北原/ロマンスグレイシンデレラ その2

  • 1二次元好きの匿名さん22/05/09(月) 23:58:53

    このスレはとあるスレでの北原アルダン概念発生後、NTRの文字を見て北原トプロの妄想が止まらなくなった馬鹿がスレに投下した北原トプロ概念設定の途中から派生させて一気に書き上げ放置していた北原ドトウ北原アヤベ北原オペラオー概念の設定をついさっき発掘してしまったのでこっそり投下するために作った供養スレのpart2なんだ

    そのため本スレには、北原トプロ、北原ドトウ、北原アヤベ、北原オペラオーの概念が登場するんだ

    併せてご注意くださいなんだ


    とあるスレ

    北原、なんで私のデートの誘いを断って……|あにまん掲示板ダイワスカーレットと一緒にブティックなんかにいるんだ?ピザ食べ放題の店からシェラスコの店に行って、その後スイパラに行き、締めに二郎系ラーメンを食べに行くという私の完璧なデートプランを断ってまでここにい…bbs.animanch.com

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  • 2二次元好きの匿名さん22/05/09(月) 23:59:19

    キタ待ってた

  • 3二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:00:09

    アヤベルート

    『星の王子様』

     五月。
    『お姉ちゃん……、なんで―――』
    「っはぁ!」
    暗闇に声もなく絶叫して、ようやく悪夢から目が覚めた。
    「は……、は……、は……」
     気付けば飛び起きるようにして身を半分だけ起こしていた。荒ぶる息を整えていると、寝る前には確かに乾燥させたはずの布団がじっとりとした湿気を帯びていることがわかった。寝巻や下着に至ってはもっとひどい有様だ。わずかだけ生じた頭痛に額へ手をやると、頬も濡れている事が分かった。どうやら寝ている間に、落涙もしていたらしい。思いつくがまま枕に触れてみると、しっとりと濡れていた。その事実から判断するに、どうやら涙を流したのはつい先程の事だったようだ。
    「―――」
     暗闇の中でぼんやりと天井を見上げると圧迫感を覚えた。不意に感じた息苦しさに視線を移動させると、暗闇の中でも薄い光を放つ時計が目に飛び込んできた。3時41分。蛍光塗料の塗られた針の位置から察するに、どうやら今はまだ夜中の真っ最中であるらしい。
    「……」
     そのことを意識すると、急に寒気を覚えた。春先の夜はまだ冷えが強い。濡れたままの格好でいると、風邪をひいてしまうかもしれない。

  • 4二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:01:09

    「……そうね」
     ただでさえ続く悪夢のせいで体調がよろしくない最近、風邪をひいて動けなくなるという最悪の事態だけは避けなければならない。体調が悪い程度なら無理を押して誤魔化せばレースに参加できないこともないだろうが、流石に風邪をひいて咳をしているような状態では私たちのトレーナーもレースの参加に首を縦に振ってくれることはないだろう。
    「……はぁ」
     汗を吸ってぐっしょりの寝間着を変える為にすっかり居心地悪くなったベッドの上から起き上がると、掛布団を敷布団の上から剥いでベッドの隣の床に置いた。湿ってぺたんとした感触となってしまっている布団を少しでも乾燥させる為の処置だ。いつもなら布団乾燥機を動かしてさっさと乾燥させてふわふわに戻してしまうところだが、まだ夜中の現在、同居人が眠る隣で轟々と音を立てる布団乾燥機を動かすわけにもいかない。ので、応急的な処置だ。とはいえ、この程度の処置では着替えが終わるまでの間に布団がきちんとふわふわなるまで乾燥する事はあるまい。ふわふわの布団で眠ることが出来なくなった今、悪夢の疲れを多少回復してくれるほどの良質な睡眠はもはや期待できない。
    「……最悪ね」
    もしかしたら先程に見た悪夢以上の悪夢を見る事になるかもしれない予感を覚えて思わずそんな言葉を漏らしつつ、それでも最悪中の最悪を少しでも回避するために箪笥から新しい寝間着と下着を取り出すと今着ている寝間着のボタンに手をかけた。

  • 5二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:04:19

     日が出てすぐに朝練を開始した。
    「は……、は……、は……!」
     思った通り、春天を境に見るようなった悪夢が続いているせいで、体調は最悪だった。不眠が続いているせいで、体が重い。頭に靄がかかっているような感覚が常にある。走る事に全然集中できない。
    「は……、は……、っ、……っぁ、はぁ……、はぁ……!」
     いつもより呼吸の乱れるのが早い。左足に軋むような違和感が生じ始めている。さなか―――
    「っ……」
    突如左足首に鈍痛が走った。感じた痛みに思わず足を止めてしまった。
    「~~~っ!」
    「アヤベさん⁉」
     しゃがみこんで痛みの走った部分を抑えていると、後方を走っていたトプロが大きな声をあげながら近づいてきた。
    「だ、大丈夫ですか、アヤベさん! 足ですか⁉ 足を痛めたんですか⁉」
    「……平気よ。このくらい、たいしたことないわ―――、っ」
    「アヤベさんっ⁉」
     いいつつ立ち上がろうとするとよろめきかけて、トプロに体を支えられてしまう。
    「どこが大丈夫なんですか! 全然大丈夫じゃないじゃないですか!」
    「……うるさいわね」
     頭の中に響くその気遣いに満ちた優しい声がうっとおしくて、思わず呟いた。
    「大丈夫よ。ほっといてちょうだい」
     いうと、支えとなってくれている手を振りほどいて、多少強引に直立してみせた。
    「っ」
    「アヤベさんっ!」
     瞬間、生じた痛みに顔を顰めさせると、トプロが悲鳴のような叫び声をあげた。
    「……平気」
    「ど、どこがですか! アヤベさん! 足を痛めたのなら、今すぐ保健室へ―――」
     言いつつトプロは肩に手をまわしてくる。
    「平気といってるでしょう」
    「あ―――」
     その優しさと暖かさがひどく煩わしく感じられたのでその手を強引に振りほどくと、多少痛むのを我慢して左の爪先で地面を叩くとランニングを再開した。

  • 6二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:04:58

    「っ……!」
     左足首に鈍痛が走る。が、その痛みは我慢すれば走れない程のものではない。
    「は……、っ、は……、っ、は……、ぁ、っ、~~~っ、……っ、は―――」
     だから、走る。走り続ける。体調の悪さに加わって生じる足首の痛みが、走りのフォームを完全に崩してしまっていた。おかげで、息の乱れ方もどんどん酷くなってきている。けれどそれでも無理を押して、走る。だって私には―――
    「は……、っ、は……、っ、はぁ……、っ、ぁ、っ、はっ―――!」
    私にはもう時間が残されていないのだから―――
    「―――アヤベさん……」

  • 7二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:05:35

     放課後。夕日は沈み、誰もが練習を終えて帰路についていた。朝練の後に保健室で湿布と痛み止めをもらったおかげだろう、朝に覚えた左足首の痛みはすっかり失われている。
    「はっ……、はっ……、はっ……!」
     なので朝練で生じてしまった遅れを少しでも取り戻す為、もう少しだけ走る事とした。
    「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」
     宵も終わり太陽の残光が完全に消え失せた夜の空では多くの星々が瞬いていた。五月の夜空において最も目立つ星座といえば、勿論、五月の黄道十二星座である双子座だろう。
    「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」
     ポルックス。それは双子座という星座において最も明るい星の名前だ。全天二十一の一等星の一つであるその星の輝きを見ていると、もっともっと走らなければならないという気持ちが強く湧き上がってくる。
    「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」
     一方、ポルックスという星の近くには同じく双子座を構成する星の一つであるカストルという星がある。かつて、ポルックスに準じる明るさを放つその星をまるで自分のようだと思っていた時期があった。
    「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」
     双子の妹がいた。母親の胎内で私たちは双子だった。走ると、私の体の中で自分以外の誰かの喜ぶ感覚があった。自然とそれは妹なのだと理解出来るようになった。きっと私は妹のその命を喰らったからこそ、無事に生まれてくることが出来たのだ。生まれることの出来なかった妹だけれど、その魂は妹の命を喰らって生まれてきた私の体に宿っていて、私が走るたびに喜びの感情を生み出しているのはその妹なのだとわかるようになった。
    「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」
     ポルックスを見ているとその感覚は強くなった。だからきっとそれは妹の星で―――、双子座のもう一つの代表星であるカストルは私なのだとそう思っていた時期があった。

  • 8二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:06:26

    「はっ……、はっ……、はっ……!」
     けれど、今では違う。きっとそれは勘違いなのだろうと思うようになってきた。
    「はっ……、はっ……!」
     私はきっと冥王星なのだ。双子座のδ星であるワサト。そのすぐ近くで発見された準惑星。十五等星で、目視で見つける事は決して出来ないと言われている、目で見える星の4000分の一の明るさしか持たない、とてもとても薄暗い星。
    「はっ……、はっ……!」
     双子座のポルックスやカストルの持つ明るさにずっとずっと劣る星。かつては太陽系惑星の一つに数えられていながら、今では基準を満たさないと太陽系惑星の枠から外されてしまった星。死を司る冥王の名前を戴く星。それは本来生まれてくるはずだった妹の命を奪って生まれてきた私になんともぴったりの名前だ。
    「はっ……、はっ……!」
     悪夢を見るようになったのはきっとそのせいなのだろうと思う。本来ならその星に劣る恒星ですらない準惑星の屑星が双子の星であるかのよう振舞うものだから、妹は怒っているのだ。
    「はっ……、はっ……!」
     それが輝きを保てているなら―――優勝や入賞を出来ているなら我慢も出来たけれど、最近の私はそれすらも出来ていない。大阪杯以降の私は春天に至るまでの間、入賞すらも出来ていない。祈りを、輝きを届かせる事が出来ていない。だから私は―――
    「あっ―――」
     天と地が、逆転した。一瞬だけ視界が真っ白に染まった。
    「~~~っ」
     次の瞬間、鋭い痛みと鈍い痛みを同時に覚えた。歯を食いしばりながら目を開けると、目の前には地面があった。事実に、どうやら今の自分は地面にうつぶせの状態であるという事に気が付いた。
    「っ……」
     起き上がろうとした瞬間に走った痛みに、どうやら両腕をすりむいてしまっているらしいことに気付く。みれば闇のせいでわかりにくいが、多分、結構な広範囲から血が滲んでしまっている事だろう。
    「あつっ……」
     その痛みを我慢しつつ上半身を起こしてやると、遅れて左足首に鋭い痛みが走った。
    「~~~!」
     思わず左足を抱え込む。すると同時に頭の芯まで貫くような痛みが訪れて―――
    「おい、大丈夫か!」
    「―――」
    さなかに聞こえてきた大きな声の刺激がとどめとなったのだろう、私は思わず意識を手放していた。

  • 9二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:07:37

    「―――」
     目を開けると見知らぬ天井があった。部屋の中には月明かりが差し込んでいて、真っ白で清潔な天井をほのかに明るく照らしていた。
    「ここは……―――、っ」
     半分だけ身を起こして辺りを見渡そうとすると、腕に軽く鈍い痛みが走った。
    「……包帯?」
     反射的に目線を落とすと、両腕に白い包帯が巻き付けられている事に気付いて―――
    「……保健室?」
    呟く。次いで見渡せば、自分が横たわっている見知らぬベッドの前と左右の三方が白いカーテンに覆われていて、自分の予測が正しいのだろう事を直感した。
    「……っ」
     無言のまま起き上がろうとすると、左足に鈍痛が走った。痛みに耐えつつ、庇いつつ、寝そべっていたベッドの横に置かれていた私の靴を履き、カーテンを開く。すると―――
    「……北原さん?」
     目の前、月明かりが照らす薄暗闇の中、いつもなら保健室の校医さんが座っている椅子に、頭を伏せて、腕を組んで、見覚えのあるハンチング帽を被っている人の姿を見つけ、ほとんど反射的に呟いた。
    「―――んん? ……あぁ、気付いたか」
     するとそれが目覚まし代わりとなったらしくその人は目を覚まし―――、聞こえてきたその声に、反射的に呟いたその名が正しいものであったことを悟る。
    「どうして―――」
    「そりゃこっちのセリフだ」
     聞くとそんな言葉が返ってきた。
    「まったく、ビビったぞ。見かけた途端にぶっ倒れて、起きたと思ったら足を抱えて、声を掛けたら突然気絶して―――」
    「それは……」
    「幸い、腕の方は表面をすりむいてるだけだそうだ。で、足の方だが―――」
     言葉に、胸が高鳴る。心の奥底からワッと不安な気持ちが湧き出てきて、一気に鼓動が早くなった。思わず、腰を掛けているベッドのシーツをぎゅっと握り締めてしまった。
    「―――」
     北原さんは一瞬言いためらう。その際に北原さんが浮かべた表情は、浮かないものだった。見た瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡った。
    「極軽度の捻挫。安静にして動かさなければ三、四日で治るが、一応様子を見て一週間から二週間は動かすな、だそうだ」
    「そんな……!」
     言葉に、たださえ薄暗かった視界が真っ黒く染まったよう感じた。

  • 10二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:09:21

    「私は―――」
    「先生、だいぶ怒ってたぞ。朝方にも同じことを言って処置して返したはずなのに、全く反省してないって」
    「……」
     聞こえてくる言葉が遠い。目の前が暗い。二週間。全く動けない。その言葉が頭の中でぐるぐるぐるぐると巡り続けていて、酷く気持ちが悪い。
    『おねぇちゃん……』
    「……っ!」
     すると目の前に広がった暗闇を自らの領域と判断して夢の中から這い出てきたかのよう心に響いた声に、一気に頭も体も冷えてゆく感覚を覚えた。
    『走れないなら、その体―――』
    「……」
     悪夢の音が聞こえる。白昼夢となり襲い掛かってくる、その、頭を抱えて耳を塞いでも体の内側からひたひたと忍び寄るよう聞こえてくる絶望の音色に、全身が凍り付いてしまいそうな寒気を覚えた。
    『私に返してよ―――』
    「おい、アヤベ?」
    「……っ」
     その時、悪夢と絶望の音色を打ち破って聞こえてきた声に、酷く安堵の想いを抱いた。見ればここは月明かりに照らされている保健室の中で、目の前には起きた時に見たそれと変わらない薄暗闇が広がっているだけだった。その事実に現実と夢の境界が薄れたという感覚を味わい僅かな恐怖を覚えるも、一方でここがまだ現実であるという事に安堵の想いを覚え、更にはそんな安堵の想いを抱いてしまったという自らに嫌悪の想いを抱いた。
    「お、おい、大丈夫か?」
    「……平気」
     いつかその日がやってくるかもと考えていた。その日が来たのなら明け渡そうと覚悟をしていたつもりだった。けれどもその覚悟は、やわでちゃちで、まるで固まっていないものだった。声を聞いただけで、姿を見ただけで、砕け散ってしまう程度のものだった。
    「ここに運んでくれたのは北原さん……、でいいのよね?」
     まったくなんという脆弱さだ。相も変わらずアドマイヤベガという存在は大言を吐くわりに、吐いたそれをキチンと成し遂げる事が出来ないと来ている。
    「あ、あぁ。そうだが―――」
    「そう。……ありがとう。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
     それで無理をして成果を出そうとして、その結果に成果を出すどころか求めていた成果が遠ざかるというのだから、愚かというか無様で滑稽としか言いようがない。
    「いや……、それは別に構わないんだが……」
    「それじゃ、失礼するわ」
     現状と焦燥感を誤魔化すよう早口で言い、立ち去る為に立ち上がり踵を返そうとして―――

  • 11二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:10:20

    「っ!」
    「お、おい!」
    思わず左足を起点に動かしてしまい、しゃがみこむ。
    「~~~」
    「馬鹿! さっき動かすなといったばかりだろう!」
     目元が涙で滲んだ。ぐうの音も出す事が出来なかった。先程までとはまるで異なる鋭い痛みに、負け惜しみの言葉の一つも出す事が出来ない状態に追い込まれてしまっていた。
    「あぁ、もう、全く―――」
    「あ―――」
     必死で痛みと流れ出そうになる涙をこらえていると、声がして浮遊感を得た。気付けば私の体は北原さんの腕の中にあって、所謂お姫様抱っこという格好をさせられていた。
    「ちょ、ちょっと―――」
     瞬間、先程まで心を占めていた鬱屈の気分は吹き飛んで。
    「寮までは送っていく」
    「おろして―――」
    「いいからそこの校医さんが用意してくれた松葉杖とそこの自分の鞄を持ってろ」
     気恥ずかしさに必死で抵抗しようとするも、有無を言わさず松葉杖のそばまで連れていかれて。
    「だから―――」
    「おろすったってお前、もう校内にゃ誰もいない。いるとしても警備員くらいのものだ。みんな既に帰宅済みの中、足を動かしちゃならんお前はどうやって帰るつもりだ?」
    「それは―――」
     再び言葉を出せなくなった。
    「……松葉杖を使えば―――」
     そして目の前にあるそれを見て、ようやくそんな言葉を絞り出せはしたけれど―――
    「使った事あるのか? 寮まで今ので更に悪化しただろう足を痛めずに帰れるのか?」
    「……」
    そして絞り出した言葉はあっという間に打ち砕かれてしまって―――
    「わかったならさっさと掴め。そして、なるべくこっちに体重を預けてろ」
    「……わかったわよ」
    あらゆる抵抗は無意味に終わってしまう事を悟らされ、私は渋々ながらその提案に従う事とした。

  • 12二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:12:02

     夜。天空には紫紺の闇が広がっていた。本来なら夜空に多くあるはずの星はその大部分が府中の町に並ぶ建物の放つ光によってかき消され、輝度の高い星々しか見えなくなっていた。
    「……ねぇ」
    「なんだ」
     門限を過ぎた時間に夜空を彩る星々の下を歩くというのは何度もやってきたことがあるけれど、そんな時間帯に男の人の腕に抱かれて運ばれるというのは初めての経験だ。
    「……重くない?」
    「別に」
     我ながらなんとも無意味で馬鹿な質問をしたと思う。歯車が何もかも狂ってしまっているせいだろうと思う。思い通りにいかない現実に、思いがけない壁とぶち当たってしまった現実に、思いがけない出来事が続く現実に、この体を動かす歯車の何もかもが狂ってしまっているのだ。
    「……」
    「……」
     会話が途切れる。空気が重い。夜の府中の町には車と電車の走る音ばかりが響いている。男の腕に抱えられて運ばれるという経験が初めてであるせいか、体と体の触れあっている部分をひどく意識してしまう。顔が火照ってくる。短いはずの寮までの道のりを永遠のように感じられてしまう。恥ずかしい。申し訳ない。そう思いながら私をそのような気持ちにさせている相手―――北原さんの顔を見ると、北原さんはその事をまるで気にした風でないのだから、悔しいやら、苛立たしいやら、不公平感が湧き上がってきて、それが居心地の悪さへと変換されてゆく。
    「―――」
     思わず視線を逸らすと遠くの夜空が見えた。府中の町の初夏の夜空はやはり地方で見るよりも見える星の数がずっと少なくなっている。初夏のこの時期だと、春の星座である春の大三角やしし座やおとめ座よりも、夏の星座である夏の大三角形や白鳥座やこと座やさそり座の方がよく目立つ。或いは北天であるカシオペア座や北斗七星、北極星といった星々が今の時期にはよく見る事の出来る星といえるだろう。
    「……北原さんって」
    「ん?」
    「北極星みたいな人ね」
    「……は?」
     思い付きを口にすると、北原さんの足が止まった。
    「なんだそりゃ。んなこと初めて言われたぞ」
    「でしょうね。私もこんなこと初めて人に言ったもの」
     戸惑う北原さんの態度にわずかだけ胸のすく思いを覚えつつ、突拍子もないアイデアを語る為、口を開く。
    「本人は大した光を放たないけどいつでも多くの眩い星に囲まれていて、多くに智慧を与えている」
    ―――まるで冥王星の私とは大違い

  • 13二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:13:07

    「……乏されてんのか、褒められてんのか」
     最後に小さくつぶやいた言葉は少しの間考えるそぶりをしていた北原さんの耳に届かなかったらしくて、少しだけ安堵の想いが湧き上がってくる。
    「あなたにはどっちに聞こえた?」
    「言った通りだよ。……なぁ、お前さん、今日はなんだか雰囲気違わねぇか」
    「……そうね」
     言うと返ってきた言葉に、その通りだと思う。いつもの私なら、こんな風に他人の事を乏したり褒めたりするようなことは―――、そう、他人と深くかかわり合いになるような言葉は言わないはずだ。なら、その違いは多分―――
    「多分、八つ当たりなんでしょうね」
    「八つ当たり?」
    「……二週間動けないってことに対しての」
     言った瞬間、胸に苛立ちと焦燥の想いがある事を自覚した。それは、マヌケな自分に対する怒りであり、起こってしまった現実を受け入れ難く思う気持ちであり、走れない事に対する焦りであり―――多分はそれに関連した想いの混合物なのだろう。
    「……そうか」
    「えぇ」
     そう告げると北原さんは言葉を切って再び歩き始めた。静寂の時はしばらくの間続き、それからさして時間も経たぬうちに寮の入り口が近づいてきた。
    「なんにせよ―――」
    「……?」
    「無理するなよ。無茶なトレーニングは自分の為にならない」
    「別に。自分の為じゃないもの」
     自分の為、という言葉を聞いて、反射的に言ってしまった。そしてまた同時、私が走る理由を―――、妹の事を―――、祈りを思い出した私は―――
    「自分の為じゃない? それってどういう」
    「……ねぇ」
    「ん?」
    「アドバイス」
    「アドバイス?」
    「また、貰ってもいいかしら」
     言いつつ、抱かれた腕の中、がちがちにテーピングされた左足をぶらつかせる。
    「このざまでも無理なく出来るトレーニングとか、次の大会に向けて出来る事とか―――そういうのを教えてもらえると嬉しいわ」
     言うと北原さんは苦笑して―――
    「いいけどさ。そういうのってのは普通、自分のトレーナーに聞かないか? 俺、オグリのトレーナーだぞ?」
    「いいでしょ、別に。以前だって教えてくれたんだから。それにあの人は今、新人研修の先生役で忙しい。だからこそ今日はあなたが付きっきりで見てくれてたんでしょう?」
    「……そうだけどよ」

  • 14二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:13:59

    「じゃ、よろしく」
    寮の前の門が見えてきたので、会話を途切れさせて降りる準備をしようとすると―――
    「あ、そうだ」
     不意に、北原さんが声をあげた。
    「……なに?」
    「さっきさ。アヤベ、俺が北極星とかなんとかいってただろ?」
    「……えぇ。で?」
    「だとしたら、アヤベもそのうち俺と同じになると思うぞ」
    「……私が? どうして」
    「だってお前、アドマイヤ『ベガ』だろ」
    「―――」
     言葉に、北原さんが言わんとしている事を理解して、思考が停止した。
    「確か北極星ってのは、時代ごとに変わるんだろ? 記憶が正しけりゃ、今の時代こそ、こぐま座のアルファ星が北極星だが―――、あと一万二千年もすりゃ『ベガ』が北極星に―――天の中心になる。……だろ?」
     そして予想通りの答えを、予想もしていなかったタイミングで、予想もしていない人の口から聞かされた時―――
    「……お、おい、アヤベ? どうした、急に」
    「……え?」
    「今、俺、何か不快になること言ったか?」
     慌てた様子の北原さんの視線が自分の顔に向けられているに気付いたので頬に手を当てると、自分が落涙している事に気付いた。
    「その、悪いな。どうもこれだけ年が離れてると、気付かないうち気に障る事を―――」
    「違う!」
    「―――」
    「違うの……」
     その事実に気付くと同時、胸からはこれまで感じた事もない暖かさが満ちてきて、そして生じた暖かさはあっという間に全身に広がっていって―――
    「ごめんなさい……、これは違うの……」
    そして体中に広がった暖かさにはどうしようもなく抗えない―――体中の疲労が溶け出してゆくような感じがあって、しばらくの間私は、夜空の下で北原さんの胸の中に抱かれ、その暖かさとその暖かさがもたらす刺激に身を任せて、静かに落涙し続けていた。

  • 15二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:14:53

    取り急ぎアヤベさんルートの起なんだ
    ここまでがお付き合いありがとうなんだ
    次回も読んでくれると嬉しいんだ

  • 16二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 00:38:19

    すげぇや...

