- 1二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:50:26
朝から蝉が嘶いている。
じーわじーわしゅわわわわ……と、実に遠慮がない。むき出しの耳に打ち付けられるアブラゼミの楽団はあまり演奏が達者ではなく、畦道から届けられる蛙の大合唱に比べていくらかましという程度だ。
あるいはあまり変わらない。
スズカは今日も早起きした。もちろん、走るために。夏とはいえ、日が昇りはじめた早朝はいくらか涼しい。ふいに木陰に入った時などは、爽やかな空気が肌を撫でていくくらいだ。厳しい夏の一日にもささやかな喜びがあり、それぞれの季節で見える景色は変わっていく。
「何をしようかしら?」
寮に戻って、シャワーを浴びて汗をさっぱり洗い流し、朝食を済ませて洗濯物を干したスズカは、自室でひとりそう呟く。後輩の姿はない。彼女はいまトレーニングに励んでいるはずだ。
トレーナーが昨日から出張で留守にしているので、夏合宿前ということもあり、スズカは休養を言い渡されていた。なにぶん急な決定だったので、今日も走る気に満ち満ちていたスズカのスケジュールは、ぽっかりと空いてしまっている。
「……何をしようかしら?」
部屋を軽く掃除して、シューズをぴかぴかに磨いてから、もういちどスズカはそう呟く。
やはり走るしかないか。
そんな風に考えて立ち上がると、ぶるぶるぶるとウマホが震えた。
びくりと尻尾が跳ね上がる。 - 2二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:50:58
がたんごとんと電車に揺られて。
「よく晴れている」
あっという間に目的地に着く。
改札を出ると、ずっしりと重量感のある入道雲がスズカを出迎えた。快晴の青空というわけではないが、もうすぐ本格的に日が高くなり、気温がぐんぐん上昇していくことを想像すると、実に夏らしい景色が広がっているのではないかと感じられる。駅前の植木が作った影は濃く厚く、入道雲が黒く染まって地面に落ちてきたように見えなくもない。
「電車の冷房で少し冷えてしまったな。体をほぐしながら歩くとしよう」
颯爽とエアグルーヴが歩きはじめる。
少し遅れてスズカは友人を追った。急な誘いだったので、理解はまだ追いついていない。
ウマホを震わせるLANEの差出人はエアグルーヴだった。
『川沿いを走らないか?』
文面は非常にシンプルで、スズカは自分が知らず知らずのうちに粗相をしでかしたのではないかと一瞬考えたので、内心ほっと胸を撫で下ろしたものだ。
その魅力的な提案をスズカが断るはずもなく、二つ返事で快諾のメッセージを送ると、すぐさま次の文面が送られてきた。
『目的地までは電車を利用するので、みだりな軽装を避けるか、上着を羽織ってくること。
気温の上昇が予想されるので、飲み物とタオルを持参すること。
日焼け止めを忘れないこと。
非常時に備えて、救急セットといくらか現金を用意すること』
それはまるで遠足のしおりのように。
スズカはそれらの荷物をランニングパックに詰めると、すぐに走り出せるよう、Tシャツとショーツに身を包み、薄手のパーカーを羽織って部屋を出た。寮の正門では、似たような格好のエアグルーヴが待っており、
「忘れ物はないだろうな」
と、世話焼きの教師のようなことを言ったので、ついつい笑ってしまったものだ。
「……何がおかしい?」とエアグルーヴが目を細める。
「いいえ。何も」とスズカは答える。
そして二人で府中を出て、世間話に花を咲かせながら、こうして目的の駅へと降り立った次第だった。 - 3二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:51:34
「そういえば、さっきオニユリが咲いていたな」
前屈をしながらエアグルーヴが言う。
「あら、そうだったかしら?」
友人の背中をゆっくり押しながら、スズカは来た道の景色を振り返る。
「ああ。鮮やかなオレンジの花を咲かせていたよ」
「オニユリは……確か、まだら模様があるのよね」
「そうだ。虎の毛の模様に似ているから、英語ではタイガーリリィともいう」
「日本語では、どうしてオニユリなのかしら?」
二人は役割を交代する。
スズカは開脚し、エアグルーヴに肩と背を押されながら、右へ左へ体を屈めていく。最後は前方にぺたりと上体を倒し、息を吐きながら芝生に胸をつける。
「赤鬼の顔からの連想だという話を聞いたことがある」
「童謡は関係ないの?」
「童謡? ……ああ、なるほど。確かに鬼の腰巻きは虎柄だが、おそらく関係はないだろう」
「でも、それはそれで面白い偶然ね」
やや湿気を保った、青々と茂る芝生の香りが鼻に心地よい。
二人は立ち上がり、互いに背中を合わせる。まずはスズカが背負う番。
エアグルーヴの左手を右手で、右手を左手で握る。自分の腰の上に相手の腰を乗せるようにして、「よいしょ、っと」体を持ち上げる。自分の体を前に倒し、相手の体を背面に向けてぐっと反らせる。
「ふぅー……。そもそも、あれはイタリアの古い歌謡曲の替え歌だ」
