その道は選ばれなかった

  • 1二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:11:16

    そしてスズカはすべての終わりを悟る。

    目を覚ますとそこは寮の自室だ。
    見慣れた天井がスズカを出迎える。ゆっくり体を起こし、目覚まし時計に手を伸ばす。いつも通りアラームが鳴るより少し早く起きる。手を突き上げて腕をまっすぐに背筋を反って伸びをする。全身をほぐしながらジャージに着替える。シューズを持って部屋を出る。
    走る。
    戻ってくるとスペシャルウィークの姿はない。彼女もまたトレーニングに出向いているからだ。シャワーを浴びて洗濯機を回し身支度を整えているとそのうち合流する。いっしょに朝食を摂る。
    「本当に辞めちゃうんですね」
    山盛りの朝食をスピーディに突き崩しながらスペシャルウィークは言う。
    「えぇ」スズカは答える。「悔いはないわ」
    「そうですよね」料理の嵩が目に見えて減っていく。「後悔してるのに、引退なんかしないですよね」
    「きっとスペちゃんにもわかる日が来るわ。私はね、最高のレースをしたのよ」
    「そっかあ……うう、寂しいなあ」
    「ふふ。ありがとう」
    「でもでも、学園には残るんですよね?」
    「そうね。だから、卒業するまではスペちゃんといっしょよ」
    「やったぁ! えへへ、それを聞いて安心しました」
    スズカの正式な引退発表は今日この日を予定しており、無用なトラブルさえ起こらなければ近く会見を開くことになっている。

    つまりそれは一つのレースのようなものだ。
    始まりがあって、終わりがある。ゲートが開かれ飛び出す。後続を置き去りにする。一度も誰にも前を譲らない。トップスピードでゴールラインを駆け抜ける。
    最高の走りという自負。
    これ以上はないという確信。
    サイレンススズカというウマ娘が、その競技人生というレースにおいて叩き出した最高記録は、もう二度と破られることがない。

  • 2二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:11:49

    目を覚ますとそこは中山レース場だ。
    目の前にはゲートがあり、隣にはウマ娘がいる。振り返るとトレーナーはおらず、レース場のスタッフがこちらを観察しているのがわかる。
    一人では不安だった。
    だからゲートを潜る。途端に会場がざわつく。むき出しの耳に観客のどよめきとスタッフたちの驚いた声が届く。
    実は届いていない。
    天性の柔軟性を遺憾なく発揮したサイレンススズカのむき出しの耳に、あらゆる種類の混乱の声が届かなかったことをスズカのメンコ越しの声が聞き取る。

    つまりそれは夢そのものだ。
    目を覚ますと、見慣れた天井の染みが微笑みを投げかけてくる。寮の自室。まだ鳴らない目覚まし時計。寝息をたてるスペシャルウィーク。ゆっくり起き上がる。いつもの朝のルーティン。
    昨晩眠り、スズカは一度夢の中で目を覚ました。するとそこはいつかの中山レース場だった。よく覚えている。ゲートを潜ってまで安心を求めて駆け出したかった気持ちは忘れられない。しかし、そうはならなかった。レースの結果は芳しくないもので、ゲートインからスタートまでのスズカの態度ははっきり言って優等生にはほど遠く、警告として特殊なトレーニングを課されたほどだ。それでも潜っていない。だからこの夢はあくまでただの夢で、過去の現実の出来事などではない。
    走りながらそんなことを考えてスズカは寮に戻る。身支度。後輩との穏やかな時間。教室に向かう。教師との穏やかではない時間。
    昼休み。
    「夢占い」とマチカネフクキタルが呟く。「えっとですね、それはいったいどういう内容の──」
    「違うのよ、フクキタル」逸る友人をスズカは制する。「私の夢そのものの吉凶を見てもらいたいの」
    「なるほど、なるほど?」
    釈然としない様子だったがフクキタルは水晶玉を取り出して文机の上に置く。いつもの呪文。モージョー。まじない。鼻に抜けるような音の羅列。スズカはつい気が抜ける。
    「平」
    果たしてフクキタルが告げる。
    「たいら……平坦ってこと?」
    「その通りです。吉と凶の間の運勢、もしくは吉にも凶にも転ぶ状態です」
    「それが私の夢の兆し?」
    「えーっと、ご不満でしたら」
    「あ、それは遠慮しておくわ」
    どちらの兆しにこだわりがあるわけではない。だからスズカは先んじてフクキタルの提案を断る。もとより占いの結果に頓着はなく、その過程にこそ大きな価値がある。

