- 1二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:06:02
塵も積もればなんとやら、という諺があるが、まったくもってその通りだと思う。
スーパーから抱えてきた荷物は、ウマ娘用というだけあって凄まじい量になっている。腕の筋肉が悲鳴を上げているが、目的地である彼女の家はもう数百メートルは先だ。
「ごめんなさい、トレーナーさん。買い物に付き合わせてしまって」
「いや……いいんだ。いくらウマ娘だからってこうまで大荷物だと大変だろう」
申し訳なさそうな顔で隣を歩くのは、かつての担当ウマ娘のサイレンススズカ。自分よりも遥かに多い荷物を特に気にした風もなく持って歩いている。
自分で手伝うと言った手前、弱音を吐くのは憚られるので何も言わないが、次は絶対に車で来ようと密かに心に決めた。
「トレセンのお仕事って思った以上にやることが多くて……私には規則正しい生活は難しいみたいです」
「すぐに慣れるよ。スズカなら大丈夫だ」
スズカは今、トレセン学園の教官見習いの職に就いている。引退してもなおレースの世界からは離れられなかったようだ。習うより慣れろがモットーで、座学を行うよりもまず実際に走らせ、その上で指導を行うのが彼女流のやり方らしい。
そんな型破りな指導法でありながら意外にも評判は上々のようだが、当の本人は一緒に走れないことが残念だ、と度々こぼしている。
さて、そんな新生活を迎えても身の回りのことに無頓着なのは変わらないようで。
忙しさも相まってどうもまめに買い物をするという習慣が身につかず、休みの日に大雑把なまとめ買いをしてしまうのだという。
「トレーナーさんの方は、新しいお仕事はどうですか?」
「まあ、ぼちぼちやってるよ。自分が上司って名のトレーナーに指導されてる気分だ」
俺の方はというと、色々あってトレセンは辞めてしまった。今は知り合いの紹介でなんとか雇ってもらえた会社でサラリーマンの真似事をやっている。
残業も覚えることも多いし、どこまでも自分の裁量だったトレーナーとはまた違う大変さがある。しかし、言われたことをやっていればいいというのはつまらないが気楽だ。
「色々大変なんですね……でもよかったです。今のトレーナーさん、あの時に比べたら随分元気そうですから」
「そう?そうかな……」 - 2二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:06:53
トレセンを辞めてから、俺はしばらく酷く荒んだ生活を送っていた。詳しくは思い出したくもないが、人間として最低の状態だったというのが適当か。こんな関係になったのだって、元は彼女が心配して様子を見に来てくれたことがきっかけなのだ。
それからいくらかの諍いや寄り添いがあって、ようやくまた日の当たる場所へ出てくることができた。本当にスズカには大きすぎる借りを作ってしまったと思う。
「ところでその呼び方なんだが……もう俺をトレーナーって呼ぶ必要はないんだよ。君の担当でもなければ、もうトレーナーですらないんだから」
「それは分かってます。でも……私にとってトレーナーさんはトレーナーさんですから。それが変わることはないと思うんです」
嫌ならやめますけど、と遠慮がちに付け加えられると、なんだか悪いことをした気分になる。
「……まあ、スズカの好きに呼んでくれたらいいか」
死ぬまで「トレーナーさん」でもいいのだ。別に、他に呼んで欲しい名前があるわけでもないのだから。
「そうそう、この間久々にスペちゃんに会ったんです。相変わらず元気すぎるくらいで……」
下ろしていた髪をまとめ、何本もバゲットの入った紙袋を胸に抱えるスズカは、心なしかいつもより口数が多い。
「このパンはあのお店が美味しくて」
「月曜の夜はテレビが面白くてつい夜更かししてしまうんです」
そんなどこの誰でもできるような世間話を、スズカの口から聞く日が来るとは夢にも思わなかった。走りのことしか考えていなかった頃には見えなかった一面が時折こんな風に垣間見えると、嬉しくもあり心苦しくもある。
────そうだ。稀代のスターを普通の少女にしたのは俺なんだ。そしてあろうことか責任から逃れて、酒に溺れて、当のスズカに救われて。
