【SS】ホシノと先生は天国の扉を叩く

  • 1◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:25:29

    なんにしても、まずは海だ。
    盗んだタクシーのドアを閉める。

    乱雑に積んだ食料と銃弾、目覚まし時計。絆創膏にゴム。
    誘拐した先生。

    後部座席の彼を、ミラー越しにちらりと見る。
    ハンドルを握る。エンジンが唸りをあげる。

    負けるつもりなど、毛頭なかった。

  • 2◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:26:35

    ~ホシノの場合~

    私は小鳥遊ホシノ。アビドス高校の3年生。
    ここキヴォトスで相棒の先生と、かわいい後輩たちといっしょに借金返済に向けて頑張っている。

    異状に気づいたのは偶然だった。
    いつもの夜間パトロールの終わり際、ふと先生の顔を見たくなって、D.U.地区、シャーレ部室までやってきていた。

    時刻は深夜をまわっている。
    仕事をするにはずいぶんな時間だけど、私達の先生はいつだってキヴォトス中の悩み事を解決して回っていて、こんな夜半でも先生の執務室は電気が灯っている。
    はずだった。

  • 3◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:27:35

    「あっれぇ、おかしいなぁ」

    今日はいつものように電灯がついていなくて、せっかく会いに来たのに残念なような、忙しい先生もたまにはゆっくりできているだろうかと安堵するような、そういう心持ちだった。


    それでも顔だけでもみられないかと、たとえば帰り際の先生と一言挨拶するだけでもいい。そう考えて建物に近づく。

    とはいえ、すっかり暗くなった部室に、人はだれもいそうにない。
    だからまぁ、この声掛けも、諦めて帰るための儀式くらいのつもりだった。

    「先生、もう帰っちゃった?」
    シャーレの入口に近づいて、声をかける。


    それだけで、室内に爆発的な緊張が拡がった。

  • 4◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:28:54

    私は即座に銃のセーフティを外して、トリガーに指をかけた。盾を半身に構える。

    気配というのだろうか、ちょっとした物音とか息遣いとか衣擦れ、発汗とか、とにかくそういう、”誰かがいる”空気が、無人のはずの室内を貫いて私のもとに届いたのだ。

    ”平静でない空気”。


    もとより誰もいないだろうと見当をつけていたのに…普通じゃあ、ない。

  • 5◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:30:01

    最大限に警戒しながら戸を開く。
    手に馴染んだ動きでクリアリング。開け放った戸から覗いて物陰、敵のいそうなところといてほしくないところを素早く銃口で舐めていく。


    「…先生」

    果たして、先生がいた。
    すわ強盗にでも入られたかと思っただけに、無事な様子に安堵する。

    でも、安堵を感じたのは、私だけだったようだ。

    「…せんせい?」

    先生が、追い詰められた形相で銃を握っている。


    平静でない、空気。

  • 6◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:31:05

    先生は返事をしなかった。ただじっと息を詰め立っている。

    怪我をしている様子はない。服装も整っている。

    よれたシャツに、コートを羽織って、ベージュのスラックスと履き潰して角の丸くなった革靴。見慣れた外歩きの格好。
    胸に抱いた不似合いな拳銃とトランク、それだけが奇妙だった。


    「先生」

    違和感を感じる。強く感じる。先生を観察したいのに、見逃すべきでないものが他にもあるとでもいうように、視線が机に吸い寄せられる。

    白くてそっけない封筒が、ひとつぽつんと置いてある。
    それだけで十分だった。

    先生は、とっくに限界だったのだ。

  • 7◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:32:13

    先生が語ったことは多くない。

    増え続けていく職務に、肥大し続ける責務。終わらせても終わらない仕事、仕事、仕事。
    彼は絶対に言わなかったけれど、きっと私達が当たり前に頼りつづけることも負担だったに違いない。


    とにかく、そういったあれやこれやに、ついに耐えきれなくなって逃げ出そうとしたのだった。

    言葉少なに語る先生はしかし、助けてくれとは言わなかった。
    そして、また戻ってくるとも言わなかった。

    いなくなっても構わないというように見えた。
    彼はもう、自分がいらなくなったように見えた。


    「わかったよ、先生。だったらおじ…私も、手伝うよ」


    私は、彼を攫うことにした。

  • 8◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:33:29

    本当にギリギリだったのだろう。短い説明を終えて、先生は椅子に崩れた。
    それでも手放さないトランクと拳銃が痛々しい。

    その張り詰めた様子に、先生の拳銃が、ふっと彼の方を向くのも難しくないように感じた。


    勢いだ。勢いで彼は引き金を引くだろう。
    私が銃を奪い取ろうとすることさえ、それなり以上の賭けになると思う。そういう確信がある。


    だから私も勢いに身を任せることにした。

    「先生は待ってて、すぐに準備するから。へーき、10分もかかんないよ」

    ヘラっと笑う私を、がらんどうになった先生の、がらんどうな視線が射抜く。

  • 9◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:34:51

    エレベーター下降ボタンを数度叩きながら手持ちを点検する。

    銃に盾。カバンにハンカチと財布。少しの飲み水に、携行食料。携帯端末。
    財布の中には数枚の硬貨とカード、紙幣が二枚だけ。


    とにかく手持ちがいる。
    少なくとも、当面、この不安を顔に出さないでいられる程度のお金と物資。それから逃走手段。
    考えることが多くて、逃げようというのに行き場所さえ思いつかない。


    とにかく順番に片付けようと考えて、下りエレベータに乗り込みながら電話をかける。

    かけた先は無人タクシーの配送依頼だ。
    到着は8分後。ただいま配送が混み合っております。


    電車でもバスでも、ヘリでも自転車でも徒歩でもキックボードでもないのは、とにかく先生が有名人だからだ。

    前に先生が苦笑いでこぼしていた。普段から先生を覗き見ようとする視線がいくつもまとわりついているらしい。

    まぁ、まとわりついているというのは私の感想だけど。
    とにかく迅速に、できるだけ静かに発たなければならない。


    到着は7分後

  • 10◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:35:55

    駆け込んだのは、シャーレにほど近いコンビニエンスストアだった。

    煌々と輝く白みがかった店内で、小さな女の子が店番をしている。中学生くらいに見えた。前に話したことがあったかも。どうだったかな。

    レジに手製らしきコピー用紙が下がっている。『かき氷はじめました』。


    コピー紙がめくれるくらいの勢いで店内に入る。
    すぐに折れて奥にあるATMに取り付いた。
    カードを差し込んで、【引き出し】の電子ボタンをタップ。暗証番号を打ち込む。

