【SS】終わりの向こう

  • 1◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:06:54

     春。新入生達の賑わいが落ち着き始め、選抜レースへの気運も高まりつつある。
     その中で高等部に進んだビコーペガサスは不安と違和感を抱えていた。

    「はぁ、は……っ。ふう……」
    「よ〜し上がりにしようか。……納得行かなさそうだな、もう一本行っとく?」
    「……いや、上がる。ねぇトレーナー、話があるんだけど。今年の目標レースの事で」
    「……おう。ほれタオル」
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
     机に拡げられたカレンダー、手帳、研究ノート、etc――
     傍目にはいつものトレーナー室、いつものミーティングとしか見えないであろう。しかし今日の二人の間には、ある予感の空気が漂っていた。

    「さて、予定の変更希望でもある?」
    「もう単刀直入に言うよ。
     ……アタシの事、どう思ってる」
    「なんだぁ〜愛の告白か?ビコーにゃ三年くらい早いんじゃね〜の」
    「いや、今そういうのいいからさ……けっこう早いな!?」
    「解ってるよ。ここ数週間タイムが変わらね〜のに疲労感ばかり強い。回復も今までより遅れてる。
     ……ピークアウト、だと思ってるんだろう?顔に出てるぜ」

     黙って頷くビコーにトレーナーは続ける。

    「ま、個人差があるとは言え……来てもおかしかぁ〜無い。ただ決めつけるのは早計だな。単なるスランプかも知れね〜し。
     仮に来たとして、即座に力が落ちると決まった訳でもね〜よ」
    「でも、その可能性は考えなくちゃ、だろ?そんなに楽観的ではいられないよ」
    「出たいレースがあるんだな」
    「うん。有馬記念」

  • 2◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:07:54

     トレーナーは息を呑んだ。

    「……マジでか?」
    「大マジだよ」
    「いや、お前な……!距離とかトレーニングメニューとかよ……とにかく俺ぁ、今まで考えた事も無ぇ〜ぞ?」
    「無理かな」
    「理由は?何で有馬なんだ」
    「それは……うん、有馬でなくてもいいのかも。でもアタシはね。
     その……最後になるかも知れない大きなレースに、何がベストかって考えたらさ、頭から離れないんだ。
     アタシだって出たいと思った事もないんだけどね、有馬記念……」

     ビコー自身、頭打ちを感じた脚と残された時間とが、自然に引き合ったとしか説明のしようが無い。

    「ど〜やら本気か……でも一つだけ確認するぜ。それは自分のため、なんだな」
    「どういう事?」
    「誰かのためなんて〜動機じゃ、間違いなく後悔する。例えば『ボノや卒業したウインディ先輩にいいトコ見せたい』とかな」
    「それは……まあ、ないと言ったら嘘になるけど。でも自分のためってのが本音だよ。
     アタシはアタシのために有馬を走りたい、そして勝ちたい。トレーナーが無理だって思うならそれは……
     でも……本当に出たいんだよ……!」

     ビコーの絞り出すような声。迷いのない瞳。もはやトレーナーはとどめる術を持たなかった。

    「〜!よし分かった!有馬記念に全てを賭ける!」
    「トレーナー……!」
    「ただし条件があるぞ!
     まずオレのメニューは全てこなす!途中で故障その他、オレが無理だと思ったら即座に予定修正!そして結果がどうなろうと決して後悔するな!
     最低限これは従えるな!?」

    「ああ……!やってやるよ!」

  • 3◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:08:54

     初夏。あの時のビコーと同じ予感をトレーナーもまた抱えていた。最近の不調はピークアウトの可能性も有り得るとして、メインの計画と並行してサブを立てつつあった。
     そちらを進めながらトレーニングメニューを有馬記念に向けて大幅に変更。いや、それは最早ゼロ以前からの再構築であり、ビコー自身の再構築でもある。自然それは苛酷なもので――