  • 3二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:12:25

    目を覚ますとそこは駅のホームだ。
    スズカはこれが夢であることを悟る。この景色には見覚えがあり、それは大切な思い出として心に強く刻まれている。だから細部の違いに気づく。時間帯。行き交う人々。路線。隣には誰も立っていない。
    無言のままスズカは行き先のわからない電車に乗る。しばらく揺られる。電車の外と中の様子は霧に包まれたようにはっきりとしない。乗客らしきものの姿がある。流れる景色のようなものが見える。窓があり壁があり座席があって吊革が垂れ、扉が開き、揺れに揺られてどこかにたどり着いたのだからその乗り物が電車だということになる。
    誰に誘われるでもなく降車する。
    いつかトレーナーと──まだその時はトレーナーではなかった人物と──いっしょにホームの階段を昇った日のことをスズカは思い出す。今は階段を降っている。改札を抜けるといつしか森の中を歩いている。たった一人で。しかし不思議と不安ではない。
    黄色く色づいた木々の合間を縫って進むと、そこには二本の道が左右に伸びている。

    勇退記念の慰労会ということで、タイキシャトルが主催になってパーティーを開いた。もちろん主役はスズカだ。河原には多くの人が集まっている。水遊びにはちょうどいい季節。
    「ハウディ、スズカ!」満面の笑みでタイキがじっくり焼いた肉の塊を切り分ける。「楽しんでマスカ?」
    「もちろん」一番いい部分を切り分けてもらってスズカは笑顔で皿を受け取る。「今日はありがとう」
    「それはよかったデス」タイキはニコニコとご機嫌だ。「少し元気がないのかと思ってマシタ」
    「あら、どうして?」
    「フクキタルがそう言ってたからデース」
    「もう、フクキタルってば」
    「ホントに大丈夫デスカー?」
    「ふふっ。心配をかけてごめんなさい。でも、大丈夫よ」
    スズカは変わった夢を見たことをタイキに告げ、その内容を説明する。
    「The Road Not Taken !」
    ややあってタイキが叫んだ。
    ろーど、とスズカは呟く。ほとんど同時に肉をひと切れ口に運ぶ。しっとり柔らかジューシーで、そぼくだが強い滋味をこだわりのシーズニングが彩っている。

  • 4二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:12:59

    ぽつぽつとスズカはそうした夢を見続けた。
    現実の出来事に照らし合わせてみると、それらの夢は時系列に沿って展開されているようだが、どうも地続きではない。不揃いの布を一つの生地に整えるパッチワークのようだった。
    現実に反する妙な景色の連続なのに、不思議と不快ではない。なぜか腑に落ちるところがある。
    首を傾げながらもスズカは日々を過ごす。起きる。走る。勉強をする。また走る。眠る。そして夢を見る。時には友人と遊びに出かける。

    エアグルーヴと会ったことは夢ではない。
    「久しぶりだな」とエアグルーヴは控えめな花束を差し出してくる。「……お疲れ様。よくやった」
    「ありがとう」色とりどりのガーベラを受け取ってスズカは笑う。「あなたがいっしょに競ってくれたからよ」
    ある日曜の昼下がり、二人は静かな喫茶店で落ち合った。
    二人は互いの息災を喜ぶ。互いに近況を告げる。充実した日々。悔いのない毎日。振り返らない過去。振り返らないだろう未来。これから訪れる毎日。思い出を思い出として胸に仕舞っておける日々。
    「夢か」
    「そうなの」
    スズカは親しい友人に夢の話をする。たいらな兆し。流暢な英語の羅列。それをなるべくそのまま伝える。
    「おそらく“選ばれなかった道”という詩だろう」エアグルーヴは言う。「アメリカでは学校で最初に習う詩として有名らしい」
    「詩」スズカは口の中で呟く。「どんな詩なの?」
    「分かれ道に差し掛かった旅人が、晩年になって選ばなかった方の道を振り返るという内容だ。詳しくは自分で調べてみろ。英語の勉強にもなる」
    「英語の……勉強」スズカはついと目を反らす。「……そうね、勉強は大事よね」
    「しっかりしろ」額に手を当ててエアグルーヴはため息を吐く。「……トレーナー資格の取得を目指してるんだろう? だったら、短い英詩の一篇くらいで躓くな」
    「うぅ」言葉にならないくぐもった声をスズカは漏らす。「がんばるわ」
    「その意気だ。……いつでも相談しろ。私にできることなら、いくらでも協力してやる」