  • 17二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 01:56:13

    続ききてた!期待!

  • 18二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 09:30:48

    まつよいつまでも

  • 19二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 10:51:37

    (ヤッベ、アヤベルートが一番好きになりそう)

  • 20二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 20:42:54

    保守

  • 21二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:30:41

    次の日。
    「―――」
     目を覚ました時、日の光が部屋を照らしている光景を見て、驚いた。快眠だった。春天以来ずっと見続けてきた悪夢を見なかったのは久しぶりだ。視線を横にやっても同居人の姿がないというのも、珍しい光景だった。同居人が起きるのは大抵日が出てから後の事であり、一方で私は日の出前には起きて朝練に出かけているからだ。
     無言のままベッドから半身を起こす。昨晩は帰宅が遅かったため、布団を布団乾燥機にかける事が出来なかった。だというのにいつも以上の快眠をとれた気分だという事実に、首を捻る。まるで夢みたい―――
    「……っ」
    けれど反射的にそのままベッドから出ていこうとして覚えた左足首の痛みに、これが現実であるという事を強く自覚させられる。覚えた痛みに多少の苛立ちを覚えさせられるも、そんな苛立ちすらすぐさま霧散せしめてしまう程の気分の良い状態であるという事実に、やはり驚きを隠すことが出来なかった。
    「……まぁ、いいわ」
     ともあれ不調でない事に文句はない。惜しむらくは足の怪我があるという点にのみだ。これで足も万全であるのならば何も言う事はなかったのだが、贅沢は言うまい。
    「……ふぅ」
     息と吐きつつ左足を動かさないまま体の位置を動かすと、ベッドの上へ腰かける姿勢をとった。するとベッドの上から突き出した足が日の光を浴びているという事実に気付き、思わずそれの行方を追った。窓の外を眺めるとグラウンドで朝練を始めている学生の姿が飛び込んできた。いつもならあそこにいる誰よりも早く練習を始めているはずの自分が、けれど今こうして寮のベッドの上でダラダラしているという事実を少し可笑しく感じた。

  • 22二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:31:16

    「……」
     けれど彼女たちの練習の光景を眺めていると自分は二週間も動けないのだという事実を思い出してしまい、愉快の気分はあっという間に鬱屈のそれへと変化した。逃げるように視線を上へ移動させると、グラウンドを燦燦と照り付ける太陽の姿が飛び込んできた。
    「―――」
     燦然と輝く太陽が世界の全てを嬉々として照らしていた。あまりにも眩すぎるその光景から思わず目を逸らしてしまったのは、今まで自分が闇の中で多くを過ごしてきたという証なのだろう。思えば今のよう空へと目をやるのは、いつも太陽が地平の向こうへ沈んでからの事だった。夜空の星ばかりを眺めて過ごしてきた自分にとっては、白く燦然と輝く太陽の光は眩すぎるという事なのだろう。
    「……あ―――」
     その事実から目を逸らすよう視線を再び地面の方へ向けると、推察は正しいと告げるかのよう、グラウンドを走るトプロたちの姿を見つけた。視線の先ではトプロとオペラオーとドトウがオグリさんと北原さんを交えて合同練習を行っている。
    「……」
     星が一つ欠けているというのにそれをありふれた日常の光景であるように思えるのは、それこそが彼らにとって本来あるべき正しい姿だからなのだろうと思う。卑屈ではなく、本当にそう思う。だって目の前にある光景、私という異物が混じっていないその光景は、あまりに美しく希望に満ち溢れている。
    「……馬鹿ね」
     湧き出てくる胸を突く羨望の想いに我が身を押しつぶされるよりも前に、ベッドの横へ立てかけてあった松葉杖を支えにして立ち上がった。今日から二週間の相棒となるそれはまだ夜気の影響が抜け切れていないらしく多少ひんやりとしていたが、その冷たさが今のこの身にはまるで夜の中にいるようで心地良かった。
    「……」
     慣れぬ手つきと所作で身支度を整えると、たった二週間の付き合いだろう相棒を支えに部屋からのろのろと出発する。もう誰もいないだろう寮の中、鍵を閉める音だけがやけに大きく空っぽの空間に残響した。

  • 23二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:32:15

    「……ねぇ、北原さん。これはいったいどういうことなの?」
     放課後。不機嫌を隠そうともせずに尋ねると、北原さんは意地の悪い笑みを浮かべつつ口を開いた。
    「なにってつまりは―――」
    「今日は!」
    「み、みんなで……」
    「遊びましょう!」
    「と、いうことなんだ」
    「―――です!」
     教室の中にはいつものメンバー三人と、いつものメンバーではない三人の姿があった。並ぶ私たちのチームのメンツであるオペラオー、ドトウ、トプロはにこにことしていて、一方で北原さんチームの所属であるオグリさんとベルノさんはいつもと同じ仏頂面と少し困ったような笑みを浮かべていた。
    「面倒見てやるっていったろ?」
    「……あのね。私はアドバイスが欲しいとは言ったけれど、別にそれ以外は―――」
    「どうせ三、四日は絶対安静にしなきゃならないんだ。が、アヤベの場合、全く動かないでいると、どうせ余計な事を考えだすだろう?」
    「……」
     図星すぎる指摘に、ぐぅの音も出せなかった。
    「余計な事を考えて気分が鬱々としてくると治りも悪くなりがちだ。体の不調は心に直結するし逆もまたしかりだ。なので気晴らしに余計な事を考える暇もないくらいの―――、遊びでもさせればいいかとは思ったんだが、流石に君の年頃が好む遊びにはまったく心当たりがないんでな。そこで、それを知ってそうな奴らに相談した結果―――」
    「そう!」
    「私たちが!」
    「お手伝いする事になったのですぅ~!」
     北原さんの言葉を引き継いで、オペラオーとトプロとドトウが興奮気味に言う。溜息をつく一方で、全く発言しない北原さんのチームの二人に視線を移動させると―――
    「今日はオペラオーたちがトレーニングをやめて遊びに行くという話になったからな」
    「せっかくなので私たちもついていこうかなー、と」
    オグリさんとベルノさんは言った。
    「……あのね」
    「精神の疲労を取るのも精神修養―――トレーニングのうちだ。いいから行くぞ」
    「……わかったわよ」
     額に手を当てて文句を言おうとすると、トレーニングといわれて文句を言えなくなる。
    「その代わり、この精神修養とやらが終わったら、必ず勝つ案を教えなさい」
    「わかってる、わかってる」
     深い溜息を吐く。どうやら今日から四日間は思いがけず騒がしい日々になりそうだ。

  • 24二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:32:50

     六月後半。
    「さぁ、始まりました、宝塚。まず先頭を行きますは―――」
    『いいか。アヤベのここ一か月のレースを見てきたが―――、アヤベは勝ち急いで自分の必勝パターンを崩して負けているようみえる』
     軽度の捻挫を追って以降、一週間を安静に―――遊んで過ごしたのち、残りの一週間をリハビリと自分の走りの見返しといつでも心を落ち着ける練習に費やして過ごしてきた。
    「やはりG1優勝経験のあるウマ娘には厚いマークが付けられております。覇王テイエムオペラオーは勿論の事、同じく宝塚優勝バであるオグリキャップにも、菊花優勝バであるナリタトップロードにも、春天優勝バであるメイショウドトウにも、大阪杯優勝バであるアドマイヤベガにも、それぞれ二、三のウマ娘が張り付いている!」
    『アヤベの武器は末脚だ。基本は後方に属し、ラスト近くにおいて一気に駆け抜け、他のウマ娘をごぼう抜きにする。前にも言ったが、それがアヤベの脚に一番あった戦い方だ』
     映像で自分の走りを見返した結果、成程、確かに走りが荒くなっているのがわかった。
    「さぁ第二コーナーを回り、先頭、中団、後方のポジションに五つの塊が出来上がった。マークのきつい五バは動きを見せない。レースは不気味な静けさを保ったまま中盤戦へと突入してゆく!」
    『この戦い方において最も重要となるのは観察力と冷静さだ。勿論体力と脚力があった方がいいのは当然だが―――、それ以上に、今の自分の状態と前の集団の様子を常に冷静に観察し続ける力が重要となる』
     勝ちたい。勝たなければならない。その想いのせいだろう走行フォームも崩れている。
    「おっと、だが動きがあった。後方、アドマイヤベガに張り付いていた二バが、マークを止めて、先頭集団の方へと駆け上がっていく!」
    『大阪杯でのアヤベはうちのオグリも君のチームの三人もそうしてぶち抜いて、勝った。だが、それ以降のアヤベは、それが出来ていない状態だ』
     大阪杯のそれと比べて、以降の自分の走行フォームは、走り方は、ぐちゃぐちゃだ。

  • 25二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:33:23

    「精彩を欠いているよう見えるアドマイヤよりもオペラオーやオグリをマークするべきと睨んだのか。アドマイヤにマークしていた二バが駆け上がり先頭二バへ近づいてゆく!」
    『おそらくだが、G1で優勝したことでマークが厳しくなった結果、冷静さを保つことが難しくなったからだろう。マークがついている状態というのは、それだけで多くの体力を消費させられるし―――、体力が減ればそれだけ冷静さを保つ力も減るからな』
     勝ちに目がくらんでコース取りが出鱈目になっている。速度を一定に保つことが出来ていない。手の振りも足の振りも一定じゃない。何もかもが滅茶苦茶で、あまりに無様だ。
    「だがここで覇王が仕掛けた! オペラオー、いつものようにするりと囲いを抜け出し、駆け上がって一気に先頭へと躍り出た!」
    『勝ちに貪欲なのは悪い事じゃないが、だからといって自分の王道の必勝パターンを崩しては元も子もない。なのでアヤベの課題は体力や脚力を向上させるよりもまずはそこだ。何があろうとも最後まで冷静さを保ち、仕掛けるべきポイントでしっかりと仕掛けられるようにする事だ。だから―――』
     こんな走り、捧げられたところで、捧げられた方もたまったものではないだろう。
    「続いてオグリキャップも、大外から強引に抜き去ってオペラオーを猛追だ! おっと、ナリタトップロード―――メイショウドトウもです! ここが勝負どころと呼んだのか、二バに続いてG1優勝バである二バが一気に先頭へ勝負を仕掛けに行く!」
    『いったん勝ちを第一目標にすることを止めろ。焦りも逸りも、禁物だ。冷静さを保ち、現状をきちんと把握し、仕掛けるべきポイントできちんと仕掛ることが出来たその結果に勝ちがついてくると思え』
     妹が怒るのも当然だ。勝利を捧げられなくて、当然だ。

  • 26二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:33:57

    「さぁ、第三コーナーを曲がって勝負は―――、っと、これは―――、アドマイヤベガ! アドマイヤベガです! ここまで後方を走り続けてきたアドマイヤベガ、最後のカーブで一気に勝負を仕掛けてきた!」
    『病み上がり、足首に不安を抱えたままでどこまでいけるかは正直不明だが―――』
     悪夢は続いている。不眠がちで体調はあまり芳しくない。治ったばかりの足首の状態も気になる。加えて、左脚に更なる違和感を覚えるようになっている。―――それでも。
    「大外を駆け抜けて、アドマイヤベガ猛追! ですが、先頭を行くトップロードも早い! オグリキャップ、テイエムオペラオー、メイショウドトウもトップロードを追従する!」
    『それでも、現状を受け入れ、最善を尽くすことが出来るのなら―――』
     その現状を受け入れる。その上で出来る最善を尽くす。あの子に恥ずかしくない走りをしてみせる。顔向けできる走りをしてみせる。そうすれば―――
    「っ!」
    「どうだ! これは! 並んだ! 並んだぞ! これは⁉」
    『少なくとも、今までよりはいい結果が出ると俺は思うぞ』
    「一着オグリキャップ! 二着ナリタトップロード! そして三着にアドマイヤベガ! 激闘の宝塚! 一着オグリキャップ、二着ナリタトップロード、三着にアドマイヤベガでオグリキャップ、見事に宝塚を二連覇してみせました!」

  • 27二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:34:51

    ―――負けた……
     満を持して―――というには満身創痍の体調で挑んだ宝塚、入賞こそ出来はすれ優勝を勝ち取ることが出来なかった。―――でも。
    「……あぁ―――」
     胸が熱い。体が熱い。体と心の奥底で自分じゃない別の誰かが喜んでいる感覚がある。それがとてもうれしい。大阪杯以降感じる事が出来ずにいた感覚を味わえたという事実に気持ちが少し楽になる。
    「アヤベさん!」
    「……トプロ」
     空を見て荒い呼吸を抑えようともせず繰り返していると聞こえてきた声に、振り向く。
    「その、すごく、すごいすごかったです! あの、なんというか、その、ほらあれです! とても病み上がりの走りとは思えない走りでした!」
    「……二着のあなたにそれを言われると、少し複雑な気分なんだけどね」
    「ハーッハッハッハ、謙遜する事はないぞ、アヤベさん!」
    「そ、そうです……、お見事でしたぁ」
    「あなたたち……」
     声に振り向くと、オペラオーとドトウの姿がそこにはあった。
    「万全の状態のボクとドドウを抑えての、三着! オグリさんとトップロードさんにこそ叶わなかったとはいえ、実に見事な結果だよ、アヤベさん!」
    「私、ちょっと自信なくしちゃいます……、あ、いえ、元々なくすほど自信を持ってないのですが……」
     いつもの大業な仕草で拍手をするオペラオーといつも通りおどおどした様子のドトウの喋りに、性格の悪い事に、勝ったのだという実感が少しだけ湧き上がってきて―――
    「アヤベ」
    「……オグリさん」
     けれどそのわずかばかりの優越感は、一瞬のうちに霧散させられてしまった。
    「すごい走りだった」
    「……」
    「病み上がりと知っていたが、それでも追い付かれるかと思って、必死にさせられた」
    「……」
    「次は万全の状態でやろう」
    「……!」
     オグリさんはそれだけ言うと、さっさと立ち去って、北原さんの下へ行ってしまった。

  • 28二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:35:22

    「ほ、ほら、滅多に人を褒めないオグリさんもああいってますよ!」
     何故だかトプロが騒ぎ立てる。その騒々しい声を聞く一方で私は―――
    ―――悔しい……!
    体の中が煮えたぎっているかのように熱くなっていた。今の私に出来る最善を尽くした。だからこそ、不眠、左足首の不調、左脚の違和感がある中でも三着を取ることが出来た。それは北原さんにアドバイスをもらう以前の私であったのなら、不可能な結果のはずだ。それは間違いない。それはきっと事実だ。だからこの三着は、ある意味で今の私に出来る一着に等しい三着であるはずなのに―――
    「……っ」
    ひどく悔しい。全然満足出来ていない。先程に感じたはずの嬉しい気持ちは一瞬のうちに吹き飛んでしまっていた。そして生まれた胸の空白には別の滾る熱が生じるようになっていって―――
    「……次は―――」
    「はい?」
    「次は、負けないわ」
    「―――はい!」
    胸の内に留めておくことが出来なかったその熱を用いて感じている想いをそのまま言葉にすると、丁度目の前にいたトプロがとても明るくいい笑顔で頷いた。

  • 29二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:36:21

     七月。
    『捧げよ―――』
     悪夢は続いている。
    『テンのオウに、……を捧げよ―――』
     悪夢の中の私は白い服を着ている。悪夢の中で白い服の参列者に囲まれた白服の私は、小さな通路を通って静々と歩いてゆく。暫く続いた通路はやがて眩い光が生じると同時に空間が一気に開ける。
    『テンのオウに、乙女を捧げよ―――』
     開けた空間の中央には、白く細い体の誰かがいる。髑髏が服を纏っていればこんな風になるだろうなという細身の姿が誰なのかはわからないけれど、私にはそれがテンのオウというやつなのだとわかった。
    『乙女を、捧げよ―――』
     生温い風が吹いていた。鼻を突くカビ臭い匂いを覚えた。さなかにも靄に包まれたかのよう全容がはっきりと見えない白服のそいつが近づいてくる。直感的に、白服である私は今からこのテンのオウ―――多分は冥界の王に捧げられる生贄なのだろうと理解した。
    『捧げよ―――』
     なるほど、冥王星の私にはぴったりの伴侶のそいつは徐々に近づいてくる。距離が縮むごとに、恐怖によってだろう、胸が高鳴る。唐突に肌寒さを覚えて、鼓動が際限なく速まってゆく。そして私の目の前までやってきたそいつは、私の顎に手を当てて―――

  • 30二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:36:49

    「……っ!」
     目が覚めた。黒一色の光景が目の前にあった。何度か瞬きして、ようやく目の前にある自室の天井が認識出来るようになった。
    「……」
     いつものように半身だけ起こすと、もはや悪夢で汗をびっしょりと掻く事が習慣化してしまったため枕元に用意しておくようなったタオルで、露わとなっている部分だけの汗を拭ってゆく。
    「……ふぅ」
     ようやく最低限の人心地になれたので改めて部屋を見渡すと、同居人側の窓のカーテンがゆらりと翻り、天井にあるクーラーが轟々と音を立てて稼働している状況を把握した。そしてまた、真夜中だというのに同居人の姿がベッドにないという状況を見て、起こったことを大凡に理解する。おそらく同居人が夏の暑さに負けてクーラーを稼働させ、けれど約半年間も稼働させていなかったクーラーは手入れが怠られていたためその内部でカビが繁殖しており、故に稼働と同時に冷気と共にカビの匂いをまき散らすようになり、匂いをどうにかしようとした同居人は窓を開け、けれども早々にはそれでも対処しきれなかったので部屋の外へと逃げ出した、といったところなのだろう。

  • 31二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:37:45

    「……はぁ」
     溜息をつきつつクーラーの電源を切ると、私の側にある窓も開けた。途端に生温い風が入り込んできて、カビ臭さを薄れさせていってくれた。
    「馬鹿らしい……」
     今日の悪夢はやけにリアリティがあると思っていたらこういう事だったのか。わかってしまったからくりを改めて馬鹿らしいと思い直しつつ、七月の生温い風が吹き込んでくる窓の外へ視線を送った。
    「テンの、オウ……」
     天に瞬く明るい星々、その全てを統べるかのよう夜空の中央に座している満月を見て、悪夢の中で出てきた言葉を思い出した。
    「……天皇賞―――、っ!」
     思いついた言葉を呟くと遅れて左脚に痛みが走った。
    「……そう。……そうなのね―――」
     痛みに、夜空を俯瞰しながら認識する。きっと―――
    「天皇賞秋。それが私の最期の走りになるのね……」
    湿度の高い呟きは、獰猛な闇に喰らいつかれたかのよう、瞬間的に消え失せていった。

  • 32二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:39:45

    感想と保守ありがとうなんだ
    取りあえず承までなんだ
    相変わらず即興なので誤字脱字があると思うけれどその辺は許してほしいんだ
    次も読んでくれるとありがたいんだ

  • 33二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 21:40:24

    ありがとうございます!! 今回もとても面白かったです!!

  • 34二次元好きの匿名さん22/05/10(火) 22:23:05

    ドドウのルートとはまた雰囲気が異なるルートだぁ…!

  • 35二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 07:08:55

     七月、同日。夏の夕空は薔薇色の光に彩られていた。あと少し時間が経てば夜が来て、この焦がすような強烈な光の煌めきは一瞬の間だけ空を血の色に染めたのち、消え失せてゆく事だろう。一日のうち一瞬だけ訪れる夕方のこの瞬間は、正直あまり好きではない。血の色に染まった空の下、黄昏色の光によって影が伸ばされて世界を黒く呑み込んでゆくさまを見ていると、夜に見る漆黒の悪夢を思い出させられてしまうから。夜は好きだが、漆黒は好きでない。夜はやはり月と星の優しい光に塗りたくられている方が好ましいと、心の底から思う。
    「……北原さん。ちょっといいかしら」
    「お―――アヤベか。いいぞ、なんだ」
     考え事をしつつ辿り着いた部室横にある個別トレーナー室の扉を開けて話しかけると、何の迷いもなく承諾の返事がきた。その事をありがたく思いつつも、別のチームであるというのにもはやお馴染みとなってしまっている事実に苦笑もしつつ、トレーナー室の中へ足を踏み入れて扉を閉めると、お目当ての人物目掛けて再び口を開いた。
    「実はまた相談したいことがあって―――」
     言ったのち、可能な限り要点を絞って、聞きたいことを述べた。
    「つまり、調子を上げる為のアドバイスが欲しいってわけだな?」
    「ええ」
     言うと、最近のトレーニング内容や食事、睡眠の記録が書かれている紙を差し出した。
    「いいけどよ。前にもいった気がするが―――、普通こういうのは、先に自分のところのトレーナーに相談するもんじゃねぇか?」
    「……したわよ。ただ―――」
    「ただ?」
    「……欲しい答えが返ってこなかった」
    「ふーん?」
     言いつつ北原さんは渡した資料に目を通し、そして目を通し終えた北原さんは―――
    「いやどう見ても不眠が不良の原因だろ」
    分かりきっている当然のことを当然のように言った。
    「そうね。私たちのトレーナーもそういってたわ」
    「そりゃそうだ。で、なんだ。わかってるならなんで解消しようとしねぇんだ」
    「それは……」
     言い淀む。原因ははっきりしているのだ。ここ二か月以上も悪夢が続いているせいで、まともに眠れていない。あの悪夢を見ないで済むというなら、この不眠の問題はすぐさま解決するのだ。けれど、あの悪夢を見ないですむ方法がまったくわからないから、それを―――妹の話を誰かに言うことをしたくないから、その問題は解消出来ない問題になってしまっているのだ。

  • 36二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 07:09:57

    「……成程。わかったよ」
    「……え?」
     けれど、無言を保っていたはずなのに、そんな言葉が返ってきて驚かされた。
    「まってろ。とりあえず、片すもん片付けちまうから」
     言って北原さんは机に向かい直すと、凄まじい勢いで机の上の書類に記入を始めた。
    「……何がわかったの?」
     言動に疑問を覚えて、思わず尋ねる。
    「不眠の原因についちゃ何もわかんねぇってことがわかった。で、実のところお前さんはそれについての心当たりがきちんとあって、けれどそれをしゃべりたがってないってこともわかった」
    「―――」
     返ってきた言葉に、閉口させられた。
    「どうして―――」
     どうしてそれがわかったのか。どうしてわかったのになにも聞きだそうとしないのか。おそらくはいろいろな意味が込められた意味の『どうして』を思わず口にして―――
    「……ま、長く生きてるとわかるようになってくるもんだ。そういう聞かれたくないことがあるって空気はな」
    「―――」
    返ってきた言葉に、再び閉口させられる。
    「とりあえず書類整理が終わるまでそこの仮眠ベッドで横んなってろ。眠れないにしろ、目を瞑って横になってるだけで多少は体力が回復する」
     北原さんは振り向く事もなく手を動かすと、握っていたペンの先でベッドを示した。
    「え、えぇ……」
     驚きからか素直にベッドへ向かった。仮眠室にあるベッドの布団は予想通り、ペタンとしているものだった。干したりしていない事がまるわかりだ。正直この布団に横になったところで体や心が休まる気はまるでしなかったが、それでも一応支持された通り寝転ぶと―――
    「……ぁ」
    わずかな埃の匂いと独特の心休まる匂いがして―――
    「―――」
    意識はあっという間に闇の中へと落ち込んでいった。