本当に情けない男。本当ならこうやって彼女の傍にいることすら許されないのに、その優しさに付け込んで居心地のいい場所に縋り付いている。本当に嫌気がさす。
「なあ、スズカ」
「どうしました?」 - 3二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:07:31
「そろそろ、さ。────一緒に暮らさないか、俺たち」
歩み続けてきた脚が、止まる。
イノセント────純粋、と呼ぶのが相応しいだろうか。空を映したように青い瞳がほんの少し見開かれた。
「……随分、急な話ですね」
「うん、そうだろうな。ただ、そろそろ話さなきゃいけないと思ってた。お互い今の生活にも慣れてきて、そろそろ将来のことを考える時期だと思うんだ」
言い出したのは急かもしれない。だが、ずっと前から考えていたことだった。
今は休みの日はお互いの家のどちらかで一緒に過ごすことがほとんどで、それならいっそ一緒に住んだ方が家賃も食費も安上がりで経済的だ。帰りは俺の方が早いから買い物や食事の用意はできるし、トレセンの仕事のことは分かっているからスズカの邪魔にはならないはず。
────どうしてか、という質問に備えて打算的な理由を心の中で並べ立てるが、それらは結局口実に過ぎない。結局のところ、一緒に暮らしたいと思うほどスズカのことが好きなのだ。
愛というよりは依存の方が強いのかもしれない。だが、もう彼女なしでの生活というのは考えられなかった。二度も「サイレンススズカ」を失えば、きっともう俺は生きていけないだろう。
そんな思いを込めた提案を聞いたスズカは、しばらく押し黙った後にふっ、と柔らかく微笑んだ。
「……嬉しいです。実は、引退してからあの景色が見られなくなって落ち込んでいたんですけど、トレーナーさんといると不思議と心が落ち着いて。だから……もしこれから先も一緒に暮らすなら、トレーナーさんがいいと思ってました」
そう言って少し頬を赤らめるスズカを見て、胸がどんどん高鳴る。
なんだ、彼女の気持ちも同じだったんじゃないか。だったら、もう何も迷うことはない。
「それじゃあ────」 - 4二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:08:14
「でもいいんですか、それで?」
「え……」
遮るように響いた冷たい声に、言葉が詰まった。いつの間にか照れたような笑顔は消え去り、憐れむような視線がこちらを見据えている。
スズカはこんなにころころと表情を変える子だったろうか。顔に集まり出していた熱が引いていく。
「本当にそれで……後悔しませんか?夢を壊して、自分の未来からも逃げて、本当にそれでいいんですか?」
「……それは、いいわけはないけど」
でも、仕方じゃないか。声にならない声は、ひと際強く吹いた風にかき消された。
どうして急に態度を変えたりするのだろう。今の光景はひどく現実味がないように感じる。
「……ふふっ、うふふ」
そのまましばらく立ち尽くしていると、俯いていたスズカから押し殺した笑い声が響いてきた。
「ごめんなさい、トレーナーさん。少し言いすぎました」
「スズカ……?」
「ただ、無理して言ってくれてるんじゃないかと思ったんです。どうにも浮かない顔でしたから。もしかしてまだ……未練があるんじゃないですか?」
「分からないんだ。前まで自分がどうするべきか分かっていたはずなのに、なんだか迷ってしまって」
「そう、ですか……ねえトレーナーさん、少し走りませんか?ほら、あの橋まで」
そう言ってスズカは200メートルほど先にある橋を指し示す。いつの間にかあれほどあった大荷物はどこかへ消え失せていた。
ほんの少し目を離せば走り切っていたような1ハロンが、今となってはやけに遠く感じる。 - 5二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:09:01
「ウマ娘に勝てるわけないだろ」
「大丈夫です。ハンデはありますから」
そう言って目を向けるのは、タイツで覆い隠されてもなお痛々しさを隠し切れない左脚。
もう思い出したくもない記憶を、今日のスズカはやけに突いてくる。
「私に追いつけたら、さっきのお誘いの答えを言います。だから、全力で追いかけてきてくださいね」
