- 1#m22/06/14(火) 20:38:34
- 2#m22/06/14(火) 20:39:14
「ご乗車ありがとうございます…
このバスは府中トレセン学園前行きと
なっております…
お乗り間違えのないよう
よろしくおねがいします…」
夜行バス運転手の疲れの見える
アナウンスが車内に響いた。
5月も近くなりすっかり暖かくなったが
やはり夜はまだまだ寒い。
装いを半袖のワイシャツにするには
尚早だったかと
トレーナーは少し後悔した。
「…そろそろ出発だね、カフェ。」
「そうみたいですね…次に止まるのは
到着した時か事故が起きた時だけ
でしょうか…」
「やめてくれ、縁起でもない。」
ついさっき、レースを終えた
マンハッタンカフェと、その担当トレーナーは
一番奥の席で出発を待っていた。
天皇賞、春。
彼女は、一陣の風となった。
担当に浴びせられた歓喜の声が
まだトレーナーの耳には色濃く残っていた。
一人の仕事人にとっての、トレーナー
とっての至福の瞬間だったことに
間違いはなかっただろう。 - 3#m22/06/14(火) 20:40:08
『…いつも、助けて貰って
ばかりだな。』
隣を見ると
担当が缶コーヒーで手を暖めていた。
彼女の艶やかな黒い長髪が
夜の闇に対して保護色のように同化している。
昼間、レストランで飲んだ
エスプレッソコーヒーはこんな色をしていたなぁ。
トレーナーはそんなことを考えた。
「まもなく、発車いたします…
お乗りのお客様はシートベルトの
装着にご協力下さいますよう
お願い致します…」
出発のアナウンスは、存外早かった。
アスファルトにずりずりと
摩擦を起こしながら、夜行バスは
走り出した。
『…もう、高速か』
スケジュールを確認している間に
バスは高速道路に入ったようだ。
隣の黒髪の教え子は、最近買ったという
小説を熟読している。
ゆったりとした雰囲気を醸し出す姿は
夜行バスの奏でる幽かなエンジン音には余り似つかわしくない様に見えた。 - 4#m22/06/14(火) 20:41:11
『…満月…か』
ふと、外を見ると
東京湾を鏡に、雲を纏った満月が光っていた。
煌々と光る丸い玉兎は
彼女の上等な蒔絵に貼られた
金箔の様な瞳によく似ている。
神秘的な、時に蠱惑的な。
そういう憂いを見せるあの目に。
『[月が綺麗ですね]…か…
…言えるような立場じゃないよな…』
次の予定を纏めたスケジュール帳を
少しもの惜しく感じながら
ぱたり、と閉じた。
教え子と教師。
今隣に座る少女と自分の関係性は
詰まるところ、そういうところだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
上や下があってはいけないのだ。
もし、もし仮にカフェに
そんな感情があったとしても、だ。
カフェはみんなのカフェでなくては
ならないのだ。
『…寝るか。明日も早い…』
膝にかけた薄手のブランケットを
摺り上げて目を閉じた。意識は、すぐに無くなった。 - 5#m22/06/14(火) 20:42:38
「トレーナーさん…?」
ふと、カフェは呼びかけた。
読んでいた小説の最後の一節を
読み終え、なんとなく
今自分のトレーナーが何をしているか
気になったのだ。
呼びかけに対する返事は無い。
右の座席をちらりと見る。
やはり眠って居たようだ。
『もう3年も経ったんですね…』
何度も辛い目に遭った。
その度に支えて貰った。
支え合った。
連理の枝、というと
少し気恥ずかしい気もするが
それでも眼の前の彼は
カフェにとっての
大切な存在であることには
変わりがなかった。 - 6#m22/06/14(火) 20:43:12
『…影…月が顔を出したみたいですね』
満月にかかった雲が無くなり
彼の無防備な横顔が顕になる。
少し出た頬骨。
意外と長い睫毛。
少しだけ日に焼けた肌。
それだけで無い。
力強さと優しさを兼ね備えた双眸。
勝ったときに向けてくれる
屈託のない笑顔。
大きくガッシリとした手。
春の様に暖かな言葉。
全てが、愛おしい。
『…少々無防備ではありませんか?』
気がつくと周りの乗客の殆どが
夢の中に居るようだ。
眼の前の想い人は
揺りかごで安心しきる赤子の