  • 5二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:13:18

    目を覚ますとそこは沙田レース場だ。
    「ウソでしょ……」とスズカは目を疑った。むろん明晰夢の中のことであるので、実際にその光景を見たわけではない。というより、そもそもスズカがこのレース場の景色を知っているはずがない。少なくとも出走者の視点では。
    傍らには頼りになる新しいトレーナーの姿があるが、スズカの知るトレーナーとそれは少し違っている。どこがどうと説明できるわけではない。しかし異なるのだ。もっとも、出走経験のないレースに滞在するトレーナーの姿に覚えがある方がおかしい。
    これは夢だ。
    だからサイレンススズカは5着に沈む。その才能の萌芽を感じさせたとしても。

    「仮に私達が舞台の上に立っていたとしよう」
    フラスコ、ビーカー、USBコネクタ、ホワイトボードマーカー、チョーク、ティーカップ、付箋紙。近くにあったものを手繰り寄せては机の上に放り投げながら、アグネスタキオンは言う。
    「演目と配役は任せるよ。重要なのは、既に舞台に立っているということだ。舞台がどのように築かれたのか、演目と配役がどのように定められたのかは措いておく」
    フラスコを寝かせたままに、ビーカーを立たせ、USBコネクタをその中に放り込み、ホワイトボードマーカーで目盛りを何やら上書きしたかと思えば、チョークを折り、ティーカップにそっと落として、付箋紙を一枚ちぎっては張り付ける。
    「これは一種の演出だから、特に意味はない」タキオンは笑みを浮かべる。「あるかもしれないが」
    「……舞台の話よね?」
    「そう、舞台の話だ」タキオンはビーカーを取り上げる。「……演目の物語がどのように展開するかにかかわらず、定められた配役がどのように振る舞うかにかかわらず、それらは既に存在しており、スポットライトが当たるかどうかだと主張する説がある」
    スズカにはよくわからない。
    「平行世界の記憶の混線」肩をすくめてタキオンは笑う。自分を嘲るように。「すまないね。こんなネットミームを示してしまって」
    「……難しい話かしら」
    「そうでもないさ」タキオンはビーカーの側面をスズカに向ける。「私達のあらゆる選択は、ひょっとしたらすべてのパターンが存在しているのかもしれない。シンプルに考えよう。二つの分かれ道を前にして、どちらかを選んだ時、もう一方の道にも君は進んでいる」目盛りを上書きした数列。「そして、それらは今も駆け続けている」