    ひとまず6桁、記憶にある金額を雑に打って承認。
    ガシャガシャと騒がしい音がして、紙幣がひとつかみ吐き出される。


    それをひっつかんでカバンにねじ込むと、ATMに設置された防犯ミラー越しに、店番の少女がこちらを伺う様子が見えた。

    うんまぁ、そうだよね。

  • 11◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:37:25

    気を取り直して、店内を物色。
    カゴに日持ちする食料と見慣れた銃弾を乱雑につっこんだ。

    棚を回って次に水、エナジードリンク。

    エナジードリンクは、何本か買えば目覚まし時計がついてくるらしい。ヤバメな目つきの、ベロを出した太った…鳥?の時計。『本体商品と一緒にレジへお出しください』ひっつかんでカゴに放り込む。


    それから医薬品。絆創膏に包帯、冷感シップ、消毒液。石鹸とアルコールタオル。メンソレータムのリップクリーム。
    隣に並んだ『もの』に目がいって、2秒悩んだ末に、これもカゴに放り込んだ。
    スマホ以外にも、薄型であることがアピールになるものがあるらしい。


    次いで衣料品。
    シャツ、下着、靴下。タオルを数組分。
    それに小さなソーイングセット。
    銃のメンテセット。

    最後にキヴォトスの地図。
    軍事行動にも使えそうなほど詳細に描かれている。
    これもカゴに放り込む。

    ほんとうにいまどきのコンビニは、飛行機と人間以外なんでも売っている。

  • 12◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:38:28

    山盛りに入ったカゴをレジに出して、お会計している間に、頭の中で計算する。


    当面の軍資金と物資は確保できた…と、思う。
    次にどうするかというと、逃げ場所だ。

    とにかく一刻も早くシャーレを離れなくちゃならない。
    先生の心情を考えてもそうだし、先生の立場を考えてもそう。


    彼はここキヴォトスの最重要人物だ。おまけにいくつかの事件を経てその肉体の脆弱さはよく知られている。

    私もそうだけど、キヴォトス全体が先生に過保護になっていると思う。過保護を通り越して執着、執念でさえあると感じる。ここが先生が、彼の雇用主にあたる連邦生徒会に相談できない理由のかもしれない。


    なんにしても、賭けたっていい。のんびりしていたら絶対、絶対、ぜったいに面倒なことになる。

    店番の少女が目を白黒させている。
    景品の目覚まし時計を相手に、懸命にバーコードを探しているようだった。

  • 13◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:40:26

    で、逃げ場所、逃げ場所。

    まず考えられるのは病院。信頼できる医療者。
    正直、一番丸いのは、やっぱりこれ。

    でも、一番安心できない場所もこれ。


    今の先生には間違いなく医療の助けがいる。
    でもそれをすると先生は、きっと、もっと、ずっと追い詰められる。それがわかっているから、彼は黙って逃げ出そうとしたのだ。

    そうでなければ、あの先生が、生徒相手にあんな表情をするはずがない。


    医療には頼れない。少なくともいまこの瞬間は、まだ。
    同じ理由で警察もだめ。

    話した限り、地元に帰るというのも、強い抵抗がありそうに見えた。

    他に頼りになりそうな顔もちらほら浮かぶけれど、そのどれもが先生を心配している。
    心配のあまりに、構いすぎて先生がどうなるのか考えるとこわい。
    とにかく今の先生には、静かな時間が必要なはず。

    誰にも、何にも駆り立てられない時間が。

  • 14◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:41:32

    そうなると、最初にできることは…安っぽいけど、気晴らしか。

    どこかきれいなところ、おいしいものに触れて心の換気をする。
    それから問題をいくつか片付けて、一息つく。
    専門機関への受診に前向きになれるのはそれからではないだろうか。


    そうすれば。
    …そうすれば。

    でも、どこへ。
    ヒントになりそうなものを探して、視線を彷徨わせる。視線が泳いだのは、決して少女の手に握られた『薄型』のせいじゃないと思う。

    そうして視線で逃げ込んだ先に、コピー紙が一枚。
    青い背景に、たった一言。『かき氷はじめました』

    …そうか。

  • 15◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:42:56

    海へ行く。

    そう決めたころには、計算も終わったようだった。

    少し迷って、現金で支払いを済ませた。
    思えば店番の子には手間をかけてしまったかもしれない。

    なにか差し入れでも置いていこうかと思ったけれど、仕事中にそういうのも迷惑になりかねないかと思い直して、笑顔でお礼を伝えるだけにしておいた。


    ビニール袋を数袋抱えて、シャーレに取って返す。

    数分離れてしまったが、今の先生は不安定だ。正直一秒も放っておきたくはない。
    でも、その不安を見せたくもなくて、

    「ただいま、先生。うへ~あれもこれも美味しそうでさ、目についたものぜ~んぶ買ってきちゃったよ」

  • 16◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:45:23

    果たして、先生は先程と変わらない様子で椅子に腰掛けていた。

    姿勢も、トランクも、それから拳銃も。



    「じゃ先生、行こっか。下にタクシー呼んでおいたから。そこまで、歩ける?」


    先生はぼんやりとした様子で頷き、のっそりと席を立つ。



    先生に手をかそうと、ビニール袋を片手にまとめて、気がついた。

    先程は目に入らなかったけれど、机の上にタブレットが置きっぱなしにしている。

    いつでもどこでも、大事そうに持ち歩いていたのに。



    「先生、そのタブレット、いいの?」

    大事なものじゃないの、と尋ねると、先生は少し迷った表情で首を横に振った。


    ―――大事なものだから、持っていけない。


    そう雄弁に語る表情に、私は何も言えなくなる。

    それでもなにか悲しいような残念なような気持ちにタブレットを覗き込んで、虚を突かれた。



    『わたしたちも連れて行ってください! >小鳥遊ホシノさん_ 』


    タブレットが、名指しで私を呼んでいた。

  • 17◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:46:56

    少しやり取りをしてわかったのだが、タブレットのAIが話しているらしかった。
    それから、先生をすごく心配しているのだとも。

    先生の命や情報を守るために働いていたらしいけど、このまま置いていかれそうになって焦っていたようだ。

    本来なら生徒と話したりはしないか、できないようだけど、緊急的にメッセンジャーアプリを利用して交信を試みたということらしい。


    少し迷ってから、タブレットを拾い上げ、先生のタブレットホルダーに入れた。
    先生は一瞬困惑したような表情をしたけれど、最終的には受け入れてくれたようだった。


