしまいまして……」
そう申し訳なさそうに謝る彼の姿はいつものスーツではなかった。
地味めな茶色の浴衣を身に纏っている。普段着慣れないものだからか、どうやら時間がかかってしまったらしい。 - 3二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:13:26
「まあ……それは……」
その普段とは違う姿に、しかし美鈴の目をある一点を凝視する。
「プロデューサー。こちらに背を向けていただいても」
「? ……はい」
そして何か気になったのか美鈴はそう提言し、プロデューサーは素直に言うことを聞いた。
彼女に言われるまま後ろを向くと、薄っすらと姿を現し始めた満月が目に入る。その眼下にはまばらに光がポツポツと灯っていた。一帯は木々に覆われ、光を返すことのないそれらはより暗く見える。対して、眩く光るそれらは、家々の灯りであった。
しかしその数は決して多いものではない。住宅地と言うには家と家の間はまばらであり、マンションのような背の高い建物も見たらない。よくてアパートくらいだろうか?
僅かな電灯と家の灯りが自然の中に浮かび上がる光景はある種のノスタルジーすら感じる。
そんな見たこともない『懐かしさ』を感じつつ、プロデューサーはここに至る経緯を思い返していた。 - 4二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:14:42
夏も終わりに差し掛かっていた頃。暦の上ではそろそろ涼しくなってもいいのでは? と思える時期。
……にも関わらず天川市は連日炎天下に曝されていた。
天気予報で35度辺りの気温を見ることに何の感想も抱かなくなるくらいには日常と化し……けれども辟易していた。
それは彼が担当するアイドルも同じだったらしく、日課とも言えるお昼寝も外でする機会はめっきりと減っていた。日差しが強いだけならまだしも日本の夏は湿度も高い、日陰に入った所で簡単に逃れられる代物ではないのだ。
必然、お昼寝は建物内に限られるようになった。
そこは良い。無理して倒れられるのに比べたら断然良いに決まっている。
問題は晴れが続いているからか、なかなか美鈴がレッスンに出向かないことだ。
その結果、トレーナー達からは詰められ、それを聞いた美鈴からも詰められる始末。おまけに連日快晴の為『ループ物か』と言いたくなるぐらいには回数を重ねている。
……更に言うなら記録的な暑さも相成りいつもよりフラストレーションは高まっているようだった。 - 5二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:15:46
流石のプロデューサーも仕事と暑さ、トドメとばかりのお叱りの毎日には精魂尽きかけていた。
どれか一つ……せめて暑さだけでもどうにかなればいいのだが、現実はそう甘くはなく、天気予報はこの先一週間晴れマークが続いていた。
このままでは倒れるのでは?
そう思いつつも毎日の業務としてパソコンと向かい合っていたある日。
仕事を取るにしても、この暑さだ。脱水症状などにも気をつけなければいけないからか、なかなかどうして煮詰まっていた。
――そんな時だ。ある仕事が目に入ったのは。
それは決して規模は大きくはなく、寧ろ場所を考えるのならば往復の手間やら何やらを考えるならメリットはあまりなさそうに見える……だが。
「……いっそ離れるのもアリか」
プロデューサーはその仕事先を見て小さく呟くのだった。 - 6二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:17:01
暑さから逃れる術は何も冷房器具や冷たい物を食す以外にもある。
古くより『避暑地』という言葉があるように、暑さから逃れる為により涼しい土地に出向くことがある。
先人に倣うことにしたプロデューサーは地方の……それも天川市から遠い県の仕事を引き受けることにした。
内容としては地方のお祭りにゲストとして参加するという物。プロとしてならともかく、学生時分のアイドルでは知名度によっては向こうから断られる場合もあるだろう。
しかし、こちらが担当するのは元『SyngUp!』のメンバーの一人だ。色々と伝説を残したユニットなだけに知名度はあるはずであり、事実としてこの仕事を取れた要因の一つはやはりその辺りが大きいのではないかとプロデューサーは思った。 - 7二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:18:38
斯くして無事仕事を取れたプロデューサーは美鈴を伴い遠出することとなった。
リハーサルのことも考慮して滞在する日数は三泊四日。仕事だけなら一日減らしてもいいのだが、今回の遠出はそれとは別に涼みに来たというのがある。
事実として、件の地方に着いてから今まで感じていた暑さがなくなったように思える。日差しの強さはそう変わらないように思えるが、問題なのはやはり熱が籠もらない環境だろうか?
