- 1122/07/19(火) 23:09:11
「例えば、『レース』っていう意味の言葉があるんだけど」
"cine"、という単語。
コノート――アイルランド西部は、どこにもアクセントを置かないが、はっきりとした発音をする。
アルスター――アイルランド北部では、一文字目を気持ち伸ばすようにして発音する。
ミュンスター――アイルランド南部では後ろ側を若干伸ばすような発音。
「地域によってちょっと発音が違ったりとか」
「それは……覚えるのが大変そうだな」
「覚えなくても何となくわかるよ。方言?っていうのに近いかも」
「ああ、なるほど」
きっかけは、ほんの雑談。
いつもと同じような、普通の会話だった。
「でも、祖国ではアイルランド語を話している人はあんまりいないんだ」
「そうなの?」
「基本的には英語で通じるから。 アイルランド語は学校では勉強するんだけどね」
普段遣いする人は少数派なのだ、と少し寂しげだったので。
「じゃあ、今度アイルランドの言葉を教えて欲しいな。簡単なのでいいから」
特に何か深い意図があって口に出したわけではないのだが、何かがファインの琴線に触れたらしい。
「時間の取れる時にやろう!」
その時の彼女がとても張り切っていたのを覚えている。 - 2122/07/19(火) 23:10:34
と、いう訳で。
放課後、トレーナー室。
俺とファインは向かい合って座り、"勉強会"を行うことととなった。
「トレーナーは英語の読み書きは出来るんだよね? でも会話が難しい、って感じなのかな?」
「まあ人並みかな」
「うんうん、大体学園のみんなと同じくらいだよね」
今更言うまでもないことだが、トレセン学園は高校普通科と同程度の座学授業を必修としている。
特に英語を必要とする高等教育へ進んでいない限りは概ね同じ程度と言えるだろう。
"人並み"という物差しが果たして正確なのかはともかく、そう答えるしかない。
「じゃあ、教材は使わないほうがかえって良いかもね。 ひたすら英会話を試していこう」
「うん? 英語からなのか」
これは少し意外だった。彼女のことだから、てっきりアイルランド語から始めるものだと思っていたのだが。
「英語なら、少しは普段遣いするでしょう? そこから広げていったほうが覚えやすいかな、って」
「わかった。考えがあってのことなら任せるよ」
――経験上、彼女が"しでかす"ことには思いつきが多分に含まれることが多い。
しかしやる気に満ち満ちた彼女の機嫌を損ねず委ねる方が結果として上手くいくのも既に知っている。
何より、彼女なりの善意でしてくれていることなのだ。
「さあ、張り切っていこうか、トレーナー!」
どこからとも無く伊達メガネを取り出して、得意げに胸を張って見せるファイン。
「よろしくおねがいします、の前に――」
でも。
これはあんまりなので、口にせずにはいられない。
首を傾げる彼女に、今日会ってからの疑問を投げかけた。
「――なんでメイド服なんだ……?」 - 3122/07/19(火) 23:12:34
彼女が身にまとうのはロングスカートのワンピースに白いエプロン。
いわゆるメイド服と呼ばれるものだった。
ご丁寧にカチューシャまで着ける徹底ぶりである。
問われたファインは心外そうな顔をしている。
「どうしてって、家庭教師はこの格好をするものでしょう……?
少なくとも私の家庭教師はそうだったよ?」
「それは……」
それは、お城のメイドさんが家庭教師を兼ねていただけなのではないだろうか?