    タクシーの配送完了の通知が届く。
    配送依頼から12分後のことだった

  • 18◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:48:09

    ~先生の場合⑤~

    私は、いなくなるべきなのだと、思う。

  • 19◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:49:45

    ~連邦生徒会の場合~

    「―――小鳥遊ホシノさんが、先生を?」


    私、七神リン首席行政官のもとに、その報せが届いたのは日付も変わって深夜のことだった。


    近頃、先生の体調がとみに思わしくない様子で、しかし受診を勧めても抵抗感を示していた。

    致し方なく、こちらで医療サポートを立ち上げ、先生専属チームを置く体制を整えたのが今日のこと(日付的には昨日か)。


    これで先生の負担を少しは減らせるかと安堵していたのもつかの間、耳に飛び込んできたのは、先生が誘拐されたという信じがたい報せだった。

  • 20◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:51:23

    はじめは、なにかの誤解か、もののたとえだと思った。


    だが、どうやってか異変を察知したらしいアオイから、先生と連絡が取れないと聞かされ(生徒が異性の先生に、深夜に連絡を取ろうとしていたことは後で相談するとして)、最悪の事態を想定して、立ち上げたばかりのチームに救護要請したのがさきほどのこと。


    結果は、先生がシャーレにも自室にも見当たらない、というものだった。

    そうして現場から重要証拠として挙がってきたのが、この封筒。

    『退職願』

    間違いなく先生の字だ。
    契約解除の求め、一身上の都合。そういった、定型どおりの文言がそっけなく踊って、見慣れた印影で結んである。

    別紙には短い謝罪と、引き継ぎファイルの場所。抱えている案件。
    ここ最近、先生が抱えていたことを簡単に箇条書きにしたものだけでも、頭を抱える量だった。

    なんにしても、先生がいなくなってしまったことは、明白だった。

  • 21◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:53:26

    「…その後、通報を受け急行。しかしシャーレも自室も施錠されて踏み込めず、やむなくブリーチ的救護を行いました」

    そう淡々と報告したのは、救護騎士団長 蒼森ミネさんだった。


    「え…え!? つ、つまり壁ごと破壊したのですか…!? たとえば、急病で昏倒していた先生が巻き込まれるかも、とかそういったお考えは…?」

    「救護の精神がある限り、そういった事態にはなりません」

    「救護の…」

    「ええ、救護の」

    「―――ひとまず、お怪我がなくてなによりです。おかげで少し事態が把握できました。ありがとうございます、蒼森団長」

    「いいえ。私たちも引き続き消息を追います。何かの力が働いているのか、うちのハナの効く猟犬、いえ救助犬でも追いきれないようです」


    それでは、と頭を下げて去っていく救護騎士団を見送る。
    疲れた頭で、次の協力者から話をきくことした。

  • 22◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:54:32

    「無人タクシーを奪って移動してる。ちょくちょく下車して路地裏、地下道、廃ビルを抜けたりもしてるみたい。で、カメラのない裏道なんかをうろうろさせておいたタクシーと合流して別エリアに、っていう流れね。追跡や先回りを警戒してると思う」


    そう意見してくれたのは、ミレニアム所属ヴェリタス副部長の各務チヒロさん。
    以前ちょっとした事件から面識を得て、今はときどき連邦生徒会から情報関係の仕事を回していた。

    ―――しかし、それは。

    「うん。この状況、はっきり言ってかなり、いびつ。じつは私たちもきちんと追えていないんだ。タクシーの存在に気づいたのも、街中のカメラからの情報を総ざらいしてようやくつかんだものだから」

  • 23◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:55:35

    「ヴェリタスの皆さんが、電子的に遮断されている、と?」

    「有り体にいえば」

    各務チホロさんは奥歯を噛むように言う。


    「把握できてる関係者は先生と小鳥遊ホシノさん。今回のような電子戦ができるようには思えない。ということはほかにも協力者がいるのかもしれないけど…それならそれで、いよいよ解せない。無人タクシーを奪っているし、断片的な逃走ルートからも、突発的で情緒的に思えるもの」


    各務さんは続ける。


    「知ってる? とりわけキヴォトスの無人タクシーはセキュリティが堅くて、ある程度固定されたルートしか分岐できないし、経路を大きく逸脱すれば自動で通報したり、迎撃したり、最寄りの営業所からトラブル対応の専門員が急行したり、それでもだめなら自爆するようになってる。少なくとも素人がいきあたりばったりに奪い取れるものじゃない」

    しかし。

  • 24◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:57:28

    「しかし、事実そうなってはいないと」

    「そう。読み取れたナンバーから電子キーをハックしようとしたけど、余裕で拒絶された。継続的な攻略は仕掛けているけど…あまり期待できない。わたしたちを締め出せるくらい電子戦に精通した協力者を抱き込めていたなら、そもそも事態の発覚はもっとずっと遅れていたはず。だから、解せない」


    「不可解な状況ですが、もしかすると、重要参考人の小鳥遊さんにとっても、仮想協力者にとっても、想定外の事態だったのかもしれませんね…」


    その視線に気づいたのか、各務さんは少し不快げに眉をゆがめた。


    「言っとくけど、わたしたちに協力者なんていないからね。部長はいま別件で動けないし、なによりわたしたちなら、やるんならもっと厳重に、徹底的にやってる」

    なるほどそのとおりだった。

    (…するとやはり、シッテムの箱。あれならばこの状況も…だとすれば、事態は想定よりずっと悪いかもしれない)

  • 25◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:58:33

    考えたくはないが、可能性はあまり多くない。

    1.小鳥遊さんと先生は同意の上で出かけている可能性。
    ―――ならばタクシーを奪う必要なんてない。またその伝言も残せたろう。調べたところ、小鳥遊さんはスマホの電池とSIMを抜いて対策しているのか、電子的な追跡もできていない。


    2.小鳥遊ホシノさんごと、第三者に先生が誘拐された可能性。
    ―――小鳥遊さんの実力から考えて考え難い。


    3.先生が襲撃を受けたところに、小鳥遊さんが居合わせ逃げ出した可能性。
    ―――片付いた室内とその後の立ち回りを考えれば、これもなさそうだ。

    そうなると、やはり…しかし。

  • 26◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 21:59:34

    考え込んでいると、情報整理にあたっていたアオイが入ってくる。


    「証言がとれました。先生が行方不明になったと思われる時刻付近、彼もよく利用するコンビニ店員さんが小鳥遊さんと、彼女が腕を引く先生をみかけています。大量の水食料と医薬品、地図。それから紙幣をひとつかみ。…その後のことは、知っての通りね」


