【トレウマ・SS】ラジオパーソナリティ

  • 1二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:26:01

     夏を迎える少し前。日平均気温もだいぶ上がって、20度を超える日が増えてきた。春の名残はもうどこも見当たらない。太陽は日に日に力強くなり、雲は厚く、そして重くなっていく。全くもって、嫌な気分だ。真夏の日差しはどうにも苦手で、想像するだけで気が滅入る。これは余談だが、嫌なことを実際に体験した時と、嫌なことを想像した時にかかるストレスは後者の方が多いらしい。加えて、最近どうにもサトノ家の仕事が忙しい。仕事仕事仕事、たまにトレーニング、そして次に仕事仕事。また最悪なことに、眠ろうとしても仕事のことばかり考えてしまってどうにも寝付けない。おかげで今日も寝不足だ。

     トレーナーと話す機会もめっきり減った。…いや、それはちょっと嘘。機会が減った、というよりは機会を減らさざるを得なかった、というのが正しい。G1ウマ娘を輩出したことでより忙しくなった彼の業務。毎日LANEでメッセージを送ってくれてはいるけれど、逆に言えばそれだけだ。ここ数日の彼の顔を見れば睡眠時間が足りていないのがよくわかる。また、何か新しいことを始めたのか、方々を慌しく駆け回っていて、先刻見かけた時はダイヤと何か話していた。そういうわけでそこに私の補助、なんてハードな仕事を預けるわけにはいかなかった。まぁ、ほんの少し、彼にカッコ悪いところを見せたくない、なんて見栄があったかもしれないけど。今まで何度も助けてもらったけれど、カッコ悪いところなんて何度も見せているけれど。それでも、それとこれとは別の話だ。

  • 2二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:26:16

     それから三日くらい経った時のことだった。その日は丸一日、サトノ家の方でミーティングをする予定だったのだが、前日になって『不都合ができたから予定をずらしてくれないか』と言ってきた。私は不思議に思ったけれど、そろそろ休みが欲しかったので二つ返事で了承した。つまりは今日、私の予定は何一つない。あるとすれば、それは休息の予定だ。

    「……どうやって休むんだっけ」

     いつも通り、朝方5時に起床した私はこれまたいつも通りのルーティーン/朝支度を終えてベッドに蜻蛉返り。折角の休日だというのに、いつも通りの作業をこなしてしまった。休み方がわからない。もとより予定のない日が苦手な私がどうして急に体を止めれようか。ふと隣のベッドを横目で覗き見ると、そこには何の音もない空間が広がっていた。きっと、朝練にでもしに行ったのだろう。ストイックな、彼女らしい。

     チクタクと時計の秒針が刻まれる。もう三十分は経っただろうか。未だ私は休めていない。横になればなるほど、謂れのない不安感と焦燥感に襲われる。頭が勝手にまだ終わってないタスクを数え、問題点を洗い出し、改善点を横に並べる。アレをやらなくちゃ、コレはどうだっただろうか、ソレの優先度は間違っていないだろうか。というより、そもそも。

    「……やっぱり、休んでる場合じゃないわ」

     深海のように渦巻く思考から、いつかの記憶が浮かんでくる。いつか走った、大舞台。ただでさえ他より練習時間が短い私がこんなところで止まっていたら、それこそ沈んでしまうというもの。どうせうまく休めないのなら、少しでも走っておくのが吉だろう。体を起こし、必要なものを準備して━━

    「あら?」

     静かな部屋に、不釣り合いなメッセージの通知音が鳴った。すぐにスマホを手に取り、内容を確認する。急ぎの用事かもしれない、確認は迅速に、返事は手早く行うのが基本だ。…実際のところ、メッセージは急ぎの用事ではなかったけれど、確認しておいたのは正解だった。

  • 3二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:26:33

    「おはよう、クラウン」
    「早、トレーナー…って何これ」

     メッセージの送り主はトレーナー。内容は、要約すると『今日一日自分に付き合ってほしい』というものだった。私は少し悩んだ後、その申し出を了承した。というわけで、早速トレーナー室…ではなく、その裏側。芝が生い茂る場所にやってきた、のだけれど。

    「説明、お願いしてもいいかしら」
    「え、ああ。そっか、そうだよね。忘れるとこだった」

     そこには、ちょっとした休憩所のようなものができていた。ちょうど木々に日光が遮られるスペースに長椅子やらテーブルなどが並べられていて、これから森林浴でもするかのよう。

    「今日は、休みの過ごし方を研究してみようと思って。ほら、ここのところ俺も君もあまり休む時間がなかっただろ? だから━━」
    「…なるほどね。いいわ、トレーナー。とことんやってみましょうか!」

     ……何がしたいのか、何をしていたのか。ちょっと不思議に思ったけれど、何となく理解できた。この説明は、きっと建前で。急に予定が空いたのは、彼が色々根回しをしてくれたから。ダイヤと話していたのはその一環。ここでそれを突きつけてもいいのだが、それは彼の好意と努力を無駄にするのと変わらない。なので結局、黙って甘えることにした。

  • 4二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:26:44

    「うーん…」

     それから十五分と少しくらいが過ぎて、私は色々なものを試した。午前中だからか、それとも木陰にいるおかげか、体感気温はそう高くない。身体は安らいでいると思う。しかし、どうにも心が落ち着かない。燻っていた焦燥感も、なんだかどんどん強くなって。そんな自分を見かねてか、彼は私を手招きすると自分の隣へと座らせた。