「そうなの?」
「『フニクリ・フニクラ』はお前も聞いたことがあるだろう」
「……ああ、言われてみれば」
二人は役割を交代する。
「あの鮮やかなオレンジと青い空のコントラストを見ると、夏の訪れを感じるな」
「エアグルーヴにとっての、夏の景色の一つなのね」
柔軟体操をするだけで汗ばむほどの暑気を感じながら、川沿いの涼やかな風を二人は浴びる。
ランニングパックをしっかり体に固定し、忘れものや準備の取りこぼしがないことを確認すると、どちらからでもなく、スズカとエアグルーヴは走り出した。 - 4二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:52:01
「今日は比較的湿度が低いようだな」
「からっとしているものね。……うん、気持ちいいわね」
「あまりペースを上げすぎるなよ。ここは専用レーンじゃないんだ」
「わかってる。エアグルーヴこそ、なんだかいつもより浮き足立ってないかしら」
「そう見えるお前が浮き足立っているんだろう」
「ふふ、そうかも」
息を切らさない程度のスピードを維持しながら、二人は川沿いの舗道を走っていく。じわりとかいた汗がいつしか玉のように結ばれ、頬の曲線を伝って流れていく。しかし、それらはすぐに乾く。ここ数日の曇天では味わうことのできなかった心地よさ。二人は正しく、発汗による放熱の作用を楽しんでいるといえる。
すれ違う人、追い抜いた人、追い抜かれた人の姿はさまざまだ。二人のような軽装のランナー。肘までアームカバーで覆い、全身の肌を隠して日傘を差した散歩者。ぴっちりとしたジャージに身を包んだ自転車乗り。びっしょりと汗をかきながら、それでも夏を謳歌し大声で笑う学生の集団。
水生植物が猛々しく葉を伸ばしたその先で、一匹の虻が羽根を休めている。そばで咲く小さな黄色い花の名前がなんというのか、スズカは知らない。エアグルーヴに聞こうかとも思ったが、虫の話題に少しでも触れることは憚られたので、スズカはぽつりと口を開く。
「夏ね」
「ああ、夏だな」 - 5二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:52:40
太陽は少しずつ空の高みへと昇っていった。
スズカはふと、自分たちがどこへ向かっているのかが気になった。川の流れを改めて確かめると、どうやら遡上しているらしい。水質が徐々に澄んでいっているので、おそらく上流に向かっているだろうことは察せられるが、そこがどこかはわからない。
もっとも、わかる必要もない。
スズカは楽しかった。急な予定の空白に、孤独を感じていたからだ。
スズカは嬉しかった。友人がすかさず誘いを入れてくれたからだ。
スズカは満ち足りていた。もしここが競う場であったなら、鬱憤は水を流し込んだ風船のように膨らんで、いつか破裂したに違いない。しかし、ここはただ走ることの喜びを分かち合うための場だ。だから並んで走ることも不自由ではないし、一人で駆ける時とは違った意味で、思うままに振る舞うことができている。
「ところで、今日はどうしてランニングに誘ってくれたの?」
そして浮かんだ当然の疑問を、スズカははっきり口にする。話すことは得意でないが、訊いてみなければならないと判断したのだ。あるいは、訊きたかったのだ。
隣を走るエアグルーヴは、徐々に穏やかになっていく川の流れに合わせるようにして、薄く微笑むとこう言った。
「梅雨が明けたのに曇り空ばかりで、最近元気がなかっただろう? いつぞやの礼だ。今日は私が強引に誘わせてもらった」
そのとき、ほんの少しだけエアグルーヴのペースが上がったのを、スズカは見逃さなかった。
「そうだったのね。……ありがとう、エアグルーヴ」
心からの感謝は、友人をひとりにさせないことで表現する。スズカは一瞬たりとも引き離されることなく、すぐにエアグルーヴの隣に並んだ。 - 6二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:53:10
まさか源流まで遡るはずもなく、ある喫茶店がこの日の折り返し地点になった。
店はずいぶん繁盛しており、ランナーがよく休息に訪れるそうだ。店主はウマ娘で、走ることに理解があった。
テラスに空席はなく、せっかくの好天だったので、二人は昼食を持ち帰ることに決めた。店から離れて、ふただび川沿いへと戻り、木陰のベンチに腰をおろす。キャロットラペをたっぷり挟んだサンドイッチに、ローズヒップとハイビスカスのアイスティー。情熱的で華やかな赤色。夏空の下によく映える。木漏れ日はいくぶん柔らかに感じられた。
「おいしいわね。これは……パンにもハーブが練り込んであるのかしら?」
「ああ。評判ということで気になっていたのだが、期待以上の味だったな。お前を誘った甲斐がある」
二人はあっという間に昼食を平らげた。食欲は旺盛だった。それはつまり、調子がいいことを意味している。
「……ねぇ、エアグルーヴ」
氷が半分ほど溶けたハーブティーをすすり、一息置いてから、スズカはエアグルーヴに声をかけた。