  • 37二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 07:10:39

    『お姉ちゃん!』
     夢を見た。とてもとても、優しい夢を。
    『×××××××……』
     それが夢だとわかったのは、あの子が―――妹が、優しい顔と声で私に話しかけてきてくれていたからだ。私が走りを奪ってしまったあの子が、走りどころか命すらをも奪ってしまったあの子が、そのよう柔和な笑みを浮かべるはずないという理解が―――、これは私の見ている都合の夢なのだと私に理解させてくれたのだ。
    『お姉ちゃん!』
     黎明、朝焼けが訪れる直前の草原を私たちは駆け抜けている。私と同じ顔をしている、けれども私なんかとは比べ物にならない明るく人懐っこい笑顔を浮かべたあの子が、地平の彼方まで広がる翠緑の草原をどこまでも駆け抜けてゆく。
    『待って、×××××××……!』
     その後を私は追いかける。美しい光景だった。幸せな光景だった。本来あるべき―――そうあって欲しい光景だった。あの子は駆け抜けてゆく。無垢に、無邪気に、無防備に、何の憂いも無い様子で、足元の露草を踏んでは足跡を残してゆく。
    『×××××××……!』
     私はその足跡を踏んで、必死で追いかけてゆく。暁を超えて朝を目前に控えている空は美しかった。夜と朝の狭間で繰り広げられる追いかけっこを、いつまでも続けていたいと思った。
    『お姉ちゃん、こっちこっち!』
     あの子は草原を駆け抜けてゆく。私なんかよりもずっと素晴らしい走りで、駆け抜けてゆく。春を過ぎて、冬は遠く、夏草の萌える草原を、やがて来る秋が待ちきれぬとばかり足早に駆け抜けてゆく。その夢は永遠に満たされぬ欠落を補うかのようなんとも幸せで、あらゆる喪失を補ったかの如くなんとも美しく、それ故になんとも残酷なことに―――
    『待って……、ねぇ、待って、×××××××……!』
    あっという間にその幸福の夢の終わりは訪れてしまった。

  • 38二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 07:14:14

    「待って!」
    「うぉっ……!」
     叫びつつ、身を起こした。
    「は……、は……、は……」
     見渡すと、見覚えのある暗がりの部屋の中だった。
    「お、おい、大丈夫か?」
    「……北原さん―――」
    聞き覚えのある声に、自分が現実へ戻ってきたことを自覚させられる。改めてあたりを見渡すと現実の部屋の中はとても薄暗くて、夢の美しい黎明の草原とは大違いだった。
    「私―――」
    「気付いたら気持ちよさそうに寝入ってた」
    「……え?」
    「だから放っておいたんだが、急に飛び起きたんだ。びっくりしたよ」
     聞いて、朝方まではたしかにあったひどい倦怠感がほとんど消失して事に気が付いた。ずっとあった頭に靄のかかる感覚も、耳鳴りも、軽い頭痛も、その全てが夢幻だったかのように霧散してしまっていた。あるのはわずかな肌寒さばかりだった。
    「私―――」
    「ん?」
    「私、寝てたの……?」
     自分でもわかりきっているはずの事実をそれでも信じられず思わずそんな疑問の言葉を口にしてしまった。
    「あぁ。もう十時過ぎだから―――五時間くらいになる」
    「―――」
     言葉に、時計を見た。薄暗闇の中、月明かりに照らされてある音を立て動く時計の針を見ると、短針と長針が十時半ごろを示しているのを確認することが出来た。
    「安心しろ。寮にはこちらから連絡してある。アヤベが最近眠れてなかったっていう事情も説明済みだ。だから―――」
    「―――」
    「お、おい」
     眠ったというのに暗澹たる悪夢を見なかった。それどころか、全てが浄化されるような気分にしてくれる燦然と輝く夢を見た。窓の外に目をやると悠然と雲を濡らす金色の満月がそこにあった。星々の柔らかい光が夜空に散りばめられた光景を見て、心の中を鷲掴みにされる感覚を味わった。

  • 39二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 07:15:07

    「ぅっ……、っ……」
    「どうした。なんか嫌な夢でも見たのか?」
     心配そうに問いかけてくるその声を、その声の内容を、可笑しく思った。
    「違う……」
    「違う?」
    「違うの……」
     見たのは悪夢ではない。私が見たのは、幸福の光に満ちた夢なのだ。
    「私は―――」
     だから、その言葉が可笑しいのだ。だからこんなにも切ないのだ。だからこんなにも悲しいのだ。それがもはや二度と手に入らない幸福だからこそ、そんな二度と手に入らない幸福を形にしたような暖かい夢を見てしまったからこそ、その事実が、今の辛い現実が、悲しくて哀しくて寒くて仕方ないのだ。
    「―――」
    「あ……」
     押し寄せる無力感に拭う事も出来ず涙を零し続けていると、唐突に暖かさに包まれた。
    「事情はよく分からんが―――」
    「……」
    「辛いときには辛いと声に出して泣いて吐き出しちまった方がすっきりすると思うぞ」
    「っ―――」
     抱きしめられ触れられている部分から伝わってくる体温は、その慰めの言葉は、まるで先程に見た夢のように暖かくて、優しくて―――
    「……う」
    「……」
    「ゔ……、ゔぅ……、ゔぅ~~~」
    嬉しくて、哀しくて、切なくて、溢れ出る衝動と嗚咽をこらえる事なんて弱い私には全くする事が出来なかった。

  • 40二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 09:32:36

     夏の生温い夜気から守られたクーラーの利いた部屋の中、夏の真昼の日差しより熱い、けれども春の日差しよりも暖かい熱を全身で感じさせられていた。
    「……落ち着いたか?」
    「……えぇ」
     告げると、暖かく優しいそれはあっという間に離れていった。惜しみ手を出しかけて、そのはしたない動きを自制した。ここまで恥を晒したのだからもうこれ以上どう思われようと構わない気もするが、それでもわずかであっても誰かの前では自分を取り繕いたいと思って動いてしまうのは、化粧と装飾を好む女の体に生まれた存在の性なのだろうか。
    「……ねぇ」
    「なんだ」
    「……聞かないの?」
     主語も何もない質問の言葉だったが、今の私たちにはそれで十分だった。
    「言う気があるなら聞いてやる」
    「……」
    「なら聞かねぇよ」
     ぶっきらぼうに言って立ち上がると、夜の帳の降りた薄暗闇の部屋の中、慣れた手つきで周囲を探ると、私のカバンを手にして立ち上がった。
    「行くぞ」
    「……え?」
    「帰るんだよ。寮へ。まさかここで寝泊まりするわけにはいかないだろ」
    「……えぇ」
     言われて、今更自分が何処にいるのかを思い出して、慌てて、けれどそれを悟られないよう努めて冷静に返事をした。何故今更そんな風に取り繕ろおうと思ったのかは、やはりわからない。が、ともあれ、北原さんのその言葉が正しいのは確かだった。先んじて部屋から出た北原さんの後ろへついて外へ出ると、生温い夏の空気を全身に感じた。がちゃりと部屋の鍵をかけたのちに寮へ向かって歩き出すその背中を追って、歩いてゆく。

  • 41二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 09:33:19

     生温いはずの夏の夜気を先程よりわずかばかり涼しく感じられるのは、空に浮かぶ満月の光が大地を照らしてくれているおかげなのだろう。金色の光に照らされた夜の中を北原さんと共に歩いていると、その背に運ばれ寮まで連れて行ってもらった春の夜の事を思い出した。見上げれば、夜空には夏の星座が目立つようになってきている。
    『……北原さんって』
    『ん?』
    『北極星みたいな人ね』
     不意に、あの日の会話を思い出した。
    『だとしたら、アヤベもそのうち俺と同じになると思うぞ』
    『……私が? どうして』
    『だってお前、アドマイヤ『ベガ』だろ』
     頭に浮かび上がった言葉に導かれるよう、りゅう座を探して、はくちょう座を探して、それからこと座を探して、こと座を形作る星の一つであるベガを見つけた。
    「ベガ……」
     アルタイル、デネブ、ベガ。夏の大三角形を形作る三つの星のうちの一つであるベガのりゅう座を挟んだ向こう側には、北極星―――、ポラリスがあった。一万二千年後にはあのベガが北極星の位置へ移動して天の中心に座すようになる。―――正確には地球からはそう見えるようになる。
     ふと、思う。あの時、言われて、何故に泣いたのだろう。何故に暖かい気持ちが湧き上がってきたのだろう。北極星になる。中心にいられるようになる。同じになる。それらの言葉の、何がこの胸を貫いたのだろう。―――わからない。いくら考えても答えは一向に出てこない。

  • 42二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 09:34:05

    「……はぁ」
     やがて諦めて溜息をつくと共に再びこと座のベガへと視線を向けて―――
    ―――そういえば……
    こと座には冥界と関わる伝承がある事に気が付いた。
    ―――オルフェウス……
     曰くこと座は、音楽の神によって贈られたオルフェウスの竪琴であったという。曰くこと座は、オルフェウスが失われた妻エウリディケを取り戻す為に冥界へ足を踏み入れた時、地獄の番犬であるケルベロスを眠らせるために、地獄の河の渡し守であるカロンを働かせるために、冥王ハデスの心変わりを誘発して妻を現世へ連れ帰る事に同意させるために、大いに役に立ったという。曰くこと座は、オルフェウスが妻エウリディケを冥界より連れ帰ろうとし、けれど絶対に後ろを振り向いてはいけないという冥王との約束を破ってしまった故に妻を取り戻せなかったオルフェウスが失意のあまりに息絶えた時、音楽の神であるアポロンがそれを憐れに思い、天へ引き上げた故に生まれた星座であるという。
    ―――……ん?
    「おい」
     伝承を思い出して、何かを引っ掛かりを覚えた。自分は最近、これと似た物語を耳にした記憶がある。けれどさて、ここ最近の不眠が続いている状態、本などの集中力を要するものは教科書以外にまともに読んだ記憶はないし、だとすればいったい―――
    「おい、アヤベ」
    「―――」
     考えていると、聞こえてきた声に、集中が解かれる。
    「ついたぞ」
    「……えぇ。ありがとう」
     気付けば自分たちは寮の門の前にまでやってきていた。
    「……お世話になりました」
    「おう。おやすみ」
     礼を言うと、北原さんはすぐさま踵を返してさっさと帰っていってしまった。月明かりがあるとはいえ暗がりの夜の闇の中へ消えてゆく光景は、まるで冥界の闇に呑み込まれていく姿のようにも見えて―――
    「……?」
    「おい、君!」
    「あ、はい」
    瞬間、何か思いつきそうになるも、門の守衛に声を掛けられ、集中と考えはあっという間に夜の闇の中に溶けて消えていってしまった。

  • 43二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 09:35:43

    分断の投稿となって申し訳なかったんだ。
    保存に失敗して消えたので書き直してたんだ。
    承の2になるんだ。
    いつも読んでくれてありがとうなんだ。
    次も読んでくれると嬉しいんだ。

  • 44二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 09:38:06

    こちらこそありがとうございます!!

  • 45二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 16:49:30

    好きすぎてここ最近のモチベまである

  • 46二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 16:54:48

    これ全部あにまんで読めるってマジ?

  • 47二次元好きの匿名さん22/05/11(水) 22:59:37

    >>46

    マジ

  • 48二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 08:08:56

    大好きです

  • 49二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 10:55:14

     八月。北原さんのトレーナー室で寝たその日以降、悪夢を見る頻度が減った。完全にぜろというわけではないので万全というわけではないけれど、調子の悪い日にはトレーナー室の仮眠ベッドを借りる事で、以前よりはずっと体調が整える事が出来始めている。足首の捻挫の方も心配せず良いようになってきた。ただしその一方で、左脚の違和感は日に日に大きくなってきている。悪夢の内容もあの日に見たものからずっと同じようなものばかりしか見ない。冥王と思わしき存在の生贄に白装束の私が捧げられるような夢だ。やはり天皇賞秋の日が私の最期のレースになるという事に間違いはなさそうだ―――

    「……なぁ」
    「なに?」
    「ここ、俺の部屋だよな?」
    「えぇ、あなたの個別のトレーナー部屋ね」
    「だよな」
     いつも通り個別トレーナー室にいる北原さんは、青天の霹靂―――というよりは蒼天に氷雨を目撃したかのような怪訝そうな顔で尋ねてきた。
    「じゃあ、なんだこれは」
    「なにって、新しい布団と布団乾燥機よ」
     なので、北原さんの人差し指の先にある、つい今しがた北原さんの個別トレーナー室の仮眠ベッドの上とそのすぐ横の床の、つい先程都内の総合電気店から運ばれてきたばかりのそれらの名称をさも当然のように口にした。
    「北原! すごいぞ! ふかふかだ! 物凄くふかふかでもふもふなんだ!」
     オグリさんが広げた布団の上で飛び跳ねている。
    「そう。ふかふかでもふもふなんです。そしてそのふかふかでもふもふの状態は、そこの布団乾燥機を使う事で、永遠に保ち続けることが出来るんですよ」
    「……!」
     無言で目を輝かせるオグリさんとは裏腹、北原さんは片手で頭を抱えた。布団乾燥機の素晴らしさを知るものがまた一人増えたことに程よい満足感を覚えつつ、それの説明書を開いて読み込んでいるオグリさんの様子を眺めていると―――
    「……それは見ればわかるよ。俺が聞きたいのは―――」
    北原さんは長く細い溜息を吐いた後、何かを言おうとして―――
    「アヤベさん、アヤベさん! 許可証貰ってきましたよ!」
    「……許可証?」
    「ありがとう」
    けれどそれは部屋へ飛び込むように入り込んできたトプロの声によって中断させられてしまった。

  • 50二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 10:56:00

    「おい、トプロ」
    「あ、はい、なんでしょうか、北原さん!」
    「許可ってなんだ、許可って」
    「あ、あれ? 北原さん、うそ、まさか、え、ご存じないんですか?」
    「はぁ?」
    「アヤベさん―――というか、私たちが今日から夏休みの終わりまで、ここと隣の部室で合宿して寝泊まりするってお話」
    「はぁ⁉」
    「あ、あれ?」
    北原さんとトプロ互いに驚いた表情の顔を見合わせると、北原さんはトプロの手にしていた紙―――許可証―――をひったくるような勢いで奪い取り、目を通し始めた。
    「あ、あの、アヤベさん……」
    「……なに、トプロ」
    「その……、もしかして、北原さんに話し通していなかったんですか……?」
    「ええ。……そうみたいね」
    「ま、まずいですよ、アヤベさん! 私はてっきり許可があるものだとばかり―――」
    「でも、ちゃんと関係者に話は通したし、許可は貰ったわよ」
    「え? ……どなたにですか?」
    「それは―――」
    「……ベルノ! ベルノは何処だ!」
     トプロの質問に答えようとした瞬間、北原さんは声を大きくして丁度言おうとしてくれていた名前を呼んでくれたので―――
    「ベルノさんに」
    そのままその名前を口にした。
    「あ、はい、呼びましたか」
    すると隣の部室と繋がっている扉からトレーナー室へベルノさんが顔を出してきた。
    「なんだじゃない! なんだ、この合同合宿の許可ってのは!」
    「あ、それはですね……」
    北原さんとベルノさんはまるでこちらを忘れたかのように喧々諤々の言い合いを始めた。

  • 51二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 10:59:57

    「なんだって勝手に―――」
    「あれだけ念押ししたのに、北原さんが合宿所の予約を申し込めるようになった初日に、予約の電話を入れ忘れるから―――」
    「それは、けど寮があるし、ここの施設だって―――」
    「合宿申請があれば施設を優先的に利用できるのはご存じでしょう!」
    「あ、あぁ」
    「だいたい北原さんはなんでそう抜けてるんですか! この前のプレゼンの準備も不十分でしたし、オグリさんのクラシック登録だって―――」
    「う―――」
    「今はもうオグリさんのチーフトレーナーなんですから、もっとしっかりしてください! 一事が万事そうだから研修生の私が代わりに動くことになるんですよ⁉ だいたい笠松の―――」
    「わかった! もういい! 認める! 認めるから―――」
    「やっぱり一回六平さんに―――」
    「許せ! 許してくれ、ベルノ―――」
    「……どうやら合同合宿の件はつつがなく進められそうね」
    「ベルノさん、すごくすごくすごーく、容赦ないですね……」
    笠松の頃からの付き合いである為か北原さんの事を良く知っているベルノさんは、過去の北原さんの失態をあれこれと持ち出しては北原さんの言葉を封殺し、やがて見事な手腕で合同合宿の許可を勝ち取ってしまった。
    「あ、あのぅ……、部室の方、準備ができましたぁ……」
     ドトウの言葉につられて部室の方へ足を運ぶと、いつもなら中央にある机が部屋の端へ移動させられており、代わりに六つの簡易ベッドが置かれていた。
    「あれ、ドトウちゃん。オペラオーちゃんは?」
    「組み立てが終わった途端、『さぁ、ではボクの魅力を高める為の準備をしなければ!』と言って、走りさっていっちゃいましたぁ……」
    「あの子は……」
    「あ、あはは……、あ、でもでも、楽しみですね、合宿! みんなで学校に泊まるのってなんだか特別感があって、こう、特別な感じがします!」
    「……前後で全く言葉が変わってないわよ」
    言いつつ、視線をトレーナー室へ移す。
    「な、なぁ、ベルノ。もうこの際、合宿はいいが、食事は―――」
    「あ、大丈夫です。合宿で申請しておいたので普通に学校の食堂を使えます」
    「よ、よかった」
    「北原。なんでこっちを見るんだ、北原」
     そこにはいつもよく見る、いつもと変わらない光景が広がっていて思わず苦笑する。
    「……そうね。私も楽しみだわ」
    言葉は安居を決められた部屋の中へ溶けるよう消え失せていった。

  • 52二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 11:03:04

    九月。立秋を過ぎ、処暑を過ぎ、白露近くの頃になると、ようやく肌を焼くような暑さが失せてくる感じがある。とはいえ多分、実際に秋の空気が到来するのは、秋分の日を過ぎたあたりからの事だろう。おそらく以前よりもわずかばかり涼しく感じられるようなったのは、一週間ほど前まで煩く泣いていた蝉の声が完全に消失したからなのだと思う。後はもう少し太陽の位置が低くなって、鈴虫のなく音色でも聞こえてくれば、秋という季節の到来を完全に実感できるようなるはずだ。

     始業式が終わった次の日、通常の授業もその後の練習も終わったあとの、放課後。
    「……なぁ、アヤベ」
    「なにかしら、北原さん」
    「もう合宿は終わったよな」
     いつものようシャワーで汗を流して、制服に着替え直してトレーナー室へ足を運ぶと、その部屋の主である北原さんは唐突にそんな事を言った。
    「当然じゃない夏休みが終わったんだから」
    「だよな」
     当然の質問に当然の答えを返すと、北原さんは仮眠室のベッドを、私が今まさにスイッチを入れようとしている布団乾燥機とそれの対象である布団を指差して―――
    「じゃあ、なんでまたそれのスイッチをいれようとしている」
    言った。
    「なんで……、って、決まってるじゃない。ふわふわのもふもふじゃないと快適な睡眠が確保できないからよ」
    質問にこれまた当たり前のように答えると、北原さんは片手で額を抑えたのち―――
    「アヤベ。ここはトレーナー室であって、アヤベの部屋じゃないんだ」
    言った。
    「ええ。知ってるわ」
    「だったら―――」
    「でも、ここだと寮と違って、ぐっすり眠れるの」
    「それは知っている。だが、わざわざそれを―――」
    「布団乾燥機を使った布団だと、その日の疲れが丸ごとなくなる感覚があるの」
     そう。八月の合宿の時にわかった事だけれど、ここで布団乾燥機を使って状態を整えた布団で寝ると、絶対に悪夢を見ることなくぐっすりと熟眠出来るのだ。
    「自室が駄目だっていうのか? それなら自分のところのトレーナー室や部室で―――」
    「……試したけど、駄目だった」
     そう。この場所、この布団乾燥機を使った布団、この部屋に―――
    「……わかった。じゃあ、俺は寝るときは言ってくれ。俺は隣の部屋にいるから―――」
    「……あなたがここにいる時じゃないとよく眠れないの」
    北原さんがいる時だけ、私は熟眠する事が出来るのだ。

  • 53二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 11:03:52

    「……お願い。―――天皇賞秋までの間だけでいいから」
    「……」
    北原さんは無言で額を搔いたのち―――
    「―――わかった。秋天までの間だな」
    承諾の返事をくれた。
    「……ありがとう」
    「言っとくが、外泊―――というか、門限に遅れて帰ることを寮の方に話するのは自分でやっといてくれよ。あと、何時まで寝るつもりなのかは事前に決めて教えておいてくれ。それと、俺の方も用事がある時は俺の方の用事を優先するけどいいな。あ、あと、オグリやベルノ、君のチームのメンツやトレーナーの方にもきちんと話を通しておくこと」
    「ええ。それは勿論」
    「ったく」
     言いつつ振り返ると、北原さんは自分の仕事をやりだした。やり取りをして、改めて、思う。
    ―――まったく
     なんていうお人好しだ。本人はまったく自覚がないみたいだし、それどころか大分譲歩したと思っている節すらあるが、今しがた交わした約束は自分の時間を当たり前のように他人へ与える事を承諾するという約束だ。これで北原さんは十時か十一時近くまで、この部屋に拘束されることが決まってしまった。俺の用事がある時は、などといっていたが、それはつまり、自分に用事がないときは常に私の都合の事を優先してくれるという事だ。
    思えば、初めてアドバイスをもらった時からそうだった。それが自分の夢を遠ざける事になるのがわかっていて、それをしなければ自分の夢に近づくのが早くなることを理解していて、それでも自分の夢や都合よりも相手の夢や都合を優先して動くものだから、だから私はあの日―――
    ―――私はあの日?
    「なぁ、アヤベ。もうここで寝るってのは諦めるが、その布団乾燥機のゴォゴォって轟音の方はもう少しなんとかならないか?」
    「……無理ね。これくらいの出力でやらないと、布団の湿気をきちんと飛ばせないもの」
    ―――そう。私はあの無理をして倒れて助けられたその日から、この人に頼りきりになるようになってしまったのだろう。

  • 54二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 11:06:17

    十月。空を見上げると、ポルックスの煌々と光っている姿が目に映る。その一方、いつも柔らかい黄金の光を地上へ投げかけている月の姿は何処にも見当たらなかった。
     新月。それは夜ごとに姿を変える月がその姿を完全に消してしまう夜の月の姿であり、また、私が生まれる前に死んでしまった妹へ祈りを捧げる夜の日の月の姿の事だ。
    「……あなたに祈りを捧げられるのもこれが最期なのね」
     悪夢が指し示した日まではもう指折りで数えられるほどしか残っていない。その日の事を思うと正直怖い。左脚の違和感は大きくなり続けている。多分、この爆弾が完全に爆発するのが秋天の日、ということなのだろう。或いは、私に代わって妹の魂が私の体に宿る日なのかもしれない。ともあれその日を境に私という存在の日常は今のいつもの状態から完全に別の状態へ変化するのだろう。
    「―――」
     その日の事を思うと、今すぐに死んでしまいたくなるほどの寂寥感が押し寄せてくる。その日を境にアドマイヤベガはこの世界から切り離される。永遠に、新月の夜が訪れる。当たり前のようにあったものが当たり前のように失われる。その日の事を思うと―――この楽しい日々が失われてしまう事を思うと、今すぐに命を絶った方がマシなのではとすら思えてしまう。
    「……駄目ね」
     弱くなってしまった。心の底からそう思う。アドマイヤベガという私がいつしかいつもの騒がしい日常を楽しく過ごすようなっていると気付いたのはいつの事だっただろうか。思い返してみれば―――、あれは確か八月の合宿のあたりの事だったと思う。
     妹の為に生きると誓っていた。その為に走り続け、祈りを捧げ続けて―――、いつしか昔はあれほど楽しかった走ることが楽しくなくなった。勝てなくなった。勝てない日々が続いた。焦りと焦りと焦りに支配される日々が続いた。何をしていても砂を噛んで、空を掻いて、海のど真ん中で意味もなくもがき続けているような日々が続いていた。
    「……」
     無味乾燥の日々が変わったのはあの北原さんという人が現れてからの事だった。笠松から中央へやってきた北原さんは、たった二か月でオグリさんをオペラオー打ち破る事が出来る程の存在に育成した。菊花でオグリさんとオペラオーを差し置いて優勝させるほどのアドバイスをトプロに与えた。半信半疑でアドバイスをもらった私とドトウは、大阪杯と春天においてそれぞれ優勝する事が出来た。

  • 55二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 11:07:23

    聞けばあの人の夢は、オグリさんをスターにする事らしい。だというにもかかわらず敵である私やトプロやドトウにアドバイスを与えては優勝をかっさらわせ自分をその夢から遠ざけるような真似をするのだから―――、馬鹿というか、マヌケというか、お人好しにも程がある。
    「……」
     楽しい日々だった。言い訳のしようがないくらい楽しい日々を過ごしてきてしまった。思い返せば大阪杯以降まったく勝てなくなり宝塚で三着を取るまでの苦しみ続けた日々も、その後の半年の日々を過ごす為の前準備だったと考えれば悪くなかったかもと思えるのだから、まったくなんとも現金な性格だというよりほかがない。
    「……あなたも―――」
     この二か月、思い返すだけで心の踊る日々を過ごしてきた。妹が喜ぶ―――、自分以外の中で自分以外の誰かが楽しんでいるという感覚を得られる日々を過ごし続けてきた。
    「楽しんでくれてたよね……?」
     大会にはあまり参加してこなかった。走る事とは関係ない、無意味な事、無駄な事を、たくさんやって過ごしてきた。オペラオーが馬鹿をやって、オグリさんが常識外れの事をやって、ドトウがドジをやって、トプロと私とベルノさんがそれのフォローをして、北原さんが側にいて―――
    「……楽しい―――」
    たくさんたくさん何の意味もないこと、無駄な事をやってきたけれど―――
    「楽しい日々だった―――」
    その無意味が、無駄が、あんなにも楽しい日々を生むだなんてことを、初めて知って過ごしてきた。
    「―――」
    だからこそ。楽しい日々だったからこそ、楽しすぎる日々だったからこそ―――
    「……怖い」
    惜しくなってしまった。怖くなってしまった。伽藍洞だった心が幸福の感覚で埋まってしまっている。幸福に満ちた日々を、心を、体を、手放さなければならない日が近づいている。それが、惜しい。怖い。手放したくない。失いたくない。
    「……だめなお姉ちゃんでごめんなさい」
    それでも―――
    「でも―――」
    それでも、私は―――
    「最期はきちんとやってみせるから―――」
    あなたの為に、きちんとやり遂げて見せるから―――
    「だから―――」
    だから―――
    ―――だから、私が終わりの日まで楽しく過ごす事をどうか許してください―――
    輝く星に祈りを捧げる。星は煌々とした輝きを以ってして、返答を寄越してきてくれた。

  • 56二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 11:08:37

    いつもありがとうなんだ
    感想嬉しく読ませてもらっているんだ
    もう少しでアヤベルートも終わりなので最後までお付き合いいただけると嬉しいんだ

  • 57二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 11:09:19

    こちらこそいつもありがとうございます!
    凄くよかったです!!

