- 1二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:23:33静寂というのは実に心地がいい。僅かな雨音にコーヒーの香り。決して乱されることのない調和。美しい、と心から思う。 
 路地裏にあるこの店は、昼間こそ評判を聞きつけたお客さんで賑わうが、夜になると途端に静まり返る。
 そんな静けさが、私は好きだった。
 「こんばんは」
 「……こんばんは」
 ドアのベルが鳴る。顔を上げると、入ってきたあなたと目が合った。静寂が破られたというのに、不思議とそれが残念だとはまったく思わない。
 「今日は、マスターはいないの?」
 「はい。マスターは……父はもう休みました。今夜は私の仕切りです……」
 あなたは店に入ると、いつも少し離れたテーブル席に座る。他に誰もいないのだからカウンター席にすればいいのに、どうしてか距離にこだわる。
 拒絶されているのではないことはよく分かっている。だって、この場所が好きでないのなら毎日のように通うはずがないのだから。
 「いつもので……よろしいですか?」
 「うん、よろしく頼むよ」
 いつものブレンド。ブルーマウンテンが3、キリマンジャロが2、モカが1。決して変わらない黄金比。
 あなたしか選ばない独特なものだけど、すっかり私の手はそれに慣れてしまった。
 「……どうぞ」
 「ありがとう」
 ほんのりと湯気が漂うコーヒーカップをあなたに差し出す。
 あなたは小さく礼を言い、さっそくカップを傾けて────ほう、と息をついた。
 「美味しいよ。やっぱりカフェが淹れてくれるコーヒーが一番落ち着く」
 「……ありがとうございます」
- 2二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:24:02私がコーヒーを淹れて、彼が美味しそうにそれを飲む。学園にいた頃から変わらない、当たり前の日常。 
 そんないつも通りに貰った感想が、妙に心に残るのはどうしてだろう。
 ……分からない。新しい気づきが増えた。
 「少し、書き物をしてもいいかな」
 「どうぞ」
 しばらくして、あなたは机の上にノートを広げた。中を覗いたりはしないけれど、内容はきっとレースに関すること。その子供のようなわくわくした顔を見れば嫌でも分かる。
 ペンが紙の上を泳ぐ度に、あなたの表情もころころと変わって。静かな店の中では呟きも私の耳へ届く。ラップタイム、次のレース、トレーニングの内容……中身は懐かしいものばかり。
 カウンター越しから遠巻きにその様子を見ていると、いつの間にか溜まっていた洗い物がすっかり片付いていることに気がついた。
 「そう、か……」
 逆に彼からは聞こえないように、ただでさえ聞き取りづらいとよく言われる声をさらに潜めて、私も呟く。
 この距離はきっと、お互いが相手の世界を邪魔しないための聖域。
 カウンターにいれば、あなたはきっと私の仕事を邪魔しないように気を遣う。私もあなたに気を遣う。だから、少しだけ距離を置く。そうしてお互いの存在を確かに感じ、そして自分の世界に浸ることができる。
 これが私たちの距離。大事な習慣。でも、今日はその習慣に変化を加える。欠かさずここに足を運んでくれるあなたが、この空間に飽いてしまわないように。
 私は冷蔵庫から取り出した目当てのものをいくつか小皿に乗せて、なるべく音を立てないようにテーブルへ向かう。
 「こちら……どうぞ」
 「うん?」
- 3二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:24:32小皿に乗っているのは、ハートの形をした数粒のチョコレート。今朝、完成したもの。 
 「コーヒーを楽しむ合間に、簡単につまめるお菓子を出してみたいと思いまして……よければモニターになっていただきたいんです」
 「タキオンみたいな言い方だね」
 在りし日に図らずも力を借りた”友人”の名を出して、あなたが笑う。
 彼女も時々この場所に顔を出す。相変わらずコーヒーも飲めないのにどうして来るのかは分からないけれど。
 「しかしカフェ」
 「……はい」
 「俺にはそのお菓子とやらがどこにあるか分からないんだ」
 「……見えませんか?」
 「見えません」
 これもまた、在りし日と同じやり取り。────あなたは本当に意地悪な人。すべて分かった上で、私に説明させようとしている。
 ただの試作品がこんな形をしていないということも、この形に込められた意味も。
 そんな意地悪をされると分かっているはずなのに、どうして私はわざわざ形を変えたりしたのだろう。
 ……分からない。今日は気づきが多い。
 「あなたに……トレーナーさんに食べてもらいたいと思ったので用意しました。お店で出すつもりなのは本当ですけれど、形は変わると思います……これで、満足ですか……?」
 「うん、満足。それじゃ、いただいても?」
- 4二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:24:54私をからかったことに腹を立てたのか、コーヒーが煮えたぎるように沸騰し始めている。風味が飛んでしまうから、と目配せすると、すぐに適温に戻ってくれた。 
 あなたはチョコレートを1粒口に放り込むと、コーヒーを飲んでゆっくりと咀嚼する。
 いつになく難しい顔をしているので私も思わず息を飲んだが、やがてその表情はぱっと明るくなった。
 「うん、うまい。甘味が強くてコーヒーによく合うよ」
 美味しい、ではなくうまい。それは私だけが知っている魔法の言葉。
 いつだったか初めて彼にコーヒーを振舞ったときに賜ってから、私はいつもその言葉を求めてきた。しかし、求めたとしてもそう簡単にはもらうことができない。
 あなたは本当に、私のことをよく分かっている。あの日、目に見えない何かを信じてくれたときからずっと。
 だから私はあなたにコーヒーを出す。いつかこの日々が終わりを告げるまで、私の味を忘れることがないように。
 「……また、来てくださいね」
 もう日付が変わる。昼間に生きるあなたは帰っていく。
 雨が止んだ。飲み干したカップから僅かに漂うコーヒーの香り。店の中には戻ってきた静寂。
 でも、なんだか落ち着かなかった。
- 5二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:26:12このレスは削除されています 
- 6二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:27:38
- 7二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:29:20電気グルーヴが好きなんだなと思いました。 
- 8二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 21:30:17
- 9二次元好きの匿名さん22/08/19(金) 22:04:10誰もいない喫茶店で朝までカフェとお喋りしたいよね 
- 10二次元好きの匿名さん22/08/20(土) 02:41:40とてもいい 