  • 6二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:14:09

    府中レース場にサイレンススズカは立っている。
    12人立て。1枠1番人気。好スタートを切る。ぐんぐんスピードを上げていく。速すぎるくらいに。スズカを置いてきぼりにするくらいに。
    サイレンススズカの背中が見える。
    (走ってない)スズカは思う。(これは現実の出来事じゃない)首を左右に振る。(だからあの人は私じゃない)目は離せない。
    舞台がある。
    演目と配役は自由。
    何をどう選ぼうと、スポットライトが当てられてしまえば、観客の目にそれは届く。
    (でも)スズカは続ける。(私はあなたと競ったし、無事に走り抜けることができた)遠い背中が霞んでいく。(私が走ったのは、きっとそういう舞台)
    脚が折れる。
    道に逸れる。
    後続に追い抜かされる。
    そうはならなかった舞台。
    そうなってしまった舞台。
    駆け寄る見知らぬトレーナーと後輩の姿。
    傍らに付き添う見知らぬトレーナーの姿。
    誰もいない姿。
    何かと誰かがそこで一つの終わりを迎えた姿。
    少なくとも四つの舞台が重なり──知らない名前のウマ娘が一着を勝ち取る。そこに存在している確かな勝利。スポットライトが浴びせられた舞台。彼女は存在している。少なくとも、スズカが存在していることを認める程度には。
    勝利と敗北の余韻。栄光と沈黙の余韻。ややあってスズカに近づいてくる影がある。それは二着のウマ娘だった。
    「Nothing Golm Can stay」青毛の彼女は言う。「若芽の時期は終わった。あらゆる栄光は沈黙と隣り合わせだ。選んだ道の先がどうなっているかは、誰にもわからない」
    それは二着のウマ娘ではない。
    誰でもない。
    顔も、体も、衣装も。スズカの知る誰でもなかった。これからスズカの知るだろう、誰でもあるはずがなかった。
    「そうね」スズカは応える。「でも、私は止まらない。レースという舞台は終わってしまったけれど、私の人生は続いていくの。だから振り返らないわ。思い出を懐かしむことはあっても、私は常に先頭の景色を見るのよ」
    ウマ娘でさえなくなったあやふやな何かが笑う。もしかすると怒っている。泣いているかもしれず、祝福しているのかもしれない。
    「その道は選ばれなかった」何かは言う。「じゃあ、行けよ。どっちも同じくらい平らだ。後悔なんてない。だったら迷わず進めるだろう?」
    スズカは目を覚ます。
    そこは寮の自室で、きっとこの夢はもう見ない。

  • 7二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:14:25

    目を覚ましたとき、そこはいつも床に就いた場所だ。
    スズカは今日も走り、学び、走り、休み、遊ぶ。いつか足腰が萎えてしまうその時まで、きっと休まず走り続けるだろう。いつか自分を導いてくれた人の隣に並ぶため、ずっと学び続けるだろう。何もかもに置き去りにされて、かつての脚力が見る影もなくなってしまったとしても、この脚が動く限りは駆けるに違いない。そして次の日もまた走り駆け学ぶために休み、自分を支えてくれる人たちと遊びの時間に興じるのだ。
    それがこの舞台だ。
    人生という演目の、ウマ娘のサイレンススズカという配役。無数に伸びた枝分かれの一つ、今ここに存在するスズカがこうして辿る道。
    いつか旅人は選択を悔いた。
    しかしスズカは悔いない。なぜなら、選ばなかった道の先にも自分が歩いていることを知っているから。
    「トレーナーさん」
    スズカは扉を控えめにノックして、優しい声が返ってくるのを待つ。歓迎の言葉は朗らかに響き渡り、扉を開けるとそこではトレーナーが待っている。これまでも。そしてこれからも。
    二人で見る景色が、いつだってスズカの先頭だ。

  • 8二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:16:09

    以上です
    好き放題に書きました
    ロバート・フロストの著作が念頭にあります
    おやすみなさい

  • 9二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:18:18

    とてもいい文章だった。
    こんな場末のネット掲示板で公開するにはもったいないくらい。
    それなりの長文だけどとても読みやすく、淡々とスズカの不安げな心情にソワソワした。

    確かにこれはアプリでは明確には描かれることの無いけれども、確かにきっと存在し到来するだろう未来のお話。
    少し寂しいけれども、でも素敵なお話だった。

  • 10二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 22:18:50

    このレスは削除されています

  • 11二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 23:03:09

    読んでくださってありがとうございます
    読み返してみると誤字がありますね。お褒めの言葉をいただいたのに恥ずかしい限りです。次があればよくよく気をつけます

    ところで、急に暑くなって参りました
    みなさん熱中症にはお気をつけください。いきいきとよい夏の日を

  • 12二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 23:03:28

    なげぇよ

  • 13二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 23:04:04

    このレスは削除されています

  • 14二次元好きの匿名さん22/07/01(金) 23:07:40

    このレスは削除されています

  • 15二次元好きの匿名さん22/07/02(土) 08:51:26

    おつ!良かったです!

  • 16二次元好きの匿名さん22/07/02(土) 09:33:23

    いいものを見させてもらいました
    ありがとうございます!

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