  • 58二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 21:05:28

    めっちゃ上手い文章
    嫉妬もわかねえ

  • 59二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 21:15:21

    ふわふわのフカフカ好きなのに
    本人がトプロやドトウよりしっとりしていない?
    大丈夫?湿度飛ばせてる?

  • 60二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 23:30:04

    「さぁ、やってまいりました秋の天皇賞。好天に恵まれ。バ場は良好。まさに絶好のレース日和と呼ぶことが出来るでしょう」
     運命の日はあっけなく訪れた。響く歓声。熱気に湧き立つ舞台。芝の上には真剣な表情したウマ娘たちが足並み揃えてゲートへ向かい始めている。
    「……」
     彼女たちと同じようゲートへ向かうさなか、足を止め、空を見上げた。蒼天には爛々と輝く太陽のみが座している。やがて来る終わりの日、曇天や雨天のようなじめじめとした天気だと嫌だなと思っていただけに、これだけは嬉しい現実だった。
    「……ふぅ」
     祈りは済ませた。覚悟も決めたつもりだ。後は走りぬくだけだ。左脚の違和感はひどいものとなっている。けれど、それ以外の体調は全て万全の状態に整えてきた。最期の最期の前日まであの人―――北原さんに迷惑をかけ続けてきたけれど―――、そうして迷惑をかけてしまう日も終わる時がやってきた。
    「―――」
     一歩を踏み出す。部屋の不要なものは同居人に怪しまれない程度に全て片付けてきた。何かあった場合、すぐに病院や親元へ連絡がいってくれるよう、準備も整えてきた。
    「……うん」
     私に何かあった時、寮の部屋の布団乾燥機は多分オグリさんが使ってくれる事だろう。北原さんのトレーナー室のところのは―――、北原さんが使ってくれると嬉しい。
    「―――」
     ゲートに入る直前で再び立ち止まり、瞼を閉じた。瞼の裏側には漆黒の悪夢を見始めたあの日から今この時の瞬間までの記憶が走馬灯のように流れていった。辛い事があった。楽しい事があった。悲しい事があった。嬉しい事があった。
    「……ふふ―――」
     一流の諧謔を弄されたわけでもないのに笑いがこみあげてくる。終わりが始まる直前のこの空間で、過ぎ去ってしまった眩しい日々を思う。
    『お姉ちゃん!』
    「―――」
     聞こえてきた声に目を開けた。気付けばゲートをくぐっていないのは自分だけだった。会場中の注目がこの身に集まっていた。その感覚は、まるで漆黒の悪夢の時に感じられる圧のようで―――
    「……えぇ。言われなくても、わかってるわ」
    見えざる手に押されるよう、私は足を死地へ向かって踏み出した。

  • 61二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 23:32:20

    「――、――――――、――――。――――――――――――――――。―――――――――――――――――――。――――――――――――――――――」
     走り出した瞬間から、私の世界は書き換わった。なにもかもが色味を失って、音さえも聞こえなくなってしまった。
    「――――――――――――――――――――。―――――――――――――――――――――――――――。――――――――――、――――――――――――――――――――――――――――――――――」
     私の世界が終わっていく。私の命が潰えてゆく。左脚の違和感が拭えない。全力で酷使したのならば壊れるという予感が、本能が、頭の中に警鐘を鳴らし続けている。
    「――――――――――――――――――――――――――――。―――――――――。――、―――、―――――――――。――――――――――――――――――――――。―――――――――――――――、――――――――――――!」
     ―――構わない。
    「―――、―――――――――! ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!」
     どうせここで使い潰すつもりの命だった。全てを妹に捧げるつもりのレースだった。だから、構わない。左右のバランスを整える。左脚にも、右足と同じだけの力を籠める。ただひたすら、前へ進む事だけを考える。一番先頭に行く事だけを考える―――
    「――――――――! ―――――――、――、―――――――――――――――――、―――――――――――――――――――――――――――」
    「っ!」
    「――――⁉」
     途端、左脚に力が入らなくなった。一気に速度が低下した。
    「――――、―――――――! ――――――――――――――、――――――――――――、―――――――――――――――――――――――――――!」
     ゴールが遠くなる。祈りが遠くなる。意識が遠くなる。光が遠くなる。私は―――

  • 62二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 23:33:31

    『お姉ちゃん!』
    「―――」
     声が、聞こえた。
    「さぁ、最終コーナー! ここを超えればあとは最後の直線のみです―――っと―――、なんだ⁉ どうした⁉ ―――アドマイヤベガ⁉」
     途端、全てが元通りになった。左脚の違和感が消滅していた。
    『お姉ちゃん!』
     あの子は笑顔で駆け抜けてゆく。無垢に、無邪気に、無防備に、何の憂いも無い様子で、足元のターフを踏みつけては芝の上に足跡を残してゆく。
    ―――待って!
    「これはいったいどういうことだ⁉ 先程後方集団の方へ沈んだはずのアドマイヤベガ、先程以上の凄まじい走りで、再び後方から駆け上がってくる!」
     あの子はターフを駆け抜けてゆく。私なんかよりもずっと素晴らしい走りで、ようやく来た秋のこの時をずっとずっと楽しみにしていたとばかり、足早に駆け抜けてゆく。
    「アドマイヤベガ、ごぼう抜きだ! アドマイヤベガ、な、なんと、大外からではなく、集団の中の僅かな隙間を、まさしく縫うようにして、自らの目の前にいるウマ娘たちを次々と抜き去ってゆく~‼」
     あの子はまるで流星だった。私はその足跡を必死で追いかけるだけでよかった。
    「アドマイヤベガ、独走! 沈んだはずのアドマイヤベガ、後方からの突如の追い上げの直後から凄まじい走りで、先頭集団、テイエムオペラオー、ナリタトップロードをごぼう抜きにして、一気に先頭へと踊り出ていったぁー⁉」
     届かぬ星に手を伸ばす。あの子の後を追いかける。それだけでいい。それこそがきっとあの子が望んでいる私の走りであるのだろうから。
    「アドマイヤベガ、早い、早い、早すぎる! 最期の直線においてテイエムオペラオー、ナリタトップロードに加え、オグリキャップ、メイショウドトウといった他のG1制覇バも飛び出してきたが、アドマイヤベガに全く追いつけなーい‼」
     楽しい。嬉しい。この追いかけっこをいつまでも続けていたい。

  • 63二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 23:34:02

    『お姉ちゃん!』
     ゴール直前で、あの子が振り返った。満面の笑みを見て、その意図を理解した。本当に優しい子だ。これがあの子の望みだったというのなら、成程、私はこの全力疾走のあとに命を失っていても、きっと何の悔いも残らない。
    「アドマイヤベガ! アドマイヤベガ! 何が起こっているんだ、アドマイヤベガ!」
    『お姉ちゃん!』
     ゴール直前で、あの子が後ろを向いた。その小さな背中目掛けて必死で手を伸ばした。すると唐突に片方の手が後ろに伸びてきた。胸が熱くなった。涙が流れた。必死で走り、必死で手を伸ばしてその手を掴んだ。そして―――
    「ゴォォォォォォル! なんと、なんと、なんと、アドマイヤベガ! 他と八バ身という圧倒的な差をつけて、秋天の舞台を見事に制覇して見せました!」
    手を繋いだ私たちはまったく同時にゴールを踏んだ―――

  • 64二次元好きの匿名さん22/05/12(木) 23:35:22

    いつも読んでくれてありがとうなんだ
    お褒めの言葉も嬉しく読んでるんだ
    あと三回か四回の投稿で終わる予定なんだ
    最後までお付き合いいただけると嬉しいんだ

  • 65二次元好きの匿名さん22/05/13(金) 07:04:16

    ありがとうございます!!

  • 66二次元好きの匿名さん22/05/13(金) 09:04:17

  • 67二次元好きの匿名さん22/05/13(金) 18:21:20

    めっちゃ面白いです!

  • 68二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:13:48

    ほす

  • 69二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:26:46

     夜露に濡れた草原に横たわっている。天蓋、朝と暁の間の夜空には映像が映しだされていた。空の上で、あの子が笑っている。私でない私が、舞台の上で踊っている。あの子の楽しそうな姿を見ていると、こちらまで楽しくなる。嬉しそうな姿を見ると、こちらもうれしくなる。感覚に、あぁ、きっとこれが、私が走って楽しかったり嬉しかったりした時に覚えた感覚なんだろうな、と、直感した。望み通り、あの子と私は入れ替わったのだ。ウイニングライブを踊っているのはあの子で、この永遠に朝の来ない空間で現実の光景を眺めているのはアドマイヤベガという私なのだ。
     不思議な満足感と共にその光景を呆然と眺めていると、空が泣き始めた。一つ、二つ、と雲もないのに雫が降ってくるようになり、夜露に濡れた翠緑の草原を濡らし始めた。糸のよう細い水滴が控えめな音を立てて落ちてくる。そうして夜空と草原と私をわずかだけ濡らす雨はやがて何かをひどく悼むかのよう激しいものへと変化し―――
    『お姉ちゃん』
    「―――」
    気付くと、夜空の中で踊っていた妹の笑顔が直上すぐそこにあって、跳ねるように飛び起きた。
    『こうして話すのは初めましてだね』
    「あ―――」
     声に胸が熱くなった。生じた熱はあっという間に全身に広がり、涙腺にまで到達するとそれは涙を生んだ。
    「わ」
    『ん?』
    「私―――」
     胸が一杯で、何を言えばいいのかわからなかった。いや―――、この子の命を奪ってしまった私が何を言ってもきっと罪と言い訳になるという想いが―――、私の口から言葉を生み出す機能を奪い去ってしまっていた。
    「その―――、ごめんなさい」
     それでも何とか胸の内を占める想いをどうにか形にして伝えると―――
    『……ぷ』
    あの子は噴き出して―――
    『なんで謝るの、お姉ちゃん』
    言った。
    「だ、だって、私―――、わ、私、あなたの……、あなたの命を―――」
    笑顔を前に、犯した罪を必死に告白しようと、想いを振り絞って言葉を口にしようとして―――

  • 70二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:27:39

    『謝ってもらう必要なんか全然ないよ。だって私、お姉ちゃんがいつも私の事をどれだけ想って、どれだけ尽くしてきてくれたかを―――、全部知ってるもの』
    「―――」
    聞こえてきた声に、言葉も、思考も、私の体の働きの何もかもを停止させられた。
    『一か月に一回、必ず私の為に祈ってくれた。毎日いつでも私の為に走り続けてきてくれた。-――ありがとうね、お姉ちゃん』
    「―――っ」
     言葉に、胸が一杯になって、何も言えなくなってしまった。
    「……ちがう、ちがうの。私は―――」
    それでも、胸を掻き抱いて、体中にある想いをかき集めて、必死で何かを言おうとして―――
    『初めての時からずっと一緒に走って、踊ってきて―――、今日はなんと、お姉ちゃんと一緒に走る事も、お姉ちゃんの代わりに踊る事も出来ちゃった』
    「―――」
    続いた言葉に、やはり何も言えなくなってしまった。
    『でも、お姉ちゃん無茶しすぎ。レースで全力を尽くしすぎちゃって、気絶して―――、まさかそれで気絶したお姉ちゃんの代わりに私がウイニングライブで踊る事になるなんて夢にも思ってなかった』
    「―――」
    『他の人の前でやるのって初めてだから、すごく緊張しちゃった。みんな違和感を覚えてたみたいだったけど―――、さっきのレースの疲れが残ってるのかなって思ってくれてたみたいだったから、多分平気だよね』
     あの子が笑っている。屈託ない笑みを浮かべて、実に楽しそうに笑っている。ずっと見たかった、ずっとそうだといいなと思っていた顔が、すぐそこにある。その事実に、ひたすら胸が一杯にさせられてしまって―――、まともな言葉を返す事なんて到底不可能な状態にさせられてしまっていた。
    『でもでも本当に心配してたんだよ。特に二年位前から大阪杯くらいまでのお姉ちゃん、ずっとずっと無理してるかんじだったから』
    「それは―――」
     それは―――、その通りだ。その時期の私は、無理をし続けていた。だってその時期の私は、オペラオーにずっと勝てないでいた。この子に勝利と栄光を捧げる事が出来ずに居続けた。だから―――

  • 71二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:28:23

    『お姉ちゃんのトレーナーさんに感謝してよね。お姉ちゃんのトレーナーがお姉ちゃんの優秀なトレーナーさんじゃなかったら、お姉ちゃん、多分去年の菊花賞くらいで潰れてた運命のはずだったんだから』
    「―――」
    でも、そんなことまるで気にしていないという風に、私の体の事を本当に心配していたといってくれる妹の姿に―――、何を言おうとしていたのか、何を考えようとしていたのかを、もうすっかり喪失してしまった。
    『でも、大阪杯以降の、お姉ちゃんは―――、うん、大阪杯以降のお姉ちゃんは、見ててすごく楽しかった』
    「……」
    『文句を言いながらも楽しそうで―――、うん、昔のお姉ちゃんが初めて走った時のお姉ちゃんみたいで、お姉ちゃん自身が楽しんでいるのがわかって―――、見てて、一緒にできて、すごく楽しかった!』
    「―――っ」
    積み重ねられる言葉がまるで乾いた砂が水を吸い込むような速度で体に染み入ってくる。繰り返される言葉は、その全てが救いだった。迷いながら、苦しみながら、それでもやり続けてきたことが間違いではなかったという証明に違いなかった。
    『でもね、お姉ちゃん。私、もう一つだけ、ちょっと不満があるの』
    「……え?」
    『お姉ちゃん、どうしてそうやって何でも自分で背負いたがっちゃうの?』
    「……?」
     意味がわからなかった。
    『私が死んだのはお姉ちゃんのせいじゃない。お姉ちゃんには何の罪もない。なのになんでかお姉ちゃんは勝手に罪と思い込んで、責任を感じて―――、私、お姉ちゃんはすごくかっこよくて、お姉ちゃんが私にしてくれたことの全部を嬉しく思ってるけど、それだけは―――、知らない間に走る理由が贖罪の為になってて、いつのまにか私がお姉ちゃんの命を欲しがってるって思われるようになってた事だけは、ちょっと不満に思ってるの』
    「―――」
    『私、お姉ちゃんの命を欲しいと思った事なんて一度もないよ。お姉ちゃんの寿命を宣言するような変な夢を見せるのも一度だってしたことない。そんな真似、出来ないもん』
    「え……」
     言葉に、混乱させられた。

  • 72二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:29:14

    「え、だって、あれ―――」
    『お姉ちゃんはもっと素直になった方がいいんだよ。お姉ちゃんって、素直じゃなくて、詩的で、思い込みが強くて、なんでも自分のせいにしたがって―――、なんでも自分を犠牲にしちゃう道を選んじゃう。想像力豊かで、痛みに敏感で、なんにでも理由を見つけたがって、どんなことでも自分の責任だと思い込もうとするから―――本当の想いが捻じ曲がっちゃって、綺麗な願いの夢も変な感じの悪夢になっちゃう』
    「―――」
    『本当に大切なものは目に見えない。お姉ちゃんはもっと何でも自分だけで抱え込まないで、贖罪とか余計な思い込みとかそういういらないのを全部とっぱらって、自分の気持ちに素直になって物事を見たほうがいいと私は思うよ。―――わたしからの最期のお願い』
    「……最期?」
     混乱する頭、妹の言葉を聞き流すかのようひたすら耳に入れ続けるしか出来ずにいた私でも、流石にその言葉は聞き逃す事が出来なかった。
    『そう、最期。私からの最後のお願い。―――わがまま』
    「ねぇ、まって。最期ってどういう―――」
     途端、あの子の―――妹の姿が薄れた。直感的に何が起こっているのかを悟り、心が、全身が、一気に冷え込んでいく感じを覚えた。
    『お姉ちゃんはずっとずっとずーっと、私の為に尽くし続けてきてくれた。だから今度は私の番』
    「ちょっと―――」
    『お姉ちゃんを苦しめてるもの。お姉ちゃんの目を曇らせているもの。その原因の余計な柵―――、運命は、私が全部持ってくよ』
    「やめ―――、やめ、やめて! ―――やめなさい!」
     心臓が痛いくらいに脈打っている。その先を言わせたくない。その手を放したくない。だから必死に手を伸ばした。―――なのに。
    「なんで―――、……なんで!」
     伸ばした手はけれどあの時のよう妹の手を掴んでくれることはなく、空を切って―――
    『朝が来るんだよ』
    「何を―――」
    『ずっと夜だったここにも、太陽が昇る時がやってきたの』
    言いつつ、あの子は地平の彼方を指さした。その行方を追って視線を移すと、先までは確かに薄紫紺の闇色ばかりに染まっていた夜空の一部が白色に染まっている光景をそこに見つけることが出来て―――、その言葉が正しいのだという事を知った。

  • 73二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:29:55

    『明けない夜はない―――』
    「待って……」
     夜色に染まっていた光景が、現れる太陽の光によって払拭されていく。払暁の光景は、たとえようもなく美しくて―――、それ故に違えようもないほどの残酷な現実を、認めたくない事実を、私に告げる威力を持っていた。
    『夜は明けて、朝が来るのが普通なんだよ、お姉ちゃん』
    「お願い、待って!」
     あの子が笑う。空へと浮かぶ。必死に手を伸ばしても届かない場所へ、天高くの場所へと上ってゆく。
    『今までありがとうね、お姉ちゃん。お姉ちゃんのおかげで、私、すっごく幸せだった』
    「いや……」
    要らない。そんな言葉は要らない。今欲しいのはそんな言葉じゃない。今の私が欲しいのは、そんな、そんな―――、お別れの言葉じゃない。
    『余計なものは全部私が持っていくから―――』
    「やめて―――、お願い、やめて!」
    日が昇る。闇が切り拓かれる。夜空に瞬く星々の輝きはかき消され、夜に属する命と輝きの全てが、日の光の中へと溶け込むよう消え失せてゆく。
    『だから、お姉ちゃんも―――』
    「いや……」
    さぁ、と、世界の色が変わる。あの子の姿が見えなくなる。空は高く、地は広く、世界の全ては煌めいていて、それはこれまでに見た事もないうそのように綺麗な光景で―――
    『お姉ちゃんも、幸せに―――』
    なのに、その美しく綺麗な世界の中から、唯一あの子の姿だけがなくなっていって―――
    「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
    その事実に耐えきれず絶叫して、私の意識は闇に閉ざされた。

  • 74二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:30:31

    「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
     絶叫と共に目覚めると、そこは真っ白い病室だった。
    「は……、は……、は……、は―――」
     カーテンの隙間から差し込んできている日の光が、部屋の中をわずかに照らしていた。薄く細く伸びてきた光が、私の体と顔を照らしていた。
    「は―――」
     刺激から逃げるように顔を伏せた。逸らした視線の先には、左脚があった。白く清潔な布団を捲り、それを見た。つい昨日まで何もせずいるだけでも違和感を覚える有様だった左脚に、けれど今、違和感を覚える事はなかった。
    「あ―――」
     事実に、悟ってしまった。気付いてしまった。
    「あ……、あ―――」
     空っぽだ。空洞だ。いなくなってしまっている。体の中から、あの子の痕跡が影も形もなくなってしまっている。
    「あ―――」
     たとえようもない喪失感。晴れてしまった世界。終わってしまった苦しみ。静寂になってしまった世界。自分の中にはもはや誰も存在していないのだという感覚。絞り出した嗚咽は静かに自身の耳朶を打つばかりで、私の中には誰もいなくて、それが―――
    「ぁ―――」
    それがどうしようもなく耐え難くて、私は再び暗闇の世界へと意識を移していった。

  • 75二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:33:17

    「こんにちは、アヤベさん!」
     精密検査を終えた同日の午後の静寂は一瞬にして破られた。
    「やぁ、アヤベさん! 無事で何よりだ!」
    「だ、大丈夫ですかぁ……?」
    「……えぇ」
     どかどかと遠慮なしに入ってくるいつものメンツに、視線を窓の外に固定したまま、小さな同意の言葉だけ送った。
    「ウイニングライブが終わって控室に来るなり倒れるものですから、びっくりしましたよ!」
    「踊りの方にもなんというか違和感がありましたし、よっぽどレースでの疲労がたまっていたんですかねぇ……?」
     トプロとドトウの声がいつもよりも頭に響くように感じられるのは、私の中に空っぽの隙間が生まれてしまったからなのだろうか。
    「しかしいつものアヤベさんとはまるで違うあの縫うような走りは実に見事だった! あの全ての出走者の走り方や呼吸を見抜いていなければ、あのような走りは行えまい!」
    「確かにすごかったですねぇ~」
    「はい! その、あまりの走りのキレに、抜かされた時、一瞬呆然としちゃいました!」
    「―――っ」
     いつもなら多少の羞恥はあるにせよ受け取っていただろう口々に告げられる賞賛の言葉を、けれど今ではとても苛立たしく感じた。だって。だって、あれは。
    「……別に褒められる謂れはないわ」
    「え?」
    「うん?」
    「あ、アヤベさん……?」
    「だってあれは―――、私はただ、あの子の後を追いかけただけだもの」
     言った途端、胸に痛みがはしった。空っぽになったはずの胸が、別のもので満たされてゆく感覚を味わった。
    「あの……、アヤベさん?」
    「それってどういう?」
     さなか、トプロとドトウが当然のように質問の矢を飛ばしてきて。
    「成程! やはりあれはそういう事だったのか!」
    一方でオペラオーだけが、酷く納得したという様子で頷いた。
    「……え?」
     首肯に思わずオペラオーの方を振り向いた。するとオペラオーはいつものよう自信満々で再び口を開いた。
    「なに、昨日のアヤベさんの走りにはあまりに迷うというものが見当たらなくてね! いつもなら冷静に機会を伺う走りのアヤベさんがいきなり不死身の英雄ジークフリートもかくやという勢いの勇猛果敢で一気呵成な走りを見せたものだからどういう心変わりがあったのだろうと不思議に思っていたのだが、成る程、アヤベさんがブリュンヒルデの星の導きに従っていたというのなら納得が出来るなと思ったのさ!」