「ちょっと待っ────」
静止も聞かず、スズカは走り出してしまった。仕方なくその背を追う。痛む脚を庇っているから、フォームはぐちゃぐちゃでまったく距離が広がらない。痛々しくて仕方がなかった。
「スズカ、もうやめよう!痛いだろ!」
「大丈夫です!まだ、走っていたいから!見たい景色があるから!」
「景色って、景色ってなんだよ!そんなになってまで見たいものなのか!?」
振り向いた顔は脂汗に滲んで、それでいて嬉しそうだった。
見覚えのある表情。どこで見たんだったか。ああもう、橋が近づいてきてしまった。
「これからもずっと、走り続けるんです!スペちゃんや他の皆と────トレーナーさんと!だから大丈夫!」
────ああ、思い出した。いつだったか彼女を連れ出して、好きなように走らせたときのことだった。
思えばこの河原もそのときの場所だ。この先にスズカの家なんてない。橋だってない。
「待ってくれ、スズカ!」
目の前に広がるのは、目を開けていられないほどのまばゆい光。スズカの背中がその中に溶けていく。
「未来を────信じて!」
意識を保っていられたのはそれまでだった。 - 6二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:10:08
目覚めた朝は、昨日よりほんのいくらかマシになった今日。マシになったと言っても、何もかもうまくいっていたあの頃は、相変わらず気が遠くなるほど離れたままだ。
それでも、進んでいかなければならない。俺もスズカも、また立ち上がると決めたのだから。
いまひとつ働かない頭と身体を引きずって身支度をし、トレーナー室のドアを開ける。
「おはようございます、トレーナーさん」
ソファに行儀よく座っていたスズカと目が合うと、彼女はこちらに微笑みかけてきた。
「……トレーナーさん?」
「……ああ、おはようスズカ。相変わらず早いな」
何せ夢の内容が内容だ。危うく失語症になりかけたが、なんとか平静を取り繕って返事をすると、彼女の向かいに腰を下ろした。
近頃はいつもスズカが先に来るので、待っている間好きに過ごしてほしいとトレーナー室の合鍵を渡してしまっている。
「リハビリ、楽しみですから。今日はどのメニューからにしますか?」
「午前中はプールで全身に負荷をかけていこう。午後はストレッチの後に座学」
「分かりました。先に行って待ってますね」
ギプスは取れたが、足取りはまだまだぎこちない。それでも懸命に歩いていく背中を、俺は思わず呼び止めた。
「なあ、スズカ」
「どうしました?」
振り返った瞳はやはりどこまでも純粋で────それでいて、確かな決意に輝いている。「サイレンススズカ」はまだ失われていないのだ。
残酷なまでに優しくて甘い日々は、今はまだ夢のままでいい。そうすれば、今日もまた眠ろうと思える。眠れるまで戦おうと思える。
そしていつか、夢が夢でなくなる日まで────
「のんびりやろう。まだ時間はあるんだから」
「でも、早く走りたいんですけど……」 - 7二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:11:20
オワリ。スズカみたいな子と一緒に暮らしたい人生だった。
↓前作
【SS】ひと夏の契り|あにまん掲示板これ↓の続きです。https://bbs.animanch.com/board/721435/bbs.animanch.com - 8二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:21:33
相変わらず文量がすごい
- 9二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:28:07
スズカのこの儚さはどこから来るんだろうか…
- 10二次元好きの匿名さん22/08/17(水) 23:54:30
いい……
- 11二次元好きの匿名さん22/08/18(木) 00:07:05
あなただったか…どうにも甘々一辺倒とはいかないところが、かえって生々しさを感じさせてくれる…ありがとう…
- 12二次元好きの匿名さん22/08/18(木) 09:31:32
共依存もいいし打ちのめされても前に進んでいくのもいい