- 1二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:01:14
「はあぁぁ……良いお湯だったっす……」
「食事も美味しかったし、本当に来て良かったんね」
「至れり尽くせりとはまさにこのことっすねぇ……♪」
浴衣姿の彼女は蕩けたような顔で、小さく息をついた。
鮮やかな赤髪のツインテール、目に被った長め前髪、透き通るような碧眼。
担当ウマ娘のウインバリアシオンは、俺の部屋の畳の上で、静かに腰を落とした。
そして、少しだけ恥ずかしそうにお腹をさする。
「……ちょっとだけ食べ過ぎちゃいましたけど、まあ、いいっすよね」
「…………うん、思う存分食べな」
そう言葉を交わすと、俺達の間に、少しだけ気まずい沈黙が流れる。
────今日、俺達は、温泉旅行へとやって来ていた。
以前、商店街の福引で当てた温泉旅行券の期限が迫っていて、時間が、出来たから。
自然が豊かで、人も多すぎず少なすぎず、まったりと、静かで穏やかな時を過ごせる、良い旅館だった。
だから、だろうか。
忙しない日々を過ごす中で、目を逸らした現実を、直視してしまうのは。
「シオン、温泉入った時に、包帯外しているよね?」
「はい、そういう注意書きがあったので」
「様子見ついでに巻きなおすから、おいで」
「……うっす」 - 2二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:01:30
シオンはそう言うと頬を微かに染めて、身体を寄せて、おずおずと左脚を差し出して来た。
そして、浴衣の裾をゆっくりと捲り上げて、すらりと伸びた素足を晒していく。
少し不安になるくらい細くて、輝くように艶やかでで、芸術品のように美しい。
彼女の走りを、俺達の夢を、長い間支え続けてくれた脚。
俺はそれに、慎重な手つきで、そっと触れた。
お風呂上りのせいか、肌にはほんのり赤みが残り、温もりを感じる。
確かめるようになぞらせた指先からは、しっとりと絹のような滑らかな感触がした。
その時、ぴくんと小さく、彼女の身体が震えた。
「……んぁっ」
「……! ごっ、ごめん! 痛んだか!?」
「ちっ、違うっす! あの、その」
「それとも違和感があるのか? どんな些細なことでも良いから、話して────」
「……トレーナさんの手つきが優しくて、もどかくて、くすぐったくて、変な声が出そうになっただけっす」
「……すいません」
真っ赤な顔で俯くシオンに、俺は謝罪を告げた。
そういえば元々、肌の感覚は敏感なタイプだったな。
ここ最近は、そんなことを気にしている余裕もなくて、すっかり頭から抜け落ちていた。
これじゃあトレーナー、失格だな。
────いや、元から失格だったか。
思わず、自らを嘲るように、笑みが零れてしまう。
「…………」
そんな俺を、シオンが悲しそうな目で見つめていることに、俺は気づくことが出来なかった。 - 3二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:01:45
少しマッサージをするように、シオンの左脚の筋肉を、調べていく。
脂肪も薄く、しなやかで、健康的な脚だと、誰もが判断することだろう。
けれど、アスリートの脚としては、少し物足りなさがあった。
それもそのはずだ────すでに、彼女はアスリートではないのだから。
「うん、特に異常はなし、それじゃあ包帯を巻いていくね、キツかったらすぐ言って」
「……わかったっす」
そして俺は、シオンの左脚に包帯を巻きつけていく。
ゆっくりと、丁寧に、しっかりと、時間をかけて。
そうしていくと、この脚と共に、彼女と育んだ思い出が脳裏に蘇っていく。
『やった……! やりました、トレーナーさん……! これで、あいつと走れるっす!』
前哨戦を落とし、クラシック一冠目皐月賞を諦めて、臨んだ青葉賞。
そこで勝利を収めたシオンは、初めて重賞を制覇したことではなく、ダービーに行けることを喜んでいた。
正確にいえば、これから幾度となく相まみえる、“暴君”と戦えることに。
『やっぱり強いっすね、あの人は…………けど、いつか、絶対に、必ず……っ!』
クラシック戦線において、俺達は三度“暴君”後塵を拝し、三冠ウマ娘になるのを見届けた。
そんな光景を見せつけられても、彼女は健気に、ひたむきに、前を向き続けていた。
それだけどれほど高い壁だろうとも、挑むことを、決してやめなかった。 - 4二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:02:08
『あはは、呆れるくらいに“暴君”っすね、ここまで負けると、逆に気分が良いくらいっす』
左脚に重い怪我を発症して、一年以上の長期休養を得て、シオンは再びターフに舞い戻った。
自身がライバルと見定めた、“暴君”の最後のレースに間に合わせるため、決して楽ではないリバビリをこなして。
彼女は復帰前以上の実力を取り戻していたが、相手が、あまりにも悪すぎた。
引退レースとは思えないほどの実力を見せつけた、伝説の有馬記念。
八馬身という絶望的な差を見せつけらても、彼女はどこか清々しい表情で、それを見つめていた。
『まだ……まだ走りたいっす……あいつのライバルとして、恥じない結果を、残したいっす…………!』
日経賞で久方振りの勝利を収めた後、シオンは再び、左脚を負傷した。
彼女はもう十分に走った、G1勝利こそないものの、ファンを魅了するような走りを、存分に見せてくれた。
それでも、彼女自身は、まだ満足していなかった。
物語を輝かせる主役、プリンシバルを、決して諦めてはいなかった。
そして三度、ターフへと戻った彼女は、復帰二戦を凡走するものの、一年前に勝利した日経賞で二着に入り込んだ。
────そして臨んだ、三回目の、春の天皇賞。
あの時のことは、今でも脳裏にこびりつき、夢に見てしまう
順調にレースを運び、最終直線に入って、勢い良く抜け出そうとした、その瞬間。
