- 1二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:16:59
様子が変だ、と気がついたのはきっと長くなった付き合いの賜物。
感情をあまり表に出さない私の分を補うかのように感情表現が豊かで、時折辟易するくらいに騒がしいトレーナーさんは、今日はやけに沈んでいた。
彼のことをよく知らない人から見れば、気がつくかどうか分からないくらいの僅かな違い。
でも、私の目には、その些細な変化は顕著な差となって映った。
心配というほど気にかけてはいない。
けれど、もしかして面倒な悩みでも抱えているのなら面倒なことになる。だから一応、様子を見に行くだけ。気のせいだったのならすぐに帰る。
なんだか言い訳のようになった理由を胸に抱えて、私は薄暗い明りの灯るトレーナー室のドアを開けた。
部屋の中に彼はいなかった。だが、ひとつだけいつもと異なっている部分が私の目を引く。
いつも散らかっている机の上には、伏せられた写真立てと赤ワインの瓶、そして2人分のワイングラス。いずれもトレーナー室にはおよそ相応しくない顔ぶれだった。
人によっては異様とも思えるこの光景。でも、私にはその意図がわかる。
「……誰かが、亡くなった」
そう、分かるのだ。まだ献杯をする歳ではないけれど、私もあの子の命日────私の誕生日でもある────には、ケーキを2つ買って祈りを捧げるから。
今日元気がなかったのはそのせいか。
想像よりもデリケートな理由だったから、どうしたものかと考え出したところで、背後のドアが開く音がした。 - 2二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:17:28
「忘れ物?」
振り返ると、部屋の入り口にはいつになくネクタイをきっちりと締めたトレーナーさんが立っていた。
そのまま私の隣まで歩いてくると、何かあったかな、と部屋の中を見回す。
トレーニングのときにはノーネクタイどころかシャツのボタンを1つか2つ開けていたから、まるで別人のような出で立ちだ。
「……まあ、そんなところよ。お邪魔だったみたいね」
「ああ、これか……あんまり人に見せるものじゃなかったね」
私がちらりと机の上を視線で示すと、トレーナーさんは苦笑いしながら伏せていた写真立てを持ち上げる。
写真の中には、学生服姿でピースサインを掲げる少年が写っていた。
「学生時代の友達だよ。事故で亡くなったんだけど、今日は七回忌でさ。せっかくだから報告も兼ねてここで一杯やろうと思って」
本当は墓参りもしたかったんだが、と付け加えて、トレーナーさんは椅子に腰を下ろすとグラスにそれぞれワインを注いだ。
「トレーナー室で飲酒なんて本当はダメだけど、今日は内緒で頼むよ」
「ええ」
どちらかといえば優等生寄りの自覚はある。けれどさすがにそんな無粋な真似はしない。
「乾杯」の声と同時に、かちゃん、と音を立ててふたつのグラスがぶつかる。
ワインといえば香りを楽しんでから少しづつ飲むものだと思っていたけれど、トレーナーさんはまるで何かを忘れたいかのようにひと息に飲み干してしまった。
今日はもうひとり────いえ、ふたりきりにしておいてあげた方がいい。
明日のトレーニングに遅れられたら困るけど、仕事には誰よりも真摯なこの人だ、きっと大丈夫。 - 3二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:18:01
「そろそろ私は失礼するわね」
次に会えばきっといつものようにお節介で暑苦しい、そんないつもの彼に戻っている。
だから今夜はもうこれきり目を瞑って────
「あ……そっか。また明日」
でも、返ってきたのはあまりにも名残惜しそうな声。いい大人とは思えないほどの。
はあ、とため息が出るのが分かった。
「……門限までまだ余裕はあるから、何か話があるなら付き合うけど」
「本当か?」
人恋しいのなら、素直にそう言えばいいのに。
こんな日くらい────いえ、こんな日だからこそ、流石の私でも断らないことくらい分かっているはず。
「じゃあもしよかったら、昔話でも聞いてくれないか」
「……私でよければ」
私は彼の隣の席に腰を下ろす。未だによく分からないこの人の過去を覗いてみるのも、たまには悪くない。
それに、私は過去のすべてを曝け出してしまったのだから、こっちも少しくらいは教えてもらっても罰は当たらないだろうという考えもあった。
「知らなかったわ、そんな話」
「だろうね。トレセンに来てからは意識もしてなかったんだが、昨日地元の知り合いから明日は命日だぞって連絡が来て……それで色々思い出してしまって」
トレーナーさんがお酒を飲んでいるところは初めて見たけれど、どうやらアルコールはあまり強くないらしい。
ぽりぽりと頬を掻く彼の顔は、既にほんのりと赤くなり始めていた。 - 4二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:18:25
「どんな人だったの?」
「う~ん、性格はちょっと言葉では言い表しにくいけど……あだ名はキーパーだったな。3年G組だったから、3Gのキーパー」
「キーパーって、サッカー部?」