  • 76二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:34:08

    「―――」
     オペラオーの言葉は、理解は、驚くほどに的を射ていて―――、驚かされた。
    「星の導き……?」
    「え、えっとぉ……」
     一方で、トプロとドトウはオペラオーの言葉の意味をまるで理解出来なかったようで、首を傾げ、オペラオーではなくこちらに、おっかなびっくりながら助けの視線を向けてきた。
    「……別に―――」
    『お姉ちゃんはもっと何でも自分だけで抱え込まないで―――』
    「―――」
    『あなたたちには関係ない』と言いかけて、けれど途端、何故だかあの子の言葉を思い出してしまって、それ以上の言葉を紡げなくなってしまった。
    『わたしからの最期のお願い』
    「っ」
     胸が締め付けられた。悲しさと哀しさと愛しさが混淆して、わけがわからない気持ちが湧き上がってきて―――
    『お姉ちゃん』
    「―――ねぇ……」
    「はい?」
    「はいぃ?」
    「なんだい?」
    「……聞いてくれる」
    意図せずそんな言葉を口にしてしまって―――
    「―――はい!」
    「も、勿論です……!」
    「当然さ!」
    そしてみんなは、威勢の良い肯定の返事を返してきてくれた。

  • 77二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:34:50

    「……というわけなの」
     なにもかもを話し終えると、部屋のなかはしんとした空気に包まれていた。ただ、その静寂は重苦さがなく、誰もいない草原で横たわっている時のような心地良さがあった。
    「―――妹さんは」
     沈黙が続くなか、やがてトプロが口を開いた。
    「いい妹さんだったんですね」
    「―――」
     肯定の言葉に、あっというまに胸が一杯になった。
    「アヤベさんもいいお姉ちゃんです……」
     一切の虚飾なく続いたその言葉に、胸を占めていた熱は一気に沸き立った。
    「素晴らしい! 何もかもが清らかで、何もかもが神々しい! これぞまさしく愛、というわけだね!」
     いつもなら腹立たしい事が多いオペラオーの着飾った言葉も、今では胸のそれを沸き立たせる燃料となって―――
    「……うん―――、うん」
    私の頑張りを認めてくれたことに、あの子の存在を認めてくれたことに、心の底から感謝しながら―――
    「いい子だったの……、死んでほしくなかったの……」
    次から次へと生じる熱さと安心感に耐えきれず、しばらくの間滔々と溢れ出てくる涙を流すこと以外出来ずにいた。

  • 78二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:37:07

    「あのぉ……一つよろしいでしょうか……?」
     しばらく時間が経過して胸の内に湧き出てきた全ての熱を消費し終えたのち、ドトウはおずおずといった様子で手を挙げた。
    「……えぇ。なに?」
    「そのぉ……、だとしたら結局、悪夢って何だったんですかねぇ……?」
    「―――」
     言われて思い出す。
    『私、お姉ちゃんの命を欲しいと思った事なんて一度もないよ。お姉ちゃんの寿命を宣言するような変な夢を見せるのも一度だってしたことない。そんな真似、出来ないもん』
     あの子は確かに言っていた。あれは自分の見せた悪夢でないと。自分にはそんな真似できないと。今にして思えば、優しいあの子があんな趣味の悪い夢を私に見せるはずがないという確信がある。だからこそわからない。私はどうしてあんな悪夢を見るに至ったのだろうか?
    「おや、アヤベさんはまだ気づいていなかったのかい?」
    「……え?」
     首を傾げていると、聞こえてきた声に、思わず振り向いた。
    「……あなたにはわかるっていうの」
    「当然さ! 舞台の一場面、それにどのような想いが、背景があるのかを読み取るのは、一流の舞台役者には必要不可欠なスキルだからね!」
    「さ、さすがはオペラオーさんですぅ……」
    「ハーッハッハッハ、そうだろう、ドトウ!」
    「……で」
     いつものやり取りをわずかばかり煩わしく感じながら言う。
    「一体あの悪夢はどういうことだったっていうの?」
    「ハーッハッハッハ!」
     いつものよう高笑いをしたオペラオーは、けれどその後すぐさま表情を真剣なものへ変化させたのちに。
    「目と閉じて、耳も塞ぎ、心で感じれば―――、妹さんの言い方を借りるのなら、本当に大切なものは目に見えない。言葉ではなく、してくれたことで物事を判断すれば、すぐにわかる事さ!」
    いうとオペラオーは再び高らかに笑い始めた。
    「オペラオー、あのね……」
    「えっと……、いいですか、アヤベさん」
    「トプロ……?」
     いつもと変わらなすぎるその態度をこの度ばかりはさすがに腹立たしく思ったので一言言ってやろうとすると、聞こえてきた声に意識が奪われる。
    「その……」
     トプロは珍しくおどおど―――、というか、戸惑った態度を取っていた。視線を左右にせわしなく動かし、口の開閉を繰り返すその態度は、言っていいのだろうか、本当にそれを明かしてしまっていいのだろうか、と悩んでいるそんな風に見えて―――

  • 79二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:38:17

    「……トプロ」
    「あ、はい」
    「……構わないわ。少しでも何かわかっているのなら、教えて頂戴」
    「―――わかりました」
    言うと、トプロは覚悟を決めたという感じの真剣な表情を浮かべた。
    「あのですね。オペラオーさんが言っていた通り、余計な思い込みを取っ払ってしまえばいいんです」
    「余計な思い込み?」
    「アヤベさんが言う悪夢はこうだったんですよね? 『黒の装束に身を包み込んだ人型の存在に囲まれている白の服を着た自分は、細い通路を舞台の上に連れられていった。やがて通された広い部屋で、長身の、冥王? さんの生贄として捧げられそうになった』」
    「……えぇ。それが?」
    「その、多分アヤベさんは死を強く意識していたからそんな風に思ったんだと思うんですけど―――、あの、その話を聞いた時、私は全然別の場面を想像したんです」
    「別の場面……?」
    「黒の装束って、普通、礼服ですよね? で、私たちが白い服を着る時って、普通、その―――、お祝い事というかそんな時の―――、特に主役の人の時で―――」
    「―――」
     思考が停止する。トプロの解説に、冥王の生贄として捧げられる場面が、全く別の意味を持つようになってゆく。
    「あの、だから、つまり―――」
    「待って……」
     気付いてしまった答えに。思わずその語りを止めようとするも―――
    「アヤベさんが白い服を着ていて、主役で、みんなが礼服を着ていて、狭い通路を通って広いところに行って―――」
    「お願い、待って、トプロ」
     大きな衝撃を受けている私は、本当に小さな声を出す事しか出来なくて、トプロはまったく気づく様子がなくて―――
    「そこで待っていた人に顎に手を当てて顔を近づけられたっていうのは、つまり―――」
    やがてトプロがその先の答えを口にしようとしたその時―――
    「まるで花婿さんと花嫁さんと披露宴みたいですねぇ」
    「あ―――」
    「~~~っ!」
    思わぬ方向から飛んできたドトウの言葉の刃によって、私はとどめをさされてしまった。
    「そうとも! そうすると、あの『テンのオウに乙女を捧げよ』という言葉も、まるで別の意味をもっているということになるだろう!」
    すると、これまで少しの間だけ沈黙を保っていたオペラオーがいきいきと芝居がかった動作で口を開いた。

  • 80二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:39:05

    「『テンのオウに乙女を捧げよ!』。アヤベさんはそれを天皇賞秋と受け取ったみたいだけど―――けれど、天皇はテンのノウであって、テンのオウではない!」
    「そ、それは、単に組み合わせると音訓の読みが違うからで―――」
    「違わないとも! もっと簡単に考えればいいのさ! アヤベさん! もし君が星を見るため夜空を見上げた時にテンのオウという言葉を聞いたら、君は何を思い浮かべる?」
    「星を―――」
     言われて、その場面を想像した。夜。空を見上げている時にテンのオウという言葉を聞いたのなら、私はきっと―――
    「天のオウ―――、天の王か、天の央か、天の黄か―――」
    そこまで言って気付いた。
    「―――え?」
     天の王。天の中央。夜空、天の中央に座している星。自らの輝きはそうたいした事ないけれど、多くの輝く星に囲まれている、そんな星。
    『……北原さんって』
    『ん?』
    『北極星みたいな人ね』
    「~~~っ!」
     辿り着いた答えに、顔から火を噴きそうなほどの羞恥の想いを味わった。
    「アヤベさんも気付いたようだね! そう。話の初めの方で言っていた通り、テンのオウ―――天の王は、北極星―――君がそうよんだ北原さんの事を指し示していたのさ!」
     そしてその答えを正しいと宣言するオペラオーの言葉に、私は今すぐベッドから抜け出して暴れまわりたいような衝動が体の中に生じ始めた。

  • 81二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:40:07

    「なら、もう一つの『乙女を捧げよ』も別の意味を持つことになるだろう!」
    『だとしたら、アヤベもそのうち俺と同じになると思うぞ』
    『……私が? どうして』
    『だってお前、アドマイヤ『ベガ』だろ』
    そして辿り着いた答えは、あまりにも生々しく、あまりにはしたなく、あまりに過激で―――
    「即ち―――」
     脳裏を追想がよぎる中、オペラオーはそれを当たり前のように口にしようとして―――
    「まって……」
    「アヤベさんは―――」
    「まちなさい、オペラオー!」
    私はそれを必死で止めようとしたけれど―――
    「『テンのオウに乙女を捧げよ』というそれは、北原さんと結婚して抱かれたいという隠喩―――つまり、アヤベさんが隠していたいと思っている本心だったという事だね!」
    「~~~っ!」
    オペラオーはいつもみたいに私のことなんてまるきり無視して、私が隠したいと思っている本心をあっけなく開示してくれた。
    「う、うわぁ……」
    「あ、アヤベさん……」
    どうやら悪夢の内容を見抜く事は出来たトプロでもそこまでは見抜けなかったらしく、トプロとドトウは顔を真っ赤にして、こちらに視線を送ってきていて―――
    「王子様のキスどころかそれ以上を望むとは―――、大人だね、アヤベさん!」
    「~~~っ!」
    さなか、オペラオーはそんなまるでデリカシーも気遣いもなにもない言葉をウインクと共に送ってきて、その言葉と仕草に私の我慢の限界はあっという間に超えてしまって―――
    「〇△□◇×××■△■××〇●◎■□!?#%$&!!????????」
    「う、うわっ」
    「あ、アヤベさんが―――」
    「壊れちゃいました~!」
    恥ずかしさといたたまれなさと居心地の悪さと怒りとそれ以外の多くの羞恥が生む感情に突き動かされ、私は手あたり次第近くのものを手にとっては、オペラオーたちに投げ始めた。

  • 82二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:41:26

    「……」
    あの後、騒ぎを聞きつけてやってきた看護師さんたちに見事な手腕にて押さえつけられた私は、いくばくかの心配の言葉と多くのお叱りの言葉をもらったのち、彼らのお説教から解放され―――、そして今、全身を支配している疲労感に、何をする気力も湧き上がらない状態へと追い込まれていた。
    「あ、アヤベさん……?」
    「大丈夫ですかぁ……?」
     部屋の端の方からトプロとドトウがびくびくとした様子で話しかけてくる。ちなみにオペラオーは騒ぎを聞きつけてやってきた私たちのトレーナーが回収していってくれた。
    「……最悪だわ」
     私たちのトレーナーへ感謝の想いを抱きつつ、素直な気持ちを述べた。先程晒した醜態と知る事となった自分の本心と知られてしまった自分の本心とを思い返すだけで、全身を焦がしつくすような恥ずかしさが湧き上がってくる。それが先程のよう発散されないのは今しがたこの身の内にそれをするだけの体力と気力が残されていないからであり―――、けれども、だからこそ、生じ続けるその熱を発散させることが出来ない状態のこの体の内には、発散できないそれらの熱が溜まり続けて言っていて―――
    「ほんとう、最悪……」
    それらの熱を逃すかのよう、そんな熱の篭った言葉ばかりが病室の中に落ちては、溶けて消えていって―――、でも胸の中に生じ続けるもやもやが晴れてくれる事はなくて―――
    「あ、でもでも、わたし、なんだかすっきりしちゃいました!」
    「なにがよ」
    さなか、トプロが唐突に述べた言葉に反応して、質問を返した。すると―――
    「アヤベさんが―――、アヤベさんも自分が北原さんの事が好きだって気付いてくれて!」
    「―――」
    返ってきた素直で屈託のない言葉に、生じ続けていたもやもやは一気に消え去った。
    「ほら、態度からなんとなくそうかなー、とは思っていたんですけど、アヤベさん、全然気づいてないっていうか、気付かないようにしてるっていうか―――、投げやりな感じがあって、いろいろと心配してたんです!」
    「……」
     本当に、眩しい子だ。私と違って、想いをはっきりと伝えることが出来て、いつも誰かの事を思いやることが出来て―――
    ―――まるであの人のようで、きっと私よりもずっとあの人にお似合いで―――

  • 83二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:42:29

    「……っ」
    「あ、あれ? アヤベさん?」
    思った途端、胸が強く痛んだ。あの人の隣にいるのがトプロであるという想像をしたその途端、まるで妹を失った事を自覚した時のように胸が強く強く痛んで―――
    ―――あぁ……
    自分が、どれほどあの人―――北原さんの事を思っているのか、その隣の場所をどれ程までに望んでいるのかを自覚させられて―――
    『だってお前、アドマイヤ『ベガ』だろ』
    自分がいつからあの人の事を好きになったのかを思い知らされて―――
    『自分の気持ちに素直になって物事を見たほうがいいと私は思うよ』
    自分がどれ程素直な性格でないのかを、改めて思い知らされた。
    ―――思えば……
    思い返してみれば、もしも私が自分の気持ちをもっと素直に見つめられる性格で、物事を素直に受け止められるだったのなら―――、私は妹とあの草原でもっとお話が出来たかもしれないし、もっと違う妹との結末があったかもしれないし、もっと早くにあの人の隣にいられたかもしれないし―――、今頃もう既にあの人の隣にいられたかもしれない。
    『お姉ちゃんはもっと素直になった方がいいんだよ』
    「……えぇ―――、そうね……」
    あの子の言葉が、心に染み入ってくる。
    「……アヤベさん?」
    トプロの事を、羨ましく思う。思えばトプロは、出会った時から、素直で、真っ直ぐで、走り方みたいに、大きい一歩一歩で他の誰かの懐へ一気に飛び込んで―――、そして飛び込んだ誰かの胸を開かせてしまう。
    「あ、あの……」
     この子がいたから、私は今のチームに入れたのだ。この子がいたから、私は北原さんに出会えたのだ。この子なら、確かに、あの、お人好しの隣にも合うと思う。いてもおかしくないだけの優しさと素直さを持っていると思う。―――けれど……。
    「ごめんなさい、トプロ」
    「はい?」
    「あなたにはこれまでいろいろと助けられてきたわね。ありがとう」
    「あ、アヤベさん?」
    「でも―――」
    「?」
    「実際のレースだけじゃなく恋のレースの方でも―――、私、負けるつもりはないわよ」
    「―――」
     告げるとトプロは、一瞬目を丸くしたのち、けれどすぐさまいつもの人懐っこい笑顔を浮かべたのち―――
    「はい! 望むところです!」
    言った。

  • 84二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:43:19

    ―――あぁ……
     なるほど、これはいい。ちょっと素直になるだけで、誰かが―――大切な友達がこんな屈託ない笑みを浮かべてくれるというのなら、素直になるのも悪くない。勿論、私の事だから、そうそうすぐさまトプロのようにはなれないし―――、完全に彼女のようになることも出来ないだろう。それに、私はそんな事を望んでいるわけではない。今の私の望みは―――
    「北原、ここか?」
    「あぁ。しかし―――大分遅くなっちまったな」
     部屋にある三つの目線が一気にそちらへと向く。そして向けられた三つの視線の先には、そのうちの二つの視線が執心している存在―――北原さんの姿があった。
    「お、アヤベ。体調の方は大丈夫なのか?」
    「えぇ……、おかげさまで、なんともないわ」
    「よかった。いきなり倒れたって聞いたから心配してたんだが―――、オグリの方も割とあれだったんでな」
    「あれ? オグリさんも何かあったんですか?」
    「いや、あったというか―――」
    「北原! それは別に言わなくていいと思うんだ、きたは―――」
    「勝負の後は腹が減るとかで、朝から昼にかけてまで食堂で大量に飯を摂取して―――、おかげでジャージが破れるどころか他の服も着られない位に腹がヤバいことになってて、それで―――」
    「北原―⁉」
     病室へ入ってきた北原さんとオグリさんは仲睦まじい距離感で話し続けている。
    「北原! なんで言ってしまうんだ、北原!」
    「なんでだと思う、オグリ」
    「―――北原……、もしかして怒っているのか……?」
    「当たり前だ! なんだ、あのフードバトルは! 見舞いに行くと言っていたのに、服が着られなくなるほど腹が膨れるまで食い続ける奴が何処にある!」
    「そ、それは……、けどほら、一、二時間くらいで元に―――」
     北原さんとオグリさんは言い合いをしている。というか北原さんが一方的に大きな声でオグリさんの過失を責め立てている。けれど、そのやり取りには互いに悪意がまったく感じられなくて、如何にも互いが互いを信頼している感じがあって、互いに気を置くことの出来ない仲であるというなによりも証のようで―――
    「とりあえず……」
    「一番の強敵はやっぱりオグリさんですね」
    頷き合う。
    「ひぃん……、蚊帳の外ですぅ……」
    か細い声で、ドトウが呟いた。

  • 85二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:44:08

    「どこが元に戻っているんだ! まだ膨れてるだろうが!」
    「き、北原……、捲られて揉まれると流石に恥ずかしい……」
    「自分の頭より膨れた腹を何の恥じらいもなくさらけ出していたオグリが言える事か!」
    「ハーッハッハッハ、ようやくボクらの日常が戻ってきたようだね!」
    「あ、オペラオーさん……」
     煩くて、騒がしくて、夜の静けさとは程遠い、いつもの日常がそこにはあった。真昼、日が沈んで夜が訪れるまでの時間はまだ遠く、そんな時間の中を私は今、生きている。
    『お姉ちゃんも、幸せに―――』
    「―――」
     唐突に声が聞こえた。二度と聞こえないと思っていた声に思わず窓の外を眺めると、真昼の空ではやはり妹の星―――ポルックスが見える事はなくて、見えるのは燦燦と輝く太陽ばかりで、だからポルックスと同じく北極星が見えることもないわけだけれど―――
    「北原! 今日の北原は意地悪だ! 嫌いだ!」
    「ほぉん、そうか。―――よし、トプロ」
    「はい?」
    「ドトウ」
    「はいぃ?」
    「オペラオー」
    「なんだい?」
    「今、下で君らのトレーナーが手続きを済ませてる。終わればアヤベも退院する事が出来るはずだ。だから、今日はアヤベの優勝祝いと退院祝いを兼ねて―――、どこかいい店で旨いものでも食って、パーッと打ち上げをするか!」
    けれど北極星は―――、私が北極星に例えたそんな人は、真昼の時間帯においても、他の眩い輝きを放つ星々に負けない光を放ち、中心に在り続けている。

  • 86二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:46:20

    「北原⁉」
    「あ、いいですね」
    「美味しいもの……、えへへ……」
    「ほう! 宴を催すというわけだね! いいじゃないか!」
     それを素直に羨ましいと思う。あの人みたいになりたいと思う。……ううん―――
    『だとしたら、アヤベもそのうち俺と同じになると思うぞ』
    違う。なりたいじゃない。なろうと思う。私を助けてくれた、あの瞬間に惚れさせた、この北極星みたいな人に―――その人と釣り合う私になりたいと思う。
    「おい、アヤベ」
    『あと一万二千年もすりゃ『ベガ』が北極星に―――天の中心になる。……だろ?』
    声が響く。私たちの生涯は星の命よりもずっと短いのだ。私は一万二千年も待っていられないのだ。
    「……何かしら、北原さん」
    「君が主役だ。勿論来てくれるだろ?」
    私の大好きな人が私を夜から昼の場所へと連れ出そうとしてくれている。だから―――
    『お姉ちゃんはもっと素直になった方がいいんだよ』
    「えぇ……勿論」
    私はさっさと少しだけでも素直になって―――
    『今までありがとうね、お姉ちゃん。お姉ちゃんのおかげで、私、すっごく幸せだった』
    いつかの夜、空の彼方に旅立ったあの子と再会するその時。
    『お姉ちゃんも、幸せに―――』
    あなたの望み通り、私の望み通り、私がどれだけ素直になって、どれだけ幸せになったかを伝えて、あなたを少しでも楽しませてあげられるように―――
    「―――ねぇ、北原さん」
    あなたがくれたこの命を大切に使って、もう少しだけ真昼の空の下を、この私の王子様と一緒に歩いていけるよう―――、頑張っていこうと思います。
    「お、なんだ、アヤベ」
    だから―――
    「……唐突で悪いんだけど、私、あなたの事が―――」
    だからもう少しだけ、私の事を、私があなたの言うよう素直に変わっていけるかを―――空の上から私がそちらへ行くその時まで見守っていてください。

    アヤベルート
    『星の王子様』
    終了

  • 87二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:49:50

    まずはここまで読んでくれてありがとうなんだ。
    これでアヤベさんルートも終わりなんだ。
    残るオペラオールートもオペラオーの具体的なイメージが出来るようになったらこちらに投稿しようと思うんだ。
    その時はまたお付き合いいただけると嬉しいんだ。
    最後にここまでお付き合いいただいて本当にありがとうなんだ。
    また次も読んでくれると嬉しいんだ。

  • 88二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 11:50:41

    こちらこそいつもありがとうございます!!!!
    最高ですね… 北アヤ!

  • 89二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 12:07:56

    ヤバいヤバいヤバい
    アヤベルートめっちゃ大好き…

  • 90二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 19:26:50

    感想…素晴らしい…

  • 91二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 19:27:27

    北アヤ推しになっちゃったよ…

  • 92二次元好きの匿名さん22/05/14(土) 21:34:57

    祝え!
    今ここにまた新たなる概念が誕生したのだ...
    もはやこの流れはとどまることを知らない!