    決断する。

    「―――現時刻をもって小鳥遊ホシノさんを重要参考人から容疑者へ変更。失踪事件から誘拐事件に切り替え、先生の救助と、小鳥遊ホシノ容疑者の逮捕制圧を試みます」

  • 27◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:00:48

    ~先生の場合④~

    大事な生徒たちに心配はかけられない。
    私がしっかりしなければ。
    私がやらなければ。
    私が。

  • 28◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:03:01

    ~ホシノたちの場合~

    はじめに問題になったのは、無人タクシーって想像以上に融通が効かないらしいこと。
    どうやら遠方に行くには事前に申請が必要だったり、保護があったりで、まぁ、簡単にいうとできないらしかった。

    まずは海に向かって、途中で美味しいご飯でも食べて。
    そのあとはお金の許す限り小旅行とか湯治みたいなことでもしようと考えていたのに、いきなりつまづいてしまった。


    そこでシッテムの箱(先生のタブレットをこう呼ぶらしい)のAIと相談したところ、有用なのは間違いないんだから、このままタクシーを乗っ取って使っちゃおうという話になった。シッテムの箱の能力を使えば楽勝らしい。

    システムを掌握すれば、有人メンテ用のハンドルなんかも引っ張り出して使えるんだそう。

    それから、追跡や先回りを前提に行動したほうがいいとか、防諜対策もしてくれるとか、でもタブレットの充電だけはきっちりやっておいてくれとか、いくつも助言を受けて、ようやく行動開始。

  • 29◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:04:05

    「うへ~おまたせ。それでお客さん、どこに行きます?」

    おどけて後部座席の先生に尋ねた。なんてことない、ちょっとした軽口のつもりだった。
    でも、先生はなにか口を開こうとして、苦しそうに唸る。

    いけない。

    「なんてね、気にしないで。…えへん。ドライバーを務めます小鳥遊ホシノです。本日は小鳥遊交通をご利用いただき、誠にありがとうございます。当便はこれから、一路海へ向かいます。青い海。美しい海。そこで潮騒に耳を傾けましょうツアー、その後は先生とゆっくりのんびりツアーに接続する予定です。ご準備がよろしければ、これより出発します」


    先生が少しだけ安堵したように、軽く頷く。

    「それではお客様、安全のためシートベルトをお締めください」

    出発。

  • 30◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:05:15

    砂漠化の進んだアビドスにいれば、いやでも車両の運転はできるようになる。
    だから運転は問題ない。


    私の表情が苦しいのは、別のことを考えていたからだ。

    (…うつ病のひとは、ちょっとした決断を迫られるだけでも苦しく感じる、だったっけ)

    優秀な後輩が以前教えてくれた内容を反芻する。


    脳機能が低下して、判断したり、順序よくやったりがうまくできなくなる。
    ひいては、食事や入浴なんかの当たり前の行動さえ困難になってしまう。その困難が、さらに本人を抑圧してしまう。…そのとおりらしかった。

    正直にいえばまだ事態を軽く考えていたというか、どこか、ちょっとした旅行の延長くらいでとらえていた。
    困ったことがあっても先生と相談すればいいや、くらいの気持ちだったのだ。

    それが、あのくらいの問いかけで、どうだ。


    とんでもなかった。
    気を引き締めないといけない。
    先生の孤独が、すこしだけわかった気がする。

  • 31◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:06:30

    しばらくは車道の流れに沿って運転していた。
    コンビニで買った地図を適当にチラ見しながら走る。

    高級感の演出なのか、車窓は全面スモークされていて顔を見られる心配もない。
    警戒していた追跡も見当たらなくて、想定よりスムーズに進んでいた。シッテムの箱がやってくれているという撹乱が効いてるのかも。

    そのまま半時間も流していると、町並みも少し変わってくる。

    このままいけば、特に危ないことをしなくても、数時間後にはのんびり海を眺められると思う。海岸で美しい日の出を拝めるかもしれない。

    先生に負担をかけずにすむことに、少し安堵する。


    ―――もちろんそううまくいくはずがない。

    ここは、キヴォトスだった。

  • 32◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:07:32

    「………」


    『疑問。なにかありましたか? >小鳥遊ホシノさん_ 』



    シッテムの箱のAI…アロナちゃんとプラナちゃんという女性的な人格(?)があるらしい。

    今問いかけてきているのはたぶん、冷静沈着なプラナちゃんのほう。


    後部座席の先生にミラー越しに視線をやって、なんてことない風を装って視線を戻す。


    「…見られてる、気がする」



    まだ特定して追いかけられているわけではない…と、思う。


    なにかおかしなことがないか点検している視線に近い。

    漠然と見渡して違和感の正体を探っている段階というか。



    なんていうか、人間的な視線よりは、より機械的な、網羅的な視線という気がする。

    もちろん根拠はない。ないのだが、私はこういう感覚を信用することにしていた。


    なんにしても早くも誰かが、先生の不在に気がついて捜査をはじめているのかも。


    勘のいいやつだ。女の勘というやつだろうか。



    女ばかりのキヴォトスでは、まったく厄介な話だった。

  • 33◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:08:47

    少し悩んで、いったんタクシーと別行動することにした。
    見られているような違和感が少しずつふくらんで、徐々に注視的にも感じるようになってきたからだ。

    たとえ錯覚だとしても、こんな感覚が四六時中つづくのであれば、先生の負担もわかる気がする。


    先生に無理をさせたくはないが、タクシーは委任モードに切り替えて適当に走らせ、私たちは歩くことにする。

    こちらはというと、路地裏や隧道をくぐって追跡?を誤魔化したら、あとで適当な裏道を走らせておいたタクシーと合流することにした。
    なるべくカメラのない道を行く。


    手を繋いだ先生の顔を横目で見る。
    思ったよりも表情はおちついていて、無理をしているようには見えない。

    難しいことを考えずにただ歩くというのが、今の先生にはちょうどいいのかもしれない。

    その透明な表情に、安堵半分、焦燥が込み上げる。

    はやく安心できる場所に連れて行ってあげたい。

  • 34◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:10:27

    「おい、お前だれだよ。ここはアタイらのシマだぜ。気軽にはいんじゃねぇ」


    何度目かの路地で急に絡まれた。軽薄そうなスケバンの女の子が4人。

    手に手に銃器を抱えている。密造品だろうか、どれもセーフティがなかったり、マウントがひん曲がったような粗悪品ばかりで、他人事ながら心配になる。
    中には家庭用3Dプリンターで出力したような表面の粗いものまである。