突如として大きくフォームを崩して、ずるずると苦悶の表情で失速していく、シオンの姿があった。
“暴君”に挑み続け、彼女が去った後でも夢を追い続けた彼女の左脚は、遂に、完全に壊れてしまった。
競争能力喪失。
日常生活を送るのに問題ない水準までは戻せるが、全力で走ることは二度と出来ない。
それは、あまりにも残酷な結末であった。 - 5二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:02:25
「……ごめん、本当にごめんな、シオン」
シオンの脚に包帯を巻き終えて、今まで過ごして来た時間を思い返して。
俺は、俯いて、それしか言うことが出来なかった。
情けない涙が零れそうになるのを、歯を食いしばって、肩を震わせて、必死に堪える。
俺がもっと、優秀なトレーナーであれば、彼女を主役にしてあげることが出来た。
俺がもっと、彼女の脚のことを見ていれば、彼女はもっと長く舞台に上がっていられた。
俺がトレーナーでなければ、こんな結末には、ならなかったはずなのに。
「────だめっすよ、トレーナーさん」
その時、ふわりと、柔らかな温もりに包まれた。
石鹸と、微かに香る温泉の香り、そして彼女自身の甘い匂い。
見上げれば、シオンは慈しむような微笑みを浮かべて、ぎゅっと抱き締めてくれていた。
「あたしは、トレーナーさんに感謝しているんだから、そんなことを考えちゃ、だめっす」
シオンは俺の心の内を見透かしたような目で、そっと頭を撫で始めた。
優しく、暖かなその手のひらは、俺の心のささくれを、少しずつ和らげていくかのよう。
そうしながら彼女は、小さな声で、言葉を紡いでいく。
「貴方だったから、あたしはあいつに、挑み続けることが出来た」
“暴君”とは別のレースを選ぶべきだ、という声も少なからずあった。
だけど、俺は彼女を信じていたし、何よりも彼女が走りたいと言ったから、挑み続けた。
負けたのは悔しかったけれど、いつも、一緒に戦って負かしたいと、二人で話し続けていた。 - 6二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:02:49
「貴方だったから、あたしはあいつの最後のレースに、間に合わせることが出来た」
決して軽い怪我ではなかった。
だけど、どうしても“暴君”を走りたいという彼女の意思を、俺は全力で支え続けた。
勝てなかったけれど、届かなかったけれど、走れて良かったと、シオンは言ってくれた。
「貴方だったから、あたしは決して諦めない、真っ直ぐなウインバリアシオンのままで、いられた」
二度目の怪我の時点で、引退してもおかしくはなかった。
でも、俺は、信じていた。
彼女のひたむきさを、健気さを、諦めの悪さを、努力を、強さを、走りを。
「心残りは、まあ、さすがにちょっとありますけど、でも、満足はしてるっす!」
最後のレースの後、たくさんのファンから、手紙が届いた。
復帰を望む声、引退を惜しむ声、今までの感謝を告げる声。
そして彼女の下にはたくさんの人がやってきて、あの“暴君”もお忍びでやってきた。
彼女達の会話は聞かなかったけれど、シオンは嬉しそうな笑顔で、ぽろぽろ泣いていたのは覚えている。
俺を抱き締める彼女の力が、ぎゅっと一際、強くなる。
「あたしが、こんな結末を迎えられたのは────貴方が、トレーナーだったからっすよ」 - 7二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:03:09
だから、そんな寂しいこと、言わないでください。
シオンは囁くような小さい声で、そう告げた。
決して、順風満帆といえるような、道筋ではなかった。
失敗も挫折も、何度も繰り返して、二人して何度も落ち込んでしまうこともあった。
けれど、七転八起、彼女は、俺は、挫けても必ず立ち上がって、再び前を向き続けて来た。
その“今まで”を否定するのは、ウインバリアシオンというウマ娘を否定することと、同義。
……本当に、俺は情けないトレーナーだ。
こんな簡単なことに、今の今まで、気づいていなかっただなんて。
早く────彼女の名前に、見合うトレーナーにならなくちゃな。
「シオン、ありがとう、もう大丈夫だから、離してくれて良いよ」
「…………いやっす」
「えっ」
「これはあたしを心配させた罰っすから、もう少しだけ、このままっす」
そう言って、シオンはころんと寝転がった。
抱き締められたままだったから、俺の身体もそれに合わせて転がってしまう。
引退して、少しふわふわ感が増してきた彼女の身体の感触が、妙に心地良い。
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、問いかけて来る。
「あたしのレースの中で、トレーナーさんの思い出に残ってるレースはどれっすか?」
「……たくさんありすぎて、選べないよ」
「……えへへ、あたしもっす」
二人揃って、笑い合う。
そうして俺達は、今までの思い出話に、花を咲かせるのであった。 - 8二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 10:03:25
お わ り
とあるスレ用に書いたSSです - 9二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 11:13:48
少し切ないけど爽やかで良き
- 10124/05/16(木) 11:26:53
- 11二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 12:32:30
丁寧な描写がちょっぴりビターな幕切れに効いて…こういうの好き
- 12二次元好きの匿名さん24/05/16(木) 18:18:00
好き…
もっと読ませて… - 13124/05/17(金) 01:19:20