マンションの類は見当たらず、良くて団地程度。建物との距離も十分に空いてることもあり、ビル風はない。なにより緑豊かな森や山も多いからか空気が澄んでいるような気がする。おかげで気持ちに余裕が生まれた。
それは美鈴も同じらしく、ここ暫く見ることのなかった穏やかな表情を浮かべてお昼寝をしていた程だ。
だからこそ十分に英気を養うべく一日多く滞在することにしたのだ。 - 8二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:22:32
「――はい。これで大丈夫です」
物思いに耽っていたプロデューサーを現実に戻すように、美鈴はそう言うとともにポンと彼の腰……正確には浴衣の帯にあたる所を叩いた。
「……もしかして、何処か変な所でもありましたか?」
着付けをやりたがったいた美鈴を何とか躱し、仲居さんの助言を受けつつ自分で着てみたのだが……もしや何か手違いでもあったのだろうか?
「少し結び目が……勝手ながら手直しさせていただきました」
そんな疑問に美鈴はクスリと笑いつつ答える。
やはり普段着慣れない為か、結び目が緩んでいたようだ。正面から見てそれに気付いたということは、もしかしたら緩みがあったのかもしれない。
「……男物のも出来るんですね」
意外……とは思わないが、改めてこういう所を見ると彼女の育ちの良さを感じる。 - 9二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:25:00
- 10二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:26:18
――――――
地方での仕事は滞りなく終わらせることが出来た。
ほぼ予定通りと言える。唯一予定通りでなかったことといえば『秦谷美鈴』を知ってる人が思ったより少なかったことくらいか。
それは単純に美鈴を知るような年代の人が少なったからだろう。
仕事の依頼主は知っていたようだが、大半は年配の方でありアイドルについて詳しい人はそんなにいなかった。
幸いにして依頼主はそういうのを任せられるだけあり詳しい方であり、思ったよりもスムーズに仕事を終えることが出来た。
それでも若い人……特に学生は相当より少なかったこともあり、盛り上がりに欠けるのでは? と不安に駆られたが、そこは腐っても秦谷美鈴。『N.I.A』の時にも見せたその魅力により盛況を迎えるに至れた。
最初は興味なさげだった人も彼女のライブを見終えた後にはその虜になっていた。やはり事そういうことに関しては、美鈴の才能や資質はずば抜けている。
それを再認識しつつも、新たなファンを獲得出来たことを内心喜んだ。 - 11二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:27:36
そうして仕事は一段落し、一日自由な時間を作ったわけなのだが……特にこれといって何か特別な何かをすることはなかった。
いつも通り美鈴のお世話をされつつ、ゆったりとした時間が過ぎ去っていった。
いつもと違う点としては街で感じる喧騒や人の賑わいがなかった所だろう。
二人が泊まっている旅館(もちろん別室)があるのはイベントを行なった町から更に離れた場所にあった。天川市とは比べ物にならない程小さな田舎町、その一角に佇んでいる。
だからか、交通量は少なく人の話し声よりもセミの鳴き声や備え付けられている風鈴の音の方が耳に入る。
それはそれで風流とも言えるだろう。現に美鈴に至ってはそれらを子守唄代わりにしお昼寝をしていたくらいだ。
プロデューサーも久しく忘れていた『日本の夏』を思い出したような気がする。それを感じつつ一日を終えるのもいいかもしれない。 - 12二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:28:44
そう思っていたら、昼食時に仲居さんに今日この町で祭りがあるという話しを聞いた。
プロデューサーが請け負ったのと比べると規模は小さいものの、短時間ではあるが花火も上がるらしい。
『だから行ってきてはどうか』と勧められた。
どうしようかと少し思案するプロデューサーを他所に、美鈴はその話題が出た瞬間から既に気持ちは決まっていた様子。
「どうしますか? プロデューサー」
笑顔を浮かべて声をかける。
一見いつも通りの笑顔のようだが、そこに籠もった感情がどういったものかを察したプロデューサーはその期待に応えるべく行くことにした。
そのことを伝えると思いの外喜んでくれた。どうやら過疎化が進み年々賑わいがなくなっているらしい。だからか「どうせなら」と浴衣も借してくれることとなった。
夏祭りに浴衣とは確かに風情を感じれるだろう……。せっかくだ、今年の夏の思い出として味わおうと思ったプロデューサーはその好意に甘えることにした。