  • 93二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 07:05:43

  • 94二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 13:55:56

    いい…

  • 95二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 21:33:53

  • 96二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:24:09

    オペラオールート
    『ボクのシンデレラ、私の理髪師様』

     五月。それは老いた花びらが舞台を降り、すっかり葉桜が目立つ頃合いの季節だ。木々の間を縫うようにして吹く風のぬくもりは増し、人々の陽気も増幅する。猫は恋し、鳥雲に入り、蛇穴を出ず、亀鳴きて、雲雀が高らかに歌う。まさしく万物が目覚めを自覚し、折々の方法で喜びを表現し始めるそんな季節、けれどボクは―――

    『Jetzt fand ich’s: hört, was euch fehlt! Von Freias Frucht genosset ihr heute noch nicht./判った! あなたたちに欠けているものがわかったぞ! あなたたちは今日、フライアの果実をまだ口にしていないんだ!』
     ガラスに映るボクの姿は美しい。まるで太陽だ。所作の、放つ声の、その一つ一つが、黄金の輝きを以って、世界を眩く照らしあげている。
    『Die goldnen Äpfel in ihrem Garten, sie machten euch tüchtig und jung, aBt ihr sie jeden Tag/彼女の庭園の黄金の林檎は、毎日それを食す間、あなたたちに活力と若さを与えていた!』
     そう。ボクは美しい。ボクは素晴らしい。美しいボクは美しい勝利を重ね続ける事で、はじめこそたった一人の記者しか取材に来なかったボクのところには、いつしか常に百人を超える記者が訪れるようになっていた。
    『Des Gartens Pflegerin ist nun verpflegrin ist nun verpfändet;/だが、庭の番人のフライアは今や人質に取られてしまった!』
    まさにボクの絶対王朝が構築されていた。牙城を崩す存在が現れる事はなく、王朝は絶対と呼べる堅牢さを以ってして、押し寄せる敵をはねのけ続けていた。
    『an den Ästren darbt und dorrt das Obst, bald fallt faul ws hearb./世話がなければ、果実は栄養を得られない! まもなく腐って落ちるだろう!』
    その堅牢な守りを突き破る存在が現れたのが去年の宝塚だ。約一年前、新たに北原トレーナーというパートナーを得たオグリさんは、あっという間に城門を打ち破り―――、ボクの喉元に剣を突き付け、王冠を一つ奪い去っていった。

  • 97二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:24:59

    『Mich kümmert’s minder; an mir ja kargte Freia von je knausernd die köstliche Frucht:/私はたいして口惜しくない……、フレイヤは以前から果実を私にはあまりくれなかった!』
    それを機に、菊花にてトップロードさんが、大阪杯にてアヤベさんが、春天にてドトウがボクの城壁を打ち破り、宝物庫からそれぞれ栄光の王冠を一つずつ奪い去っていった。
    『denn halb so echt nur bin ich wie, Selige, ihr!/私はあなたたちほど純粋な神ではないからだ!』
     春天において彼女たち四バにしてやられてしまったボクは五着に追いやられてしまい、その時気付いてしまった。取材に来ている記者の数が、明らかに少なくなっている事に!
    『Doch ihr setztet alles auf das jüngende Obst:/だが、あなたたちは、あの若さの実に頼り切っていた!』
     栄誉の王冠を四つ奪い取られたボクは、応じてボクの美しさに輝きに陰りが生じているのだという事を自覚させられてしまった。そう。つまり―――
    『Das wußten die Riesen wohl; auf euer Leben legten sie’s an:/巨人たちはそれに気付いた! そして命に狙いをつけた!』
     ボクの前には再び試練の時が訪れたのだ! 
    『Nun sorgt, wie ihr das wahrt!/あなたがたは命をどうやって保つのか、心配する必要がある!』
     ボクは今よりももっと美しくなる必要があるのだ!  
    『Ohne die Äpfel alt und grau, greis und grämlich, /林檎がなければやがてには老いて気難しい顔になり―――』
     ボクが今までのボクよりも更に美しいボクとなった時―――
    『welkend zum Spott aller Welt, erstirbt der Götter Stamm./しなびて笑いの種となり、神々はやがて終焉を迎えるだろう!』
     世間は再び、ボクの美しさと輝きを思い出す事だろう!

  • 98二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:26:10

    『Loge Hör! Lausche hieher!/ローゲよ、聞け! 耳を澄ますがいい!』
     学園のバレエスタジオでオペラの練習を始めてから半日が経過した。
    『Wie Zuerst ich dich fand, als feurige Glut,/はじめて儂がお前を見つけた時、お前は炎だった……』
     舞台はラインの黄金を超え、ヴァルキューレ第三幕第三場の最終、ヴォータンの告白の部分に差し掛かっている。
    『Wie dann einst di mir schwandest als schweifende Lohe;/そしてその後再び儂がお前を見つけた時も、お前は這い回る火炎だった!』
     ワーグナー作『ニーベルングの指輪』は、同じくワーグナー作『ローエングリン』と並んでボクのお気に入りの演目だ。話の主役である白鳥の騎士ローエングリンと英雄ジークフリート―――あらゆる艱難辛苦を乗り越えて栄誉をつかみ取るその姿は、まさしくボクの理想を体現する神話の騎士や英雄―――覇王の姿の具現と呼べるだろうからだ。
    『Wie ich dich band, bann’ ich dich heut’!/わしは今、あの時のようお前を呪縛する!』
     だからこそボクは、行き詰りそうになった時にはこの舞台を演ずる。
    『Hearuf, wabernde Lohe, umlod’re mir feurig den Fels!/昇れ、燃え盛る火炎よ! 儂の為にこの岩山を囲め!』
     ボクはボクを奮い立たせる為に、ボクの美しさを確認する為に、勝ち方を模索する為に、これを演ずる。
    『Loge! Loge! Hieher!/ローゲ、ローゲよ、やってこい!』
     ボクは、ボクが覇王である事を自覚する為にこれを演ずる。
    『Wer Meines Speeres Spitze fürchtet, durchschreite das Feuer nie!/我が槍の切っ先を恐れるものは、この焔を超えるでないぞ!』
     ボクは、ボクが目指す姿をこの胸に刻み直す為に、この演目を演ずるのだ!

  • 99二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:28:29

    「おつかれさん」
    ラストのセリフを言い終えた時、丁度聞こえてきた声に振り向いた。
    「―――北原さん」
    「随分と熱を入れてやってたみたいだな。まさか半日ものあいだやり続けるとは思わなかった」
     言葉に改めて外へ目を移す。見れば始めた時には朝日の白に染まっていたバレエスタジオは、今や夕方の赫に染まっていた。空を鈍い赤光に染める太陽が、西の果てへ沈んでいこうとしている。広がる空が、浮かぶ雲が、地にある全てのものが赤く染まっている光景が、まるで世界の全てが炎に飲みこまれてゆく光景のよう見えたのは、今しがた演じていた演目と役のせいなのだろう。
    「……もしかしてずっと見ていたのかな?」
    「いや、最初と最後の方だけだ。朝来て、ずいぶん熱中してやってるのを見たから邪魔しちゃ悪いかと思って引いて、夕方になって立ち寄ってみたらまだ声が聞こえたものだから覗いてみたら、汗だくのオペラオーが見えたんで、あぁ、多分ずっとやってたんだろうなって思ってな―――、ほれっ」
     言いつつ北原さんはタオルを投げつけてきた。反射的に受け取って、清潔なタオルを顔に押し当てて―――、そして瞬時のうちにじっとりとしてしまったタオルを見て、改めて自分が滝のような汗をかいていたのだという事実に気が付いた。心臓は早打ち、全身の血管に焼くような熱さの血液を送り出し続けている。あと少し気付くのが遅かったのなら、熱中症で倒れてしまっていたかもしれない。
    「心遣い、ありがたく受け取ろうじゃないか!」
     なので、ありがたくその心遣いを受け取る事とした。髪を拭い、首筋を拭い、汗だくになっているジャージと体操服の湿り気をわずかだけ分け与え―――、そしてようやく、人心地がついた。
    「芝居がかってるなぁ……」
     いいつつ北原さんは近づいてくると、濡れたタオルを回収して袋へ突っ込み、透明な自前のボトルに入ったスポーツ飲料を差し出してきてくれた。

  • 100二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:29:49

    「ありがとう!」
     無言で手を振って礼を受け取る北原さんを前に、さっそく口を開けて飲料を飲む。口にしたそれは当然のように少しだけ冷たかった。日常において水分補給を行う際には体温とあまりかけ離れている飲み物を飲むのはよろしくないが、激しい運動をした直後なら冷たい方が水分の吸収が早くなるので効果的だというのは、トレーナーなら誰しもが知っている常識だ。更に多分は、今日の湿度にも合わせて調整されているのだろうそれは、半日以上も動き続けて疲労の溜まった体にはとても染み入ってくる美味しさのものだった。
    「感謝するよ!」
     体が求めるまま迷いなくそれらを全て飲み干すと、ボトルを北原さんに返す。
    「おう」
     返却されたそれを受け取る北原さんの手は、年相応に多少枯れていて、よく見れば姿も若人というよりは老人じみていて―――、不意に、思う。
    「北原さんは―――」
    「うん?」
    「ヴォータンのような人だね」
    「……ヴォータン?」
    「そうさ」
    思いつくままに、言う。
    「天上に住む神々の主神! 多くの気に入った存在に智慧を与え、栄誉を手にする力を与え、それ以外の人が栄誉を得る機会を遠のける存在! 人々から女神のキスを奪う存在!―――いや、まさに北原さんはヴォータンみたいな人だと言えるだろう!」
    「……え、と」
     言うと、それを聞いた北原さんは少しだけ額に片手を当てて考え込む仕草をした後―――
    「―――担当以外のウマ娘からウイニングライブでうまぴょい伝説を歌う機会を奪うほど優秀なトレーナーだって言ってくれてるのか……?」
    「そうだとも! 流石は北原さん!」
     理解を得られた事に、気分良く拍手喝采を送ると、一通り送り終えたのちに止め、再び口を開く。

  • 101二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:30:51

    「人々の興味、気持ちというものは移ろいやすいもの……。彼らの興味と視線は常に勝利したものへ向けられ、けれど如何にその対象が勝利しようとも、その対象が負けを重ねるごとに彼らの興味と視線は別の勝利した存在へと向けられるようになる……」
    「……まぁ、そりゃ―――」
    「故に、宝塚でオグリさんに敗北を喫して以降、美しいボクに向けられる興味や視線の数も減ってきた。菊花、大阪杯、春天を経て、記者の数も減ってきている。数えてはいないが、おそらくファンの数も減ってきている事だろう」
    「ん……」
     言うと北原さんは、ばつが悪そうに視線を逸らした。責められたように感じたのだろう。なんとも感受性の高い人だ。
    「おっと勘違いしないでくれたまえ! 別に責めるつもりはこれっぽっちもないんだ!」
    「ん?」
    「ボクはね! むしろ北原さんに感謝しているんだ!」
    「―――感謝?」
    「そうさ! 優れた演劇には優れた主人公役と優れた敵役が必要だ! 人々は虐殺を見たいのではない! 人々が求めているのは、英知や力量に優れている敵役を、それを更に超えた英知や力量を発揮して打倒する優れた主人公なんだ!」
    「―――」
    「そうとも人々に夢と希望を見せるには優れた主人公役と優れた敵役が必要だ! 人々が見たいのは、虐殺ではなく、血肉を削って覇を争い合う姿なのさ! だからこそ、ボクの敵となり得る存在を多く生み出してくれた北原さんに、ボクは大いに感謝しているよ!」
    「あ、あぁ……、そりゃありがとう……」
    「けれども、だからこそ今、ボクは悩みを抱える事となったのさ! 北原さんが用意してくれたボクの優れた敵役を、ボクという主人公はどうやれば美しく破る事が出来るのだろうか、とね!」
     ビシッ、と、手袋を投げつける勢いで人差し指で北原さんを指し示すと、北原さんは苦虫を潰したような、羞恥を噛み殺したかのような、苦々しさを覚えているのか照れているのかよくわからない表情を浮かべたのち、口を開いた。
    「いや、まぁ―――あぁ、だが、君のようなウマ娘にいってもらえると光栄だよ」
    「そうだろう、そうだろう!」
     そうして返ってきた言葉に、機嫌よく首肯を繰り返すと―――

  • 102二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:31:41

    「なんたって君は、一年無敗という誰も成し遂げた事のないとんでもないことをやり遂げたウマ娘だ。あの一年の間、誰もが君を倒そうとして、けれど誰もがそれを成し遂げる事が出来なかった。君は人々の間で人気が下がったと言っているが、少なくとも俺たちトレーナーとウマ娘の間では、今でもまず真っ先に名前があげられ、真っ先に対応策を考えないとならない存在だ。なんたって、君は、囲いを用意しても、するりと魔法のように抜け出て行ってしまい、気付くと一位を取ってしまっている。まさしく覇王と呼ぶにふさわしい走りだ。少しでも油断があると、すぐさま一着を取られてしまう。だからこそ、他のウマ娘たちも、それが王道ではないとわかっていながら、互いに協力してのブロックなんかの策に出ざるを得なくなる。―――俺が言うのもなんだが、宝塚でオグリが勝てたのも、君という優れたウマ娘が常に他の多くのウマ娘からブロックされて体力を削られてくれるから、という部分によるところが大きい。トプロもアヤベもドトウも同様だ。そう。思うに、彼女たちが勝てたのは君が優れているからなんだ。あの一年で君が築き上げた栄光が大きすぎるが故に、多くのウマ娘は君を最大の敵として認識し、結果として君は多くの妨害を受け―――、それが隙となってしまう。だが、裏を返せば、やはり君は、今でもそれほどまでに多くのウマ娘から注目されている、スター的存在という事だからな」
     息を全く吐かない勢いで言葉を放ってきた。
    「―――」
     予想外のところから飛んできた刃に、思考が完全に停止させられた。息つく間もなく放たれた故に、それが北原さんの嘘偽りのない言葉であるとわかるが故に、どうもいつもとは異なり、気恥ずかしさばかりが湧き上がってきて―――
    「は」
    「は?」
    「ハーッハッハッハ、流石は北原さん! そうまで手放しに褒めてくれるとは光栄だよ! 成程、成程、そうすると北原さんもボクの熱烈なファンの一人だったというわけだね!」
    いつもの道化の仮面を被って語り、気を静めようとするも―――

  • 103二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:32:44

    「あぁ、確かにそうだな」
    「―――」
    「寝ても覚めても、オグリのレースの対策で真っ先に思い浮かぶのはオペラオー、君だ。それなら確かに、俺はオペラオーの大ファンといえるだろう」
    「ぅ……」
    まいった。こういう、想定していないところから想定していない真っ直ぐの言葉と感情が飛んで来るのは苦手なのだ。覇王のボクの仮面にヒビが生じ始めている。どうすれば。果たしてどうすればこの窮地を脱し、いつもの覇王としてのボクに戻ることが出来るのか―――
    『あの一年で君が築き上げた栄光が大きすぎるが故に、多くのウマ娘は君を最大の敵として認識し、結果として君は多くの妨害を受け―――、それが隙となってしまう』
    思った瞬間、それを解決するにはこれだというような言葉を思い出させられて、所作も思考もそのなにもかもを停止させられた。
    「―――」
    「……オペラオー?」
    『宝塚でオグリが勝てたのも、君という優れたウマ娘が常に他の多くのウマ娘からブロックされて体力を削られてくれるから、という部分によるところが大きい』
     先程北原さんの述べた言葉が脳裏に蘇る。
    『王道ではないとわかっていながら、互いに協力してのブロックなんかの策に出ざるを得なくなる』
    「―――そ」
    「そ?」
    「それだ!」
    「うわっ……⁉」
     訪れた天啓に思わず仮面を被るのを忘れ、素の自分のまま叫んでしまう。
    「ありがとう、北原さん! 成程、やはり困ったときに頼るべきはミーミルの泉の水を飲んだ知恵者というわけだね!」
    「あ、あぁ―――えぇ?」
     目を白黒させる北原さんの手を強引にとると、思い切り上下に振って感謝の意を示す。
    「では北原さん! ボクは英雄ジークフリートに比肩する覇王の座を取り戻す準備をしなければいけなくなった! 申し訳ないが楽しいお茶会はここまでにさせていただくよ!」
    「いや、構わないが―――……お茶会?」
    「ではさらばだ、北原さん!」
     首を傾げる北原さんを置いて、バレエスタジオを後にする。見れば空は先程と全く同じく焔に包まれたかのような赫さを保っていたけれど、その赫さは既に槍を打倒する手段を思い付いたこのボクにはなんの障害にもなりはしなかった。

  • 104二次元好きの匿名さん22/05/15(日) 23:36:45

    保守や感想いつもありがとうなんだ。
    取りあえずオペラオーの起になるんだ
    だいぶ苦戦したので口調やらに違和感があるかもだけど許してほしいんだ。
    次も読んでくれると嬉しいんだ。

  • 105二次元好きの匿名さん22/05/16(月) 03:30:09

    ありがとうございます!

  • 106二次元好きの匿名さん22/05/16(月) 06:11:30

    オペラオーはどうなるかな……

  • 107二次元好きの匿名さん22/05/16(月) 15:44:32

    良き...

  • 108二次元好きの匿名さん22/05/16(月) 23:26:35

  • 109二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 06:55:26

  • 110二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 10:54:31

    初代スレからぶっ通しで読んできた
    場末の掲示板にとんでもねえお宝が眠ってたぜ

  • 111二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 13:23:48

     一昨夜、関東では雲の峰か激しい夕立が降り注いでいた。朝方に収まったそれの残渣の風が府中の西の青野の匂いを運んできたことを覚えている。梅雨明けが宣言されたのは、その直後の事だった。今頃夏野には爽やかな青嵐が吹いている事だろう。全国的に程よい乾湿の状態となった空気は梅雨の長雨の檻に閉じ込められて鬱屈とした気分であることを強いられていた人々に大いなる開放感を与えたらしく、ここ阪神競バ場の空気はこれまでにないほどの熱気と興奮に包まれていた。人々の歓声が飛び交う中、図らずもこのボクも彼らと同様の気分だった。長雨の終わりに長らく凋落し続けていた王朝を復活させる時がやってきたのだと確信させられたのだ。
    ―――そうとも!
     全身を巡る血液が熱くなっているのを感じた。全身を巡る血液の勢いは、体を内側から破裂させてしまいそうな勢いだった。全身がこれほど不安と喜びと興奮に満ち溢れているのは久しぶりだった。
    「そうだとも!」
     耐えきれず叫ぶ。周囲にいる幾人かは一瞬体を浮かせるほどに驚き目を向けてきて、けれどそれがこのボク―――テイエムオペラオーだと認識した瞬間『あぁ、またいつもの事か』と言わんばかりに興味を消失したといった体裁で目線と意識を逸らしていった。
    ―――今はそれで構わないとも!
    今、この阪神競バ場にいるものたちの目線は、前回優勝者のオグリさんや春天制覇者のドトウ、大阪杯制覇者のアヤベさん、菊花制覇者のトップロードさんの方へと多くが向けられている。勿論前年度それ以外の有馬を代表に多くレースを制覇したこのボクにも多くの目線が向けられているが、その数は依然と比べると相当に少ないものとなっている。それはまさしくかつてに築いたボクの絶対王朝が凋落し、世が群雄割拠状態だという何よりの証だ。
    ―――だが!
    「その騒乱に今日ボクが終止符をうつ!」
     宣言に視線と意識が再び一瞬だけボクの方へ集中し、けれど再び散ってゆく。そう。ボクの今の注目度は所詮その程度だ。けれどなに、かつて住まいし祖国を追われた王族が失った亡国の支配権を賭けて争うものたちのところへ訪れその座を取り戻すというシナリオは、過去より飽きる程に上演されてきた王道のシナリオの一つだ。
    「そうとも! あとは奪われた王冠をこの手に取り戻すだけというわけさ!」
    蒼空に吠える。宣言はあっという間に雲一つない阪神の空を通り抜けていった。

  • 112二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 13:24:29

    「さぁ、始まりました宝塚。まず飛び出したのはご存じ覇王テイエムオペラオー。いつも通り調子のよい滑り出し。遅れて数名のウマ娘たちが速度を上げ、先頭を行くテイエムオペラオーの前へと―――」
    『なんたって君は、一年無敗という誰も成し遂げた事のないとんでもないことをやり遂げたウマ娘だ。あの一年の間、誰もが君を倒そうとして、けれど誰もがそれを成し遂げる事が出来なかった』
    それは聞かされてみれば簡単な話だった。
    「あっと、これは⁉ ―――なんとテイエムオペラオー、いつもと異なり、ここで更に速度を上げた! テイエムオペラオー抜かせない! テイエムオペラオー、先頭を後方からやってきたウマ娘に譲ることなく、ひたすら先頭を保ち続けていきます!」
    『君は人々の間で人気が下がったと言っているが、少なくとも俺たちトレーナーとウマ娘の間では、今でもまず真っ先に名前があげられ、真っ先に対応策を考えないとならない存在だ』
     あの日、北原さんの言葉に、美しいボクがけれどどれほど愚かしいことに栄光に胡坐をかくような真似をし続けてきたのかを思い知らされた。
    「テイエムオペラオー、独走! 他のウマ娘が自らの陰を踏むのを許さないとばかりに速度をあげ、ひたすら先頭を突き進んでいきます!」
    『君は、囲いを用意しても、するりと魔法のように抜け出て行ってしまい、気付くと一位を取ってしまっている。まさしく覇王と呼ぶにふさわしい走りだ。少しでも油断があると、すぐさま一着を取られてしまう』
     直前まで先頭集団に属し、最期のカーブ付近で一気に抜かし、先頭へ躍り出る。先行、もしくは差しという戦法がテイエムオペラオーというボクに最も適したやり方だった。実際、一年の無敗を保っていた頃はずっとそのやり方で勝ち続けてきた。―――けれど。
    「テイエムオペラオー、早い! 早い、早いが、早すぎます! ここはスプリントではないんだぞ! テイエムオペラオー、これまでに見た事もないペースで先頭を突き進んでゆきます! このペースで走り続けて最後まで持つのでしょうか⁉」
    『俺が言うのもなんだが、宝塚でオグリが勝てたのも、君という優れたウマ娘が常に他の多くのウマ娘からブロックされて体力を削られてくれるから、という部分によるところが大きい』
     それが通用しなくなった。―――いいや、通用しにくくなった。

  • 113二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 13:25:03

    「テイエムオペラオー、早い! テイエムオペラオー、早い! 一転して大逃げの姿勢を保つテイエムオペラオー、他のウマ娘をまったく寄せ付けずぐんぐんバ身差を広げていきます!」
    『思うに、彼女たちが勝てたのは君が優れているからなんだ。あの一年で君が築き上げた栄光が大きすぎるが故に、多くのウマ娘は君を最大の敵として認識し、結果として君は多くの妨害を受け―――、それが隙となってしまう』
     ボクの築いた栄光が、ボクの障害となっている。ボクを栄光の座にまで押し上げた戦い方が、ボクの栄光を維持する為の重荷となってしまっている。愚かしい事にボクは、あの日北原さんに指摘されるまで、その事に気付かず過ごしてきてしまった。―――いいや思うに、ボクはどこかで心の底でその事に気付いていながら、その勝ち方があまりに王道、あまりに美しすぎた為、それ以外のやり方に目を向けないようにしてきたに違いない。
    「第二コーナーを回っての直線で既に六バ身! テイエムオペラオー、これはもはや暴走ではないのか⁉ 持つのか⁉ テイエムオペラオー、本当に大丈夫なのか⁉」
     常に先頭集団に属し、最後の直線でするりと抜け出して勝つというやり方は、あの皇帝シンボリルドルフも愛した、美しく、優雅で、―――最も労力を要しない勝利の仕方だ。汗臭さも泥臭さもなく、常にその後のウイニングライブに回す余力を残せるやり方だ。
    「おっと、異常事態を察知したのか、オグリキャプ、ナリタトップロード、メイショウドトウといった各本命バが、いつもとは違うこの位置で仕掛け、先頭集団から抜け出てテイエムオペラオーを追走の体勢に入っていった!」
     だから、負けた。余力を残して終わらせようとするものが、死力を尽くして走りぬこうとするものに勝てるはずがない。一年間勝つのが当たり前で無敗で玉座にあり続けていたボクは、まさしく傲慢で怠惰な革命の剣で刺し貫かれて当然の愚王に成り下がってしまっていたのだ!