    「うへ~ごめんね。ちょっと道間違えちゃったよ」

    蹴散らすのは簡単だけれど、なるべく騒ぎを起こしたくない。それも先生の前となればなおさらだ。
    軽く謝って引き返そうとする。

    「間違えました、じゃねえんだよ。ひとんちに土足で踏み込んでんだ、誠意って言葉、知らねぇか」


    ずかずかと足で遮るように回り込んだスケバンに軽く苛立ちながら、もう一度謝ってその場を離れようとした。
    なのに。

  • 35◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:11:41

    先生はどこまでいっても私たちの先生ということだろうか。

    絡まれる私を心配したのか、深夜に路地裏でたむろするスケバンたちを心配したものか…きっとその両方だろう。
    先生が力なく、でも確かに割って入ろうとした。


    そこで複数のことが起きた。

    まず、一人の銃口が先生を向いた。暗さや存在感の希薄さもあってか、先生の姿を十分に認識できていなかったのかもしれない。驚きと反射だったように見える。

    次に、先生を向いた銃には、セーフティがついていなかった。

    私も冷静さを欠いていたと思う。おちついて盾を構え、割り込めばそれでよかった。
    なのに、先生が怯えたように後ずさる姿に、一瞬で血が沸騰した。

  • 36◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:12:47

    ほどなく4人は倒れ伏していた。

    といっても軽傷だ。撃ちはしたけど、弾に一発二発当たったり銃床で小突いた程度でどうこうなるキヴォトス人じゃない。

    私は、いまの先生に余計な荒事を見せてしまったことに動揺して、その場を離れようと先生の手を引く。
    先生はつられて足を動かしながらも、振り返って倒れた4人を心配そうに見つめる。

    その視線に、さすがに申し訳なさが立って、軽く応急処置をしながら救急車を呼ぶことにした。
    先生を守るつもりが、余計な心配をかけている。

    とはいえ正直なところ、やっぱり放っておけばよかったと思う。
    そうこうするうちに、バタバタと足音が近づいてくる。

  • 37◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:13:57

    「ヴァルキューレ警察学校だ! そこでなにをしてる!」

    防楯を抱えた警察が数人、路地裏になだれ込んでくる。
    騒ぎをききつけたのか、雑居ビルの窓からも数人が顔をのぞかせる。

    まずい。
    とうに、正眼に構えていられる状況ではなくなってしまった。

    とにかくこの場を離脱しなければ。
    とっさに先生を膝からすくいあげ、横抱きに抱いて走り出す。


    「おい!」
    「止まりなさい! 止まれ!」

    嫌な予感がして、とっさに後ろ手に盾を突き出す。

    ガン、と重い音がして銃弾が盾にはじかれる。あやうく先生直撃コースだ。
    ひやりとするが、構わず路地に逃げ込んだ。

    また当てちゃうところでしたぁ、と情けない悲鳴が聞こえた気がした。

  • 38◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:14:59

    ~連邦生徒会の場合~

    「ようやく尻尾がつかめました」

    そう言って、ヴァルキューレ警察学校公安局局長の尾刃カンナさんは缶コーヒーを振ってみせる。
    跳ねたコーヒーが、缶のふちに一滴シミを作るのが妙にハマって見えた。


    「隣接区域郊外の路地裏で小鳥遊容疑者を発見しました。先生も一緒です」

    「想定した通りですか」

    「はい。騒ぎをききつけた職員が二人を発見。現場の状況からトラブルに巻き込まれ対処したものと思います」

    聞けば、逃走中の小鳥遊さんを不良生徒が見咎め、因縁をつけたのだろうという話だった。

  • 39◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:16:13

    「現場を離れる前に、どういうわけか応急手当を。救急車まで手配しています」

    「先生のご意見もあったのかもしれませんね。であれば、先生の身にすぐに危険が及ぶことはないでしょう」

    「はい。私たちもそのように分析しています。…その後、再び逃走。路地を逃げ回って職員を振り切ったところで例の無人タクシーと合流し、走り去ったようです」


    「それは…」

    「ええ、冷静さを失っていたのか、とにかく距離を離すことを優先したのか。なんにしても周到に練られた計画ではないようですね。いまは交通局と連携して追跡しています。ただ…」

  • 40◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:17:14

    「ただ?」

    「やや難航しています」
    尾刃カンナさんの目のクマが濃くなったように感じる。


    「我々向けの交通情報を不正取得しているのか、うまく追い詰めることができません。捜索ルートや検問をうまくにすり抜けていて、進路上にあったはずの信号機やオービスも異常動作しているようです。かなり泥臭い追跡を強いられています。
    …ひとまず本件の情報を封鎖し、他生徒の軽挙妄動を牽制しつつ続行中です。この上の混乱は必要ありませんから」

  • 41◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:18:21

    「…進路予測はどのようになっておられますか」

    「予測進路は不明なままです。追跡中ということもあって絞りきれません。いくつかは候補がありますが、どれも憶測の域を出ませんね。とにかくキヴォトス中心地から離れる方向に運動していることくらいしか。…七神行政官になにかお心あたりは?」

    「私も、まだ…病院や先生のご実家、アビドスの方面でもないのですよね?」

    「はい。やはり行き当たりばったりの逃走…にみえます」

    なるほど。姿を認めたのに追い詰めた、ではなく尻尾をつかんだと表現するのも頷ける状況だ。

  • 42◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:19:22

    二人で次の動きを思案していると、捜査室に青髪の捜査員がドーナツ片手に入ってきた。尾刃さんになにか耳打ちする。
    その内容に尾刃さんの様子が固まる。ただならぬ様子に思わず声をかけてしまう。