美鈴の方は……何故か自前の浴衣を持ってきていたらしく仲居さんにやんわりと断りを入れていた。
――斯くして二人は田舎町の祭りに向かうこととなった。 - 13二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:30:29
「プロデューサーはお祭りに来る方でしょうか?」
ふと、並んで歩いていた美鈴が訊ねてきた。
質問の内容に一瞬彼女の方を見やった後思い出す。
「小学生の時とかはよく地元のには行っていましたね」
そうして思い出すのは親に連れられて行ったり、友人達と連れ立って行った記憶。
親に出店の商品を強請ったり、友人と射的や輪投げ、型抜き等をやったのを覚えている。
それこそ周囲を見渡せば過去の自分と同じような人がまちまちといる。
仲居さんが言っていた過疎化の影響か、天川市の祭りと比べると人の数はかなり少ない。それでも祭り特有の賑やかさは確かにあり、かつての自分もその一因であったことに気付かされる。
「秦谷さんはどうでしたか?」
懐かしさを感じつつ、今度はプロデューサーが質問する。
彼女をプロデュースすることになってから共にする時間は増えた。そのおかげか、見えてくるものや分かってきたものはあるが、それでも全てというわけではない。
だからこそ、より理解を深めるには気になった点は訊くべきだ。
「わたしは、よくまりちゃんと一緒に行ってました」
そうして美鈴はある方を向く。
そこには焼きそばやフランクフルト、焼き鳥といった食べ物を売ってる屋台が幾つかあった。 - 14二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:31:43
「まりちゃん、屋台の食べ物に目を輝かせて……ふふ、すごくかわいかったんですよ」
当時のことを思い出したのか楽しそうに美鈴は語る。
やはりというとなんというか、美鈴は手毬と行っていたようだ。
彼女の説明を聞かずとも、屋台を前にして目を輝かせている手毬の姿は容易に想像が着いた。……そして、恐らくは甘やかしていたであろう美鈴の姿も。
「今年はどうでしたか?」
とはいえ、それは昔のことだ。
なら、今年はどうだったのだろうかと気になった。
「……あいにく、わたしもまりちゃんも仕事でしたので」
「すみません……もう少しスケジュールを調整しておくべきでした」
少し寂しいそうに言う美鈴にプロデューサーは頭を下げた。
アイドルのスケジュール管理は彼の仕事の一つだ。間が悪かったとはいえ、多少なりとも罪悪感を覚える。
「いえ、大丈夫ですよ」
そんなプロデューサーを責めることなく美鈴は諭すように言う。
仕事を取る難しさは日頃の彼を見ていれば分かる。ただでさえそうだというのに、更に美鈴に合うようなものを選ぶのだ。そこまでしてもらっているのに文句を言う程美鈴は物分かりが悪い方ではない。 - 15二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:35:42
――なにより、
「また、来年があります」
もう二人は仲直りをしたのだから。
疎遠になっていた頃とは違い、誘うタイミングは沢山ある。その尽くを邪魔されるとかならまだしも、プロデューサーはそういうことはしないだろう。
先延ばしにはなったものの、それでも『ある』と確信出来るのなら先行きが見えなかった頃より幾分もマシだ。
「……それに、今年はプロデューサーと来れましたから」
付け加えるようにポツリと呟くが、浮かべている表情は何処か穏やかだ。
「俺では月村さんの代わりにはならないと思いますが?」
聞き取れたのか、プロデューサーはふとそんなことを口にする。
独り言のつもりで言ったのと、唐突だったのもあり美鈴は少し呆けてしまった。 - 16二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:40:07
「ふふ……もちろん分かっていますよ」
しかし、それもすぐに鳴りを潜め、先ほどとは違う笑みを浮かべた。
そこには若干の呆れも混じっているようだ。
「だって――プロデューサーはプロデューサーですから」
目を伏せて、いつか感じたことを口にした。
『SyngUp!』や手毬が美鈴にとって替えが効かないものであるように、プロデューサーもまた替えようのないものだ。少なくともここまで美鈴に寄り添い、尊重できる者はそうはいまい。
――決して誰かの代わりではないのだ。
そのことを理解したのかどうかは分からないが、プロデューサーはただ「そうですね」と言い、前を向き直るのだった。 - 17二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:41:17
――――――