    「……やっぱりキツいか?」
    「へへっ、特訓はキツくなけりゃ強くなれない、って」
    「言うねぇ。ま〜そう来なくちゃ。理想を言えば目標を有馬だけに絞りたかったトコだが、何しろ選ばれん事にはな。ファンに投票してもらうためにゃ〜“有馬を走れる”事を示さねぇといけねぇ……」
    「皆まで言うなって。アタシが決めた事だからね、やり遂げて見せるよ」
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
     夏合宿はかなりの強行軍となった。
     ヒシアケボノが学園に残った事でビコーは一抹の淋しさを覚えていた。しかし万に一つ、引退を目前にした彼女の前で、挫折する姿を見せる事があったなら。
     無用なプレッシャーを抱える事を思えば、それはむしろ幸いだったかも知れない。

    「よ、ここに居たか。皆と出かけたと思ってたぜ」
    「ん……ちょっとね。会場でフラついたりしたら祭りが台無しだからさ、休んでる事にした。トレーナーこそ予定は無いの?」
    「大方のトレーナーは担当と出かけてるか、居残り組のケアさ。何人かは呑みに行ったかも知れねぇ〜けど」
    「……そっか」
    「お前ぇ〜にも、息抜きの一つもさせてやりたかったがなぁ」
    「いいさ。こうして側にいてくれるだけで」

     遠くで花火の音がした。合宿所の中が俄にザワつき、幾つかの足音が外に向かっている。

    「こっからでも少しぁ〜見えるんだ。俺らも行こうか」
    「いやアタシは……わっ?」

     トレーナーはビコーを抱え上げ、表へ向かって歩き出す。

    「まぁ〜心の栄養だと思ってよ……カップルごっこが務まるようなイケメンじゃなくて悪ぃけど。余計な勘繰りされなくて済むのだけふぁ、ふぁ」
    「別に……そんなの気にした事ないっての」

     一際大きな唇をつまみ、ビコーは下を向いたまま呟いた。

  • 4◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:09:56

     秋。ビコーペガサスとヒシアケボノはそれぞれの節目を控える。

    「……それで危うく接触するとこでさ」
    「投票も近いのに故障しちゃったら大変!間一髪だねビコーちゃん」
    「経過次第じゃ11月のマイルCSや12月のスプリンターズSに舵を切るって言われてたんだよね。まあそっちが元々の予定なんだけど……
     ここまで来て有馬を逃すなんて、ホント……勘弁だよ……。ボノも調整は順調?」
    「ん……。お医者さんも、引退レースは大丈夫だろうって。トレーナーさんは胃が痛そうだけどね。
     今まであたしの脚のために……ずいぶん心配かけちゃったな……」
    「……」
    「……」
     
     寮部屋をこれまでに無い空気が包んでいる。引退を間近に控えたヒシアケボノとは時に饒舌に、時に無言に、お互いナーバスになりがちだった。
     親友ゆえに却って気を回しすぎ、遅くまで部屋に戻らない日も一度や二度ではない。
     しかし遣る瀬ない感情を抱えて部屋に戻るとドアの前ではち合わせ――二人して吹き出し、笑い合うのだ。
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
     冬。投票をクリアしたビコーは無事、有馬記念当日を迎えていた。
     中山競馬場の地下バ道を何組ものウマ娘とトレーナーが通ってゆく。一年を締め括る大レースの直前、バ道は普段に増して緊張と興奮に張り詰め、気温の冷え込みを感じさせない。

    「7枠13番かぁ……せめて一桁を取りたかったぜ。オマケに14番人気たぁ〜パッとしねぇ」
    「まっ!仕方ない!それに逆風をはね返して勝つ方がヒーローらしいんじゃないか?」
    「強ぇな、お前ぇ〜は」
    「トレーナーのお陰でね」
    「こんな時くらい格好良くキメてやりてぇが、オレじゃ締まらねっふぇ、ふぇ」
    「アタシは嫌いじゃないよ、コレ。
     ……見ててね」