「……わかっている」エアグルーヴには迷いがあるようで、いつものように腕を組み指先で額を押さえていたが、その口角はわずかにつり上がっている。「やるのか?」
「ええ。せっかくだもの」
二人はサンドイッチを包んでいた紙袋をランニングパックに仕舞うと、すっくと立ち上がった。 - 7二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:53:30
川はなかなか凍らない。なぜなら流れがあるからだ。
反対に温度の上昇にしても同じことで、水は冷たく、火照った二人の素足を撫でては通り過ぎていく。
言葉はない。
それはキュウリかスイカの気分か、もしくはもっと涼やかな心地か。ゆるやかな川の流れに任せながら、二人は眼を細めてひとときの安らぎにその足を浸している。
「これはオススメなんですが」
にやりと不敵に笑う喫茶店店主のウマ娘は、サンドイッチとアイスティーを受け取る二人にそう言った。
「石垣が階段のように積まれている場所があります。そこを降りていってください。二人が座るスペースもありますから、靴を脱ぐといいでしょう」
その説明は手慣れたもので、これまで多くのランナーが、ウマ娘が、その誘惑に従ってきたことを語る。
「素足を川に浸すと気持ちいいですよ」
まんまと引っかかった二人は、ほくそ笑む店主の顔を一瞬だけ想像したものの、その意識はすぐさまそれぞれの足に向けられ、そこから伝わる喜びを頭ではなく心で感じ入るのだった。
シューズの紐をゆるめ。
靴を脱ぎ。
蒸れた靴下を脱ぎ。
いざ、と足を突き出す。
「これは……」エアグルーヴが口を開いた。「……正解だな」
「大正解よ」スズカも同じように口を開く。「……今日は誘ってくれて、本当にありがとう」
青い空、白い雲。いきいきと伸びる草木。色とりどりの花。縦横無尽に鳥と虫が舞う。どこを見ても夏そのもので、自分の足もとに目を向けてみても──やはり、そこには夏がある。 - 8二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:54:25
下流方面に向けて、二人は帰路を駆けていく。その体験は名残惜しかったものの、時間には限りがある。明日からはまた、今日のペースとは比較にならない速さで走ることを求められ、また自分自身求めるのだ。
エアグルーヴの話によれば、帰りは彼女のトレーナーが車で送ってくれるらしい。ならば遠慮はいらないと、あたりに誰もいないことを入念に確かめてから、スズカはからからうようにペースを上げる。振り返ると、そこには何か言いたそうな友人の顔があったが、すぐさまその目付きは競走ウマ娘の本分に則り、瞳に炎が灯るようだ。
1000mにもはるかに満たない距離、誰も見ていない時間。二人はやはり思うままに駆け
、追い抜こうと逃げ切ろうと生命力の許す限りで走り、互いを除いて見ることのない表情を楽しむのだった。 - 9二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:57:00
以上です。
路線と駅と川とすべての景色は架空のものです。
スズカとエアグルーヴが川に足を浸して涼んでいるところが見たいというだけの文章でした。
二人のある夏の一日のスケッチというイメージなので、好きなところを好きなように読んでください。
下に載せるお話の続きのようなイメージもあります。
スズグルもっと流行ってください。
いちご大福を食べにいきましょう|あにまん掲示板「おはよう、エアグルーヴ」「……おはよう、スズカ」「あら、どうしたの? なんだか浮かない顔だわ」「お前が急に連絡を寄越すからだろう」「ごめんなさい。でも、そろそろ暑くなるでしょう? いちごの旬も終わる…bbs.animanch.com - 10二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:57:58
いい…とてもアオハル…素晴らしいものを見せていただいた…
- 11二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:59:41
清涼的な雰囲気を感じられてとても良かったです、ありがとう🙏
- 12二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 20:59:56
いい話でした。夏の茹だるような暑さ、気の置けない友人関係、川辺の涼しさなど良いものを読ませていただきました
- 13二次元好きの匿名さん22/07/22(金) 21:18:06
読んでくださってありがとうございます
そうなんですよ。この二人もまた清涼感あるアオハルなんですよ
だから夏の景色がこれでもかってくらい似合うんですよ
みなさんもどんどんスケッチしてください。むろん夏に限る必要はありません
二人が「友人」になる馴れ初めとか
卒業後にいわゆるありがちな「ルームシェア」を始める妄想とか
留まりませんね