    「ど、どうなさったのですか」

    「…七囚人『災厄の狐』狐坂ワカモとの不意遭遇戦に突入。三つ巴になったスキに小鳥遊容疑者が警察車両を奪取した模様」

    二人して頭を抱える。捜査員が呑気にかじるドーナツの音が、小気味よくも憎らしい。

  • 43◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:20:31

    ~ホシノたちの場合~

    タクシーを捨てた。


    アロナちゃんプラナちゃんたちがギリギリまで撹乱してくれていたけれど、進路上に警察車両を多数認めるに至って、いよいよ無理だと悟った。

    このままでは病気の先生を、銃撃混じりのカーチェイスに巻き込む危機感が勝り、タクシーを捨てることにした。


    適当に振り切ったスキを突いて荷物ごと降り、無人タクシーを委任モードに。
    大通りを爆走させることにした。

    アロナちゃんたちがでっちあげた乱数に従って進路をランダムに走らせる。
    そちらに目がいっている間に急いで場を離れようとする。


    …そう決めたところで、声が聞こえた。
    明らかに私たちを認めた声だった。

    「どこのどなたか興味もございませんが、―――わたくしの先生は返していただきますわね」

  • 44◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:21:35

    姿を認めるまもなく先生を抱き込むように飛ぶ。全身を先生ごと盾に包むようにして回避機動しつつ応射。ショットガンとサブウェポンの拳銃を盲撃ちして牽制する。

    そのまま遮蔽を求めて移動、移動。
    その動きを阻害するように続けられる的確な射撃がいやらしい。

    とっさの回避機動とはいえ、並一通りの人間なら照準するのも難しいだろうこちらの動きに苦も無くついてこられる。
    構わず射撃。盾と銃身の重みを使って片手で装填。再度射撃。盾を斜に構えて被弾面積を最小に。少しでも移動の自由を確保しようと務める。射すくめられるのが一番まずい。

    射撃戦の合間に敵の姿を認める。狐面。黒髪。着物姿。
    噂は知っていた。

    側面後方から警察車両と思しき音、それから足音もたくさん。

    災厄だった。

  • 45◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:22:59

    先生の身を気遣いながらの戦闘には、普段は感じない危機警報が鳴りっぱなしだった。

    とっさに動こうとする身体と、ワンテンポ遅れて先生の身を案じる理性。

    その理性も銃弾がかすめるたびに削り取られていく。
    湯に放り込まれた氷の気分だった。

    いまはまだ先生を巻き込むことを忌避しているのか、単なる銃撃戦にとどまっているけれど、こちらも向こうも、気が長いタイプではないだろう。
    催涙ガスや閃光弾が山と投げ込まれるのも遠くない―――それくらいの鬼気を感じる。


    対抗射撃のかたわら電柱や建物をめった撃つ。千切れた電線がのたうつ、砕けたガラスが舞う。
    とにかく先生を。とにかく距離を。遮蔽を。

    警察は逃げ惑ってくれるけれど、狐面は自身の損傷など些事となげうっているのか、こちらの動きを止めることだけに絞った射撃をしてくる。
    その姿に、戦闘中だというのに、ピンとくるものがあった。

    私も同じだから。
    この子も、先生のことが。

    ―――女の勘。

  • 46◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:24:02

    私、警察、災厄の狐。戦闘は三つ巴の様相を呈している。
    どこかで調子っぱずれな馬鹿騒ぎが聞こえる。温泉がどうの、美食がうんぬん。正直わずらわしい。

    いまのところ先生に怪我はない。
    シッテムの箱が全力で守護してくれているし、私も頑張っていると思う。
    だけどこの状況もいつまで続くかわからない。手荷物なんてとっくのとうに吹き飛んでしまった。

    先生の顔色を確認することすら恐ろしい。
    私が先生を追い詰めている。

    私が。

    私のせいで。

  • 47◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:25:05

    射撃。

    ホシノ、お前は本当に馬鹿だ。最悪の阿呆だ。大好きな先生を守るどころか無用な危険に追い込んでいる。

    回避。

    ホシノ、お前は本当に役立たずだ。お前でなければよかったのに。例えばアヤネちゃんなら、たとえばヒナちゃんなら。…たとえば先輩、なら。

    装填、射撃。

    ホシノ、お前でさえなかったなら。きっと先生は今頃海の美しさに胸を打たれ、どこかの落ち着いたテラス席でコーヒーでも啜っていたのではないか。その横顔には、もしかすると笑みのひとつも―――。


    射撃、射撃、射撃。

    ホシノ。―――ホシノ。

  • 48◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:26:07

    ~先生の場合③~

    幸せだ。

    あの落ちこぼれだった私が、こんなに恵まれていいのだろうか。

    こんなに素晴らしい生徒たちの素晴らしい青春。
    私はただ、この子達のためにあったのだと思う。

  • 49◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:27:37

    ~ホシノの場合~

    時計を確認する。
    戦闘開始からまだ、11分。
    嘘じゃん。もう2ヶ月は戦い続けている気分だ。
    また一段包囲が狭まりつつある。

    先生は無事、タブレットも、私も平気。
    私は大丈夫、タブレットは電池が減った程度、先生に至っては―――。



    ――

    ―――だめだ。

    やめよう。
    もうやめよう。

    投降しよう。
    事情を話して、先生を保護してもらおう。

    私はひどい目に合うかもしれない。今度こそアビドスにいられなくなるかもしれない。大好きな人達に会えなくなるかもしれない。
    先生を裏切ることになるかもしれない。

    それでもよかった。好きな人に、元気でいてほしかった。

    こんなにもたくさんに案じられている先生は、一秒でも早く、こんな疫病神と縁を切るべきだった。

  • 50◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:28:53

    射撃を停止する。
    一瞬の後、その空気を察してか、不意に銃声が止む。

    最後の時間だ。先生の顔を見る。
    疲弊した顔だ。疲れと不安と混乱で、顔色が抜け落ちている。

    最後の表情だ。先生の顔を見る。
    私は今、笑えているだろうか。


    ゆっくりと、ゆっくりと、銃を下ろす。
    ゆっくりと、ゆっくりと、私は手を挙げる。視線は先生をみている。


    だいじょうぶ。


    声に出さずに口元だけで伝えようとする。
    先生の目が見開かれる。

    私は先生から視線を引き剥がす。

    ―――だいじょうぶ、へいき。

  • 51◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:30:00

    私は両手を上げながら、静かに立ち上がる。倒れた盾がガランと音をたてた。
    足元には先生がいて、ただ驚いた表情で私を見上げている。

    静かに、ゆっくり、敵意なく背を伸ばしていく。せめて先生を庇うように前に出る。
    怖がらせないように、苦しませないように。静かに休んでいられるように。

    先生だけは、無事でいられるように。

    これで、いいんだ。

    だから、先生、

  • 52◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:31:01

    だから、先生。


    そんなふうに、私の服を掴むのはやめて。

    私を迷わせないで。私に、先生のための私で、いさせてよ。


    私は安心させるように先生に笑ってみせて、それから視線で指し示す。
    だいじょうぶ。ほら、あなたにはたくさんの味方がいるよ。みんながあなたを案じているよ。
    だから、だいじょうぶ。だいじょうぶ。