「まあ、いいか」
とりあえず彼女の趣味趣向によるものではなさそうで、胸を撫で下ろす。
「それで、どうかしら? 似合う?」
前言撤回。やはり彼女の趣味も含まれているようだ。
「とても良くお似合いです殿下」
「ふふっ♪ ありがとう、トレーナー」
褒められたことを喜びつつ、"殿下はやめてって言ってるでしょう?"と釘を差すのは忘れないファインである。
「うん、あとはトレーナー室に入ってる所を見られてない事を祈るだけかな……」
"トレーナーが個人的事情で担当ウマ娘にメイド服を着せてトレーナー室に招いた"などと後ろ指を指される状況は困る。
閉じた社会であるこのトレセン学園でそんな噂が流れでもしたら本当に困る。
「見られてると思うけど……なにか問題が?」
大問題だ。せめて理事長かたづなさんには事情を説明しておくべきかもしれない。 - 4122/07/19(火) 23:14:12
「それじゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました……」
夏の太陽も落ちる頃になって、延々続いた"勉強会"は終わった。
「どうだった? 先生としての私は?」
と言われた側の俺の頭は重い。
ファインが絡む事態でこのようなステータスになることがあるとは。新しい発見とも言えるかもしれない。
普段教鞭を執っている側としての立場がなければ机に突っ伏しているところだろう。
「ファインと話していただけなのにこんなに疲れたのは初めてだよ……」
――と口にしてから、気づいた。
せっかく俺の個人的な付き合ってくれたのに、"疲れた"はいくらなんでも失礼では。
「ごめん。疲れた、はちょっと言い方が悪かったかな」
おそるおそる彼女の顔を見ると、何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべている。
言われた彼女は頭を振って、
「それは、普段は私と話しているのが楽しいってことだよね?」
「そうだけど」
特に否定する要素が無いので即答する。
ファインと会話していて困るような言動は……まあ、あると言えばあるけど。
言われたファインは少し驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの笑みに戻る。
「だから許してあげる!」
と、寛大な心でお許しを頂いた。
「でも、授業をボイコットされたらいくらトレーナーでも許さないからね?」
「それは無いから安心してほしい」
自分から言い出したことなのだし、最終的にはファインのためになることでもあるはずだ。
拒否する理由は今のところ存在しなかった。 - 5122/07/19(火) 23:16:29
「それでは後日も引き続きよろしくお願いします先生」
「まっかせて! 私の授業を受けて、アイルランド語まで含めて3ヶ国語をマスターしてもらうから!」
ファインモーション殿下先生はやる気に満ちあふれている。
「お手柔らかにお願いします」
「お願いされましょう」
弾む声で気安く引き受けた彼女は、トレーナー室備え付けのホワイトボードにさらさらと何か書き始めた。
"Fan le chéile go deo"
「ファン、レ、……何?」
「Fan le chéile go deo」
「ファン、レ、ヒーリェ、グジョー……?」
ファインは、ふふ、と手を合わせてながら笑い、
「最後には、これを言えるようになってもらおうかな?」
などと要求してくる。
「う、うん。頑張る」
「キミなら大丈夫! あ、でも、トレーナーなら私に隠れてこっそり勉強しちゃうかな?」
「読まれてたか。でも――」
少し考える。
英会話はともかく、アイルランドの言葉となると独力での学習は難しいように思う。特に、
「――読み書きは独力でも出来るけど、発声は難しいかな」
心当たりと言えば他にSPさん達がいる程度だが、時間を取ってもらうのも忍びない。
大人しくファインに従っていた方が結果的に習得は早いように思えた。
ファインは、うーん、と考える素振りを見せたが、やがて手を合わせながらこんなことを言ってきた。
「私はどちらでも構わないよ。 キミがこの言葉をマスターして、心を込めて言ってくれるなら。 ね?」
にこやかに笑顔で。
その時を楽しみにしている、と告白してきたのだった。 - 6122/07/19(火) 23:19:55
おしまい
アイルランドは愛蘭と表記するので省略形では"愛"なんだ
思いを込めて伝えよう
過去作
【トレ♂×ファインSS】星に願いを|あにまん掲示板トレセンのある府中から電車で1時間ほど。今日はトレーニングのため、山の麓まで来ている。川が近いこともあってか涼気に包まれており、平野の暑気もここまでは来ていないようだ。「うーん、涼しい!これなら思う存…bbs.animanch.com - 7二次元好きの匿名さん22/07/19(火) 23:26:50
素晴らしい……
- 8二次元好きの匿名さん22/07/19(火) 23:31:59
- 9二次元好きの匿名さん22/07/19(火) 23:50:13
力作!
尊死! - 10二次元好きの匿名さん22/07/19(火) 23:58:39
すごく…アイルランドです…🇮🇪
- 11二次元好きの匿名さん22/07/20(水) 00:25:41
過去作読ませてもらったけど超大作で芝2500m生え散らかした
- 12二次元好きの匿名さん22/07/20(水) 06:53:59
やはりプロポーズは相手の国の言葉で、ですね!(興奮)
- 13二次元好きの匿名さん22/07/20(水) 15:12:43
素晴らしい...
- 14二次元好きの匿名さん22/07/20(水) 15:17:21
このレスは削除されています
- 15二次元好きの匿名さん22/07/20(水) 15:18:14
このレスは削除されています
- 16二次元好きの匿名さん22/07/20(水) 15:46:51
このレスは削除されています
- 17122/07/20(水) 23:41:44
ガチャスレ立てて遊んでる間に何があったんだろう…まあいいや
感想ありがとうございます
これからも精進させて頂きます - 18二次元好きの匿名さん22/07/20(水) 23:48:09
綺麗で好き