境内の中だけとはいえ、小さいながらも祭りだ。祭りの定番ともいえる屋台が幾つも並んでいる。わたがしに金魚すくい、射的や輪投げ等々。
それらを眺め、ある時はやってみたりしているとあっという間に時間は過ぎ去る。
来た時は朱色だった空は既に黒く染まり、大きな満月が煌々と光っていた。いつもより眩しく思えたのは、空を遮るような建造物がないからか……。
日常的に見ているものでも場所が違えば印象が変わるのかもしれない。
そんなことを思いつつ、腕時計で時間を確認する。短針はそろそろ8時を回りそうだ。
まるで童心に帰ったかのような時間だったが、それも終わりのようだ。
なんだかんだで自分は楽しめていたが、美鈴の方はどうだったのだろうか?
そう思い、そちらに目を向けると、
「ふふ♪」
なにやら愛おしそうにぬいぐるみの頭を撫でていた。 - 18二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:42:51
アレは確か射的で取った景品のはず。
射的をする際何か欲しい物はあるかと訊くと、美鈴は見渡した後「アレがいいです」と指さした。
そこにあったのは、ムッとしたようななんとも言えない表情のぬいぐるみだった。
激闘の末どうにか手にすることができ、その際に美鈴は大変喜んでくれたが……はたしてアレで本当に良かったのだろうか?
確かに表情のせいか妙に目を引く不思議な魅力はあるが……そういえばどことなく彼女の親友に似ている気もする。もしかしたらそれが美鈴の琴線に触れたのやもしれない。
とはいえ、喜んでくれている事実に変わりはない。それだけでもやったかいがある。
その表情を見る限り美鈴も満更でもない様子。
ならば、やはり来て良かった。惜しむべきはその時間が終わろうとしていることだが……。 - 19二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:46:24
「秦谷さん、そろそろ戻りましょう」
しかし、明日には天川市に帰る予定であり、あまり遅くなっては自分達が泊まっている旅館の人達に申し訳がない。
「お気になさらず」と仲居さんは言ってくれたが、流石にそういうわけにはいかない。彼女達は明日も仕事なのだ、余計な負担を掛けさせてはいけない。
「まあ、もうそんな時間ですか」
プロデューサーから告げられた言葉に、美鈴は少しだけ名残り寂しそうに返すが、
「わかりました。では帰りましょうか、プロデューサー」
しかしそれも一瞬で、すぐに気持ちを切り替える。そういう所は流石はアイドルと言うべきか。
ともかく、楽しい時間は終わった。あとは旅館に帰るだけだ。
そういえばと、仲居さんが言っていた花火のことを思い出す。規模は小さいが打ち上げ花火であることは確かなようだ。何時に始まるのか聞き忘れていたが、山の上にある此処ならばもしかしたら良く見えたのかもしれない。
ふと、そんなことを思いながら歩いていると――不意に『ブチッ』と何かが切れたような音が聞こえた。
「あ……」
その音と声の出所であろう少女に目を向けると、彼女は下――足下を見ている。
つられるように視線を追うと、彼女が履いている下駄に行き着いた。
「鼻緒が……」
そして、よくよく見ると鼻緒が千切れていることに気が付いた。 - 20二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:47:41
――――――
「どうでしょうか?」
「少し待ってください。今調べてますから」
下駄の鼻緒が千切れた美鈴はプロデューサーの肩を借りて人気のない場所に移動していた。
神社の裏の段差に腰掛け、必死に鼻緒の直し方をケータイで探しているプロデューサーの姿を眺めている。
天川市と比べて少ないとはいえ、それでも賑わうくらいには人はいる。そんな中を立ち止まったり屈んでは迷惑になると考えたプロデューサーによって場所を移したのだが……。
「………」
そんなに離れていないはずなのに不思議と賑わう声を遠くに感じる。
よくよく耳を澄ませば祭りの賑わう声に混じり虫の音が聞こえる。時期が若干早いような気もするがスズムシだろうか? 久しく聞いていなかったその『声』に懐かしさを覚える。
「……なるほど、こういう方法が……」
不思議と安らぐ音に耳を傾けていると、プロデューサーが感心したようにふむふむと頷いている。
目当ての情報が出てきたのだろう。勤勉な彼のことだからきっと十全に覚えようとしているのかも。 - 21二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:49:00
「……ふふ」
片手に下駄を持ち、もう片方の手に持っているスマホを熱心に見やるその姿が何処かおかしくて、つい笑い声が漏れてしまう。
「? どうしましたか?」
それに気付いたプロデューサーはこちらに顔を向ける。
「いいえ、なんでもありません。……それで、どうにかなりそうですか?」