     トレーナーの分厚い唇を軽くつまんで離したその指で、ビコーはVサインを作った。

  • 5◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:10:56

    『ビコーペガサス!ビコーペガサスが一バ身差でゴール!今年の有馬を制したのはなんとビコーペガサスです!
     この半年余り!距離の壁を乗り越える姿を魅せ続けてくれたビコーが今!最後の壁を越えました!
     ビコーペガサス優勝です!』

     大音量の場内放送がまるでどこか遠くからのように聞こえて来る。
     両膝から掌を離し、息の上がった身体をゆっくりと起こして掲示板を見上げれば、今聞いた内容が確かにそこに在った。

    「勝った……。アタシ、勝ったんだ。
     ホントに有馬を……」
    「ビコーぉ〜!」

     上擦った悲鳴のような声がした方向からトレーナーが駆けて来た。

    「お前ぇ〜やったな!凄ぇ〜ぜ本当に!
     オレぁこんなに感動した事ぁ〜ねぇ〜よ〜!」
    「ああ……!やったよ、やった……
     おおっ、ちょ?」

     トレーナーはビコーを肩に乗せ、観客席に向かって高々と持ち上げた。
     前列にはヒシアケボノとシンコウウインディ、それぞれのトレーナー、さらにはウインディの後継チームの姿が見える。
     みな一様に歓喜に溢れ、ビコーを讃えていた。

     ビコーペガサスの最大最後の挑戦は勝利で幕を閉じたのだ。
     それは同時に、最大最後のターニングポイントを迎えた事をも意味する。

  • 6◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:11:57

     そしてまた春。ビコーペガサスは新学期を一人で迎える。
     同室のヒシアケボノは今年で卒業し、調理師になるため専門学校へと進んだ。すっかり広くなった部屋の向こう半分にたった一つの跡を残して。
     それは彼女の勝負服。損傷が目立って着られなくなった、最初の一着。名残惜しくて処分出来なかったものをビコーが譲り受けた。

    「……なんだかヒーローらしくないかな、こんなのは。でもアタシにとってボノの存在は大きすぎたよ……」

     多くの場合、卒業時に空いた場所には新入生が入る。が、今年度はヒシアケボノの後に入る者は居なかった。それを幸いとばかりに、無人の席に勝負服を吊るしているのだ。

    「こんな事トレーナーには言えないな。大事な時だし」

     そのトレーナーはと言えば、新入生のスカウト準備に余念がない。
     ビコーは明らかに下り坂に入って出走予定を大幅に減らし、またビコーの有馬勝利で彼の株も上がっている。おそらくはこの機にチーム編成を考えているだろう。
     まさかビコーを蔑ろにするはずもないが、淋しさと不安を拭い去れないでいた。
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
     初夏。トレーナーは新入生から一人、中等部からもう一人をスカウトし、合計三人のチームを抱えていた。
     もっともビコーはこれまで程の密着指導を必要としない。適性の近い後輩への指導や併せを考えると、感覚上は一人半で二人を見るようなものだ。

    「ほらほら脚上がってないよ!もう一本!」
    「「先輩、厳し……っ……」」
    「ハハッ、お手柔らかになビコー?」

     毎年恒例の合宿が今年も近づく中、今日のビコーはトレーナーが後輩達を見ている間、外周を走っていた。合宿には三人揃って参加する予定である。
     去年の夏、ヒシアケボノは引退目前でもあり、下半身を労るためにハードな合宿にはあえて参加していなかった。対してビコーは未だ明確な引退時期を決めておらず、むしろ残り少ないレースに向けて特訓を重ねる意気込みだ。

    (ボノはどんな気持ちだったんだろうな。……分からないや。
     うん?あれは……)

     遠くない未来に訪れる“終わり”。
     それなりに近い境遇に置かれながら、今のビコーはまだ、その迎え方を掴めないでいた。
     そのビコーの前に突如、脇道から見知った人影が現れた。

  • 7◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:12:57

    「トラン先輩!お久しぶりです」
    「おっ、これはこれは有馬覇者のビコーちゃん。ちっす〜精が出るねん。夏合宿も近いし気合い充分ってトコ?」
    「ども……先輩は今日、練習を見に?」

