レイン・ラン

  • 1二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:42:54

    蒸し暑い夜が続いていた。
    (最後に青空を見たのは何日前になるかしら?)
    カーテンを開けて窓の向こうを見ながらスズカは思う。分厚い雲に遮られた夜空に月と星の姿はない。雨が降っていた。梅雨入りが発表されたのはつい先日のことになる。
    (せめて明日は止んでほしいわね)
    そう願ってカーテンを閉め、床に就く。除湿中のエアコンの駆動音が、夜の寮にごうごうと響く。

  • 2二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:43:24

    季節を問うことなく、スズカの起きる時間は特に変わらない。早朝だ。爽やかな一日の始まりの空気をいっぱいに吸い込み、人や車の少ない道を自由に走る。たとえば春なら草花の芽吹きを目にするだろう。夏でも日が昇りきる前ならば涼しい風が吹くものだ。秋の道は日を追うごとに街路樹たちが色づいていく。厳しい寒さの冬の空が白んでいく景色も、その時にしか見られない。
    どんな季節にも魅力がある。しかし梅雨はどうだろうか。もしかすると、スズカはあまり好きではないかもしれない。理由は一つ。雨が降っては外を自由に走れないからだ。
    目を覚ますと、今日も雨だった。スズカは肩を落とす。小雨ならレインウェアを準備して走っていたに違いないが、あいにくの本降りだった。もちろん無理をすれば走ることはできる。しかしトレーナーをはじめ、友人たちにもきつく言い渡されているのだ。雨の日は危険だから外を走るな、と。
    スズカは無意識にため息をつき、ベッドから降りると、その場でぐるぐると左に旋回し始めた。約三十分後に同室の後輩が起きてきて指摘を受けるまで、彼女はずっと回り続けていたのだった。

  • 3二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:43:49

    すっかりフラストレーションの溜まったスズカは授業にもいつも以上に身が入らず、午後のトレーニングも上の空でこなすことになってしまった。味気ないルームランナー。調整された筋力鍛練。入念なストレッチとマッサージ。コンディショニングが主な目的であるとはいえ張り合いがなく、正直なところ退屈だった。もし練習に付き添い指示を出すトレーナーが別人だったなら、耐えきれたかどうかわかったものではない。
    「じゃあ、今日もこれで切り上げようか。焦らないように。走れるタイミングでしっかり走れるよう、今は体調管理に集中しよう」
    そう言ってトレーナーと別れ、スズカは自室へと戻る。もう少しいっしょに過ごしていたかったが、トレーナーが多忙であることは知っているので、うまく言い出すことはできなかった。
    そして、その遠慮が最後の一撃となったのだろう。スズカは部屋に戻ると、まずレインウェアをあらためた。防水機能と透湿性能にこだわった、パーカーとショーツのセットアップ。異常はない。次に速乾性を重視したインナーを吟味する。最後にシューズだ。柔らかで、グリップ力が高く、凹凸の少ないソールのものを選ぶ。
    「よし」
    にわかに立ち上がり、部屋を出る。開けっぱなしのカーテンの向こう、閉じた窓の外ではもちろん、雨が今も降り続いている。

  • 4二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:44:12

    ぱたぱたぱた、と雨が体を打つ。
    スズカはキーボードを叩くトレーナーの姿を想像した。絶え間なく文字を打ち込んでいく時のあの音と、雨がパーカーの表面を打つ時の音は、少し似ていたかもしれない。
    (ごめんなさい、トレーナーさん)
    トレーナーのことを思い浮かべ、スズカは罪悪感を覚えた。自分をこれ以上なく気遣ってくれることは、よくわかっている。しかしもう我慢できないのだ。本能とは抑えることができないから本能なのであり、衝動は押し留めるほどに反発を増していって、そもそもサイレンススズカというウマ娘にとり、走ることは呼吸に等しい。
    蒸し暑い夜は、息苦しかったのだ。
    ペースはかなり抑えて、足元は当然のこと、道行く人たちや自動車、バイク、自転車──おおよそ考え得るすべての危険なものと、想像を絶するような考え得ない危険なものにも注意しながら、スズカは一歩ずつ確実に進んでいく。路面は滑り、側溝や縁石に足を載せることがないよう、慎重なライントレースを心がける。景色にしてもそうだ。雨の日は空気が煙って視界が悪い。フードをかぶっているのでなおさらだろう、音も聞こえにくくなっているはずだ。エンジン音やクラクション、ブレーキやタイヤのスキール音にも耳を傾けなければならない。人の声も同じだ。スズカは騒がしさが好きではないが、この時ばかりは話が別だった。
    (ああ)とスズカは心の中でため息を吐いた。(やっぱり、あんまり気持ちよくない)
    何日かぶりに外を走ることの快感こそあれ、雨の日は注意することが多すぎる。

  • 5二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:44:33

    低速を維持しながらも走り続けたスズカの目に、ちらりと飛び込んでくるものがある。一瞬、下校中の小学生が差している傘かと思ったが、近づいてみると、それは群がって咲く青いアジサイの花だった。
    (あんなところに生け垣なんてあったかしら?)スズカは更にペースを落とす。(満開ね。一面きれいに咲いているわ)
    ちらちらと横目に見ながらも、周囲への警戒は怠らない。アジサイの群生はスズカが思ったより横に長く、隙間なく伸びた葉は緑の壁のようで、そこから花が傘を広げるようにして咲いていたのだった。
    (……壁から傘が生えるのはおかしいわよね?)
    自分の想像に首をかしげながら、くすりと小さく笑いをこぼす。