    だいじょうぶだから、そんな顔をしないでよ。

    もっと安心した顔を見せて。
    やっと終わるんだって、せいせいしたって、そういうふうにしていいんだよ。

    なのになんで、なんでそんなに、見捨てられたような顔をするの。


    ―――迷いは一瞬だったと思う。

  • 53◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:32:30

    気がつけば私は、先生の体をはがい締めにするように、彼に銃を突きつけていた。

    正直、先生がなにをこれほどまでに恐れているのか、まだわからない。
    この期に及んでまだこんなことをしてるのは、なんでなんだって。

    でも、だけどだよ。


    私は確かに見たんだ。


    私が先生を手伝うと言ったときの表情。
    コンビニで買った荷物を抱えて戻ったときの、一瞬の顔。
    なにもできない私に、小鳥遊ホシノなんかに、それでも縋るしかなかった先生の苦しみ。
    先生の孤独。

    私にできることなど、たったこれだけのはずだった。

  • 54◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:33:31

    時間が止まっている。
    四方には人、人、人。
    私と先生、たった二人だけが世界から切り離されて、半畳ほどの小島に取り残されている。

    脂汗が止まらない。
    見開いた目に入ってヒリヒリする。
    興奮と、狂気と、悲哀に頬が攣る感覚。

    見なよ。一面、憎悪の海だ。
    皆よ。私を憎んでいる。
    私はたまらず、その、嵐うず巻く絶海に身を投げようとして、

    ―――温かい手が私の腕をなでた。たちまちに嵐は止む。
    すべてを許す体温だった。
    先生のぬくもりだった。

  • 55◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:34:38

    ~先生の場合②~

    キヴォトスに赴任してはや数カ月。まだまだ慣れないことは多い。

    はじめての土地だ。正直疲労することもあるが、それでもやりがいを感じている。
    生徒たちに頼られることも増えた。この子たちに、私にできることをやってあげたい。
    こんな私にもできることがあるなら、そうしたい。

    ―――もう役立たずな私には、戻りたくないんだ。

  • 56◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:35:41

    ~ホシノの場合~

    私は先生に銃を突きつけたまま、近くの警察車両ににじり寄った。

    狐面が、この世すべての悪意を見つけた目で私をみているのがわかる。


    視線と銃口で指し示して、人を退ける。
    そのまま油断なく乗り込んで、先生のポケットに入ったシッテムの箱に指示を飛ばす。

    果たして車はひとりでにドアを閉める。
    がなる無線が沈黙し、ホワイトノイズが残される。
    回転灯が静かに踊る。


    先生のポケットに、まだなにか入っていると気がついた。
    走り回る間に入り込んだのかもしれない、その目覚まし時計を、ドリンクホルダーに突き刺した。

    時間がようやく動き出す。

    思い出した、これ、友達が好きな、たしかそう―――ペロペロ様。

  • 57◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:36:45

    ―――
    ――


    私たちはいま、喫茶店でコーヒーをすすっている。

    テラス席ではないけれど、もうじき、海だ。


    あの後のことは簡単に語ろうと思う。

    私と先生は、奪った車両で脇目も振らずに突っ走った。
    その後も追跡は続いて、交通規制を何重にも敷かれたし、横倒しにしたバスで道を塞がれたりもした。
    警察ではない集団からも数度、襲撃を受けた。