     ビコーの足に合わせながら、トランセンドが買い物袋を掲げて見せる。

    「指導なんて大層なモンじゃないけどね。後輩達に差し入れがてら、デッカい釘を刺しとこうと思ったんよ。
     ホラ……夏って何かと“開放的”になっちゃうからさぁ」
    「それは、まあ、その……」

     ビコーの足が僅かに鈍る。実は少しだけ苦手なのだ、このトランセンドというウマ娘が――

    「おっ反応があった。やっぱりどの口がって思ったら答えに困るんだ?」
    「いえ!決してそんな……」
    「いーよ隠さなくて。ウチとトレちゃん、黒い噂ならぬピンクの噂が立ってたもんね。現役時代からさ」

     そう、偉大な彼女の尊敬できないただ一点。それがトレーナーとの距離感だった。
     運命、永遠、一心同体、家族、国籍、婚約者候補と、指導関係の境界線を危ぶまれる師弟は少なくない。しかし噂する者たちはあくまで冗談半分の軽口としてだ。
     しかしこの二人――トランセンドとトレちゃん、については口にするのも憚られる雰囲気があった。そこに触れたら冗談では済まないという共通認識があった。
     “釘”とはつまり『自分のモノに手を出すな』という事なのだろうと――

    「そんな人だったらウチも気が楽だったかもね。……これは三女神に誓って言うけど、何もなかったんだよ、何も。
     ナイショだよ、一度ウチから迫った事あるんだけどね。『お互いのためにならない』ってフラれちゃった。もうトレちゃんたら必死でさ、可笑しいんだよこれがまた」
    「……」

     意外と言っては失礼にあたるだろうが、乾いた笑顔は嘘をついているようには見えない。

  • 8◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:13:58

    「それでさ、『このまま清い関係で卒業して終わっちゃうのか〜』なんて淋しく思ってたんだけど。別に終わりは終わりじゃなかったんよね」
    「それは……?どういう……」
    「引退しても次の日は来るし、卒業しても次にやる事はあるんだよん。トレちゃんは相変わらず学園でトレーナーやってる。ウチも進学して新生活始めてる」
    「そう、ですね」
    「何かが一つ終わっても全てが終わったりはしないって、当たり前の事にやっと気が付いたワケ。判断が遅いよね」

     ビコーの中で何かが変わった。何と問われても答えられないが。
     ただ、黒い霧のような鬱々としたものが、一息に晴れた心地がした。
     立ち止まったビコーにトランセンドが振り返る。

    「およ、どしたんビコーちゃん」
    「ありがとうございます」
    「ウチなんかやっちゃいました?」
    「はい、やっちゃいました。お陰さまでもう迷いません。
     ……えっと、釘、頑張って下さい」

     トランセンドを追い越して、ビコーが駆けてゆく。本気を出せば現役を退いたトランが追いつく事は叶わないだろう。

    「もち!ウチのトレちゃんに手ェ出す奴は許さんか〜んな!」

     ビコーは危うく躓く所だった。

    (なんて言うか本当に……喰えない人、だよな。
     ……実際の所はどうなんだろう……)

     ヒシアケボノは料理の道へ。
     シンコウウインディは家業を継ぐ。
     ビコーペガサスは未だ己の道を定めていない。――しかしその足どりはもう、迷いの枷から解き放たれていた。

     この日、ヒシアケボノの勝負服は衣装箱に仕舞われる。

  • 9◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:14:59

     秋。今年、ビコーは何度か臨時のルームメイトを迎えていた。
     トレセン学園では勝ち切れなかったり負傷のために、道半ばにして中退する者は珍しくない。当然それは卒業以外のタイミングだ。一人になった部屋を整理するため、あるいは清掃・リフォーム等で部屋割りが動く機会は多々ある。
     使える状態の空き部屋に完全な引っ越しをする場合もあれば、ビコーのような一人部屋に仮の宿を求める場合もある。それぞれ数日から十日そこらのひと時を、ビコーは楽しく過ごせた。
     春の部屋決めの際、ヒシアケボノの後に誰も入らなかった事に対して安堵していた表情を、現寮長は見逃していなかった。それゆえか部屋移動の際に固定のルームメイトを申し入れはせず、それでいて時おりこうして居候を送りこんでくれる。
     もちろんビコーの孤独感に対する無言の気遣いであり、ビコーもそれをありがたく思っていた。