  • 6二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:44:59

    しばらく走ってスズカは河川敷へとたどり着いた。電光掲示板には水量の増加に伴う注意喚起の文言が並んでいる。それをぼんやり眺めていると、ぱっと画面が切り替わり、今日の天気予報が表示された。雨のち曇り。手のひらを暗い空に向けて顔を上げる。雨足はやや弱まっているようにも思える。
    河川敷に普段の賑わいはなく、人の姿は疎らだ。スズカのような物好きのランナーや、犬の散歩に付き添う人々、雨合羽に身を包み自転車に乗った帰宅途中の学生がいるくらいで、しんと静まりかえっている。高架の上を電車が通りすぎる音も、いつもより控えめに感じられた。雨粒が物音を吸収しているのだろう。車道を離れたのでエンジン音は既に遠く、これはスズカの好みに近いとも言えた。
    (ハナショウブ)川沿いの芝生に伸びた紫の花を見て、スズカは心の中で呟く。(そういえば、これも雨の日の花なのね)
    走る速度はもはやウマ娘のものではなかった。体力自慢やランニングを習慣にしている者なら、たやすく追い抜くことさえできただろう。もっとも、物好きなランナーの数は少なく、スズカは悠々自適に一人スローペースで走ることができていたのだが。
    やや波を打つ厚みのある花は雨に打たれてもくじけることなく、むしろ濡れることを歓迎するかのように黒雲の広がる空に向けて開いている。晴れの日に見ればその色彩を鮮やかだと感じたことだろう。しかし雨中のハナショウブの色彩は滲んでおり、水を多く含んだ塗料が画用紙に染みていくようにして、じんわりと空気に溶け出しているのだった。
    同じ花でも天気によって見え方を変える。今日のこの景色は晴天の下では見られなかっただろう。ならば雨にもまた価値があるのであり──スズカは梅雨の景色を楽しみつつある自分に気付く。厚ぼったい花弁の柔らかな曲線は、むしろ煙った大気の中でこそその魅力を十二分に伝えるものなのかもしれない。

  • 7二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:45:20

    河川敷を越えてしまったところで、スズカはそろそろ引き返そうかと考える。正確な時間を計ったわけではないが、今日のペースを考えると、門限に間に合わないかもしれなかったからだ。
    (梅雨の景色も悪くないかもしれないわね)
    じっとりと肌に張り付くインナーは不愉快で、ずぶ濡れのシューズと靴下は一体感に欠けている。視界は悪く、いつもより静かなはずなのに物音に注意を払わなければならず、足取りは慎重を強いられ自由には程遠い。しかしながら、それでも今しか見られない景色があることは確かだ。
    目深にかぶったフードの奥から、大きく揺れる影が覗く。とうとうスズカは立ち止まり、ある一軒の家屋から天高く伸びる大木の先端に目を奪われた。刷毛のような形をした薄桃色の花。しとどに濡れたその花が、雫の重さに耐えかねて、頭(こうべ)を垂れて跳ね上がる。ネムノキだった。
    いつしか雨は止んでおり、スズカはフードを脱ぐと、ゆっくりネムノキへ向けて歩いていく。その姿は儚げだった。今この時だけ。もう少し早くても、遅くても、見られる景色ではない。
    「きれいだわ」
    声に出してスズカは言った。
    体に張り付く六月の空気も、少しだけ恋しく思える。濡れる草花もきっとそう感じているに違いない。いつのどこを走ろうとも、きっとそこには自分だけの景色が、その時のそこでしか見られない景色が広がっている。
    「……戻りましょう」
    ネムノキに背中を向けて、スズカは走り出した。すると、雲間からは何日かぶりの太陽が顔を覗かせていた。地上に残った雨露がきらきらと輝き、街は少し賑わいを取り戻したように見える。
    自然と笑みを浮かべながら、スズカは駆けていく。誰にも言わず寮を出たので、トレーナーや友人たちは、きっと心配しているだろう。足取りは軽やかだった。ただ雨が上がったからというわけではない。スズカはまっすぐに自分を待ってくれている人たちのもとへと進んでいく。その姿は、雨上がりの空にかかる虹の麓を目指しているようだった。

  • 8二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:47:35

    梅雨本番ですね
    じっとりと蒸し暑い夜が続いています
    夏を待ちながらも梅雨の景色を楽しんでいきたいものです

  • 9二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 20:48:54

    あにまんてたまに文豪現れるな

  • 10二次元好きの匿名さん22/06/20(月) 22:12:47

    読んでくださってありがとうございます
    よい夏の訪れを迎えられますように

  • 11二次元好きの匿名さん22/06/21(火) 07:03:53

    美しいSSだ

  • 12二次元好きの匿名さん22/06/21(火) 07:10:45

    景色の描写が美しいSSだった

  • 13二次元好きの匿名さん22/06/21(火) 18:25:48

    とても良き

  • 14二次元好きの匿名さん22/06/21(火) 20:20:39

    重ね重ねありがとうございます
    スズカさんは梅雨が好きかなと考えました
    でもきっと雨の景色を愛でる心は持っているでしょう

    よい梅雨を
    適当に落としてください

オススメ

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