様にカフェには見えた。
今宵は満月。
人狼の本能が目覚める満月だ。
少し位、己の内側を出しても
いいのではないか。
月が狂気の象徴ならば
今の自分は恐らく月の魔力で
狂っている一人の女、ウマ娘なのだ。 - 7#m22/06/14(火) 20:43:49
『…肩にもたれ掛かるくらいは
…いいですよね…?』
もしトレーナーの目が覚めて
しまったら、その時は
寝ているふりでもしていればいい。
疲れていたから覚えていないと
言えば分からないはずだ。
分からない事にしてくれるはずなのだ。
ぽす…
トレーナーの肩は、思っていた通り
ガッチリしていた。
男らしい筋肉の張りが自分の頭を
支えている。
もし、起きていたらどうしよう。
教え子としてしか
思われていなかったら、どうしよう。
疑う気持ちのせいか
はたまたトレーナーの付けた
香水のフレグランスのせいかは
分からないものの
鼓動が脳まで響いているのが理解できた。
出来ることなら
このまま眠ってしまいたい。
そして夢の中で会いに来て
自らが望む言葉を囁いて欲しい。
ただ、自分のものになって欲しい。
[お友達]のものでなく自分のものに。 - 8#m22/06/14(火) 20:44:32
『…そろそろ離れるべきですね』
バスは、もうすぐ
トレセン前ののバス停に着く。
心の中で咲いていた春は
そろそろ仕舞わなければならなかった。
「トレーナーさん、トレセン学園に
つきましたよ。」
「…うん?……そっか、着いたか…
起こしてくれてありがとう。」
寝ぼけ眼を擦りながらトレーナーは
起きた。
後ろ髪がぴょこんとはねている。
自分の前髪の触覚とよく似ている。
先程の出来事は、覚えてないようだ。
バスの左手には見慣れた学び舎が
聳え、なんともなしに
明日からは元の生活が有ることを
告げているようだった。
『…今日の事は忘れましょう』
二人でバスを降り、寮へと向かう道中
心の奥で、そう思った。
電灯が点く舗装された道が
なんともなしに長い気がする。
夜の静かさが、少しだけ痛い。 - 9#m22/06/14(火) 20:45:31
少しすると、寮が見えてきた。
ユキノの前では普通にしていよう。
そんなことを思いながら玄関の戸を開けた。
「今日はお疲れ様。
明日明後日は休みにするから
ゆっくりしてくれ。」
「…ありがとう御座います。
トレーナーさんもよく
休んで下さい…それでは。」
そう言って
部屋に行こうとした時だった。
「…それと一つ。」
「……何でしょうか。」
「……ほっぺたに耳が当たったら
流石に気づくからね?……それじゃ」
カフェの耳の中は、真っ赤になった。 - 10#m22/06/14(火) 20:47:05
以上になります
気持ちが先走って生まれたものなので
色々とすり合わせが雑になっていると
思いますが、読んで貰えたら幸いです - 11二次元好きの匿名さん22/06/14(火) 20:47:32
よかった
- 12二次元好きの匿名さん22/06/14(火) 20:58:38
甘い…タキオンの飲む紅茶ほどに
しかし読みやすいですねぇこの文章 - 13二次元好きの匿名さん22/06/14(火) 21:10:36
あまいね………
- 14#m22/06/14(火) 21:22:42
- 15二次元好きの匿名さん22/06/14(火) 22:50:50
そういえば今日満月か
- 16二次元好きの匿名さん22/06/14(火) 22:57:49
- 17◆qZFKl2dobU22/06/14(火) 23:12:38
- 18二次元好きの匿名さん22/06/14(火) 23:37:02
なんかこう、このSSはとても、その……良いものだなぁと思いました(語彙力)。いや本当に良いものでした。
- 19二次元好きの匿名さん22/06/15(水) 00:00:02
成程ぉ…
自分書いてたやつ見返すと地の分をセリフ行より多く書かなきゃ(使命感)みたいな書き方しててすっげー見辛かったんですよね
1行の文字数が少なければスラスラ頭に入って没頭できますね 改行すれば強調したい部分も見えますし
- 20二次元好きの匿名さん22/06/15(水) 11:32:31
すげぇ好きだわ