    (こんな時、フジ寮長ならどうしてたんだろう。アタシを一年でも二年でも一人にしてくれてたのかな。それとも問答無用で新入生と組ませてたかな。
     ……アタシは今の扱いが嬉しいよ)
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
     冬。ビコーは次第にレースの間隔も離れてゆき、比して後輩達のサポートが多くなっていった。その甲斐あってかなんと二人とも、この半年余りの間に重賞バの仲間入りを果たしている。

    『ありがとうございます!トレーナーとビコー先輩のお陰です!』
     
     そう言って涙を流して喜んだ。ビコーもトレーナーも、四人で顔をグシャグシャにしたものだ。――ふと思いたって、あの衣装箱を出してみた。
     トランセンドと会った日、終わってなお“進む事”を意識し、封じたもの。親友ヒシアケボノの残した栄光の軌跡、勝負服が変わらずそこにある。
     あの日は過去の象徴を振り切った気でいた。未来だけをまっすぐ見て駆けてゆくのだと思った。
     しかし今こうして過去を顧みて、改めて気付いた事がある。

    (進むって過去を無くす事じゃない。積み重ねたものを支えにして、自分が去った後も残して、それを次の誰かが受け継いで……
     アタシもなりたい。ボノや、ウインディ先輩や、トラン先輩みたいに。この世界にアタシを残していきたいよ。
     きっとそれが……アタシの望んだヒーローの姿なんだ)

     青と白のエプロンがポツリと濡れる。ふたつ目が落ちる前に頬を撫でつけ、掌が離れた時には眩しい笑顔だった。

  • 10◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:15:59

     春。トレセンに入学してから何度目かの節目の季節が来る。ビコーは先だって寮長に意向を伝えていた。

    『本当にいいのね?』
    『ああ、今まで気を使ってくれてありがと。部屋繰り大変だったろ?アタシも新しい子を入れて大丈夫だよ』

     親友の居た場所に別人が入る。ここではありふれた事を、ようやくビコーも受け入れた。
     そして今日は入寮開始の日。新入生達が三々五々、引っ越して来るのが窓から見える。いくらか手伝うべきかな、などと思っていると遠慮がちなノックの音。
     
    『失礼します』
    「ああ、入りな」
    「ごめん下さい……私、今日からお世話になります○○○○○○です。よろしくお願いします」
    「こちらこそよろしく。そんなに畏まらなくていいよ」
    「わぁ……あ……本物のビコーペガサス先輩だ……」
    「お、知ってくれてるんだ」
    「はい!私も地元のクラブでは短距離中心で、先輩みたいになりたいと思ってて、でも一昨年の有馬記念!スゴかったです……それで、それで」
    「まあ一旦荷物を入れようよ」

     早口の新入生を宥めて荷解きを促す。一段落ついてから学園の案内に――と言っても凡そは知っている。ビコーはトレーナー室に直行した。

    「ちわー」
    「あっ先輩だ」
    「お〜来たかビコー。おや?」
    「後ろの子はもしかして……」
    「はい、新入生の○○○○○○です!宜しくお願いします!」
    「アタシと同室になったんだ。この子も短距離なんだって、トレーナーのお眼鏡に適うかな?」
    「そ〜か、でもスカウトで特別扱いは出来ね〜からな。まずは適性を見極めんと、だ……ウチのチーム入りが希望かい?後輩が増えると仕事も増えるぞビコーよ」
    「任せとけい!」