首を横に振ってから先ほどと同じ言葉で訊ねる。
急かすわけではないが、進展したのは見ていて分かったからあとはできるかどうか、その確認でもある。
「応急処置ですが、恐らくは。やり方もそう難しいものではなさそうなのでもう少し待っていてください」
そう言うとプロデューサーは徐に五円玉とハンカチを取り出した。 - 22二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:52:20
「……よし」
数分もかからず作業を終わらせたプロデューサーは美鈴の下に来ると、件の下駄を彼女の足下に置いた。
「どうですか? あくまで応急処置なので完全に直ったわけではありませんが……」
できる限りのことはしたつもりだが、なにぶん初めての作業だ。上手くいったと胸を張っては言えない。
不安を覚えつつも、出来を確認する。
「まあ……」
そんなプロデューサーとは対照に、心配した様子も見せなかった美鈴だが、応急処置をした下駄を履き踏み締めて見ると驚くの声をあげる。
「どうやったのですか?」
しっかりと固定されたそれに心底不思議そうに訊ねる。
その返事を聞いて安堵したプロデューサーは一度大きく息を吐いた後答える。
「ハンカチを通した五円玉を留め具にし、ハンカチを鼻緒に引っ掛けて結びました」
幾つかあった方法で、今手元にある物でできるのはこれくらいだった。どうにか上手くいって良かったと思いつつ、他の方法も勉強になるものがあった事実を思い返す。
今回の一件を鑑みるに、和服関係の知識はもっと集めた方が良さそうだ。
いざという時もだが、和服が映える彼女には今後も着て貰う機会はあるだろう。ならば、そういう知識は持っていた方が美鈴も安心できるはず。
これからのプロデュース方針のことも踏まえた上で一人納得する。 - 23二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:53:35
「それで、どうでしょう? 何か違和感とかはありませんか?」
安堵しつつも確認するかのように美鈴に訊ねる。
「いえ、ありません。それに、応急処置なのですから多少の不都合は我慢しますよ」
それに対し美鈴は『大丈夫』と返す。
実際プロデューサーが行なった処置は初めてとは思えない程よく出来ている。これなら歩くには支障はないはずだ。まあ、その影響か少しだけ合わないような気もするが、その程度であれば誤差だろう。
笑顔を浮かべてそう伝えたのだが、当のプロデューサーは小難しい顔をしてため息を一つ。
「ダメですよ、そのせいでもし怪我にでもなったら大変です。だから何か感じたら言ってください」
そうして、美鈴の足から件の下駄を脱がせるとどうにか上手い具合に調整できないかと試行錯誤する。
過保護なのか、それとも彼の中のプロデューサー像はそういう所にも目を向けるものなのか分からないが、どちらにせよ美鈴を思っての言動に内心気を良くする。
「なにより――」
付け加えるようにプロデューサーは言葉を続ける。 - 24二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:56:09
「“我慢(それ)”は秦谷美鈴(あなた)らしくないでしょう?」
「――――」
そうして彼の口から出た言葉に一瞬息を呑む。
言っている意味が理解できないのではない、寧ろ理解できるからこそに驚いた。
苦言を呈することはあれど、基本的には美鈴の自由意思を尊重している。無論ブレーキが必要ならそれを果たすのが彼の役目でもある。分別はつけれるタイプなのは理解できているし、そうでありながらも自分のことを大変思ってくれているのも知っていた。
それでも、それでもだ。
――ああ……まったく、このひとは……本当に……。
ふとした瞬間にその顔を覗かせるのは卑怯だろう。
心の内でじわりと何かが滲み出るような感覚がしたのを美鈴は確かに感じた。 - 25二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:57:20
遠くで「ひゅ〜」と甲高い音が聞こえる、数瞬の後「ドン!」と大きな音が響いた。
「花火ですね……」
どうやら花火大会が始まったようだ。
仲居さんの話しではそう長くはならないとのこと。とはいえ、それでも鼻緒の調整をしている間に終わる程短くはないだろう。
せっかくの機会だし、それを見る為にもさっさと終わらそうと、
「…………もし」
したその瞬間。美鈴が問いかけるような口調で語り始めた。
「もし、わたしが倒れたり、落ちるような事態になったら……プロデューサーはどうしますか?」
次々に上がり、聞こえる花火の音。しかし、不思議とその音にかき消されない静かな声がすーっと耳に入った。
今の状況的に帰りの道行きでも心配しているのだろうか?