  • 58◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:37:51

    やっぱり戦場は生き物というか、全員がベストを尽くしてもうまくいかないことはある。


    ついに誰かが強硬手段に出た。車両を止めるために放たれた弾丸が、だめなタイミングでタイヤをバーストさせた。

    そして私はだめなカウンターを当ててしまって、だめな当たり方で路肩の石に乗り上げた。そのまま車ごと崖を転がり落ちた。

    私はただ先生を抱きしめて庇うことしかできなかったけれど、その私ごとアロナちゃんプラナちゃんが庇ってくれた。

  • 59◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:38:56

    二人のお陰で、わたしたちに怪我はなかった。

    なかったけれど、よっぽど負担だったのか、二人は短い声援を残し、電源は切れた。


    私と先生は荷物を集めて、その場を離れた。


    どれだけ歩いたろうか。

    潮の香りを感じるが、海はまだ見えない。

    もうじき日が沈む。

  • 60◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:40:24

    喫茶店の中には、私と先生、それから年老いた獣人の店主だけだった。


    私も先生も、汗塗れの泥だらけで、率直に言って汚かったと思う。

    店主は少し驚いた顔をして、古いラジオと固定電話に一瞬目をくれたあと、何事もなかったように笑顔で席に案内してくれた。

    奥まった、やわらかい観葉植物にさえぎられた、ほっとする席だった。

  • 61◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:41:25

    手書きのメニューを二人で覗き込んで、特盛りのスパゲッティをひとつ頼んだ。
    素朴なミートソースのやつ。

    それからメロンクリームソーダのフロートと、コーヒーのブラック。


    運ばれてくるときに、頼んでいないバターバゲットを数切れ置いていってくれた。サービスらしかった。

    店主の席からは、ノイズまじりのラジオ音楽が聴こえてくる。

  • 62◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:42:29

    食後のコーヒーを二口もつけないうちに、先生は船を漕ぎ始めている。
    無理もない。

    私もくたびれて、お行儀悪くもテーブルに顎をつけてぼんやりしている。

    幸か不幸か、追跡を逃れているけれど、それも時間の問題だ。
    ゆっくりしている暇はないけれど、すぐに動き出す気力も、さすがにない。

    もう少しだけ休んでから行動しよう。


    そう考えるていると、コーヒーのおかわりを持ってきたらしい店主が、わざとらしく咳払いする。

    さほど長居したつもりはなかったが、見るからに個人経営だ。もう閉める時間なのかもしれない。

    そう気づいて席を立とうとすると、店の前に車が止まった音が聞こえた。窓を照らす回転灯の光が止まる。

    パトカー。

  • 63◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:43:31

    全身が総毛立って、急いで席を立とうとする。
    疲れで足がもつれる。

    それを店主がやわらかく押し留めて、ドアに向かってゆるりと歩き出した。
    まずい、まずい。

    この店は民家の一室を改造したような作りで、出入り口は、私たちの入ってきた入口か、店主の自宅へと続くバックヤードだけのようだ。

    はじめから、サンドイッチでも包んでもらってすぐに発つべきだった。


    入口ごしに店主は警察とやりとりをはじめている。

  • 64◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:44:32

    「いらっしゃい」

    「やぁ、ご店主。いい日和で。今日は店じまいですか」

    「ええ、ご苦労さまです。おっしゃるとおり、そろそろ閉めようかというところです」

    警察が首を伸ばして店内を軽く覗き込む気配がする。


    「そうでしたか。ところで、ご店主。変わった客を見ませんでしたか」

    「変わった客」

    「はい。男女の二人連れで、十代半ばの桃色の髪をした少女と、三十くらいの男性の二人組です」

    心臓が跳ねる。

  • 65◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:46:23

    「へぇ。…そういうときは、なんとなく年嵩のほうを先に挙げそうな気がしますがね。なにかおありで」

    私は息を呑んでいる。

    「ええ、まぁ。まぁなんというか、奇妙な話なんですが、少女が男性を連れ回しているような、そんなところで」

    「それは、まぁ。うん、桃髪の少女と、男性ね。気がついたことがあったら、ご連絡しますよ」

    店主はとぼけたように嘯いている。


    「よろしくお願いします。…ところで最後に、あの席を見てもいいですか」

    「あの席」

    「ええ、あの奥まった、観葉植物のところ」

    心臓も止まったと思う。

  • 66◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:47:26

    店主はこともなげに言う。

    「構いませんがね、いまあそこでは孫が眠っているんです。寝起きの悪い子でね、おまけに人見知りときた。できれば静かにしておいちゃくれませんか」

    「そうしたいのはやまやまですが、本官らも職務中でして」

    そっと盾を抱き寄せる。


    「あれの機嫌が悪いと、夕食がまずくなるんですがね」

    静かに、静かに銃を手に取る。


    「…はぁ、おおい、おまわりさんにご挨拶しないかぁ」

    我知らず唸り声が口から漏れる。
    慌てて口に手を当てる。


    「…ね? 機嫌の悪い子でしょう?」

    「…失礼。確かにお孫さん、ご気分が優れないようですね。失礼いたしました。よろしく言っておいてください」

  • 67◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:48:32

    ええ、とか、もちろん、とか、また、とかそういった事を曖昧に言って、店主は入口を閉めた。

    しばらくパトカーを見送ったあと、落ち着いた様子でこちらに返してくる。

    「だいじょうぶだ、もう行ったよ」


    このときの私は、よほど余裕のない表情をしていたらしい。

    お礼も言えない私に店主は苦笑して、メロンソーダのおかわりを持ってきた。

  • 68◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:49:36

    「子どもはね、間違えるのが仕事だからさ」

    店頭の表示をOPENからCLOSEDに変えたあと、店主はそう言って、新聞を広げた。


    「でもそれは、いつも手段の話だ。そうしたいと思った気持ちは、ずっと純粋だったりする。…私の娘もね、お嬢さんに似ている気がする。うん、一途だったよ。友達や弟を守るために喧嘩をして、顔をパンパンに腫らして帰って来るような子だった。私はそれに怒ったし、一緒に相手の子の家まで行って頭を下げたし、下げさせたよ」


    私は黙ってストローを噛み、うつむく。

    「でもそれは、全部がだめだったからじゃない。悪かったのは手段で、暴力だったからだ。暴力だけを叱った。大切な人を守ろうとした気持ちは、そのあといつだって褒めたよ。誕生日のようなご馳走をした」

    顔を上げる。店主はいたずらっぽく私を見ている。

  • 69◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:50:46

    「その、連れの男の人。お嬢さんにとってどんな相手なのかはわからない。でもきっと、その人のために、君は喧嘩をして、顔を腫らしたんだろう?」

    少し迷って、頷く。
    店主も頷いた。

    「だったら、そんな顔をしなさんな。あんたは、あんたの正しいと思ったことをした。ひと様世間様にご迷惑はかけたかもしれない。でもね、それは誠心誠意謝れば、案外どうにかなるもんだよ。子どもなんだから」


    そうはならないだろうと思ったが、頷いた。

    店主は今度は二度頷いた。それから思い出したように言う。

    「お嬢さん、海は見たことあるかい」

  • 70◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:51:52

    …海。

    「そう、海。ちょうどここから少し行ったところに海岸があってね。きれいなもんだよ。とくにもう、夕暮れだ」

    疑問が顔に出たのだろう。店主は楽しそうに続ける。

    「海ってやつはすばらしい。あのバカでかい太陽、夕陽がね、海に溶け合うんだ。最後に残るのは、心の中の火の玉だけ―――」

  • 71◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:53:00

    いつの間にか目を覚ましていた先生と二人で頭を下げて、そのまま歩き出した。
    どちらからともなく手を繋ぐ。

    売れ残りだといって、店主はサンドイッチを持たせてくれた。

    いつか償いが済んだら、きっとお礼に来たいと思う。

  • 72◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:54:01

    ~先生の場合①~

    今日からキヴォトスだ。
    周りからは心配されたが、やり遂げてみせる。今日からここが私の生きる場所だ。

    思いきり声を出したい気分だった。
    今日から私は、先生だ。

  • 73◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:56:31


    ――
    ―――
    潮の香りがする。

    サクサクと鳴る砂が心地良い。

    波音の優しさに、涙が出そうになる。

    海だった。
    海と、夕陽と、私たち。

    先生。


    「先生、」

    迷って、続ける。
    「―――見えてる?」


    先生が、ゆっくりと頷いた。

    「……楽しかったね、ホシノ」

    表情は見えない。見えなくたっていい。

  • 74◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:57:33

    波の寄せる音がきこえる。


    二人で耳を傾けている。




    <終わり>

  • 75◆WyiLrjSAk225/11/28(金) 22:58:39

    おつかれさまでした。
    読んでくださった方、ハートくださった方どうもありがとうございました。
    楽しかったです。

  • 76二次元好きの匿名さん25/11/28(金) 22:59:08

    おつかれ様です。
    雰囲気が良くて引き込まれました。
    先生、復帰できるとええな…

  • 77二次元好きの匿名さん25/11/28(金) 23:00:49

    Knock, knock, knockin’ on heaven’s door

  • 78二次元好きの匿名さん25/11/28(金) 23:05:09

    えっっっぐい...やばい、過去一引き込まれた

  • 79二次元好きの匿名さん25/11/28(金) 23:11:09

    乙です
    短い時間だけど先生にとってもホシノにとっても人生最大級の冒険、最初で最後の家出になるのかな

  • 80二次元好きの匿名さん25/11/29(土) 03:17:51

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