     去ってゆく者、加わる者。先へ進む者、残される者。その背中に何を見て何を受け取るのか――それはまだ、誰にもわからない。

  • 11おまけ◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:16:59

     トレーニング解散後、夕飯までのひと時。後輩達は早々に寮へと向かったが、ビコーはまだトレーナー室に残っていた。

    「そう言えば、外周の時にトラン先輩に会ったんだよ。後輩チームの練習見に来てた」
    「お〜、トランセンドか。確か大学行ったんだっけな。あの子も……まぁ〜……話題になったよな……」
    「アタシも思い出してさ……。ココだけの話、ちょっとだけ苦手だったんだ、あの先輩。
     でもなんか……トラン先輩と話して、色々分かった気がした。吹っ切れたって言うか」
    「そいつぁ〜何より。……どした?なんでコッチ来てる?」

     ソファにかける二人の距離がいつの間にかジリジリと狭まっている。ビコーから甘酸っぱい湯気が漂って来た。
     この数年間すっかりお馴染みのものだが、今日に限ってやけにトレーナーの胸を掻き乱す。

    「色んな事が必要で、そうでないものも一杯あってさ。
     で、色々思い出してね?昔ヘンな夢見ちゃって。アタシとウインディ先輩で、トレーナーと……」
    「止めてくれビコー、その話はオレに効く」
    「不思議だね。トレーナーも同じ夢見てたのかな?……いつかアタシに言ったよね、そういうのは早いとか何とか。まだ、早いと思う……?」

     ずい、と眼前にビコーが迫る。互いの息がかかる間合い。トレーナーの頬に手を添え、目を合わせ、喉が鳴る。厚い唇が震えた。

    「ビコー……っ」
    「へへ……冗談だよ。まだ三年経ってないもんな。でも、何だっていつかは終わるんだからね」

     ビコーはスックと立ち上がり、ドアに向かう。一度だけ振り向いた顔からは何かを推し測る事は出来なかった。

    「……心臓に悪〜ぃぜ」
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
    「やば……ボノ、ちょっとやりすぎたかも。明日どうしよ〜」

     自室でヒシアケボノの勝負服を抱きしめたビコーを、様々な感情が渦巻いて煽り立てる。そしてしばしのちにシワを伸ばし、丁寧に畳み、予定通り衣装箱に収めた。
     それは過去のみに囚われる思考からの決別の儀式であり――また、今の自分を見られているようで気恥ずかしい心地が芽生えたからでもあった。

  • 12◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 00:17:59

    終了 思ったより長く重くなりました 学年が下の子は多くの大物を見送る事になるんでしょうね 見送れると良いですね(意味深)

  • 13◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 07:20:09
  • 14二次元好きの匿名さん25/11/29(土) 08:17:35

    いつか来る終わりに寂しさを感じると同時に、また新しい何かが始まると希望を抱くの…すごく、いいですよね…
    それはそれとしてこのビコーがあの夢を見た(見せてしまった)世界線なんか!?卒業から少し経ってOBやサブトレになったら正夢になるんか!?!?

  • 15◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 12:48:37

    >>14

    感想ありがとうございます!

    終わらない世界で夢を見続けるのも、希望の未来へレディゴー!も、同様に愉しいものです

    正夢になるかは……誰にもわからない!

  • 16二次元好きの匿名さん25/11/29(土) 17:21:18

    長いね

  • 17◆rRSKfk6hIM25/11/29(土) 19:01:24

    >>16

    感想……?一本で8,000字は初めてですね!

    一万字超えを頻繁に書く人はスゴいと思います!

  • 18◆rRSKfk6hIM25/11/30(日) 01:15:03
  • 19二次元好きの匿名さん25/11/30(日) 11:04:46

    デビュー早いと在学中に衰えるのは辛いなぁ

  • 20◆rRSKfk6hIM25/11/30(日) 20:46:53

    >>19

    感想ありがとうございます!

    フラワーやスイープも“来た”時点で内心怖れてるんじゃないかと思うんですよね

オススメ

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