    「やっぱり、ちょっと落ち着かない?」
    「そうね…せっかく誘ってもらったのにご、」

     まるで、ごめんなさい、という言葉を言わせないかのようにトレーナーが私の言葉を遮った。

    「いやいや、だったらここからだ。研究には失敗がつきものだからね。そうだな…」

     よし、と何かを決めてから彼は私の顔をじっと見つめて。

    「じゃあ、少し俺の話を聞いてほしい」

     大事な、けどちょっと軽い話なんだけど。と前置きして彼は話し始める。初めの頃はしっかり聴こうと意気込んでいた私だったのだか、その意気込みは早々に萎んでいった。というのも、話の内容が、『最近こんなことがあって、君はどう思う?』みたいな軽い雑談の延長線だったからだ。大事な、なんて銘打っておいて、実際は大したことのない軽い話だ。でも、そんな他愛のない話に。いや、話をしているこの瞬間に、私はだんだん落ちていく。何だか頭から余分なものが抜けていって、まるで物語の中にでもいるみたい。そのうち焦燥感は消え失せて。二人の笑い声が辺りに響くようになるまで、そう時間はかからなかった。

  • 5二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:27:03

     すっかり気の抜けた私は、長椅子にごろんと寝転んで頭を彼の腿に乗せた。上を向くと、視界の右側は木の葉で埋まり、左側には入道雲と青い空が見えた。

    「空って、こんなに高かったのね」
    「案外、気づかないよな。見ようとしないと見れないものっていうのは、こんな風に身近にあるものだったりするのかも」
    「ええ、本当に。みんなは知っているのかしら、空がこんなに高いこと」
    「『空が高い』で検索すると、関連用語に四季が出てくるんだ。やれ春の空が高い、冬の空が高い、夏の空が高いって。…本当に高いのは秋の空なのに。きっとみんな、普段空を見上げないから、たまに見た空が本当に高く見えて、つい検索しちゃうんだろう。だから多分、みんなも君とおんなじだ」

     おんなじ、というのは忙しくて空を見る暇がない状態のことを指しているのだろう。つまり、みんなも知らないってことかしら。なら、これは私たちだけの贅沢ね。でも、もう少し何か欲しい。空を見て視界はそれに埋まるけど、聴覚が少し物足りない。この感覚は何だろう。わからない私は、わからないなりに試行する。

    「ねぇ。もう少し、あなたの話が聞きたいわ」
    「勿論。今日の為にいっぱい準備してきたから」

     取り止めのない時間が過ぎていく。そばにあなたがいるだけで、こんなに違うものなんだ。息を吸うのが気持ちいい。風はささやく。木々はざわめく。緑に紛れて小鳥は唄う。段々重ねの入道雲が空を背負って運んでいる。彼は、それらを指揮して曲を奏でる。くるくると回る、トークの主題。誰に焦点を当てるかは彼の気分次第。彼はきっと。

    ━━私だけの、ラジオパーソナリティ。

    「あなた…良い声してるのね。ずっと聴いていられる感じよ、なんていうか、こう…」
    「睡眠導入音声?」

    いや、どうだろう。そんなASMRみたいな扱いをしているわけではないのだけれど。あぁ、でもASMR…それはそれで…。おっと、そうではなくて。

  • 6二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:27:16

    「今日は、ありがとう。私のためにここまでしてくれて、嬉しかった」
    「やっぱり、全部お見通しだったか」
    「種も仕掛けも見え見えよ。私を誰だと思っているの?」
    「そうだなぁ…全くもってその通りだ」

     彼は少し、はははと笑って。それからまた、私の方を振り返った。

    「でも、今回は珍しく無茶したね」
    「無茶…というか、私の見通し以上に大きくなっていっちゃったというか」

     これは私のミスだった。次から次へと舞い込んでくる仕事に追われて、それぞれの大きさを見誤った。それで結局、彼にも迷惑をかけてしまった。

    「反省してる。次からはちゃんとあなたに相談するわ」
    「そうしてくれると嬉しい。俺は、君のトレーナーだから」

     本当、この人は。そういうところ、ずるいと思う。そういうことをされてしまうと、ちょっと困る。ちょっとだけやり返してやろうか。そう思って、やめた。この時間は、彼が用意してくれた私のためのマインドフルネス。まだまだ思いっきりリラックスさせてもらいましょう。

  • 7二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:27:35

     少し姿勢を変えて、両腕を彼の腰に回す。頭は自分の左腕の上になったけれど、こっちの方が彼との距離が近くなるから。もっと近くに感じたい。もっとあなたのそばに居たい。もう隙間は体くらいしかないけれどその距離すらも憎らしい。ほんの少し腕に力を込めると、その分だけ距離が縮まって、あなたの熱を感じられる。それがなんともくすぐったくって。それがなんとも嬉しくって。

    「えへへ」

    なんだかちょっと、夢心地。

  • 8二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:28:14

    以上です。休める時にゆっくり休むのは大事だなぁと最近思いました

  • 9二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 11:40:19

    クラトレのイケメン度合いと馴染みのある疲労感の質感とクラウンの乙女な独白がよかった
    色々仕事あると瞼を閉じても頭が休まらんのよなぁ

  • 10二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 12:49:07

    俺にもこのクラトレをください、休みが欲しいんです

  • 11二次元好きの匿名さん24/05/27(月) 21:11:03

    >>9

    感想ありがとうございます。お仕事がどうにも頭から離れないことってありますよね。私の場合はとりあえず空を見ることにしています


    >>10

    どうかご自愛ください…

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