  • 114二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 13:25:37

    「追いかける本命バ、逃げ続ける覇王! 本命バたちが全力で追いかけるも、既に生まれたバ身差はなかなか縮まらない! 覇王、ほとんど暴走のような爆走を続けている!」
     だから、鍛え直した。彼らの度肝を抜く準備は十分にしてきた。ウイニングライブの事なんて考えない。華やかな勝ち方を目指すのはいったん忘れる。それが許されるのは、その手に王冠を持つ者だけだ。宝塚、今のボクは挑戦者だ。今の宝塚の王座はオグリさんのものだ。勝つ為の戦略は練ってきた。戦術を実行出来るだけの体力と体も作ってきた。聖杯も指輪も用意した。ならばあとは―――
    「短距離じゃないんだぞ⁉ ここは宝塚だ! なのにテイエムオペラオー、まるでスプリンターのような全力の走りでひたすらに宝塚のバ場を凄まじい速度で駆け続けてゆく!」
     泥臭くていい。華麗さは後回しだ。今のボクは王ではない。今のボクは挑戦者だ。必要なのは華麗さではなく、必死さだ。負けないという停滞の心意気でなく、絶対に勝つという未来へ向けて前進する気概だ。
    「テイエム来た! テイエム来た! ラストのコーナーを抜けて、テイエムが来た! 残るは最後の直線のみ! 残る直線をテイエムが全力で駆け抜けていく!」
     心臓が破裂してしまいそうだ。体中が悲鳴をあげている。一歩踏み出すごと訪れる衝撃に足が折れてしまいそうだ。振るたびに手が捥げてどこかへ飛んでいってしまいそうだ。
    「オグリも来た! ナリタも来た! メイショウドトウも来た! アドマイヤも来た! だがそこにテイエムはいない! テイエムはすでに十バ身先だ! 先頭を行くテイエムは既に遥か彼方を大逃げしている!」
     余裕はない。一瞬油断して一歩でも足を滑らせたのなら、その時点で足が二度と使い物にならないだろう予感がある。折れるか、砕けるか、千切れるか―――あるいは、ショックで心臓が停止してしまうかもしれない程の速度と力でターフを踏みしめ、蹴り続ける。

  • 115二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 13:26:10

    「四バが圧倒的速度でテイエムに迫ってゆく! 圧倒的だ! 四バもここがスプリントであると言わんばかりの速度だ! 最終コーナーから飛び出した四バは後方集団を置き去りに圧倒的な速度でテイエムオペラオーへ迫ってゆく!」
     後方から迫りくる彼女らはそれに値する強敵だ。この日、この時、この瞬間、この走りの後に二度と戦えない体になってもよいという覚悟を以って挑まなければならない、愛すべき好敵手だ。だから―――
    ―――だからこそ、勝つ!
    「だがテイエムはこれを許さない! テイエム独走、テイエム独走、テイエム独走!」
     両手も両足も悲鳴をあげ続けている。手を振り足を振り下ろすごとに筋肉が千切れているような感覚がある。喉が痛い。肺が壊れそうだ。全身のあちこちくまなくが火に触れているのかと思うくらいに熱い。これではレースが終わった後、しばらくの間、まともに動く事もままならないだろう。最悪、後遺症が残るかもしれない。けれど―――
    「テイエム独走! テイエム独走! テイエム独走ォォォォォ!」
     そんなこと、今のボクには関係ない。今にも倒れそうな体に鞭を入れ続ける。とっくに切れたスタミナをそれでもどうにか絞り出して、体を前へ押し進める為のエネルギーへと変換する。王冠がずれ落ちそうだが、気にしない。そうとも、ボクが欲しいのは飾りの王冠じゃない。ボクが欲しいのは―――
    「我こそが覇王だ! もはや二度と王冠は渡さない! テイエム、テイエム、テイエムオペラオー、これが覇王の走りだといわんばかり最初から最後まで誰にも自らの影を踏ませないまま独走し―――、今、圧倒的なバ身差をつけて、ゴォォォォォォォォル!」
    目の前に自分以外の誰もがいないこの光景だ! 全てを賭けて走り抜けていった先にある、あらゆる強敵を打ち破った後にのみ手に入る真の王冠ただ一つだけなんだ―――!

  • 116二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 13:26:44

    いつも保守や感想ありがとうなんだ。
    嬉しく読ませていただいているんだ。
    ちょっとSSと話題がずれるけれど、今日はテイエムオペラオーの命日なんだ。
    なのでこれを読んでくれた人も動画なんかを見て活躍を思い出してくれると嬉しいんだ。
    閑話休題なんだ。
    次もまた読んでくれると嬉しいんだ。

  • 117二次元好きの匿名さん22/05/17(火) 15:58:28

    今回もありがとうございます!!

  • 118二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 00:00:00

    保守

  • 119二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 00:04:11

    どうしよう…寝ようと思ってたのにすごい俺得なスレを見つけて読み込んでしまった
    興奮して寝られない…!

  • 120二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 09:56:06

    ほしゅ

  • 121二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 17:10:17

     七月。宝塚で一着を取ってから数日後。しばらくの保健室通いでようやく全ての包帯と湿布が取れ、明日からの軽めの運動の許可も下りて、天上にも昇る気分でその日は一日を過ごしていた。
    ―――あぁ……
     軽くなった心で、考える。夏はいい。夏は美しいものに満ち溢れている。夕方、日が沈むにつれて僅かだけ気温が下がって涼しくなっている空気の中には、夏の到来を祝福するかのよう、早々に目覚めた蝉の声が響いている。黄昏時、茜色に光る空の下で聞く蝉の合唱は風情があって最高だ。あと少しして夜の帳が落ちれば自然とこの音色は明日の朝まで途切れてしまうのだろうし、もしかしたらこのうちの何匹かの蝉の鳴き声はもう二度と聞こえないものとなってしまうのかもしれないけれど―――、だからこそ一瞬一瞬今を必死に生きているという事を主張するかのよう奏でられるこの合唱は、一期一会の得難い美しさがあると感じられるのだろう。多分これが枯山水、侘び寂びの美というやつなのだ。ともあれ、久しぶりにG1で勝てて―――宝塚の王冠を取り戻せて気分は上々なところ、見える美しい夕焼けの光景、聞こえてくる美しい蝉の合唱に、気分は更に上昇状態にあった。そんなところ―――
    「やぁ、北原さん! ご機嫌いかがかな!」
    目の前の地面に唐突に表れた黒く長い影の根本、長身の頭にハンチング帽が乗っけた姿を見つけた瞬間、気付けば声が出ていた。
    「あ、あぁ、オペラオーか……」
    ―――おや?
     返ってきた声の張りのなさとわずかばかり肩を浮かせてみせた態度に違和感を覚えた。よくよく見てみると、服の皴はいつも以上に目立つようなっているし、目元もいつも以上にたるみが生じている。これは―――
    「ははぁ、北原さん! さては、今日は、ご機嫌が麗しくないのだね⁉」
    「―――」
     言うと北原さんは一瞬呆けた顔をした後、一瞬のうちに頬を緩め、短く太い吐息を一つ漏らしたのち―――
    「あぁ……そうだな」
    言った。
    「それはいけない! よければ美しいこのボクにその胸の内を開いてみたまえ!」
    「……はは―――」
     すると北原さんはどうも言おうか言うまいか煮え切らない顔を浮かべたのち―――
    「ちょっとオグリの事でね……」
    まさしく苦笑いとしか言いようのない表情で言った。

  • 122二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 17:12:00

    「オグリさん―――」
     言葉に、北原さんが誰のトレーナーであったのかを、思い出す。瞬間に、わずかばかりだけ罪悪感が湧いて出た。何故ならおそらく北原さんの憂い顔の原因はオグリさんが宝塚でボクに敗北を喫して二着であった事と関連しているだろうからだ。トップロードさんらから聞くところによると、宝塚以降オグリさんは調子を崩しているらしい。どうにも呆然としていることが多く、食事量が減っており、練習にも身が入っていない様子だと聞く。おそらく北原さんの悩みはそのあたりの事と関係しているのだろう。ならば、オグリさんの不調の原因はこのボクにあると言っても過言ではなく。故にわずかばかりだけ罪悪感が湧いて出てきたが、遅れて強者同士の真剣勝負の結果なのだから情けは無用だろうという強い気持ちと、ともあれ目の前に曇り顔があるのならば晴らすのがボクの使命だという想いが湧き上がってきて―――
    「成程、わかったよ、北原さん!」
    「―――え……、なにが……?」
    「つまり北原さんは、オグリさんの事で胸を痛めて落ち込んでいる、というわけだね!」
    「あ、あぁ……、そうだけど……」
    「なら、美しいこのボクを見て、このボクの動きの真似をするといい!」
    「―――は?」
    気付くとそんな事を言っていた。
    「気分が優れないとき―――、落ち込んでいるとき―――、人はそんな時に太陽を見ると元気を貰うことが出来る! 美しいものを見ると、動きを真似ると、気分が向上する! そういうものなのだ! 逆に、気分が落ち込むからと言っていつまでも落ち込み続けていては、気分はいつまでたっても落ち込んだままになる! だから―――」
    「だから……?」
    「ハーッハッハッハ、さぁ、北原さん! 美しいボクの真似をしようじゃないか!」
    「えぇ……」
     北原さんはひどく困惑した表情と態度で、背を軽く仰け反らせてみせた。
    「さぁ!」
    「は、はーっはっはっは……?」
    「そうだとも! さぁ、もっと大きく! 胸を張って、腰に両手を当てて!」
    「こ、こうか……?」
    「そうだとも! さぁ、一緒に! ―――ハーッハッハッハ!」
    「は、はーはっはっは」
    「いいね! だが、まだ恥じらいがある! ハーッハッハッハ!」
    「は……、ハーッハッハッハ」
    「その調子だ! ハーッハッハッハ!」
    「ハーッハッハッハ!」
    「エクセレント! ハーッハッハッハ!」
    「ハーッハッハッハ!」

  • 123二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 17:13:19

    沈みゆく日の光に照らされて何もかもがゆらゆらと揺らめく中、それでも唯一確かに我はここにあると主張するよう、二人揃って茜雲の下で声高らかに笑い声をあげ続ける。そうして茜色の空に二人で笑い声を溶かし続けていると。
    「は―――、っは、は、こほっ、こほっ……」
    北原さんは先に限界が来たようで、軽く喉を抑えながら数度咳払いをした。
    「ハーッハッハッハ、どうやらボクの勝ちのようだね!」
    「勝ちって、勝負していたわけでもあるまいし―――」
    「なに、一度同じ土俵の上で同じことをやりだしたのなら、それはもう勝負と呼べてしまうものなのさ! だが、―――ともあれ、どうだい⁉ 落ち込んでいた気分は晴れてくれたことだろう⁉」
    「はは……、っ、こほっ」
     自然のものとわかる笑いを漏らした北原さんはその後一度だけ咳払いをすると、喉を何度か大きく鳴らして息を整えたのち、微笑を浮かべた。
    「確かに、君の真似をしたら少し気が晴れた。元気を貰ったよ」
     頬の柔らかく緩んだその笑顔は、とても自然に混じり気がなく、純粋で、心の底からそう思っての言葉なのだという事が一目でわかるもので、それ故にひどく美しいと思えるもので、故に、不覚な事に一瞬だけボクはその笑みに見惚れさせられて。
    「だろう、北原さん! あぁ、流石は美しいボク! ハーッハッハッ―――」
    けれど、その事実と不覚を上書きするよう、大声で言ってのけ。
    「そうだな。流石は美しいオペラオーだ」
    「ハ」
    けれど、そんな道化的に出した虚勢じみた大笑いの声は、再び放たれた本心からのものであるとわかる声色のそれとその言葉を放つ際に浮かべられていた多少影を帯びつつも大まかには満面と呼んで差し支えない真っ直ぐな笑みによって、停止させられてしまった。
    「―――」
     蝉の鳴き声がいつの間にか止んでいた。世界は先程まで以上の燃え上がるような赤色に染まっていた。刻一刻と世界の色が変化し続けていた。伸びる影法師が世界を闇色に染め続けていた。今でこそ赤一色の世界は、やがて黒一色にのみ染めあげられていっていた。今日という一日が終わりを告げる寸前。なにもかもが眠りにつく直前。なにもかもが夢の中へと揺蕩ってゆく直前に見た真実の色ばかりが浮かび上がっている確かな笑顔に、常々道化の仮面を努めて被り続けているボクは、だからだろうか思わずボクの魂が抜け出たかと錯覚する程に見惚れさせられて―――

  • 124二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 17:14:01

    ―――キーン、コーン、カーン、コーン……、キーン、コーン、カーン、コーン……
    「……おっと」
    「……!」
    さなか、聞こえてきた帰宅を促す鐘の音色に空へ飛び出ていた魂を引き戻された。
    「もうこんな時間か」
    「……」
     心臓が早鐘を打っている。道化の仮面はいつの間にか剝がされてしまっていた。夕焼けが赤い。日が沈んでゆく。夕焼け空がやけに低く感じられた。自らの影が地面の上でのたうつ姿を見た。遠くから誰かの挨拶の声が聞こえてきた。全身が熱い。両頬は燃えるよう熱い。胸打つ鼓動がやかましい。脳裏はわけのわからない言葉で埋め尽くされている。燃え上がるような夕日が全てを照り付け、揺らめく日の光を浴びて何もかもがゆらゆらと不確かに揺れ動く幻惑的な世界の中、融通利かない頑迷さがあるとわかるその横顔とロマンスグレイのその姿のみがまるで確かな実像を持っている唯一の真実であるよう感じられて―――
    「……オペラオー?」
    「―――!」
    そんな重みをもつ声が自らの名を呼んだのをきっかけに意識は再び現実へ引き戻された。
    「……具合でも悪いのか?」
    「……は」
    「オペラオー?」
    「ハーッハッハッハ!」
     必死に努めて道化の仮面を被りなおして、叫んだ。
    「なに、北原さんの背にある太陽とボクの輝きが混じって生まれる光があまりに眩しく、あまりに美しすぎてね! 流石のボクも思わず見惚れてしまった、というわけさ!」
    「……おう。そうか」
    「―――」
     北原さんは笑う。ハンチング帽の鍔のすぐ下にある、茜色に濡れて灰色味を帯びた白髪交じりの長い睫毛が濡れたかのように綺麗だった。笑顔に歪んだ顔面と目尻に刻まれた皴の数に、これまでどれ程の苦悩を抱え、悩んできたのかを見たような気がした。不条理に耐えて、不服を呑み込んで、道化を演じて、自らの不明と実力の多大な不足を理解して、それでもまだ夢を諦めて堪るものかと叫び抗い続ける存在にしか浮かべることの出来ない赤と黒の境界にある灰色に染まるその人を、今この世界に在る他の何より美しく思った。

  • 125二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 17:14:53

    「とにかく、もうこんな時間だ。オペラオーも門限が来る前に帰った方がいい」
     思わず目を逸らしてしまったのは、そうしなければ再び言葉を発する事すら出来ないとそう直感させられたからだろう。
    「あぁ、あぁ―――そうだね」
     思惑通り動くようになった体を用いて、真実の美しさを前に剥がされかけていた仮面をどうにか強引に被りなおすと、どうにか目線を合わせつつ、たったそれだけを口にした。
    「じゃあな」
     すると当然のように北原さんは言って、踵を返した。日が沈んでゆく。何もかもが影の中に呑み込まれてゆく。夕日の赤が夜の黒に染め上げられ、綺麗だった灰色が目の前から消え失せてゆく。
    「あ―――」
     一期一会の機会を惜しむよう、親の背を追う幼子のよう、影の中に消えていこうとする細く大きい背に自然と手が伸びていた。さてはそれは闇の中へ完全に消えてしまったあとでは、何故だろう、二度とその美しさに触れる機会が訪れない気がしたからなのだろう。
    「ん?」
     伸ばした手と小さく呻くよう出したボクの声に気付いた北原さんは立ち止まり、振り向いた。途端、そして向けられた頓狂な表情の浮かぶ透明な顔をどうにか再びボクの色に染め上げたいという欲求が不意に湧き出てきて―――
    「―――き、北原さん!」
    「ん?」
    「元気が出るというのなら、明日もボクの美しい顔を見せて真似をさせてあげようか⁉」
    反射的に道化の仮面のボクから出たのか本心から出たのかわからない言葉を口にして―――
    「―――あぁ、そうだな。機会があればよろしく頼むよ」
    「―――勿論だとも!」
    返ってきた声にボクたちは内心同時に諸手を挙げて喜びつつ同じ色の声を返していた。

  • 126二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 17:18:23

    ここまで読んでくれてありがとうなんだ。
    いつも感想や保守ありがとうなんだ。
    なんとかオペラオーにも慣れてきたつもりなんだ。
    まだまだ違和感はあるかもだけど許して欲しいんだ。
    次も読んでくれると嬉しいんだ。

  • 127二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 17:25:46

    今回もありがとうございます!!

  • 128二次元好きの匿名さん22/05/18(水) 22:30:31

    保守

  • 129二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 02:39:22

    楽しませてもらってる
    おつほしゅ

  • 130二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 12:14:41

  • 131二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 20:14:44

    次の日。
    「やぁ、北原さん! ご機嫌麗しゅう!」
    「オペラオー……?」
     昨日よりもまだ日が明るいころ、ストレッチと軽めの運動だけを済ませたのちお目当ての部室を訪ねると、予想外な事に部屋には一人しかいなかった。
    「……、もしかして昨日のあれはマジのつもりだったのか?」
    「勿論さ! ―――ところでオグリさんとベルノさんは?」
    「あいつらなら、笠松に里帰りしてるぞ」
    「……え?」
     部屋の中へと足を踏み入れつつ話しかけると、返ってきた言葉に驚かされる。
    「里帰り?」
    「昨日の俺と同じくオグリもだいぶ腑抜けてたからな。気合を入れ直してもらうために、この週末を利用して向こうの知り合いに会いに行かせることにしたんだよ」
    「北原さんはいかなかったのかい?」
    「俺は―――、これがあるからな」
     北原さんは目の前の机の上に置かれた大量に積み上げられたノートと幾冊もの専門書と開かれているノートを叩きながら、言った。
    「一足先に元に戻った俺にはオグリの為にやっとかならなきゃなんねぇことが山ほどある。俺の気合は昨日、君に入れ直してもらえたからな」
    「―――」
    その突然の何の含みもない誉め言葉に一瞬だけ、仮面を剝がされかけて。
    「そうだろう、そうだろう! 流石はボク!」
    けれど慣れ親しんだその仮面を瞬間的に修復し、いつものようおどけた言葉を口にする。
    「ところで、オペラオーの方こそ練習はいいのか?」
    「今日復帰したばかりだからね! エチュードもまずはアンダンテからというわけさ!」
    「……そうか」
    「というわけで……、さぁ、北原さん! アンサンブルを始めようじゃないか!」
     言うと、北原さんは額を軽く掻いたのち、はぁ、と一つ溜息を吐くと苦笑して―――
    「……っし、気分転換に、やるか!」
    開いていたノートを勢いよく閉じると、言った。
    「素晴らしい! それでこそ北原さんだ!」
     その振る舞いに、自身の気持ちが一気に上向くのを感じた。胸が僅かに熱くなる。多分その理由は、探ろうと思えばすぐさま探れるもので、わかろうと思えばすぐにわかることの出来るものだったのだろうけれど―――
    「では今日は、昨日より少しメニューを変えて発声練習を―――」
    それらの思いは全て仮面の下に押しやって、ボクはいつもの仮面を被ったまま、言った。

  • 132二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 20:15:32

    八月。
    「さぁ、北原さん! 今日は実際にセリフを読み合わせてみようか!」
     日めくりカレンダーを捲るが如く、一日一日が足早に過ぎ去ってゆく。
    「おいおい、俺はこういうのは―――」
     いつも通りに道化の仮面を被りつつ駆け抜けてゆく日々。それが上手く出来なくなったのはいつからだっただろうか。不意打ちの一撃に道化の仮面を剥がされる事態が続いた。一撃が届くたび、胸が高鳴り、鼓動の速度は速くなる。日を追うごとに体に感じる微熱の温度は上昇して、胸の焔に新たな薪が焼べられて、平熱の温度も上昇していった。遅れてきた青い春の温度は、まだまだ真夏のそれには遠すぎてこれから来る秋や冬を耐えるにはまだまだ不足の温度だったけれど、まだこの手の分野に生硬であるこの体を突き動かすには十二分に熱かった。
    「いいからいいから! さぁ、リブレットはこれだ!」
    「ええと……Der Ring des Nibelungen Zweiter Tag Siegfried……、ニーベルングの指輪、二日目、ジークフリード?」
    「そう! その二日目の三幕―――、英雄ジークフリードがヒロインのブリュンヒルデと出会う、舞台のもっとも盛り上がる場面のシーンさ!」
     刺激に満ちた日々に、後戻りが出来なくなっていく。
    「さぁ、始めよう! Selige/祝福された―――」
    「俺が女役なのか……、ええと、Heil dir,Sonne/こんにちは、太陽さん―――」
     深みにはまっていっているという自覚があるのに、逃れようと思えない。
    「いい調子だ! けれど、まだ足りない! 動きはもっと大きく、大胆に―――」
    「オッサンに無茶をさせないでくれ……」
     熱の持つ魔力から逃れようと思えないのは、ここ二年間の日々がこの北原さんという人の手によって大きく変化させられてしまったからなのだろう。ボクがオグリさんを筆頭としてドトウやアヤベさんやトップロードさんといった素晴らしい好敵手を得る事が出来たのも、ボクが年間無敗の覇王の座から蹴り落とされてしまったのも、ボクがその後多くのレースにおいてドトウたちに敗北を喫する事となったのも、年間無敗を保っていたせいで常に多くのブロックが付くようになっていたボクのそのブロックの数が減ったのも、その後再びボクが勝てるきっかけをつかめたのにも、その全てにこの人が関与しているのだ。

  • 133二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 20:17:06

    「Noch bist du mir die träumende Maid: Brünnhildes Schlaf brach ich noch nicht. Erawache, sei mir ein Weib!/君はまだ夢見る乙女のままだ……、俺はまだブリュンヒルデの微睡みを破れていない……、あぁ、どうか目覚めて俺の女になっておくれ!」
    「Mir schwirren die Sinne, mein Wissen schweight: soll mir die Weisheit schwinden?/まだ夢の中にいるよう五感が動かない……、頭が働かない……、あぁ、私はこのまま消え失せてしまうのでしょうか……?」
     焔を乗り越え、槍を打ち破り、ボクに乙女のキスを与えてくれた人。いつかの日ボクはこの人を悪い魔法使いやヴォータンに例えたけれども、改めて成程的を射ていたと思う。この人は魔法使いで、ヴォータンで、つまりはセビリヤの理髪師のような、ボクの心の底からの望みを何でも叶えてくれる人なのだ。
    「O Siegfried! Leuchtender Spro ß! Liebe dich, und lasse von mir: venrnichte dein Eigen nicht!/あぁ、ジークフリード! 輝かしい若い人! 私から離れ、自分だけを愛して! あなたのものである私を壊さないで!」
    「Dich―――lieb’ ich: o liebtest mich du!/お前を―――愛している! あぁ、どうすればお前は俺を愛してくれるのか!」
     あまりにもこの存在がボクにとって都合がよすぎる。だからこそ逃れようと思えない。都合のいい現実こそ最も恐ろしい拘束具だというが、成程その通りだと思う。オグリさんが離れられない理由が、トップロードさんが惹かれる理由がわかるというものだ。この人はあまりに甘く毒々しく渇きを癒してくれ過ぎる。
    「Sei mein! Sei mein! Sei mein!/俺の―――、俺の、俺のものになってくれ!」
    「O Siegfried! Dein―――wae ich von je!/おぉ、ジークフリード……、私は昔からあなただけのものだった!」

  • 134二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 20:17:22

    ―――オグリさんとトップロードさんの気持ちを知っているというのに、ボクはこんなことをやり続けている。
    「Warst du’s von je, So sei es jetzt!/昔からそうだというなら、今もそうなってくれ!」
    「Dein werd’ ich ewig sein!/私は永遠にあなたのものになる!」
     いつの日にか、この裏切りに近い行為の報いを受ける日が来るのかもしれない。痛みという代価を払う時が来るのかもしれない。けれど―――
    「「Liebe, lachender Tod!/愛よ、死を笑え!」」
    「「lachender Tod!/死を笑い飛ばせ!」」
    「「Leuchtende Liebe, lachender Tod!/光り輝く愛で、死を笑い飛ばしてしまおう!」」
    けれどその日まで―――ジークフリードとブリュンヒルデのようなこの関係で在り続ける事をボクはきっとやめようとはしないだろう。

  • 135二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 20:19:00

    いつも感想や保守ありがとう
    それとここまで読んでくれてありがとうなんだ
    今日は少し短めだけど許して欲しいんだ
    次からようやく承と転くらいになるんだ
    次も読んでくれると嬉しいんだ

  • 136二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 20:19:58

    今回もすごくいいです(語彙力喪失)!!
    ありがとうございます!!!