そう聞くと、トレーナーさんは「それが違うんだ」と首を振る。
「サッカーなんてやってなかったし、特に掃除が好きでもなかったんだけど、みんなが何故かそいつをキーパーって呼んでた。最初に言い出したのが誰かは分からないけど、少なくとも俺の覚えてる限りは由来を知ってる人はいなかったかな。本人も特に気にしてなかったしね」
「何よ、それ」
「男子なんてそんなものだよ」
トレーナーさんのグラスにもう一度ワインが注がれる。
間近にいるから、強い香りが私の方にも漂ってきて────"キーパーさん"のグラスの中身が減らないのは、彼がいつまで経っても大人になれないからではないか。そんなバ鹿げた考えが脳裏によぎる。
まだ酔うには早いのだ、私は。 - 5二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:19:00
「そういえば、初めてレースを見に行ったのもあいつに誘われたからだった。別に興味ないって言ってんのにしつこくってさあ……でもいざ見に行ったら感動しちゃって。それでトレーナーを目指しだしたんだった」
溢れる思い出話を肴に、ボトルの中身はみるみるうちに目減りしていった。
すっかり酔いの回ったらしいトレーナーさんは、どこか焦点の合わない目で友人の遺影をじっと見つめている。
なんだかんだで長居してしまったけれど、そろそろ記憶の中の部外者は立ち去ったほうがいいのかもしれない。
「そろそろ帰るわね。明日も早いから」
「ああ、もうそんな時間か」
時計を見ると、帰るにはちょうどいい時間だった。
そのまま出ていこうかと思ったところで、ふと忘れていたことに気づく。
「その前に、この人に手を合わせていってもいい?」
「……それは構わないけど、どうして?」
「トレーナーを目指したきっかけのこの人がいなかったら、私たちは出会わなかったかもしれない。だからお礼くらいはしてもいいでしょう。それに……」
咳払いが、ひとつ。
「それに?」
「あなたはあの子のために祈ってくれた。だから、私もあなたの大切だった人に祈りたい。それだけ」
目を合わせずにそう言うと、くすりと笑う声が隣で聞こえた。
「……優しいんだな、アヤベは」
「優しくなんかないわ。強いて言うなら、人より多少義理堅いだけよ……」 - 6二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:19:46
手を合わせる前に、改めてキーパーさんの遺影を見る。
似た者同士だったのかもしれない。写真の中の少年は、いつものトレーナーさんのように屈託のない笑みを浮かべていた。
「優しそうな人ね」
「ああ。変な奴だったけど、きっとアヤベのことも気に入るよ。本当にさ、気がいい奴だったから……」
「あなたが言うなら、多分そうなんでしょうね」
嫌味、ではない。
震え出したその声に上手い返事ができなくて、つい突き放すような言い方になってしまっただけ。
私はいつもそう。誰かの与えてくれた気持ちに、まっすぐ言葉で返すことができない。
だから、ただ黙って祈ることにする。
「ほんと、不器用なんだから気をつけろってあれほど言ったのに……」
隣で啜り泣く音に応えるように、私はキーパーさんの遺影に手を合わせ、静かに目を閉じた。
きっと天国にいる、出会ったことのないこの人の安らかな眠りを願って。
いつか私の人生にも終わりが来て、そのとき顔を合わせることがあるのなら、改めて直接伝えたい。
だからそれまでは一方的な宣言になるけれど────どうか聞いてください。
私はこの人と生きていく。過去に犯した罪と心の傷に縛られることなく、己の今を生きていく。
今はまだ迷い道の中にいるとしても、いつか必ず幸せを見つけてみせるから。
だから────あの星と同じように、どうか彼を、私たちを見守っていて。
顔も知らないあなた、3Gのキーパーさん。 - 7二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:21:37
- 8二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:25:41
ヘタに元曲の話したら歳がバレるやつ
- 9二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:30:34
アヤべさんとZARDは割と取り合わせいい気がする
- 10二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:32:00
すごーくよかった
- 11二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:34:38
しっとりアヤベさんSSは万病に聞く
- 12二次元好きの匿名さん22/07/24(日) 20:55:20
作品を追うごとに湿度が増してんなアヤべさん
- 13二次元好きの匿名さん22/07/25(月) 07:34:16
見つめていたいねだっけ
- 14二次元好きの匿名さん22/07/25(月) 19:10:26
すげぇ好き
- 15二次元好きの匿名さん22/07/25(月) 19:14:37
これ元ネタ曲あるんだ