突発的な問いかけに対しそう思ったプロデューサーは少し考えた後答えた。
「もちろん可能であれば助けます。ですが万が一の時もあります、その時は――一緒に落ちますよ」
傍にいても助けられるとは限らない。ふとした拍子に手を離してしまうかもしれない。そうして独りだけ倒れたり落ちてしまうようなら諸共になった方がいい。
少なくともそれで大事な担当を守れる可能性が上がるのなら本望だ。
仮の話しとして、帰り道で起こり得る最悪な状況を想定したシミュレーションを脳内で済ませたプロデューサーは迷うことなく言い切った。 - 26二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:58:23
とはいえ、あくまで『本当に最悪の事態を想定した場合』という前提の話しだ。
そんな事態なぞない方が良いに決まっている。
「プロデューサー」
何度目になるかわからない呼び声。
直した後すぐ下駄を履かせられるよう彼女の隣に腰を下ろして作業しているせいだろう、声は隣から聞こえる。
そしてほぼ同時に、また「ひゅ〜」と花火が打ち上げられた音が耳に入った。
今までよりも長いことを鑑みるに、これは大きなものかもしれない。
「はい? なんでしょう――」
そんなことを思いつつ振り向く。
――すると眼前に美鈴の顔があった。
「――――っ」
文字通り、目と鼻の先だというのに彼女は止まることなく迫ってくる。
その動きは緩慢なようで、でもこちらは身動き一つできない。金縛りにでもあったかのようだ。
そうしている内にもどんどんと彼女との距離は近くなり、
『ドン!!』
一際大きな大輪の花が夜空に咲くと、二つの影は重なったのだった――。 - 27二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 22:59:39
散り散りと、虚空に火花が消えると影は離れていた。
「……ふふ」
何が起きたかわからないプロデューサーは目をパチクリとさせ、対して美鈴はいつも通りの……しかし微かに火照った頬を緩ませ……笑みを浮かべる。
それは、花火が咲いた時だけに見えた幻だったのか。あるいは夏の熱気に浮かされて見た『夢』なのか。
確認する勇気を……彼はまだ持てなかった。
「“その時”がきたら、一緒に落ちましょうね、プロデューサー」
そんなプロデューサーの気持ちなど意にも介していないかのように、美鈴は彼の肩にこてんと頭を置いた。
『その時』が一体いつで、何を指しているのか、それは美鈴にしかわからない。
ただ漠然といつか来るのだろうという確信だけはあった。
不鮮明な未来を晴らすかのように次々と上がる花火を見上げる。
花火の音だけが響く中、身を寄せ合う二つの影を知るものは、なんとも言えない表情を浮かべるぬいぐるみだけだった。 - 28二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 23:01:17
終わり
- 29二次元好きの匿名さん25/10/05(日) 23:20:35
Pみすの王の新作…待ってました
- 30二次元好きの匿名さん25/10/06(月) 09:02:32
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- 31二次元好きの匿名さん25/10/06(月) 09:31:29
貴方のおかげで季節外れの夏風邪が治りました感謝