  • 137二次元好きの匿名さん22/05/19(木) 23:50:09

    保守

  • 138二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 10:55:50

    保守される前に保守いいよね⋯⋯

  • 139二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 19:56:23

     それは九月。桐一葉が舞い、秋曇、すすき梅雨の続く時期の事だった。
    「オペラオーちゃん、最近北原さんと仲良くないですか?」
     いつも通り練習と柔軟を終えたのちに部室から出てあの人のところに行こうとすると、背後からいつも以上―――まるでレースの時のように真剣な表情をしたトップロードさんが話しかけてきた。
    「……そうだね! 確かに一年前よりはずっと仲が良くなったといえるだろう!」
     その真意を察知する事が出来ていながら反射的にとぼけた答えを返してしまったのは、良心の呵責によるものなのだろう。そう。ボクは、トップロードさんの問いのその真意を読み取ることが出来ている。いつもなら浴びせかけられるあらゆる言葉を賞賛の言葉へと変換してくれる頭がまともに働いてくれていない状態であるのも、そのせいなのだろう。
    「なにせもう二年近くの付き合いになるからね! 仲が良くなっても当然だろう!」
     振り向きつつ、両手を広げたのち、大業な仕草で首を振りつつ、肯定の言葉を返す。
    「いえ……、そうではなくて……」
     返答を聞いたトップロードさんはわずかに眉を顰めた困った表情を浮かべた。聞きたいのはそういうことでない。多分トップロードさんが聞きたいのは、知り合いとしての友好度ではなくて、親愛度が高まっていないかということだ。
    ―――勿論わかっているとも!
     そう。トップロードさんはおそらく、想い人の北原さんにこのボクが懸想し始めているのではないかと疑い始めているのだろう。けれど今しがたのボクの反応を見るにどうやらボク―――オペラオーちゃんはそのことを自覚していないらしい。なら、それを直接的に聞いてしまうとむしろ想いを自覚させてしまうという藪蛇になる可能性がある。別にそれ自体は構わない。むしろそうなってくれた方が自分としてはすっきりする。けれどそれをボクが―――オペラオーちゃんが想いに気付く事を望んでいるかが自分にはわからない。望んでいるというならこのまま気付かせてもいいのだけれど、望んでいないというのならそれを無理に暴くような真似をしたくない。だから、困った。そんな所なのだろう。
    ―――相変わらず、優しい人だ
    「……そうね。私も丁度そう思ってたところよ」
     さなか、同じく部室の中で雑誌に目を落としていたアヤベさんが、手にしていた雑誌を閉じて話しかけてきた。

  • 140二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 19:57:19

    「アヤベさん……?」
     戸惑うさなか思いもよらない人からの助け船があった故なのだろう、トップロードさんは更に困惑の表情深めると、アヤベさんの方を向いた。直後、アヤベさんは立ち上がるとトップロードさんを一瞥したのち―――
    「オペラオー。あなた、最近、ちょっと北原さんに入れ込み過ぎてない?」
    「―――」
    トップロードさんよりもよほど直接的で踏み込んだ質問を飛ばしてきた。
    「はて―――」
     不意に道化師の如くとぼけようとするも―――
    「とぼけるのは無しにしなさい、オペラオー」
    アヤベさんの物言いと向けてくる視線はもはや既に見抜いているのだから諦めてさっさと白状しろでもいわんばかりとても強く鋭く―――、まるでトゥーランドットだと思った。
    「聡いあなたがトプロや私の言葉の真意に気付いていないわけがないでしょう?」
    「ふふ……、光栄だね。アヤベさんにそこまで買いかぶってもらえるなんて」
    「自信過剰で自分への言葉は全部過剰なくらい拡大解釈して捉えるあなたが、今みたいにそんな風に賞賛の言葉を素直に受け取らないその態度こそが、私の話した推測の正しさを示してると言えると思うのだけれどね」
    「……まいったな」
     レース同様、冷静沈着に穴を見つけては言葉をねじ込んでくる様に、流石はアヤベさんだと感心させられた。成程確かにその通りだ。ここにいるのが去年までのボクならきっと『流石はアヤベさん! そうさ、ボクは聡い! 何故なら覇王のボクは美しいからね!』などと言っていたことだろう。年が明けて、新たな季節を迎えて生まれ変わってしまったボクの変化を、アヤベさんは見事に見抜いているのだ。
    「流石はアヤベさん。お見―――」
    「……あぁ、勘違いしないでね。私、別にあなたが北原さんに入れ込んでいること自体はどうでもいいと思ってるの」
    「うん?」
    賞賛の言葉を放とうとして、けれど遮ったアヤベさんは鋭い目線のまま続ける。
    「私はドトウやトプロと違って、あなたが元々オペラの間にレースをしているようなやつだと思ってたもの。だから今更、あなたの執心の対象の比重がオペラから北原さんの方に変わったところで、どうとも思わない」
    「……」
    「でも、それで走りの方に影響が出てるっていうのなら―――、同じチームのメンバーとして口出しをしないといけないと思うのよ」
    「……は?」
     アヤベさんの言葉の意味がまるきり理解出来なかった。

  • 141二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 19:58:01

    「いやいやいや、そんな事は―――」
    「あ、あのぅ……、私からもいいですか……?」
    「……ドトウ?」
     戸惑いがちに聞き返そうとするさなか、割り込んできた声に驚かされる。見てみれば、自分に自信がなく、それ故にいつもなら引っ込み思案で自分の意見を進んで述べようとしないドトウの目や耳や尻尾や態度にはけれど今、こちらもまたレースの時と同様に確かな引かないという意志を感じられて驚かされ―――
    「アヤベさんの言う通りだと思います。最近のオペラオーさん、実際に以前よりも柔軟にかける時間が少なくなっていますから……」
    「―――」
    そしてそんなドトウの口から出てきた言葉に、更に驚かされる。
    「それなのに走るのはいつも通り全力だから、私、心配です……」
    「ドトウ……」
     思い返してみれば、確かに最近北原さんのところに行く気持ちが先立っていて、柔軟がおろそかになっていたかもしれない。以前は夜遅く、グラウンドの電灯がつくまで練習をしていた事も多かったけれど、今では夕日が沈む前には練習を切り上げてしまっている。これは確かにアヤベさんやドトウの言う通り、走る方がおろそかになっていると言わざるを得ない。しまったな、これは確かにボクの落ち度だ。
    「―――」
    ―――はて……
    「あ、あの―――、……オペラオーさん?」
     トップロードさんの言葉を耳にしつつ、顎に手を当てて思考を巡らせる。
    ―――なぜボクはこうまで強固に北原さんへの懸想を隠そうとしているのだろう
     そうとも、思えば別に白日の下にさらされてしまったというのなら、隠す必要はない。いや、そもそも隠す必要が皆無だった。言ったところで、トップロードさんは受け入れてくれただろう。気持ちがわかってすっきりしたと言ってくれることだろう。アヤベさんとドトウも同様だろう。オグリさんは正直どのような反応をするかがわからないが―――、少なくともこのメンツ相手になら、ボクが北原さんに懸想しているという事実を隠す必要は皆無だ。

  • 142二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 19:58:42

    「……ちょっと、オペラオー?」
     なのに隠そうとしていたからには、何か理由があるはずだ。なんだろう。ボクは何故、みんなにこの恋心を隠そうとしていたのだろう。
    「オペラオーさん……?」
     ボクたちのトレーナーがやるよう、ここは身近な例を参考に考えてみるといいだろう。なに、恋と言えばいつだってオペラのリブレットの主題となるものだ。その代表的な作品をいくつか例に挙げて考えてみれば、おそらく答えは出てくる事だろう。
    「あの……」
     愛とか恋と言ってぱっと思いつくのは、フィガロの結婚、椿姫、カルメン、セビリャの理髪師―――、うん、いくらでも思いつく。というよりも愛や恋などを題材にしていないオペラの作品をあげた方が早いくらいだ。とはいえ、フィガロの結婚も椿姫もカルメンも、ちょっと―――、いや、大分今のボクの立場とは少しずれている気がする。ボクは別に恋多き女というわけじゃない。なのでここは一つ、一人の男への愛を貫いたセビリャの理髪師のロジーナを例に考えてみることとしよう。
    「……駄目ね。完全に自分の世界に入り込んでしまってる……」
     セビリャの理髪師はアルマヴィーヴァ伯爵とロジーナの恋をコミカルに語るオペラだ。この美女ロジーナの持つ遺産を狙っているバルトロとバジリオの企みを、伯爵と理髪師のフィガロとロジーナが協力して阻止して伯爵とロジーナの恋を実らせるのがこのオペラの物語だ。ロジーナは―――
    ―――いけない
    いけない、そうだこの劇はコミカルな恋物語で―――ギャグなんだった。伯爵と理髪師とロジーナがいかにバルトロとバジリオの悪巧みを破るかが劇の注目出会って、ロジーナの恋の背景は詳しく語られない。これは駄目だ。あぁボクとしたことがなんという失態だ。
    ―――失態?
    「……そうだ、失態だ!」
    「わ……」
     失態! 輝かしいボクに相応しくない、結果! この美しいボクが何かを隠そうとすることがあるというのなら、失態が関係しているに違いない!

  • 143二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 19:59:40

    「あ、あの……」
    「……失態?」
     しかし、だとすると何が北原さんに懸想した事の何が失態なのだろう。誰かが誰かの事を好きになるのは別に失態―――、悪い事じゃない。失態とは自分の思わぬミスを犯してしまう事なのだ。だから、そう、失態というからには、誰かを傷つけてしまっただとか、ボク自身の信念に反する行いをしてしまったとか、公序良俗に反する行いをしてしまったという感覚がボクの中にあるということのだろう。ということは―――
    「あ、あの! あの、オペラオーちゃん!」
    「うん?」
    考えを巡らせるさなか、唐突に思考を切り裂いて聞こえてきた声に、意識が現実へと引き戻される。見渡すと、ドトウ、アヤベさん、トップロードさんの視線は一様にこちらへと向けられているのがわかった。
    「だ、大丈夫ですか?」
    「? 何がだい?」
    「だ、だって、オペラオーちゃん、反応しなくなったと思ったら突然『失態だ!』って叫んだのち、また全く反応をしなくなっちゃったから―――」
     言ってトップロードさんは心配そうな視線を向けてくる。視線には、一切の含むものを感じられなかった。トップロードさんは純粋にボクへと心配の念を送ってきてくれているのだ。そう、トップロードさんは純粋で、恋敵かもしれない存在に純粋な心配の念を送ることの出来るいい人なのだ。トップロードさんがそういう人だからこそ、始め拒んでいたアヤベさんもボクたちのチームに入る事を承諾してくれたのだ。こういう人は悲しませてはいけない。こういう人の顔を曇らせる事は、それはそれは罪深い事で―――
    「―――そうか!」
    「⁉」
    瞬間、天啓のよう、答えを得た。

  • 144二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 20:00:27

    「そうか、そうか、そうだったんだ! ボクはトップロードさんの顔を曇らせたくなかったんだ!」
    「え、え、え?」
     得られたすっきりとした答えを得られた体は一瞬にして多くの熱を帯びてゆく。その熱が生み出す興奮と感覚に突き動かされるよう、再び口を開く。
    「そう。トップロードさんはいい人なんだ。曇った顔よりも、笑顔が似合う人なんだ! だからこそボクは―――、まともに戦えばきっと北原さんの寵愛を獲得する事ができると思っているボクは、そうしてトップロードさんの夢を奪って、顔が曇るのが嫌で―――、それで、ボクはボクの恋心を必死に隠そうとしていたんだ! そういう事だったんだ」
    「―――」
     やっとたどり着いた正解と思える答えを大声で叫ぶと、トップロードさんは目を大きく開いて、口を大きく開け、背を引いて、まさしく呆然という言葉が似合う態度を取った。
    「……あなたは」
     声に反応して視線を向けると、アヤベさんの頭を抱えるところを目撃した。
    「でも、ようやく元のオペラオーさんらしさが戻った感じがします……」
     ドトウが、成程、嬉しい事を言ってくれた。
    「……ふふっ」
     トップロードさんがくすりと笑った。浮かんだ笑みは、上品で、清楚で―――、とてもトップロードさんらしいといえる、綺麗で美しいものだった。
    「オペラオーちゃん」
    「なにかな、トップロードさん!」
    「じゃあ、これからはレースだけじゃなくて、恋の方でもライバルですね!」
     真正面から向けられる宣戦布告を、とても嬉しく思った。
    「もちろんだとも! あぁ、トップロードさん! その正面からぶつけられる熱い想いがボクは本当に嬉しいよ!」
    「ふふ……、はい! 私も、オペラオーちゃんが素直になってくれて嬉しいです!」
     互いに笑い合う。外を見れば、細く長く続いていた秋雨は、それを降らす雲は、完全に消え失せて晴れ空ばかりが広がっていた。

  • 145二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 20:01:39

    十月。
    『テイエムオペラオー、クビ差でナリタトップロードを下した! テイエムオペラオー、宝塚に続いて秋天も制覇しました!』

    十一月。
    『宝塚、秋天と制覇してきたテイエムオペラオー、ここ、東京競馬場はジャパンカップにおいても、猛烈な末脚を見せたアドマイヤベガから見事に逃げ切って、完全に下した! テイエムオペラオー、優勝! テイエムオペラオー、完全復活か!』

     十二月。立冬を過ぎたのち、厳しい冬の到来を一瞬だけ束の間だけ忘れさせてくれる小春日和がやってきた。瞬間だけ訪れた暖冬の日、けれど空気の冴ゆるような感覚は相変わらずで、もう少しすれば風花もきっと舞う事だろう。勿論東京の府中であるこの土地に雪が積もるようなことはありえないだろうけれど―――、吐息が白くなり、地に霜が目立つようにはなることだろう。そんな冬のある日―――
    「……相変わらず、出鱈目ね」
    「え?」
    冴ゆる青空の下、有馬へ向けての練習をするさなか、ストップウォッチと記録ボードを握るアヤベさんは表情を呆れ顔へ変化させながら、全力疾走して息を切らせているボクへ言った。
    「この期に及んで、まだタイムが伸びるっていうの、あなた」
     アヤベさんは言いつつ、ストップウォッチの画面をボクへと向けてきた。刻まれているタイムは、ボクの記憶にある最高のタイムよりも一秒以上早いものだった。
    「ハーッハッハッハ、その通り! 何故ならボクは覇王だからね!」
     見た瞬間湧き出てきた喜びのままに、大業に笑うポーズを作り、胸を張り、叫んだ。
    「わ……、オペラオーちゃんすごいですね……」
    「ほんとです……」
     すると、同じく全力疾走してタイムを計ってもらっていたトップロードさんとドドウもやってきて、アヤベさんの手にしているストップウォッチの画面を覗き込み、言った。
    「ハーッハッハッハ、そうだろう、そうだろう!」
     賞賛を気持ちよく受け取りつつ、晴天に向かって叫び倒す。すると声は乾いた冬空の中に大きく響き渡り―――
    「最近の重賞レースでも勝ちっぱなしですもんね……」
    「オペラと恋愛をやる合間にレースをやっていて以前よりも調子がいいってのはどういう理屈なのよ……」
    「常識や理屈を破壊して見せるからこその覇王なのさ! ハーッハッハッハ!」

  • 146二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 20:02:15

    「―――あ……」
    「ん?」
     高笑いしていると、さなか、ドトウの呟く声が聞こえてきて、思わず視線をそちらの方へ向けた。するとドトウの視線はボクではなく別の場所に向けられている事に気付けて、ほとんど反射的にその視線の行方を追った。すると―――
    「あ……」
    視線を向けた先には精気の全く欠けているように見えるオグリさんとそんなオグリさんの傍らに付き添う北原さんとベルノさんの姿があって、思わず言葉を失った。
    「オグリさん、まだ脚の調子が悪いんでしょうか……」
    「でしょうね。秋天に続いてジャパンカップで順位を更に落としてしまっていたわけだし……」
    「たしか六着と十一着でしたよね。走りにもいつもの切れが全くありませんでした……」
    「……」
     そう。オグリさんがそのよう調子を落としている原因をボクたちは知っている。あれは部室でトップロードさんとのやり取りがあった後の事だ。宝塚以降オグリさんは週末必ず笠松へ帰ってコンディションを整えるようになっていた。聞くところによるとオグリさんがあの地面に沈み込むような走りをする為には体の柔らかさと足の力がとても重要ファクターとなっており、事実としてオグリさんは類稀なる柔軟さと足の力を兼ね備えているわけだけれど―――、けれどその重要なファクターの一つである足の力のせいでオグリさんの脚の骨や筋繊維には異常な負荷がかかってしまい―――、結果としてオグリさんは骨膜炎を患ってしまったのだという。
     炎症。それは体を動かすことを生業とする存在にとって、とても恐ろしい病だ。なにせ炎症は一時動けなくなる以上に一度発症するともう一度発症しやすくなってしまう可能性が高いのだ。そうして一度炎症が慢性化してしまったが最後、罹患者は常に炎症にかかった箇所の事を意識しなければならなくなる。どのくらい力を入れていいのか。どのくらい力を入れたら再発してしまうのか。そう言った事を常に意識しつつ、けれど決まった日に全力の走りが出来るように調整してゆくというのは、並大抵の精神力では到底成し遂げられる事じゃない。もちろんオグリさんはそこらの凡百と違って並大抵でない精神の持ち主であるわけだけれど、けれどそんなオグリさんでも、調子を崩してしまう程―――、炎症というものはボクたちにとって恐ろしい病なのだ。

  • 147二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 20:03:26

    「オグリさん……」
     かかった時のことを考えるだけでも―――、かかると考えたくもすらないそんな病に、オグリさんは罹患してしまった。だからだろうボクには、離れた場所を歩くオグリさんの表情が、付き添う北原さんとベルノさんの表情がとても沈んでいるように見えるのだ。
    「……」
     ボクが秋天やジャパンカップで一着を取れた理由の一つに、オグリさんの不調がある。目下最大の敵であるオグリさんがボクたちにとって最悪の部類に入る病気に罹患してしまったからこそ―――、ボクは秋天とジャパンカップで一着を悠々と獲得することが出来たのだ。もしもあの時オグリさんが全力を出せる状態だったのなら、勝負はどうなっていたかわからない。もしかしたら負けていた可能性だってある。―――けれど。
    「けれど、ボクは手加減しないよ」
    「オペラオーちゃん……?」
    「だってボクは、オグリさんがその程度の事で負ける弱い選手じゃない事を―――とても強い選手だという事を知っているからね!」
     そうとも。勝負は非常だ。勝負には必ず勝者と敗者が生まれてしまう。勝者は名誉と栄光の全てを得ることが出来て、敗者は全てを奪われる。ボクたちはそんな勝負の世界に身を置いていて―――、けれどオグリさんはそんな世界の中で、年間無敗を保っていたボクという覇王を打ち破った超絶強者であり、最強の座を占め続けたこともあるほどに強い選手だ。
    「オグリさんは諦めてない。ボクにはそれがわかる」
    「オペラオー……」
     何より、オグリさんはあの北原さんが夢を託すと決めた選手で、燻っていた北原さんがもう一度夢を見られるようにしてくれた存在なのだという。そう。オグリさんは、ボクが目指していた、他の誰かに夢を与えられる存在なのだ。オグリさんは、ボクが好意を抱いている北原さんを立ち直らせた、北原さんが今でも一番信頼している選手なのだ。ボクはそれを知っている。この数か月間、北原さんを強引にオペラのリブレット読み上げに突き合わせるさなか、それを嫌という程に思い知らされてきた。だからこそ。
    「だからこそ絶対手を抜かない。完膚なきまでに叩きのめして、ボクという存在が北原の脳裏にオグリさんよりも鮮烈に焼き付くように―――、ボクの全力の走りを以ってオグリさんを有馬で打ち倒す」
    「オペラオーさん……」
     冬空の下、宣誓する。冴えた晴れ空にはいつのまにか湿り気のある雲が浮かんでいた。

  • 148二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 20:04:33

    まずはここまで読んでくれてありがとうなんだ。
    感想や保守もありがたく思っているんだ。
    ざっとあと二回くらいで終わる予定なんだ。
    最後までお付き合いいただけると嬉しいんだ。

  • 149二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 20:05:15

    今回もありがとうございます!!
    シリアスですね…

  • 150二次元好きの匿名さん22/05/20(金) 23:01:27

    保守

  • 151二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:18:42

    あげ

  • 152二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:42:45

    俺のせいで迷惑被ったらごめんな

  • 153二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:42:59

    保守

  • 154二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:44:03

    手作りの人形を渡すだけでハーレムを形成する。
    出会ったウマ娘は皆、彼に惚れている。

  • 155二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:45:24

    これがKITAHARAちゃんですか

  • 156二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:45:25

    >>1

    荒らしに気づいたら消したほうが良いですよ

  • 157二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:46:43

    このレスは削除されています

  • 158二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:47:33

    >>154

    それ、アプリトレも一緒じゃん

  • 159二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:47:39

    荒らしはやめてください!

  • 160二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:48:13

    アプリトレハーレム作ってて草

  • 161二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:48:24

    >>158

    アプリトレは公式のストーリーなんだ

    悔しいだろうが仕方ないんだ

  • 162二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:48:54

    アプリトレはハーレムを作っていた!?

  • 163二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:52:06

    目に入らないようにしてたのにわざわざ上げてくるんじゃ無いよ

  • 164二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:52:25

    >>161

    シングレも公式やぞ

  • 165二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:52:59

    ウマ娘ハチマングルイ?

  • 166二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:54:28

    >>164

    シングレのキタハラはハーレムを作っていた!?

  • 167二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:55:01

    予想より10倍悍ましいスレでびっくりしてる

  • 168二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:55:50

    あのスレ三つも完走した割には荒らしの勢い小さいな

  • 169二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:56:12

    想像以上に八幡と同じ道辿ってて笑った

  • 170二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:56:13

    >>152

    おう、土下座しろや

  • 171二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:56:57

    うわ、なんで荒らしが・・・?

  • 172二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:57:29

    SS、完全にキタハラオグリが邪魔してんの草

  • 173二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:57:45

    このレスは削除されています

  • 174二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:57:58

    >>171

    なんかそれっぽいスレ立ってたしそこから来たんじゃない?

  • 175二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:58:05

    北原はお前らの都合のいいおもちゃじゃないんだ
    悔しいだろうが仕方ないんだ

  • 176二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:58:12

    KITAHARAは北原ではないから竿役にしても問題ないんだ

  • 177二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:58:27

    >>168

    「本物」が乱入してきて一気に冷めた

  • 178二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:58:32

    >>171

    アンチスレから飛び出したモラルが死んでるやつらです

    すんません…

  • 179二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:58:36

    KITAHARAロマンス

  • 180二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:59:27

    >>173

    結局オグリが踏み台なの?他キャラが踏み台なの?

  • 181二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:59:51

    中央受かったのか⋯⋯チョロすぎる

  • 182二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 01:59:54

    人のものにどうこう意見つけるのに自分らは荒らし行為かぁ……

  • 183二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:00:04

    スレ主起きたら意味わからんだろこれ
    荒らされる理由ないし

  • 184二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:00:05

    >>173

    物語を展開するご都合主義と妄想の豊かさは違う

    これだけははっきり真実を伝えたかった

  • 185二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:00:22

    >>180

    KITAHARA民にとってはあらゆるキャラがKITAHARAの踏み台なんだ

  • 186二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:00:30

    >>180

    両方KITAHARAを引き立てる為のトロフィーだぞ

  • 187二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:00:33

    助けてえぇェェえぇ!!!!!!
    スレ主助けてェェェえぇ!!!

  • 188二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:00:39
  • 189二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:00:57

    >>183

    流石に気の毒

  • 190二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:10

    初手アヤベさんからキッツイんスけど⋯⋯いいんスかコレ

  • 191二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:15

    ゲロ吐きながら読んだけど北原居る意味無いし北原ですらないただのオラキャラじゃん

  • 192二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:17

    誰か次スレお願いします!

  • 193二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:27

    このレスは削除されています

  • 194二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:28

    うめ

  • 195二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:30

    >>188

    愚痴スレ立てた上に乗り込みとかうわ

  • 196二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:51

    保しゅ

  • 197二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:57

    北原って微妙にキャラが薄いから
    こういうssが増やされるんだよね

  • 198二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:01:59

    もう埋めるしかないわねこれ

  • 199二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:02:09

    あまりにもかわいそう

  • 200二次元好きの匿名さん22/05/21(土) 02:02:12

    このレスは削除されています

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